小学校の社会科で習った「輪中」。
当時は、
日本には、
いろんな場所があるんだなぁといった程度にしか、
理解できませんでした。
今回、訪問した岐阜県南西部は、
濃尾平野が広がり、輪中がある地域です。
ふ~む。
今さらながら、
輪中って、なんだろう。
「輪中館」さん、教えてく~ださいな~。
輪中館のある友江駅は、大垣市。
大垣市は、
面積206,52平方キロメートル。
人口162,307人(2016年2月29日現在)。
市の花は、サツキでっす。
友江駅から、徒歩1分(ミツコ調べ)。
奇跡的に、迷わず着いた!
この一帯には、
木曽三川(さんせん)といわれる木曽川、長良川、揖斐(いび)川が
流れているため、
大雨による洪水が、後を絶ちません。
そこで人々は、近隣の家の周り、
上流側に、堤防を築いたそうです。
「尻無堤(しりなしつつみ)」と呼ぶそうです。
(輪中館資料NO.1をもとに作成)
さらに、下流側から逆流する水を防ぐため、
そちらにも、
「懸廻堤(かけまわしつつみ)」という堤防を作ります。
(輪中館資料NO.1をもとに作成)
すると、どうでしょう。
輪ができました。
この中で生活するため、、
「輪中」と呼ばれるようになったそうです。
田畑にも、工夫が施されます。
周囲の土を掘り、田畑に乗せることで、高さを出します。
当然、掘った道筋は低くなり、水も出ますが、
いっそのこと水路にして、舟で移動しようという発想の転換。
母屋の軒下や土間の天井に、舟を備える「上げ舟(あげぶね)」、
滑車で仏壇を上昇できる「上げ仏壇」、
丈夫で、結わきやすい柿の木を「舟つなぎの木」にするなど、
各家庭で、対策がとられました。
命だけでなく、生活必需品や財産も守らねばなりません。
そこで考案されたのが「水屋」。
水屋には、お米、お味噌、衣料品、宝物などを
備蓄、保管していたそうです。
(輪中館資料NO.7をもとに作成)
とはいえ、庶民には、
そこまでの土地や財力、労働力がありまっせん。
水屋を所有していたのは、
地主さん、庄屋さんなど、一部の層。
シカァシ、心配なさるな。
地元の名士ともなると、
非常時には、近隣の人々を迎え入れる度量を
持ち合わせています。
現在は「輪中生活館」として、公開されている
旧・名和邸にも、
大勢が過ごせる広間がありました。
さらにすばらしいのは、
防戦一方ではなく、治水工事も進めていたことです。
入り組んでいる三川と支流を整備し、洗堰を作ることが急務。
宝暦治水(1754~1755年)は、
困難、混乱を極めたものの、ひとまずの成果を上げました。
明治時代になると、政府は、
オランダから、ヨハネス・デレーケ氏を招聘。
さすが、砂防の父。
テキパキと、水害の原因を探り当て、
改修工事を推進したのでした。
大垣や養老の水は、
良質なことで知られていますが、
反面、長いこと、水に苦しめられてもきました。
いまこうして、安心して生活できるのも、
先人たちのおかげ。
感謝いたします。
そして、防災への意識を持ちつづけていきたいものです。
「輪中館」「輪中生活館」
入場無料。
案内してくだすった、学芸員さん、
ありがとうございました。
小学生のころには、珍プン漢プンだったことも、
大きくなれば、分かる。
たいへん有意義な時間でした。
幸あれ!
みなさんも、ぜひ、行ってみんしゃいね~。
「フォトギャラリー・編」に、くづつ。
明日もがんばるぞ!
当時は、
日本には、
いろんな場所があるんだなぁといった程度にしか、
理解できませんでした。
今回、訪問した岐阜県南西部は、
濃尾平野が広がり、輪中がある地域です。
ふ~む。
今さらながら、
輪中って、なんだろう。
「輪中館」さん、教えてく~ださいな~。
輪中館のある友江駅は、大垣市。
大垣市は、
面積206,52平方キロメートル。
人口162,307人(2016年2月29日現在)。
市の花は、サツキでっす。
友江駅から、徒歩1分(ミツコ調べ)。
奇跡的に、迷わず着いた!
この一帯には、
木曽三川(さんせん)といわれる木曽川、長良川、揖斐(いび)川が
流れているため、
大雨による洪水が、後を絶ちません。
そこで人々は、近隣の家の周り、
上流側に、堤防を築いたそうです。
「尻無堤(しりなしつつみ)」と呼ぶそうです。
(輪中館資料NO.1をもとに作成)
さらに、下流側から逆流する水を防ぐため、
そちらにも、
「懸廻堤(かけまわしつつみ)」という堤防を作ります。
(輪中館資料NO.1をもとに作成)
すると、どうでしょう。
輪ができました。
この中で生活するため、、
「輪中」と呼ばれるようになったそうです。
田畑にも、工夫が施されます。
周囲の土を掘り、田畑に乗せることで、高さを出します。
当然、掘った道筋は低くなり、水も出ますが、
いっそのこと水路にして、舟で移動しようという発想の転換。
母屋の軒下や土間の天井に、舟を備える「上げ舟(あげぶね)」、
滑車で仏壇を上昇できる「上げ仏壇」、
丈夫で、結わきやすい柿の木を「舟つなぎの木」にするなど、
各家庭で、対策がとられました。
命だけでなく、生活必需品や財産も守らねばなりません。
そこで考案されたのが「水屋」。
水屋には、お米、お味噌、衣料品、宝物などを
備蓄、保管していたそうです。
(輪中館資料NO.7をもとに作成)
とはいえ、庶民には、
そこまでの土地や財力、労働力がありまっせん。
水屋を所有していたのは、
地主さん、庄屋さんなど、一部の層。
シカァシ、心配なさるな。
地元の名士ともなると、
非常時には、近隣の人々を迎え入れる度量を
持ち合わせています。
現在は「輪中生活館」として、公開されている
旧・名和邸にも、
大勢が過ごせる広間がありました。
さらにすばらしいのは、
防戦一方ではなく、治水工事も進めていたことです。
入り組んでいる三川と支流を整備し、洗堰を作ることが急務。
宝暦治水(1754~1755年)は、
困難、混乱を極めたものの、ひとまずの成果を上げました。
明治時代になると、政府は、
オランダから、ヨハネス・デレーケ氏を招聘。
さすが、砂防の父。
テキパキと、水害の原因を探り当て、
改修工事を推進したのでした。
大垣や養老の水は、
良質なことで知られていますが、
反面、長いこと、水に苦しめられてもきました。
いまこうして、安心して生活できるのも、
先人たちのおかげ。
感謝いたします。
そして、防災への意識を持ちつづけていきたいものです。
「輪中館」「輪中生活館」
入場無料。
案内してくだすった、学芸員さん、
ありがとうございました。
小学生のころには、珍プン漢プンだったことも、
大きくなれば、分かる。
たいへん有意義な時間でした。
幸あれ!
みなさんも、ぜひ、行ってみんしゃいね~。
「フォトギャラリー・編」に、くづつ。
明日もがんばるぞ!