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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

なぜ木を伐るんだろう?

2009-09-08 | 日記風

まだまだ汗を絞るような残暑が続いている京都の町だが、それでも夜中から早朝にかけては、涼しい風が吹き渡る。窓を開けて寝ていると、体が冷えてきているような感じがする。もっともそれでも最低気温はせいぜい22℃とかあり、サンナシ小屋の周辺のように、最低気温が10℃を下回っているところとは比べものにならないくらい暑い。

 ところが、ますます暑い街中が出現した。夏も盛りが過ぎた頃で、至る所の街路樹や庭木が剪定されて、これまで涼しい緑陰を造ってくれていた樹木が丸裸に近い状態になったのだ。そのために、緑陰は無くなり、残暑の照りつける太陽の光がコンクリートの道路や広場に直接届くようになってしまい。ただでさえ熱を持って都市の熱帯化現象を起こしているコンクリートを熱く熱く暖めるようになった。そのために、せっかく涼しい風が吹き渡る季節がそこはかとなく漂うようになってきたというのに、再び街中はむせるような暑さが夏の盛りが戻ってきたように感じさせる。

 毎年この季節になると思うのだが、なぜこんなにまで樹木を剪定しないといけないのだろうか。まるで樹木が葉を茂らせるのはけしからんとでもいわんばかりに枝や葉を切り落としてしまう。我が家の前に生えていたサルスベリの木は、まだいっぱいピンク色の花を樹冠に広げていた8月中旬に、あっという間に丸裸にされた。しかも葉を一枚も残さず枝を切ってしまったために、あとに残っているのは丸太を地面に突き刺したような、とても植物とも思えない姿だ。

 秋になると落葉樹の葉が紅葉して、葉を落とす。モミジの葉が紅葉すると、それを見るためにゴマンという人が集まる。しかし、紅葉して落葉する過程は、モミジだけではない。落葉広葉樹はすべてその過程を持っている。たまたま葉の色が人間の気に入られなかったというだけで、葉を落とすことを許されず、紅葉する前にすべて切り落とされる樹木の怨嗟の声が聞こえてくるような気がする。

 京都に来てとくにそう思うのだが、樹木は本当に痛めつけられている。有名なお寺の境内の樹木でさえそうなのだから、狭い家の庭木や街路樹は推して知るべしだ。それは管理が十分行き届いているとみる人がいるのかもしれない。ひょっとしたらそう思っている人の方が多いのかもしれない。樹木は人間のために存在するのであって、勝手に枝葉を広げてはいけないという発想なのだろうか。切り刻まれた樹木の声は誰の耳にも届いていないらしい。

 でも、丸太のようになったケヤキの木よりも、天まで届きそうに枝をのびのびと広げたケヤキの木の方が、私には100倍も1000倍も好ましく感じる。丸太にされたケヤキの木は、何のために生きているのだろうと思っているかもしれない。私にはそう思える。昔、上海と青島を訪れたときに、これらの街の大通りの街路樹(おそらくプラタナス)が、喬々とそびえて、50m以上もある大通りに緑陰を広げていたことを思い出す。大通りにはもちろん電線もあり、市内電車の架線もあり、トロリーバスの架線さえも縦横に走っていたが、街路樹の樹冠はそれよりもずっと高く伸び、大通り全体を覆っている。ここまで成長するには何十年とかかっただろうけれど、それまでけっして先端の成長点を切ってしまわずに大きくなるのを慈しんだ中国の人たちのおおらかさに感銘を受けた。これらの街路樹は西洋諸国が中国を植民地や租界地として占領していた時代にヨーロッパ風に植えられたそうだが、ここまで立派にしたことに感銘を受けたのである。

 それにつけても・・・・。わが日本の街路樹の情けない姿はどうだろう。植物は生き物であるという気持ちで日本人は接してこなかったのだろう。自然を愛する日本人というデマゴギーに自己陶酔していただけなのではないか。本当は日本人ほど自然を大切にしなかったものは少ないのではないだろうか。情けない姿の樹木があちこちに見られるこの頃、つくづくそう思うのだ。秋になったら、はらはらと舞い落ちる木の葉の中を歩きたい。かさこそと鳴る落ち葉を踏みしめて街の中を歩きたい。