とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

昔の日吉駅前の商店街を思い出す

2017-04-30 19:10:58 | 日記
日吉駅前の亀屋万年堂がなくなっていた。
(アフラックになっていた)
そういえば日吉駅前の商店街もずいぶんと変わった。
最近は、やたらラーメン屋が多くなったが、いったいどうしたことだろう。

私が昔よく行ったラーメン屋は「赤坂ラーメン一点張り」という店だった。
(そのころの日吉駅前には、赤坂ラーメンぐらいしかなかった。)

ごはんものだと、浜銀通りにあった「かつ一」さんだった。
かつ一さんは、自分にとってはちょっと高級な店だった。
それで自分で稼げるようになって初めて行くようになった。

いつもヒレかつ定食とビールを注文していた。
美味しいとんかつ屋さんというのは、千切りキャベツも美味しい。
かつ一さんのキャベツは、季節に関わらず美味しかった。
店が閉店になるころ、最後に家族みんなで食べに行った。

それと、やはり同じ浜銀通りにあったパン屋の「大地の実」
店と同じ名前の、大地の実というパンが美味しかった。
いろいろなナッツ類がパンの中に入っている豪華なパンだったが、
久しぶりに買ったら、ただのレーズンパンのようになっていていた。
程なくして閉店となった。

それと一時期だったが、駅前のミスタードーナツの所にもパン屋さんがあった
経営は二度変わったような気がするが、初代の店が一番良かった。
(店の名前は忘れた。)

本屋では、村山書店が聖地だった。

今は何れの店ももうない。


神々は渇く(アナトール・フランス)

2017-04-24 21:18:51 | 本、作家
大学の行き帰りの電車の中
たまたま同じ学部のM先輩と一緒に帰った時のことだ。
「俺さー、アナトール・フランスの神々は渇くが読みたいんだよなー」

奇跡とは起こるものなのだろうか。
なぜかその時私は、買って間もないその本をカバン(サブザック)の中に入れていた。
そもそも「神々は渇くを読みたい」とつぶやく大学生なんてそういるもんじゃない。

「ええ、持ってるの。」
私は読みかけにも関わらず、日ごろお世話になっているM先輩にその本を貸してしまった。

未だにあの本は私の手元に戻ってきていないのであるが、世の中には不思議なことがあるものだ。

人にあげてしまった本というのは、
その時はいいと思っても、後々気になるものだ。
物理的には、その本が手元にあろうがなかろうが大した問題ではないだろうが、
なんだろう、
昭和10年か20年代の出版の本であった。
早稲田の古本街で買った。値段は700円であったと思う。
美しい活版印刷のタイトル文字に引かれ、購入した。

これはとても良い本だからと言って後輩に貸した本や(二度と戻ってくることはなかった)
たいした本ではないと、自ら処分してしまった本でも、
「そういえばあの本は」と未だに時々思い出すことがある。
どうも本には、怨霊がいるようだ。

24年ぶりにブリューゲル展を見る

2017-04-23 19:10:35 | 音楽 美術
ブリューゲル展のイメージキャラクター 「タラ夫」
足の毛がグロい



ブリューゲル展は24年ぶりだそうだ。
ということは、
前に見たのは24年前のことなのだ。
だけど次の24年後は、もうないかもしれない。
それで今回は、観音様でも拝むようなつもりで出かけた。

最近の美術展は盛況だ。若冲展なんか混みすぎて見る気にもなれなかった。
ダリ展も混んでいた。
特に展覧会の後半になるとますます混む。
今回のブリューゲル展は、小ぶりの版画が主体だ。
バベルの塔だって大して大きくない。
混んでいては、作品を見るより人を見に行くようになってしまう。
それで今回は、夜討ち朝駆けで、朝一番に出かけ、開館40分前に並んだ。
さらに開館したら、まずはバベルの塔の所へ(バベルの塔は展示作品の最後の作品だった)
同じ考えの人は多いようで、朝一でも、けっこう盛況だった。

