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やっぱりモリマリ20120204

2012年02月04日 11時57分42秒 | 紹介屋ねーさん
私たちがともかくも、守らなくてはいけない(正義)。
これもしゃっちょこばった感じで守っている人をみると、私は呼吸(いき)が詰まってくる。
(ともかくも守るというのは、明治生れの老婦人の言葉としては変であるかも知れないが、私としては正しいことは、或程度の余裕(ゆとり)をつけて守るべきだと思っている。人に迷惑をかけない、という限度を守った上で、多少の振幅をつけて守る方が、正しい道を踏み外さないで行かれるやり方だと考えている)

私たちは人の家に火を点けてはいけないし、人を殺してもいけない、のは勿論、他人のものをひそかに持って来てはいけないし、他人の財産を悪辣(あくらつ)な手段で巻き上げたり、卑怯なやり方で他人に迫害を加えたり、すべて法律で禁じていることはしない方がいいのであって、それが正義を守ることなのだが、或種の人々のように、あまりにこちこちに正義づいていると、余裕というものがないので、息苦しさをおぼえ、柔かみのある、素晴しい人間は感じられない。

こんな感想は私だけだろうか?



『記憶の繪』より。



なんか、正義を守るってことも変わってきてるよなぁ。
これは1966年に森茉莉さんが書かれている。
あらまぁ、昭和41年丙午組、我らが誕生した年だ。

森茉莉さんが何がいいたいかってことはすごくよくわかるんだけど、今、ちょっと法律も正義も定義が変わってきちゃってる感じ。

「ある程度のゆとりをつけて守る(守らせる)」ってのは、それだけ許容する幅も広がるから、そのゆとりの中での(年長者からの)見逃し(=包容力)等によって逆にその優しさを感じたり、懐の広さを感じたりして、「自分の情けなさ」が痛切に身に染みるというような経験が出来たりする。
そういう人がいてくれるから、自分も守る余裕が出来る。
その余裕の中でのびのび何かにチャレンジ出来たりする。

「現段階では“責任”をこちらが背負っておいてやろう。でも背負う覚悟は少しづつ教えて行かなきゃ。ずっと見逃すわけにもいかないぞ。」

っていうような見逃し。

こういう(物事の道理をわかってる)オトナっていたけどね~~~。(過去形にしちゃおう、もう。)

法律を別解釈するとか、お行儀を別解釈するとかして、計算尽くしで見逃すのとは違うんだよねぇ~~。
それじゃぁ単にすり抜け術を教えてるのと一緒。
「ゆとりを持たせて守る」という教え方とは全く違う。
しかし今はこういうオトナが多いよねぇ?(罪の意識も「はて、本当にいいのだろうか?」という思考も無しみたいなね。)

だから社会もおかしくなっちゃってるんだよねぇ?


しかしまぁゆとりをつけられるほどの器(懐)が育ってないのが今の現実じゃないかなぁ?とつくづく思う。
それよりも「こうやってすり抜けりゃいいぞ!」的な技の伝授のほうが一般的っぽいような。

そうしちゃうとさぁ逆にどんどんどんどん守らせる幅を狭くしてっちゃうんだよねぇ。
「守れないなら、もっと、こうしたら守れるか!?」みたいに。
それ(ルール)を○暗記(×記憶)しなきゃいけないほうに脳みそ活動しなきゃいけなくなっちゃって、っとに本末転倒なんだよなぁ。


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