とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

横浜港を歩く3

2019-08-25 15:42:23 | 横浜散歩
ああ、憧れのハワイ航路
旧横浜港駅跡



航空旅客機がなかったころは、この駅から多くの人々が外国へ向けて旅立っていった。
見送る人旅立つ人、今よりよほど重い別れのドラマがあった。


恒例の防災フェア(赤レンガ)


最新の機器は一見の価値あり。




非常時の横浜の態勢は大丈夫なのか。
避難できる大きな公園が人口のわりに少ない気もする。

ところで今日は、例のIR誘致(カジノ法)に横浜が名乗りを上げてしまったことで、今一度港の様子を見に来た。


カジノによいイメージはない。
横浜のあたりでも江戸の終わりから明治始めにかけて博徒が横行した。
我が家では博徒を毛嫌いしてきた。
今でも暗黙に博打は家訓で法度となっている。
だからパチンコすらやらない。


第二次世界大戦勃発。風雲急を告げるヨーロッパ。
そんな時代の映画「カサブランカ」
映画の主要なシーンであったリックの店は、
粋な生演奏を聴かせるバーとカジノを併設した店だった。

アメリカへの渡航費用が不足した若い夫婦を
リック(ハンフリーボガート)が、ルーレット賭博でわざと負け、若い夫に勝たせる名場面。

アメリカへ無事渡ることが出来るきるのか。
映画では、カジノが効果的にとりあげられていた。
イチかバチかのカサブランカ

ところが今の横浜は、イチかバチかの世界でもない。
カジノも今ではシステマチック、
林市長は、圧力に屈したか。
都市造りは百年の計である。



横浜市民として、私は浜のドンに賛同する。

韓国は何処へ行こうとしているのか

2019-08-22 19:35:23 | 日記
日韓軍事情報協定破棄
安全保障に関する協定の破棄は重い。
一国の将来を左右する決定だ。

昼間の報道では、延長するかのような論調だったので、さすがに現実路線を選んだと思っていたのだが。

韓国はもはや北朝鮮に同化しようとしているのか。
破棄に対し国内での際立った反論も聞こえてこない。
最近の韓国のものの言いようは、北朝鮮と変わらなくなってきている。

韓国の目指すところが何なのかもさっぱりわからない。
亡国の道を進もうとしているのか。
韓国に憂国の士はいないのか。

隣国だというのに、韓国の考えていることがさっぱりわからない。

根津美術館から青山あたり

2019-08-18 20:04:03 | 東京散歩
暑くて家に居てもぐうたらするだけだから出かけた。
根津美術館へ納涼族

着くと仏画展をやっていた。(優しいほとけ・怖いほとけ)
みうらじゅんではないが、増長天や毘沙門天に踏まれている邪鬼がいい。
ずんぐりむっくりで憎めない表情だ。



青銅器や茶器も見て、暑いのに庭も散歩
やたら、石仏などに硬貨が置かれており見苦しい。
水琴窟なんかに置いたらだめだろ。


燕子花の所も夏はなんだかわからない。


それでも蝉しぐれは本格的で、ここが東京とは思えない。
トンボもやってきて、産卵なんかもしている。

青山はセレブなショップばかりで用がない。


この間話題になっていた児童相談所は、まだ建築が開始されていないようだ。
どうするんだろう。




その前には福井県のアンテナショップがある。


入口では、ベンチで恐竜が本を読んでいる。


東京には各県のアンテナショップがある。
都道府県を江戸時代のように自分目線で親藩、譜代、外様と分けてみると、
親藩は無論親類のいる県だ。譜代は友人などが暮らす県で、外様は今のところ縁がないか、薄い県だ。

そんな中、最近親藩に格上げになったのが福井県。
それで行ってみた。
親藩の福井藩から、この間そばをもらったがやはり名産のようだ。
おぼろ昆布なども福井は名産だ。
地酒で一本義、伝心の土という日本酒は心に残る銘酒だった。
今日は、ごはんのお供になる昆布の加工品などを買って帰った。

