とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

小学生のすてぜりふ

2015-01-29 22:20:26 | 昔の話
ふと思い出しました。

「バーカ、カーバ、ちんどんや
おまえのかーちゃんデベーソ
ついでにおまえもデベーソ」

そういえばもう久しく聴いたことがありません
小学生が友達とケンカして帰る時、別れぎわに相手を罵る決まり文句です。

なんであのころには、こういう節の付いた捨て台詞や
はやし立てるような歌があったのでしょうか。
言葉そのものにはたいした意味もなく、
調子のよさだけを楽しんでいたように思います。

このバーカ、カーバーというのも、
最初にバーカというのが来ますが、
相手にバーカと吠えて勢いをつけているだけで、
続いてくるカバやちんどんやというのも
勢いを持続させるために並べているだけですね。
しいて言えば能天気な動物のカバ、
お化粧してラッパや太鼓を鳴らしねり歩くへんな人たち、
ぐらいのニュアンスでしょうか。

おまえのかーちゃんデベソというのだけが、具体的な誹謗中傷となるわけですが、
今ここにいる当事者ではなく、
おまえのかーちゃんには、
とりあえず聞こえないわけです。
最後の「ついでにお前もデベソ」というのだけが、
本人のことですが
本当にデベソだと言っているわけでもありません。
なにしろ、ついでのレベルです。

他にもいくつか思い出しました。

女の子を男の子が泣かしたときの囃子歌

「あーららこらら、しーらないよ、しらないよ、せーんせにいってやろ」
「いーけないんだ、いけないんだ、みーんなに、いってやろ」

これを数回繰り返す。

「みっちゃん、みちみち、☆して、紙がないから手で拭いて、もったいないから食べちゃった。」

最近テレビでも紹介されましたが
友人の口元の両側をひっぱてから
金沢文庫て言ってみなで盛り上がった

「金沢☆んこ」
というのもありましたね。

まだなんかあったかな?

メローゴールド カクテル

2015-01-24 20:05:07 | 料理 食 道具

グレープフルーツ系の柑橘類にウイスキーやブランデーは、よく合います。

今日は、メローゴールドの果肉をグラスに入れ
サントリーオールドを注いで飲んでみました。


なんだか食べるカクテルといった感じで、とても美味しいですね。
メローゴールドが甘すぎるという方には、
普通のグレープフルーツがお薦めです。

ウイスキーや、ブランデーはちょっと、という方でも、
こうやって飲むと意外に飲めるかもしれません。

日本にグレープフルーツが初めて入ってきたころには
グレープフルーツを半分に切ったのにブランデーをかけて
スプーンでほじって食べる、という食べ方を薦めていた記憶があります。

ほろ苦いグレープフルーツの味が
日本で受け入れられるのか心配だったのと
ブランデーという高価なお酒をかけて食べるということで
高級な果物というイメージを作りたかったんでしょうね。

でも確かに相性はいいようです。


ところでこのサントリーオールド
最近あまり見なくなりました。

こんなウイスキー
ちょっと見かけない・・・・・




冬木立

2015-01-18 19:58:25 | 庭、花木、畑、ガーデニング
冬の日はなんだか寂しいですな
午後の3時ごろになるともう夕方みたいで
一日があっという間に終わってしまう気がします。

これからは日一日と昼間の時間が長くなって行くので
まあ、がまんしましょうか。

冬の雑木林の中は、葉っぱもすっかり落ちて、
とても明るく、風さえなければ暖かいです。
南斜面の陽だまりに寝ころぶと気持ちいいですな。


天高く枝をのばすのは小彼岸ざくら


空へ向かって枝を伸ばすこぶしの木(タムシバかな?)



