とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

二・二六事件とは何だったのか

2020-02-26 20:14:56 | 日記
二・二六事件の日

世界は保護主義に向かい
貧富の差は拡大
貧苦にあえぐ民衆
憂国の士は立った

当時も今と同じような世界情勢であった。
日本は、同じ轍を踏まぬよう気を付けたい。

歴史は形を変えてまたやってくるものだ。

飯能を歩く

2020-02-24 21:35:51 | 旅行

飯能の街は、縁がないようで縁がある。

飯能の駅 木材の街のイメージだろうか。


実を言うと私の家は、飯能の材木屋さんの木で大半が出来ている。
家というのは出来るだけ地元の木材を使うのがよいそうだ。
当時はそこまで考えていなかったが、結果としてそうなった。

農家の屋敷林というのには、いろいろな用途があったが、その材を使って家の建て替えを行うという目的もあった。それで武蔵野の農家は材質も良く大木となる欅の木を多く植えた。
私のクラブの後輩で建築士になったHは「東京の木・いえづくり協議会」というのに入っていて、東京の木(地元の木)を利用するというのを推進していた。

話が長くなったが、もう一つは今から50年ほど前に飯能河原へ行ったことがあるということだ。
主にこの2点だけだが、わりと私にとっては重要だ。
最近東横線で飯能行きの車両が走るようになった。
それで川越と同様にまた行こうという気になった。

直通電車とはいえ、着いたのは11時だった。

もっとも50年前には始発電車で出かけた。
それほど横浜からは遠い。

街の風景




そして飯能河原




はあ、懐かしい。
記憶の中の風景とほぼ同じ。
ただし当時は、遊歩道や堰はなかったかと思う。
水切りをした記憶があるのだが、それらしい淵もあった。






東飯能へ抜け、街をぐるっと、一周してみた。

南青山を歩く

2020-02-23 23:12:44 | 東京散歩
ヒカリエの横が銀座線の改札口になっていた。
渋谷から南青山へ歩いて行く。
豪華なアウトレット街のような一角にあるお地蔵さん
青山だけあってアートぽいデザイン。


私は北杜夫さんの大ファンである。
今日は、北杜夫が幼い頃住んでいた南青山のご自宅跡を見に行こうと思う。
北杜夫(斎藤宗吉)さんは青南小学校の卒業生で、
その少し先にあったのが、青山脳病院だ。
父親である斎藤茂吉が医院長先生でご自宅も病院の一角にあったそうだ。
さすが青山、すごい所だ。


あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきは)る我が命なりけり

なんて書いてあるのか分からなかったがネット情報で教えてもらった。

童馬山房跡とあるのは斎藤茂吉の自宅跡という意味だろう。


すぐ近くに青山霊園がある。
ここは日本一ステータスの高い公営霊園かもしれない。
霊園の中にハチ公の碑がある。(特例扱いか)


乃木希典の墓は、普通の家のお墓みたいにこじんまりしている。
旅順攻略で戦死した息子さん二人のお墓が一番大きく、乃木夫婦のお墓はいたって質素。人柄が偲ばれる。




私の家のお寺の墓地にも、旅順攻略の時戦死した兵隊さんのお墓がある。
墓地の中で一番大きく立派なお墓だ。幼い頃は、なんで将校でもない兵隊さんのお墓がこんなに大きいのか不思議に思っていたのだが、墓碑の最後に「希典書」という文字があった。
戦後、戦死した兵の遺族や傷病者に誠心誠意の気配りを続けた実直さも、乃木将軍が国民に愛された大きな理由なのだろうと思う。

超合金スーパーカブ

2020-02-23 18:29:50 | 独り言




青山のホンダショールムへ行ってきた。
最近オートバイの展示が少ないなと思っていたが、今日は違っていた。
スーパーカブやモンキーの進化形モデルが展示されていた。






これはどう見ても戦艦大和が宇宙戦艦ヤマトになったような進化だ。
(だけどもう2年前には発売されていたようだ。)