暮らすように旅する

2019-08-18 08:12:23 | 日記
暮らすように旅する(今日の新聞に載っていた言葉)

気になる街を旅するには、街を歩くことがたいせつだ。
お気に入りの場所なら、1か月2か月と滞在していても飽きないだろう。
そんな場所ならアパートを借りてでも住んでみたい。
朝早くから散歩をして、住民のふりをして地元の食材をスーパーで買って、
地元のローカル料理も作ってみたい。
地元のお祭りにも参加して、その時にだけ押し寄せる観光客を鼻で笑いたい。

生活拠点の街をベースとして近隣の街にも気軽に行けるようになるだろう。
新しい世界が見えてくる。
なんだかわくわくする。
転勤族の人達には、普通だったかもしれないが、この歳になってそんな生活にあこがれる。

ただしアパート契約は2年が原則なので、やや長いか。
1か月、2か月の契約で安価な物件が気軽に借りられればいいなと思う。
だれかそんなシステムを作ってくれないかな。













スポーツの祭典、ワールドカップ、オリンピック近し

2019-08-17 19:59:01 | 東京散歩
前回の東京オリンピックの記憶は、正直言うとあまりない。
女子バレーボールや、重量挙げの三宅選手、柔道のヘーシンクなど見た記憶もあるのだが、もしかしたら後に見たテレビ放送で、そう感じているのかもしれない。


はっきり覚えているのはメキシコオリンピックからだ。
メキシコオリンピックで特に記憶しているのが、男子10000m決勝でのケニアのテムとエチオピアのウォルテとのデットヒートだった。どちらが優勝したのか忘れていたが、オリンピック史上に残る名勝負であった。(金メダルは最後にウォルテを抜き去ったテムであった。)

来年のオリンピックは淡々と進んでいるイメージだ。


前の東京オリンピックの時は、敗戦後の過酷な環境からわずか20年弱で這い上がっての開催だった。

ララ物資による給食(脱脂粉乳とコッペパン)
開催15年前には、こんなものを食べていた日本の東京オリンピック選手たちだった。



<昭和館資料>
国民の感慨もひとしおだったことだろう。
お国の為にガンバルと、戦時の精神をひきずるような選手も多かったのではないかと思われる。

ラグビーは、前回の大会で南アフリカを撃破するという男気を見せ、ラグビーがブレイクした。もともと根強いファンをもつラグビーだったが、世界に抗しうる実力を見せつけたことで、一挙にファンの底辺を広げた。
吉永小百合さんも大ファン

青山通あたりのポスター







満蒙開拓団 ある女性教師の死

2019-08-15 20:27:30 | 日記
終戦記念日のこの日
身近で戦火に倒れた人の記録は後世に残していく必要があるだろう。
以下は、実際に私が見聞きしたことではないので、資料としてしか記録することはできないが、伯母から引継がれたものである。

伯母が高等小学校の時担当だった教師は、師範学校を出たばかりの新米女性教師であった。伯母達と歳が近いこともあり、先生も初めて担当したクラスであったことから伯母達との関係も深かったそうだ。卒業してからも繋がりが続き、先生との手紙のやり取りも続いていた。私はその手紙を譲り受けた。
その後先生は満蒙開拓団のリーダーであった青年と結婚することになる。
当時、満蒙開拓団に入ることには、周りから強く反対されたそうだが、それでも結婚相手の青年を信頼し先生は満州へ渡る。
別れの日、伯母は横浜港へ先生を見送りに行った。
以下は満州へ着いた先生から伯母宛てに届いたはがきの文面である。


お元気なやさしいお便り有難う。
出郷の日は遠いところわざわざお送り下され有難うございました。
色々忙しく、よくお話し出来なかったこと残念でなりませんが、必ず再会の日がある事と思います故、その日を楽しみに致して居ります。
私どもは十七日に無事当地に到着致しました。その頃はまだまだ冬景色でしたが、日一日と春が訪れて参り長い間の荒涼たる北満の冬も何處となく春を迎える喜びに躍動して居る様です。こんな土地でも日本人が元気に祖国の為働いて居る姿を見るに付、私も怠けては居られなく存じて居ります。皆さんがとても御親切にして下さいますので淋しいことなどなく毎日朗らかに例の調子で唄って笑って居ります故、ご安心下さい。
学芸会の写真是非送って下さい、楽しみにして居ります。
××の人は本校に来ると淋しいだろうと私も何時も心配して居りますが、私の居た時と変わらず、元気に新しい時代の日本の女子青年として活躍して下さる様お願い致します。
ではまたお便りします。さよなら