クヌギの葉は冬の間そのまましがみついていて、春の芽吹きまでがまんの子


もうそれとわかるつぼみをつけた、はなみずき



横浜の風景、今昔物語4

2015-01-17 21:09:10 | 昔の話
今は昔
我が家は農家でしたが、田んぼがほとんどありませんでした。
戦前、そして戦後もしばらくの間は、農家で田んぼがないということは致命的でした。
なにしろ江戸時代には、その地域の経済規模は石高で表示され、
お米がどれだけ取れるかで、収入額がわかったのです。
商品作物としてのお米の価値は不動のものでした。
イコール、お米の取れない農家は貧乏だったのです。

そこで、じい様やひいじい様は、畑で取れた野菜やイチゴ、はたまた鶏の卵などを大八車に乗せ、遠く東京や、横浜の六角橋商店街などへ売りに行っていたそうです。
地元にも市場はありましたが、安く買い叩かれてしまいました。
そこで遠かろうと、いくらかでも高く売れるならと、えんやこら運んで行ったのです。
昔の人は粘り強く、体力がありました。

戦前、横浜北部の農産物で有名だったものには、桃とイチゴがありました。
遠藤周作などは、慶大生だった当時、日吉の農家でイチゴを仕入れ、渋谷あたりで売るアルバイトをしたとエッセイに書いています。

我が家でもイチゴを作っていたようです。
(イチゴの出荷組合というのもあったそうです)
桃は日月桃という品種が綱島の名産品でした。
私の家でも日月桃と思われる木が私の小さいころまでは何本かあったのですが、
その桃を売っていたのかどうかまではわかりません。


思想の科学

2015-01-17 15:56:43 | 本、作家
懐かしい雑誌の名前を数十年ぶりに聞いた
昨年の暮れにNHKが「思想の科学」を特集していたのだ。

思想と言うと哲学的で抽象的な内容の本かと思うが、
書き手の実際の体験に基づいて書かれた記事が多い
読みやすいザックバランな内容だった。
いろいろな人がいろいろな視点から一つのテーマについて語るので、
テーマの本質が見えてくる。
学生のころは、けっこう一所懸命に読んでいた。

いつの間にか休刊となってしまったようだが、
今の時流では生き残るのが最も難しい月刊誌の一つだったのかもしれない。
みんなが何をどう考えているのか、
ものの考え方のヒントにもなった。

個人的には、数年に一回の特別号でもよいから、
たまには読んでみたいものだと無責任に思う。
この雑誌の編集作業は相当大変そうだ。
お金はともかく、そんなものを引き受ける人は、もういないのかもしれない。


横浜の風景、今昔物語3

2015-01-16 22:49:03 | 昔の話
今は昔
このごろは、私のおじやおば達もそろそろ怪しくなってきました。
一人欠け二人欠け
昔のことは、今のうちに聞いておかないと、
本に書いていないようなことは、
永遠になぞとなってしまいそうです。
そこで、おじやおば達が話した昔のことを最近は書き留めるようにしています。

今回は戦時中の話です。

私の家の近くには高射砲の陣地がありました。
全部で6門の大砲があったそうで
近いので砲がいっせいに火を噴くと、けっこうな音がしたと思われます。

昭和20年、B29の編隊は連日のように私の家の上を東京へ向けて飛行していたそうです。

そして気まぐれに私の村にも焼夷弾を落として行きました。
戦後70年経ちましたが、これがそのときの焼夷弾です。


このため村の何軒かは焼夷弾の犠牲となりました。
(同じ市内にある私の祖母の実家は焼夷弾のために全焼となっています)
鶴見川沿いには工場があったので、250キロ爆弾も投下されたそうです。
叔父の証言
「隣村に250キロ爆弾が落ちた。すさまじい音がした。翌日落ちた場所を見に行ったが、大きな穴が開いていた」

焼夷弾についての証言
「焼夷弾は爆撃機から落ちると、トラックが荷台を上げて砂利を空けているような音がした。」

飛来するB29には対空砲火の他、厚木基地から飛び立った戦闘機が迎撃しました。
おじ達は実際に日本機とB29の空中戦も見たそうです。
以下叔父、伯母の証言。
「日本軍の戦闘機はB29の後方から近づいて機銃掃射を浴びせかけたが、爆撃機はそのまま飛んで行ってしまった。」
「日本の戦闘機がB29へ体当たり攻撃をしていた」
「日本の戦闘機が撃墜され、機体の一部が近所の畑に落ちてきた」