ブリューゲルの絵には独特の空気感がある。
宮崎駿さんなんかも相当影響を受けているんじゃないかと思う。

場所を替えて東京芸術大学でもバベルの塔のコラボ展をやっている。


バベルの塔の立体模型と、映像模型


入口の特殊カメラで自分の顔を撮るとあなたもバベルの塔の建築労働者になれる。


帰りは谷中霊園から日暮里の駅へ


ここの立ち食いそば屋さんは、安くてうまい。
すっかりファンになってしまった。

北朝鮮危機に思う

2017-04-16 12:56:44 | 日記
北朝鮮が危険だ。
平和ボケと言われる日本だが、今の危機がどれほどのレベルなのか、
軍事的なことは、極秘の部分が多すぎてさっぱりわからない。

言えるのは、現代の有事では、ミサイルが飛び交う非人間的な戦闘となるであろうことだ。
もはや、武勇伝が生まれるような世界ではない。

日本では、戦後70年と言って、戦争のことは、ははるか昔のイメージのようになっているが、世代で言えば、自分から見ればたった一代前、父親世代のことだ。
父親が十五、六歳ごろには、こんな感じだったというイメージの写真があるので、添付しておく。(父の学校の教育理念を解説した本からの抜粋)



軍隊系の学校なので、生徒も命賭がけで学ばなければならない壮絶な環境だったようだ。
ただ、そんな中だからこそ生徒どうしの横のつながりは強固だったようだ。

学校には他のアジア系の生徒もいた。
いつだったか、父の学校の同窓会を中国の東北地方で行ったことがあった。(旧満州)
表向きは、日本帝国主義とののしっている彼らだが、中国人の卒業生達は、中国全土から何人も集まってきたそうだ。
当時すでに引退していただろうが、その中には人民解放軍で閣下と呼ばれたような人達まで含まれていたらしい。

国同士の緊張が高まった時には、個人レベルの人の繋がりがどれだけあるかが大切だ。
今の北朝鮮には、そんな人の繋がりが一つもないのではないかと心配になる。







鶴見川源流の泉

2017-04-15 22:25:17 | 日記
鶴見川の源流は八王子市、町田市、多摩市の市境の丘陵だ。
近くには、大妻女子大もある。


昨年の6月にオートバイで行ってみた。
これが鶴見川源流の泉


この付近まで来ると鶴見川も小川のようだが、少し下ると橋のたもとなどに「鶴見川」という大きな看板が現れる。
この川は、そんじょそこらの小川じゃないよと強調している。



鶴見川は最上流まで行っても、この辺とたいして変わらない丘陵なのだということがわかった。


孤独のグルメが始まった

2017-04-15 20:05:59 | 日記
孤独のグルメが気に入っている
まだ、5,6回しか見たことはないが、なかなかよい。
井之頭五郎こと、重松豊という俳優が、食堂でご飯を食べるだけの話だが、
それ以上でもそれ以下でもない不思議な番組だ。それでもなんだか引き込まれてしまう。

仕事が終り心地よい疲労感の中、気が付けばお腹が空いている。
そんなご飯を食べるのに最高のシチュエーションでドラマは始まる。

今の気持ちでは、こんなのが食べたいな。
五郎は、見知らぬ街でうまそうな店を探し出す。
そして視聴者と同じ目線で店に入る。
どんな店なのか戸惑いながらも、めざとく店の中のこれだと思うメニューを注文する。

作り手である食堂の人と、お客である食べる人との阿吽の呼吸も粋だ。
食に対する愛情が感じられるのもいい。

このごろの安直な旅番組やグルメ番組は退屈だが、
普段から気の利いた店に巡り合いたいなと思っているおじさん達は、一食、一品にいちいち発する、主人公のこだわりの心のつぶやきについつい感情移入してしまう。
出てくる店が、気取った店でないのも魅力だ。