お値段も当然それなりになるが、でもイイ。
125ccなので高速こそ乗れないが、一般道ならストレスなく走れるだろう。
とてもスタイリッシュだ。だけど基本はスーパーカブとモンキーのデザインを踏襲しているので愛着がわく。
おじさんにはたまらない。
ああ乗りたい。




でも今のスーパーカブ110プロもいいので、簡単には乗り換えられない。
悩ましいところだ。

ホンダはやはり本田宗一郎さんの精神を残してもらいたい。
(私は、車もオートバイも芝刈り機もホンダを使用しているファンなのだ。)




アベル・ボナール 友情論(大塚幸男 訳)

2020-02-22 08:25:52 | 本、作家
アベル・ボナールなどといっても知る人もいないだろう。
フランスのビシー政権下で文部大臣を務めた人のようだが、戦後このことが災いしてスペインに亡命し、この本の出版当時は行方知れずであったようだ。

私は、そんなに深い意味でこの本を読んだわけではない。
今なら、友情論とか恋愛論、人生論、幸福論などという大仰なタイトルの本はうさん臭さ感じて読むこともないだろうが、これは、本などという物を自分で買うようになった初期のころに読んだもので、タイトルだけ記憶にのこっていた。
本は道玄坂にあった古本屋さんの文紀堂書店で購入した。



なぜこの本をブログに書いたかというと、
アベル・ボナールの名前を今日なぜか思い出したのだ。
きまぐれだった。人間そんな時がある。

四十数年ぶりにページをめくると、マーカーが引いてあるところがあった。
当時の自分の感性なんだろうなと興味深く読む。
・・・・・・・・・
恋愛は約束をしても守らず、友情はしなかった約束をも守る。恋愛はたとい嘘をこのまないときといえども、少なくとも誇張を好み、ことばを乱用するのに反して、友情は心をつかってことばを用いまいとする。友情は告白なき情熱であり、もはや何一つ互いにかくしだてないふたりの間に存続するただ一つの秘密といえば、相手がいかなる点で自分を選び自分のほうを好んでくれたかがふたりの中のどちらにも決してわからないことである。
・・・・・・・・・
今読んだらふ~んとういぐらいの感想しかないが、少年のころに、この本を読んでいた時の様子が感じられた。

春は椿

2020-02-16 19:30:56 | 独り言

今日は雨
雨の中、椿を部屋から眺める。

この岩根絞は私が植えたもので、まだ20年ほどしか経っていない。
でもきれいだ。この先どのぐらい生きるのだろうか。
椿の花は、つぼみが膨らんだこのころの様子が珍重される。
今ぐらいの様子が一番美しいのかもしれない。

この藪椿は私の記憶があるかぎりこの場所にあり、大きさも同じくらいだ。
(もっともこれ以上大きくならないよう私が剪定している。)


今さらだが樹木は人の一生よりよほど長生きだ。
歳を経た古木は大変神聖なもので、信仰の対象にもなった。
なんだか分かる気がする。


入間川から川越へ

2020-02-16 08:46:20 | 旅行
川越の駅に降り立ち、なぜか川越水上公園に向かう。
入間川を見たかったからだ。


川越橋から戻る。
途中バス会社の営業所かと思ったら高校であった。


川越は城下町なので道が複雑だ。


いわゆるメインの観光通りはすごい人だ。
今日は少し外れた所を選んで歩く。


川越は昔すごく栄えた街だったことがわかる。
商工会議所も半端ない作り。


喜多院の慈眼堂がコンパクトで美しい。


三芳野神社は川越城の守護神だ。


新河岸川は、川越発展の鍵ともなった水運設備である。


道灌橋
川越城の築城には江戸城を造った太田道灌も大きく関わっていた。


川越夜戦は、関東における新勢力の北条氏と旧勢力を結集した関東連合軍との闘いであった。


この時、北条氏康は、西に今川義元とも紛争を抱えており、絶体絶命のピンチであった。
当初兵力で圧倒的に不利であった北条軍が勝利できたのは、降伏同然の条件で和睦交渉を進めていて相手が油断したことと、夜戦との伝承から北条軍による夜討ち(不意打ち)だったことで奇跡的に勝利できたのではないかと思われる。何れにしてもなりふり構わぬ方法で勝利したもので、勝利した北条側にもこの時の戦いの資料が少ないのは、あまり誇れるいくさではなかったのかもしれない。
戦いが北条軍の圧勝となったことで、関東における北条氏の覇権が決定的なものとなった。