「突然、アメリカの戦闘機が低空で飛んできた。あぶないと思い、あわてて茶畑に隠れた」

轟く大砲の音、降り注ぐ焼夷弾。
戦争末期は一般国民にとっても過酷なものでした。

横浜大空襲のあった晩、私の母は
「防空壕の中からそっと港の方を覗いたら、空が真っ赤になっていた」
と言っていました。

旧制中学の1年生であった叔父の証言です。
勤労奉仕の配属先を決めるのに、事前に面接試験があったそうで、
叔父はそこで、優秀と判定され
目黒の海軍技術研究所への配属となりました。

その後、秦野にあった専売公社の工場などにも行ったそうですが
最後は厚木飛行場だったそうです。

軍の基地なんかで中学生がなにをしていたのかと聞いたところ
叔父は得意そうに、「偵察機に無線機を取り付ける仕事をしていた」と話していました。
叔父はもともと、理工系の知識が豊富な人でしたが、整備兵でもない中学生に
そんな仕事をさせなければならないとは、
戦争末期の人材不足は、相当にひどいものだったようです。。
ちなみに叔父は、空襲警報が鳴ると一目散に飛行場の外に広がる森の中に駆け込んで隠れていたそうです。

横浜の風景、今昔物語2

2015-01-14 21:31:28 | 昔の話
今は昔
横浜の観光と言えば
マリンタワーに登り、山下公園を散策し、氷川丸の前で写真を撮り、
南京町で食事をするというのが定番でした。(横浜のごく狭い一画だけで済んだ)

私の幼稚園の時の遠足は、山下公園と野毛山動物園でした。

横浜の田舎に住んでいる私には
めったに横浜の中心街へ出かける機会はないので、
横浜駅のあたりへ出かける時には、
「横浜へ行ってくる」と言って家を出ます。・・・・・・(・□・;)


たまに出かける時は、ちょっとした観光気分です。

そんな調子だから、たまに見る横浜港の変貌ぶりには驚かされます。
なんてオシャレな街になったものだろう。
かつて港の大部分を占めていた倉庫だのクレーンだのがあった一大港湾施設街は、
その面影だけを遺して
彼女とデートするのにうってつけな開放的で美しい街となりました。
今の人達が羨ましい。

しかも今でもどんどん変化しています。

横浜の風景、今昔物語

2015-01-12 22:37:33 | 昔の話
今は昔
私なんかが小学生だったころのことです。
横浜の田舎のなんにもなかった田んぼの中に
突如として新横浜駅が出来ました。
(当時、横浜市の北側は横浜のチベットなどと呼ばれていて、広大な面積が港北区でした)

ところが新横浜駅へ行くのに乗る横浜線なんかは、
まだ、ひどいローカル線で
小机から先は単線でした。
電車もこげ茶色の地味な車両で、
終戦直後の電車とあまり変わらない様子でした。

新幹線は、普段われわれとは縁のない乗り物でしたが、
さほど近くもない私の家からでも、新横浜の駅がよく見えました。
しかも新横浜駅に入線するこだま号の姿も確認できるほどでした。
(当時ひかり号は新横浜駅には止まりませんでした)

そして北に目を転じると東京タワーが見えました。
さすがに東京タワーは夜景でないとよくわかりませんでしたが、
その横には霞ヶ関ビルもハッキリと見えたものです。
当時の東京の高層建築はそのぐらいのものでした。

あれからいく星霜
今では信じられないかもしれませんが、
マリンタワーのライトすら見えたのです。

三浦半島 馬堀海岸 旗山崎 観音崎 浦賀

2015-01-12 08:54:35 | 三浦半島ハイキング
<コース>
堀ノ内駅-馬堀海岸-旗山崎-ふれあいの森-走水神社―観音崎ボードウォーク-観音崎-たたら浜-鴨居港-浦賀駅

堀の内駅11:00
馬堀海岸には、天然岩を使ったみごとな波消しブロックが設置されています。
そのブロックに平行してこれまた立派な遊歩道が海岸沿いに延々と続いており、
格好のジョギングコースとなっています。おしゃれなウエアで走っている人も多い。(岩を隙間なく敷き詰めたとても優雅な造りの波消しブロックです)


