ねーさんとバンビーナの毎日

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やっぱりモリマリ20120127-05

2012年01月27日 22時29分42秒 | 紹介屋ねーさん
この世で褒めたたえられるものは(根性)を持つ人間である。
大松精神の如きものを持つ人間である。

という通念がこのごろ特に盛り上って来ている。

このヤッタルデ精神はすべてに蔓延していて、この子は根性がある、この女優は根性を持っている、というような讃めたたえ方がされていて、まさにヤッタルデ時代である。

ヤッタルデ精神は、オリンピック以来いよいよひどくなったが、所謂根性的な、凝り固まった人間は私の好きでない感じの人間なのである。
何故好きでないかというと、見ていて息苦しくなってくるからだ。

眉宇に、相手を打ち負かし、捻じ伏せなくては止まぬ精神を漲らせ、小鼻のあたりはキンキンに緊張し、口元は歯ぎしりしそうに結ばれている人間はたしかに、大変に勇ましそうだが、そういう人を見ていると、だんだん呼吸が詰まってくるのをどうすることも出来ない。

武士にしろ、剣道の先生にしろ、ずばぬけて偉い人物の中には、いかにも根性を持っているぞ、と言わぬばかりのこちこちの人は見当らないようだ。

ピイタア・オトゥウルを見ていると(こう言っても映画好きでない人にはなんのことか判らないかも知れないが、「アラビアのロレンス」を主演した近来の名優で、批評家が全部賞讃している男である)小学校の時には授業時間中いつも窓から空を見ていたのではないかと思われるような男であり、自分の靴の紐を結ぶのものろくさそうな男であるが、ピイタア・オトゥウルに根性がないはずはなかろう。

私は根性でこちこちになっている人を信じることが出来ない。
熱心はみとめるが、そういう人間の仕事には或限度の山があると思う。
仕事というものはすべて、ある限度の山を越えて、その上に出ているかいないかで、優れた仕事か、平凡な仕事かが定まるのだし、数字とか、化学とかいう仕事も、或地点を越えれば芸術の世界と同じで、そこからさきはむやみに緊張するばかりの所謂根性ではやって行けないのである。



『記憶の繪』より。



根性っていうと、努力とも微妙に違って、

「何が何でもあれをひっつかまえる。
それにはどんな手段を使おうが、どんな仕事だろうが、おかまいなしです。
とにかくヤッタルデ~~~~~ぇぇぇ!」

って風で、視界がすごく狭く一直線な感じになる(いくらたたずまいをゆったり見せるように演技してようが透けて見えちゃう)のが、時に間違いすら引き起こしそうな心配を引き起こされてしまって、ヒヤっヒヤしてきて息が詰まるって感じがする。

目で見てるのがせいぜい前のクルマのテールライト程度で、あの先に見えてくる左右に曲がるカーブではない感じ。

だから、モリマリさんも言ってるように、根性でコチコチになってる人を信じることは出来ないって、わかりますわな。ちょっと危なくてね。(笑)

努力の場合は、「あの先のカーブに注意しながらどうハンドルやアクセルをさばくか?」ってことを常に考えてる風ではないですか。
つまり、目の前のことなんか根性なんか出さなくても消化済みなの。


「ある程度の山を越えて、その上に出ているかいないかで、優れた仕事か、平凡な仕事かが定まる」

まぁでも、山に挑む→その山を越えられるというだけでも、その上に出ようがいまいが、ひとまずそこをクリアしないとまずはどうにもならんのだけどね。
山を越えてからなのだよなぁ、優れてくるか、平凡かが定まるのはね。
山を眺めてるだけではどーにもこーにも、、、、なのだよね。



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