ねーさんとバンビーナの毎日

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やっぱりモリマリ20120204-03

2012年02月04日 12時42分47秒 | 紹介屋ねーさん
幼い頃、神田の中西という本屋によく行った。

本屋の中には落ちついた雰囲気があって、本を買う人は静かに入って来た。
写真入りで、新聞の半面を潰すような広告はその頃はないから、どの人も小さな広告で見つけて、熱心な気持で買いにくる人である。

本の広告が品がよく、落ちついているから、本屋も品がいいし、本を買いにくる人も、品がよかった。

本を買うと、洋菓子店に寄って珈琲をのみ、煙草をふかし、買った本を一寸開いてみる。
その人が家に帰ると、家には本を読む青年がい、本を読む子供がいた。

この頃は本屋に入って行くと、本の広告が騒々しいせいか、棚に詰まっている本の間々から広告の声が、拡声機つきでどなっているようで、本の色も派手で、模様が多い。

本自身は黙っているいい本もあるが、広告ががやがやしているので、その広告の声が勝手に本の間から鳴り出し、本たちがそれぞれおいらんの顔見せのように、色眼を使っているようである。


『記憶の繪』より。



本の広告に限らず、○買わせる為(×買って貰うため)の広告になっちゃったってのが、「がやがや」の発端で、終いには「拡声機つきでどなっているよう」ってなっちゃったんだろう。

「消費者を創出しなきゃ!(←こらこら。ならば贔屓を創出して。(苦笑))」なんて思ってる広告屋がいたとしたら(まぁ大量消費経済が前提だとこれで仕方がないのだろうがね。)、必然的に何か「がやがや」しちゃうだろうし、そこに創り手なりの「センスに添わないなぁ・・・」とかいう感覚や「これじゃミエミエで逆に悟られちゃうか・・・」とかいう(イヤラシイ)計算が入ってくると、逆に今度は引き算をしてカッコよさげなんだけども、どこか世間を逆突いて嘲笑ってるような(そこをわかる人間がカッコイイみたいな風潮にも繋がる)、はたまた本来の言葉の使いようすら変えていっちゃうような(そこをわかる人間がカッコイイみたいな風潮にも繋がる)、そういう風な方向にどんどんと変化していっちゃうんだろうと思う。

「作り込み→作り込み→作り込み」の連続は本当についちゃいけないウソにまで到達するしねぇ。

それをテレビのCMやら、街中の看板、チラシやなんやらで、視覚と聴覚で日々すり込まれてしまったら、「元のポジションってどこだっけ?」ってことになるし、○記憶力(△暗記力)の高い人間にしてみると日々が矛盾との闘い、間違え発見(←したくもないのにわかっちゃう)の連続で、さらに(余計なことで)心の中やら頭の中が忙しくなってしまって悶々とするし、これは「公害と大差なし!」なんだよねぇ。



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