この戦いに敗れた上杉氏は、その後衰退して越後に逃れ、越後の守護代であった長尾景虎に家系を譲る。(長尾氏は上杉氏の家宰(筆頭家老のようなもの)であった。)川越夜戦で氏康が圧勝できなかったら、謙信は上杉謙信ではなく長尾謙信となっていたかもしれない。
ちなみに長尾氏は横浜出身の豪族で、戸塚区にある長尾城が発祥の地といわれている。

地元の名門、川越高校には、関東大演習の記念碑がある。

大正元年の大演習は天皇陛下(大正天皇)も参加された大規模のものだったようだ。
ちなみに、関東大演習はいくたびか行われていたようで、私の祖父も大正7年と10年に行われた大演習に参加したと軍隊手帳に書いてあった。

津久井城へ登る

2020-02-12 19:50:31 | 神奈川散歩

津久井城は三浦一族の津久井氏(三浦大介義明の弟だった人を祖とする一族)の記録が一番古いとか。
三浦半島の津久井浜あたりに住んでいた一族なのだろう。

津久井城は、秀吉の小田原攻めの時に徳川軍に敗れ落城したが、この北にある八王子城と並んで小田原攻防戦における第一防衛ラインの重要な城であった。

北根小屋のバス停から歩く。
諏訪神社へ到着


登るとすぐにある不動平の記念碑


この先を左回りの女坂を上る。

太鼓曲輪




本城曲輪


城の全体図


展望よし



三角形の独立峰が谷口にあるのですばらしい展望。
岐阜城とコンセプトは似ている。

飯縄曲輪


横浜貿易新報社による記念碑
この姉妹版が港北区の綱島にもある。(綱島温泉)

横浜水道みち 起点沼本ダムへ(三井用水取入所)

2020-02-11 22:11:06 | 神奈川散歩
三井大橋を渡り三井へ
三井寺へ向かう


道は通行止め。
落石の危険性があるからだと思う。
基本的に生活道路として使う必要がなければ、安全を優先して通行止めにしておくということだろう。
三井寺のあたりの登山道も通行止め。(こちらは昨年の台風のせいだろう。)
 

二十三夜供養塔が気になった。
道志には二十六夜山という山もある。
昔の人は月の満ち欠けにこだわったのだろう。
その夜には村の月待行事が行われて、お経を読み、飲食をしたのだそうだ。


名手の先もずいぶん前から通行止め。
こちらは本当に崩落しており、トラバースして通過するにはヘルメット、ザイルが必要だ。


名手橋を渡り旧道を進む。




道志橋を渡り寸沢嵐遺跡(石器時代の遺跡)この先のお堂のような屋根の下。


その先を沼本ダムへ
ダムの上流側が取水口


水道の流路は国土地理院の5万分の1の地形図にも表記されているので、水道管が何処を通っているのかは、ほぼ正確に分かる。
ただ、水道の上流部はほとんど道路とは無関係の地中深い所を通っているのだろう、さきほどの崩落地点もすぐ下を通っているようだが、外からはまったく分からない。

引き返して三ヶ木へ向かう。
途中道志川


橋のたもとで、道志川水系の横浜水道沈殿池へ向かう道を分ける。(今日はやめとく)


三ヶ木のバスターミナルへ着いたら、津久井城へ向かう。(この部分次回へ続く)


横浜水道みちを歩く 下溝から田名 谷ヶ原浄水場 から三井

2020-02-09 21:55:23 | 神奈川散歩
    津久井湖の眺め

相模線、原当麻の駅から歩く。
この間の女子美の続きから開始。


相模原調圧水槽
この施設で水道に圧をかけているらしい。


思ったより開放的な道だ。
丹沢の山脈が最高。
今の時期に歩くには、とてもよいコースだ。


のどかな農村風景。
畑の境に桑の木が植えてあるのが目立つ。

養鶏場があった。
元同業者としては見過ごせない。
小川さんという方が経営しているようだ。
外観だけしか分からないが、先進的農家であるようだ。設備も半端ない。
たいしたものだ。