5月12日

(9年5月13日の郵便局の消印あり)
注:9年とは満州国の元号で康徳9年のこと=昭和17年5月13日

その後、先生のいた満蒙開拓団もソ連軍の侵攻を受けることになる。
その時悲劇が先生を襲った。
先生は、満蒙開拓団のリーダー的存在だとして、夫婦ともにソ連兵により銃殺にされてしまったそうだ。(ソ連軍は日本人の組織的抵抗が出来なくなるように、リーダーであった先生夫妻を処刑したらしい)

この時夫妻には赤ちゃんがいた。赤ん坊だけは戦後、仲間の満蒙開拓団の人達に守られ帰国することが出来たそうだ。

妙蓮寺で行われた先生の葬儀(遺骨はなかったそうだが)には、伯母も参列した。

靖国神社、遊就館から千鳥ヶ淵、皇居一周

2019-08-15 16:31:47 | 東京散歩


靖国神社へ行くと遊就館へも行く。
初めて来たのは小学生のころ。
その後10年間隔ぐらいで訪れる。前回は息子を連れて10年前ぐらい。

零戦52型


泰緬鉄道で使用されていたC56






熱田21型発動機というのは、ドイツのダイムラーベンツ社のエンジンのライセンス生産。
当時、このダイムラー社のエンジンを見た人の話を聞いたことがある。
まず、美しいエンジンの姿に驚いたそうだ。そして工作機械の精度が日本とドイツとでは格段に違うことを感じたそうだ。







硫黄島で使用された、噴進砲 
アメリカ軍に大きなダメージを与えたそうだ。




遊就館は最近このような兵器の展示ばかりでなく個人の遺書なども多く展示している。
死を前に書かれた若者の手記に加え、指揮官の手記も展示されている。
力強い書体に一個の人間の人生の最後が集約されているようで、読むと心が揺さぶられる。

千鳥ヶ淵では明日の式典の準備が進められていた。
明日の天気は大丈夫か。



皇居は緑も多く歩くにはいい。なにしろ東京のど真ん中、どこにも行ける。
ランニングでなくとも、歩くだけでもいい。


三宅坂から国会議事堂


巽(たつみ)櫓


大手門
お濠には菱が大繁殖。


清水豪も蓮がきれい。


九段下で一周


東京国立近代美術館 高畑勲展(日本のアニメーションに遺したもの)へ行く

2019-08-15 11:12:56 | 音楽 美術
高畑勲展は、アニメーションの制作現場が垣間見える展覧会だ。

作品情報を共有する手法がまことに細かい。
展覧会では、作品ごとに使用した原画や絵コンテとともに作成資料も展示しているのでアニメ作成の行程のイメージがつかみやすい。
作業に当たっては個々のアーティストの持つ潜在的能力を最大限に引き出すことと同時に、それが監督の意図する所に統一されなければならないので、監督のイメージや全体的な構成、細部の場面のイメージまでも、作業にあたる人達にきっちり理解してもらう必要がある。

キャラクターの性格、登場人物の相関図、作画の色の指定、いろいろなコンセプトやアイディアを共有する。
シーンのテンションの変動を波形にした表現など斬新なアイデアだ。
作品の質を高め、効率のよい作業を行うための事前準備の技術は、他のものづくりの仕事にも大いに参考となるだろう。