登山と天気図 天気予報

2017-04-09 11:18:48 | 日記
山に行くには、いろいろな知識や技術が必要となる。
登山では、衣食住をそのままコンパクトにして山の中に持ち込まなければならないので、自分なりの工夫や勉強が必要だ。
また相手が自然なので、動植物から地質学、気象学まで、ともすると救急医療の知識だって必要となる。実際、日赤の看護婦さんに三角巾の使い方などの講習を受けたこともあった。そんなことを言っていたらきりがないが、やはり山へ行くには、登山への関心を持ち続けることや、日々の体力や技術の鍛錬が必要となる。

そういう気構えで始めたのが、天気図の作図だった。ラジオの気象通報を天気図に起こす作業だが、昔は登山者必須の技術だった。このごろは、各、山岳地域の天気予報がネットで配信されるようになったので、あまり登山者も関心を持たなくなってしまったようだが、それだけに頼るのでは情けない。

天気図は、天気図を書くだけではなく、自分で天気予報をしてみる必要がある。
そんな所も面白い。
自分は3年間ぐらいほぼ毎日天気図を書いてみた。むろん今はもうしていないが、当時の予報の精度はかなり高かったように思う。

大きな台風が発生すると嬉しくなり、日に2度天気図を書いたりした。
私が天気図を書いていた時の最大の台風は、昭和50年の台風20号で、中心気圧が最大で875ミリバールまで下がった。(当時戦後2番目の低さだった)


当時の天気図を実家から持ってきたが、そんな汚いの早く捨ててねと言われてしまった。
まあ確かに自分が観測したデータでもないので、資料としての価値もないし、なんでも取って置いたらゴミ屋敷になってしまう。
女々しいが、せめてブログにだけでも記録しておくことにした。

昭和の寝台特急 引退する

2017-04-09 09:18:47 | 昔の話
上野-青森間などを走り続けた寝台特急列車「583系」の車両が、8日ラストランを迎えたそうだ。

この列車で忘れられないのは、中学1年生の時に乗った寝台特急「ゆうづる」だ。
旅のことは以前にも書いたが、中学2年生だった兄との二人旅で、しかも冬休みの厳冬期、
旅先の青森県は雪の中だった。中学生としては、ハイレベルな旅であったと思う。

期待と緊張の中、東横線-日比谷線経由で上野駅に着くと、(今と違い上野へ行くだけでも2時間以上かかった)列車に乗ると食事はないだろうから、日比谷線から国鉄への連絡通路にあった大衆食堂でカレーを食べた。そんな細かいところまで覚えている。

上野駅から生まれて初めて寝台特急に乗り込む。寝台特急「ゆうづる」は常磐線経由で青森駅へ向かう。すぐに寝台ベッドに横になるが、やはりすぐには眠れない。列車が福島県の相馬や原町の駅を通過していったのを今でもはっきり覚えている。
青森駅に着いたのは、明け方7時ごろだった。

若いころの山登りや旅をした時の記憶には、対になって思い出される曲がある。
なぜそうなるのか分からないが、きっとパブロフの犬状態なのだろう。
この時の旅は、この年大ヒットしていた「夜明けの停車場」だった。
(「津軽海峡冬景色」の曲はまだなかった。)
それで、今でもこの曲を聴くと当時の青森の旅のことを思い出す。



シリアル食品

2017-04-08 20:09:27 | 日記
昔からコーンフレークなどのシリアル食品は、栄養バランス食品というイメージだった。

オートミールなどは、アメリカでは病人食としてよく使われているそうだが、このごろのシリアル食品は、味の面でもさらに進化を遂げている。

盲導犬のゴールデンレトリバーは、ドックフードだけで生きていると聞いたことがある。
鶏も配合飼料と言ってブレンドした飼料だけで生きて行ける。
人間もシリアル食品だけで生きていけるのだろうか。