この辺はブルーベリーも作っているようだ。
ベリーの根元に盛ってあるのは何かと思ったら、どうも細かいおがくずのようなものみたいだ。。


道は相模田名高校の所から一般道のようになる。


相模川の縁に近くなると。
ヤツボと呼ばれる水場が現れる。
大島水場のヤツボ
大島中ノ郷のヤツボ
 

その脇から相模川まで下りられる。
この辺りまで来ると相模川も野性味を帯びてくる。


一般道のような道なので少し心配になるが、道脇に横浜市水道局のカンバンが出て来てほっとする。


山王神社が河岸段丘上の道の最後の所と思われる。


この下が谷ヶ原浄水場だ。
浄水場からの道はよく分からない。
案内図には津久井湖の北側を通っていたように書かれていたので、北側を歩く。
中沢から歩道の少ない車道になり高度が上がる。
展望がよい。


三井用水取入所跡まで歩こうかと思っていたが、
三井のバス停で15時になっていたので無理せず、15時10分の橋本駅行のバスで帰った。


府中駅から府中崖線、立川段丘 青柳段丘

2020-02-08 20:58:08 | 東京散歩
府中駅から府中崖線、立川段丘 青柳段丘

府中駅から歩く

駅前の武蔵国府跡の広場を見学し、「清水下小路」を分倍河原へ向かう。
駅の手前、崖線に沿った所にある大寺「高安寺」へ行ってみる。
藤原秀郷や弁慶の伝説もある名刹。


崖沿いの高台には寺社や史跡が多く散歩によい。
古代のメインストリートなのだろう。
なにしろ水が豊富で、段丘上は平地になっている。
住むにはすこぶる適したところだ。

高倉塚古墳


武蔵府中熊野神社古墳


多摩川の河原石が沢山使われている。
今ではピンとこないかも知れないが、最近まで民家の柱の礎石には多摩川の川原石が使われていた。我が家の場合、近くに鶴見川と多摩川があるが、鶴見川は川原石がほとんどない。それで二子玉川あたりの河原へ行って石を拾い集めてきたものだろう。(疎石に使われていた川原石は今でも庭に転がっている。)


西府駅前の御嶽塚(古墳)


古墳廻りが終ったので、ふたたび府中崖線へ戻る。


おおむね崖線に沿って散歩道がある。
途中から青柳段丘へ入る。


城山は城跡で空堀や土塁も残る。


柳沢家住宅(移築保存)も城山の一角にある。


南養寺も大きなお寺
寺内の石仏がよい。


ママ下湧水まで歩き、引き返す。


谷保一号水源(水道施設) (谷保二号水源もあった。)


谷保天満宮は立川段丘下にある神社で、すぐ上の段丘上に谷保駅がある。


今日はここまで。

調布飛行場から国分寺崖線を歩く 2月5日後半

2020-02-06 13:08:22 | 東京散歩
飛田給の駅から北上
アジノモトスタジアムなどのスポーツ施設を抜けると調布飛行場の北側へ。


ここの注目ポイント
戦闘機飛燕の防空格納庫「掩体壕」の遺構がある。
1号、2号と2つ


 

私の家では月刊誌の「丸」を長年購読していた。
それで私も小学生のころに、全国の航空機用掩体壕を特集した丸の特集を見ていたので、現物を見るとなんだか懐かしいような気がする。


更に北上し近藤勇の墓所へ




野川に向かい国分寺崖線を見学する。
野川は川沿いが公園になっていて市民との距離が近い。

国分寺崖線からは、湧き水がいたるところから大量に流れだしている。
一度奥まで進み、折り返して野川沿いに進む。


途中深大寺方面へ折れ、深大寺を西の参道から参拝


続いて水生植物圓へ入ると深大寺城址へ行く。
空堀と土塁が保存されている。




戦国時代の城址だが、公園内にあるので、城の一部分ではあるが積極的に保存されている。

帰りは調布駅へ
この日の歩行距離24k

府中 大國魂神社から府中崖線を歩く 2月5日前半

2020-02-06 09:26:18 | 東京散歩
立川段丘と一般的に呼ばれている多摩川沿いの崖だが、府中より北には、近年発見された活断層の立川断層もあり混同しやすい。
段丘上の平地は、立川面と呼ばれている。