そしてなにより仕事が行程を含めて美しい。
優れたアニメの原画は、すでに高額で取引される美術品扱いになっているが、
現物を見るとさもあろうという出来栄えだ。


アルプスの少女ハイジは、ヨハンナ・スピリの原作を凌ぐ名作だと思う。
ハイジの生活環境、登場人物の性格、行動パターンなど、徹底したリアリズムを追求する姿勢が物語に深みを与えている。
それだけでは面白みは生まれないが、アニメという表現が、作品に躍動感を与え、キャラクターの個性を際立たせている。アニメの持つ表現力を見事に開花させた作品だ。

アニメとは別途に高畑勲さんの訳で奈良美智さんが絵を描いたジャック・プレヴェール「鳥への挨拶」という詩画集の原画が展示されていた。
これもとてもセンスがいい詩画集なので、帰りに買いたいと思ったが、売っていなかった。(絶版のようだ)

常設展では土田麦僊の「湯女」と藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」「5人の裸婦」
が展示されていた。(個人的に注目の作品)

原三渓の美術展へふらふら行く

2019-08-13 15:29:17 | 音楽 美術
今、横浜美術館で、原三渓のコレクション展をやっている。
ところがポスターになっている孔雀明王像の展示は終わっていた。
ああ~チャンチャン
それも問題にならないくらいのハイレベルの美術品が並ぶ。
気になった作品は、展示リストに〇をした。
国宝に指定されているものでは、
・寝覚物語絵巻(平安後期)
・最澄 久隔帖
・芦手絵和漢朗詠抄
重要文化財では
・病草紙断簡(肥満の女)
・雪舟 四季山水図 秋
・雪舟 四季山水図巻
・藤原俊成 消息
その他では
・丸山応挙 美人
・富岡鉄斎 月瀬香雪

茶人でもあった三渓の茶器のコレクションも一流
茶碗の銘というのも面白い
木枯、君不知、初風、千鳥、文覚、残雪、梅が香、塾柿
いったいどういう経緯で名前が付いたのか。
それぞれいわれがあるんでしょうな。

まあ、さすがの一流コレクター
それにしても原三渓の財力って「ドンダケー」あったのだろうか。
松平不昧公のコレクションも三渓さんに流れているようだ。

横浜美術館の常設展や、図書室なんかも覗いていたら10時に入館したのに午後2時になってしまった。
腹が減って、ふらふらと出ていく。

桜木町の地下街「ぴおシティ」を通ったら、昼間っから立ち飲み屋さんが大盛況。
いくつも店があるが、ほとんどの店が満員状態。(スゴ)


地下街は冷房がきいていていて、夏場は特に飲むのに最適なんだろうね。
飲み友達がいれば昼からでもいいかもしれない。

帰りは横浜橋商店街でキムチを買って帰った。


東京国立博物館 特別展 三國志は写真OK

2019-08-11 18:36:14 | 音楽 美術
明代の関羽像

曹操は三國志では悪役の感があるが、文武両道のバランス感覚の優れた人物だったようだ。
曹操は人材登用に積極的だったので、魏は三國の中でも特に人材が豊富だった。
関羽と曹操の数々の逸話は、義の武将関羽を賞賛するものであるが、同時に関羽に対する曹操の気配りの様子は、曹操が有能な人材を大切にする優れた人物であったことを暗に示している。

これが曹操の書だそうだ。



曹操の墓は遺言により質素であったそうだ。
わざわざそんな遺言を残すのは、合理的な考えが出来る名君だった証だろう。


ギリシャ彫刻のよう


董卓の乱などで破壊された、熹平石経の破片
秦の始皇帝の焚書坑儒などで曖昧になっていた儒教の文献を、統一見解として後漢の末期に碑文にしたものだそうだ。
端正な文字で美しい。


ち密な銅鼓
魔法陣のような文様がたいへん細かい
よくこんなものが作れる技術があったものだ。


曹操の墓から出土した白磁 罐
白磁誕生は隋の時代という定説を覆す最古となる白磁だそうだ。


中国の古代文化はすごい。

日本なんか完全に負けている。

上野公園でパキスタンフェスティバルが開催中だった。

2019-08-11 12:30:24 | 独り言

私なんかがパキスタンで一番先に思い浮かべるのは、ヒマラヤ登山だ。
北杜夫の小説「白きたおやかな峰」の中で、登山隊の忠実なコックとして登場するメルバーンという隊専属のコックがいた。
メルバーンは登山隊の食事をすべて現地のカレー味にしてしまうので北杜夫はじめ年配の隊員の口には合わない。残すと悲しい顔をされるので苦労したというようなが書いてあるが、そうか、パキスタンの食事はカレー(羊肉のカレー)が基本なんだと、印象に残った。