弱点は、水分がないと食べづらいことだ。
ただ、保存食として考えれば、災害時に役立つのではないだろうか。

シリアル食品であれば、調理もはぶけるし、もしかしたらけっこう効率のいい行動食になるのかもしれない。

横浜港近くの公園の横浜緋桜の本数を数える

2017-04-02 20:06:09 | 横浜散歩
横浜スタジアム前の横浜緋桜
緑化運動のシンボルツリーとして記念写真のスポットとなっている。

この時期は桜が開花しているのでどこにあるのか分かりやすい。ぐるっと回って横浜緋桜がどのぐらい植えられているのか数えてみた。

元町中華街の駅から山下公園へ向かう。

氷川丸前2本


山下公園から元町への連絡通路へ向かう途中2本


港の見える丘公園の展望台横1本
シンボルツリーのように花壇が配置されている。




元町 堀川沿いに9本




横浜公園 6本 うち1本は早咲き、1本は遅咲き
他プランター仕様(6本)










桜の代表品種の染井吉野は、元は特定の1本の木であったものを接ぎ木で増やしたものだ。(種で増やした木はない)全国どこの染井吉野も同じ原木の枝が延々と生き続けているようなものなので(クローン)まったく同じ性質を持った桜なのだ。本来は、同じ種類の植物であっても個体により微妙な違いがある。横浜緋桜の場合早咲きのものは、中間咲きに比べ色はやや薄め、花びらも若干小さめ、中間咲の方が色も濃く、花びらも大きい、遅咲きは花付きに特徴がある。ところが何れも同じ種類だ。人間で言えば白人と黄色人種の違いのようなものか。



関内桜通り5本


大岡川 都橋橋より野毛坂方面 (都橋付近4本、野毛坂方面3本)




桜木町駅前5本
桜木町西口(プランター仕様6本)


日本丸、ランドマーク前5本


岸根公園へも行ったがまだ開花していなかった。

新横浜駅前公園 ワールドカップ大橋付近24本


浜島橋、さんかくはし間4本


岸根公園から新横浜は歩いて移動した。
新横浜駅はひさしぶりに来たが、昔とすっかり変わっていた。(自転車でも来れる地元民なのに呑気だ)
昔は駅前にも横浜緋桜があったのだが、公園の方へ移動したようだ。



村社会

2017-04-01 20:45:39 | 日記
このごろは、東京の人と沖縄の人が結婚したり、外国の人と結婚したりするのも普通になった。ところが少し前まではそんなことは、ほとんどなかった。

私の祖母は隣村の人だった。曾祖母などは、同じ村の人だった。
大叔母も近所に嫁いでいた。

伯母に聞くといろいろなことが分かってくる。
あそこの家は、大叔母の娘の子が嫁いでいる。
あの家は、曾祖母の姉が嫁いで行った家だ。

今ではまったく交流がないが、その家の人というのは、つまり自分と血の繋がりがあるということだ。近所なのでなんとも不思議に思う。

こんなことが何百年も続いてきたことだろう。
そう考えると古くからの人達というのは、自分と何らかの繋がりがあるのかも知れない。
看板である苗字こそ違うが、中身は同じようなものだ。

話は変わるが、現代では子供の貧困が深刻だ、子供食堂なんていうのも各地で誕生しているそうだ。これからは、子供というのは地域で育てるという考えが大切だろう。
二親だけが、子供を育てるという考えには無理がある。

昔の日本は、このへんのセーフティー機能がはたらいていた
昔の日本は3世代の住む家も多かった。おじさん、おばさんもたくさんいた。
さらにもっと昔は、名づけ親や烏帽子親、なんとか親というのも沢山いた。裏にはその子のことを将来にわたって気にかけてくれるようにという願いがあったのではないかと思う。
よってたかって育てるのが子供なのだと思う。
おせっかいな地域のおじさん、おばさんが増えることを願う。