途中わずかばかり車道を歩き、海岸沿いを走水の漁港へ向かいます。
行き止まりにある「かねよ食堂」の裏手からは、国道へ上がる歩道があります。


16号横のこの場所は富士山を望む夕日の名所だそうです

走水小学校は破崎の海に突き出した場所にあり、うらやましいようなロケーションに立地する小学校です。
向かいの伊勢山崎には、弟橘姫を祭る橘神社があったそうですが、明治期にこの地が軍に接収され、走水神社に移されたとか。


この岬はけっこうすばらしいところです。
今日は特に海の水がきれいで、なかなかよい雰囲気でした。


走水小学校の裏手から「ふれあいの森」へ

ここの公園はやたらと広いのですが、今ひとつウォーキングには面白みに欠けるようなところがありました。
せっかく登ってきたのにやはり海岸へ降りることに(照葉樹林には見るべき点もあります)

走水神社に着くと、いきなりびっくりするような光景です。
今ではめったにお目にかかれない、大きな日章旗をクロスして掲揚しています。

この神社は乃木将軍や東郷元帥にもゆかりのある神社らしいので、国粋主義者や右翼が参拝しているのかと思いきや、
さにあらず、走水神社はごく普通の神社でした。
神々の小さな社も多く、日露戦争時のロシアの機雷が展示されていたりして、見るものも多い魅力的な神社です。

右翼もこんな手水舎では、やる気を無くしてしまいますね。


観音崎京急ホテルの横から、遊歩道が始まります。
ここから観音崎方面へは、観光コースとしてよく整備されています。


たたら浜はゴジラが初めて日本に上陸した場所として有名です。
(このことから京急浦賀駅のメロディはゴジラのテーマ曲です)


鴨居の八幡神社前の浜では巨大などんど焼きのツリーが


散歩コースとして魅力的なのはこのあたりまででしょうか

マニアにはこの先も叶神社(お参りすると願いがかなう?)浦賀港の渡し船、
徳田屋跡(佐久間象山、吉田松陰をはじめ、幕末の有名人が宿泊した宿)
などがあり、それなりに楽しめます。

浦賀駅着16:20

ニューイヤー・コンサート2015 ウイーン・フォルクスオーパー交響楽団 サントリーホール

2015-01-01 23:31:37 | 音楽 美術
本年もサントリーホールのニューイヤーコンサートに行ってきました。
昨年同様、奥さんと二人して出かけたのですが
正月元旦に夫婦そろってコンサートに行けるというのは、
考えてみれば大変幸せなことです。

今年はまだ初詣にも行っていないのですが、
お参りにいったならば
やおろずの神々にも、
おおいに感謝せねばならぬことでしょう。

今年の指揮者はルドルフ・ビーブルさん85歳・・・・
一曲目、スッペ「ボッカチオ序曲」
すきのないなめらかな力強い演奏です。(一言で言うとすばらしい) 

どうしてこうもクラッシック界のお年寄りは元気なのでしょう
最近ではスタニスラフ・スクロヴァチェフスキさん(90歳)、外山雄三さん(83歳)
などの方々の演奏を聴きましたが、他の業界なら普通このぐらいのお歳になると過去の業績をなつかしんでいるだけというようなところがありますが、
どの指揮者も新たな挑戦に燃えているとしか思えない情熱的な演奏を聴かせてくれます。
あの指揮台に1時間以上立ち続けさせる闘志は、あくなき探究心のたまものなのでしょう。
まあ、今日の演奏はワルツやオペレッタですので、そんなに肩肘張って聴く曲でもありませんが・・・・・

ソプラノの歌手は急遽変更とのことで、天羽明惠さんが出演されました。
急な出演とはいえ、すばらしい歌声で、お客さんの拍手も一段と大きかった気がします。

曲の名前はわかりませんが、最後のラデツキー行進曲の前に演奏した曲も力を抜いた軽やか演奏でよかったですね。

オペラや、バレエといったクラシック界を総動員した華やかなコンサート。
毎年続いているのもわかる気がします。