おりしもついこの間エベレスト街道へ行ってきたSさんが、今度はパキスタンのK2のベースキャンプへ行くツアーに現在参加されていている。
なんでもポーター100人からなるキャラバンツアーだそうだ。食事も専属コックが付くようだが、やはり羊肉のカレーなんだろうか。



会場のステージではパキスタンの伝統音楽が演奏されていた。
このリズム、どこかで聞いたことがあるとおもったら、昔買ったこのレコードの音楽のイメージに近い。このレコードの曲はインドのパンジャブ地方の古い曲のようだが、もともとパンジャブ地方はインドとパキスタンにまたがっている。共通することも多いのではないかと思う。




楽器はインドだと太鼓がタブラ、横置きのアコーディオンみたいのがシュルティ・ボックスと呼ばれているようだが、曲は華やかだった。

カレーも食べたいところだったが、今日は酷暑。
いくら何でも熱すぎだろ。(年寄り倒れそう)
パキスタン人だって日本の暑さには閉口しているんじゃないかな。


早々に曹操展へ向かった。


働き方改革に思う(シニア世代のグチ)

2019-08-10 21:32:41 | 主張 感想
追い込まれる。
提出期限はいつまでか。

完成しても油断は出来ない。
他の業務との整合性は、数値に矛盾はないか、
何度もいろいろな視点に立ち返り検証する。

ある業務では、突然顧客から質問だ。
何が問題なのか、何をしたいのか、
問題解決へのアプローチで最良の方法は、
他部門への指令はどうするか。

人手不足に加え漫然とした残業が許されない時代となった。
そこで会社に着くなり、いきなり業務を開始。
もはや部署内で雑談するゆとりもない。

ここ10年、業務の高度化が著しい。たえず新たな課題に取り組まなければならない。
必要とされる専門知識もどんどん複雑になり、他部署の人間には理解できなくなる。
繁忙期には、緊張が続くあまり頭痛、めまいが慢性化。
それを薬を飲んでやりすごす。

55歳を過ぎたころから、体の衰えを実感。
年々パフォーマンスが低下する。
来年持ちこたえられるか。

そこで直談判。
健康を維持できない働き方には限界だ。
退職をちらつかせ、一部の業務をアウトソーシングすることを承諾させる。
それでも業務は膨張し続ける。
あといつまでもつか。

故郷の山 大山

2019-08-10 19:04:36 | 山行
大山は家からもよく見える。初めて登った山も大山だったと思う。
故郷を象徴する山。
津軽であれば岩木山、上州なら赤城山、鹿児島なら桜島、私にとってそれは、大山かもしれない。

それで原点回帰、大山へ登る。
下界は猛暑だが、大山の山頂はさわやかだ。
相模湾を望めるポイントもある。(山頂にタヌキがいた)




大山は江戸時代から観光地で、大山詣りと江の島観光がセットになっていたそうだ。
大山、江の島ツアーは、ガイドも付いていた町内会の団体旅行であった。
落語に大山詣りというのがある。
聴くと当時の雰囲気がなんとなくわかる。




私が初めて登ったのも小学校の行事で、やはり団体登山で同級生とワイワイガヤガヤやりながら登った。その時は、阿夫利神社らしく雨が降りそうな雲行だった。
大山の真骨頂は、大山のあたりだけに雨雲がかかっている時だ。そんな天候こそが大山にふさわしい。(たぶん海からの上昇気流のせいだ)


下山して平野の方へ行くとカンカン照りだったりすることがよくある。

江戸時代、団体さんが泊まるのが基本だった宿坊には、今では英語の表記も付いている。時代はグローバル。