府中駅から大國魂神社の西の参道から入る。なお反対側方向へは分倍河原へ続く散歩道がある。

神社は武蔵の国の一宮なので、住人である私は、この神社にお参りするのが一番正しいもかも知れない。


最近造られた軽巡洋艦多摩の慰霊碑があった。


神社の隣りは武蔵国府跡


さらに府中競馬場へ
右に見える競馬場♪
博物館にも入ってみる


やっぱり日本の馬の方がかわいい。


この先、道祖神のある細い道へ入る。
この散歩道は一般道の所が多く、(ただし旧道なので風情はある)
新しい道に寸断されている所も多い。
基本的に立川段丘に沿って歩く。




八幡山本願寺には、畠山重忠公の伝説があるそうだ。


奥州の戦のおり、藤原秀衡の持仏であった薬師如来像を頼朝の命で鎌倉へ運ぶ途中、夢のお告があったことから、この地に仏像を安置したのだそうだ。


我が家にとって重忠公はご主君筋に当たるので、素通りできない。
さっそく薬師堂をお参りし、しばし鎌倉時代のこの地に思いをはせる。


途中から一般道になってしまったので、飛田給の駅へ向かう。


洗足駅から洗足池 池上本門寺 蒲田駅

2020-02-04 22:11:57 | 東京散歩
洗足や大岡山という所は、昔、高級軍人のお屋敷が数多くあった場所で、田園調布よりも伝統と格式を持つ高級住宅街だ。

雅子皇后のご成婚の際には、環七のこの場所にテレビ局の電源車が並んだ。
小和田邸のあたりは細い道なので、ここに止めた局の車からぶっといケーブルが小和田邸まで延びていていた。(今のテレビカメラならそんなことは必要ないのかもしれない。)


環七沿いには、オートバイや車のパーツのマニアックな店が並ぶ。


洗足池へ向かうと勝海舟記念館というのが出来ていたので入ってみる(300円)


坂本竜馬もそうだが海舟も若い時剣道に打ち込んでいた。
文武両道とはよく言うが、人との駆け引きが大切な政治の世界では、剣道のように相手の呼吸を探りあう武道を極めているというのは、きっと大いに役立ったのではないかと思う。


海舟が洗足池に別邸を建てたのは、風光明媚というばかりでなく、池上本門寺で行われた西郷との最後の会談のさい洗足池を訪れており、海舟にとって江戸城の無血開城という一大事を成し遂げることが出来た縁起の良い地であったことも理由であるようだ。


この後洗足池の流れに沿って吞川沿いに歩く。


この辺りは天下の大田区工場地帯
町工場の聖地だ。

荏原病院の下をとおり


そして池上本門寺到着
昨日の節分の跡片付け中だった。


さらに呑川を下る


途中川の水を泡立てる変な装置があった。


蒲田駅まで歩いて終了。

日吉の老舗がまた一つ閉店となる

2020-02-04 16:22:56 | 独り言
日吉駅から1分のところにある、金物屋のオバタさんが閉店となっていた。
(金物だけでなく日用雑貨のとても品数の多い店だった。)
先月からおかしいとは思っていたのだが。
やっぱりだった。

73年間日吉の駅前で営業されてきたそうだ。
私の記憶の中には、初めから店の姿があった。
この間、茶こしを買いに行ったときには、「井口文華堂さんが閉店になっちゃいましたね。」
などと奥さんと話したのだが。
今度はオバタさんの方が閉店となってしまった。

オバタさんの所は、私が結婚した時、庖丁やスプーン、おろし金といった所帯用の台所雑貨を購入した思い出深い店だった。
商品も長年にわたる目利きのせいで、安くて良い品が厳選されて置かれていた。

長い間ありがとうございました。