とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

季節は秋に9月9日

2023-09-09 19:34:39 | 昔の話
今日の朝はわりと涼しかった。
いつもは暑くて目が覚めるのだが、今日は涼しくて目が覚めた。
昼、暑くても季節は確実に変わりつつある。

一番感じるのは日が急に短くなったことだ。
朝の5時でもまだ暗い。
雨が降ると季節の変わり目を感じる。(昨日の千葉や茨城の豪雨はとんでもないが。)

経験上たいてい9月の第二週には空気が入れ替わる。
北アルプスだと、このころに初雪が舞うようになる。
そして10月の体育の日(スポーツの日)の連休に北アルプスへ行くと根雪になるような雪が降りだす。
山小屋も早い所ではその頃に小屋じまいとなる。

昔のことだが、山の紅葉もあらかた終わった10月15日に岳沢小屋へ泊ったことがあった。
この日、北穂高小屋から縦走してきて、前穂高のピークを往復した。前穂からは岳沢小屋への急転直下の下りとなる。この時、前穂の先で追い越した70代ぐらいの老夫婦の登山者がいた。
ご主人さんがだいぶばてていて、追い越しながらもこの先の岳沢小屋までの急峻な下りに耐えられるのか気になっていた。

同じように小屋に着いた他の登山客たちも気にしていたようで、みんなであの二人どうしたかねと気をもんでいた。
というのも、夕方からまとまった雪が降り出していたからだ。

こないねえあの二人。
とうとう外はまっくらになってしまった。
暗闇の中、雪はどんどん積もって、小屋の外がまっ白になっていく。

これはまずい。山小屋のご主人へも年配の登山者二人が下山してこないことは伝えてある。手伝えることがあれば協力すると申し出ていた。

小屋としては警察からの救助要請がなければ動けないという。
(たぶんそれから小屋の人が警察と連絡を取り合ったと思うが)

とうとう小屋番の人が救助へ向かった。
そして、だいぶ夜もふけたころ、無事二人を救助して帰ってきた。
良かった、良かった。二人とも無事であった。

それにしても山小屋の主人は大変だ。
こんな雪の降る夜に、身動きが取れなくなった登山者を回収してくるとは。
しかも北アルプスの困難な登山道である。
さすがとしか言いようがない出来事であった。





栂池高原スキー場とヘリスキー 雪倉岳

2023-02-04 07:09:55 | 昔の話
一般的には、スキーというのはよく整備されたゲレンデを滑りおりる。
それはそれで滑りに集中できて楽しいのだが、何処となくハムスターが檻の中でくるくる回っているようで、今一つやった感がない。
と感じるのは山仲間の人達かもしれない。

ヘリスキーはゲレンデスキーの延長線上にあり、イベント性も高く魅力的だ。
スキー場の上にある別世界へ、ヘリコプターが一気に運んでくれる。
そこから人の手の入らない斜面を滑り降り、さらにいつものゲレンデを一挙に滑り降りてくる究極のゲレンデスキーだ。

今回栂池高原スキー場の上で雪崩遭難事故を起こした所は、そんなヘリスキーのメッカであった。(天狗原直下と思われる)
とは言え1月2月の山では、雪崩や凄まじい降雪でヘリコプターも飛ばない。
純粋に登山目的のパーティーでも躊躇するような酷寒の世界だ。

私が行ったのはゴールデンウイーク。
初めてヘリコプターに乗った。

そして天狗原はもう一つ、雪倉岳へのスキーコース入口の場所でもある。
山スキーの代表的コースだ。
ここから蓮華温泉に向けて一気にスキーで滑り込む。(平岩駅から蓮華温泉への林道は除雪されていないため。)
とは言え華麗な滑りにはならない。荷物が重いので、山スキースタイルの滑りになる。

私なんかはあまり上手ではないので、斜滑降にキックターン。もしくはストックを片手にまとめ、屈伸前傾姿勢で行うストック制動。ストックを雪面に突きさし回転軸にするストックターンなどを多用し、とにかく転ばないように滑り降りる。
それでもスキーは早い。あっという間に蓮華温泉だ。

翌日は雪倉岳を往復する。
荷物は各段に軽くなるが、それでも山頂へは何時間もかかる。
苦労してたどり着いた雪倉岳でも、帰りはあっという間に滑り降りてこれるので、スキーは魔法の板だと実感した。
帰りはまた天狗原へ登り返し栂池スキー場に滑り降りるのである。
このコースは本当にすばらしい山スキーのコースだ。

お供え餅を買いに行く

2022-12-25 19:04:01 | 昔の話
お供え餅を買って来た。
が、昔は自分の家で餅をついていた。
杵や臼でついたのも記憶しているが、それは少量を作る場合だった。
年末にはもっと大量に餅を作っていたので機械を使用していた。
それは、杵や臼以上に仰々しいものだった。

餅米は家の外で蒸した。
火力には簡易ボイラーのようなものを使用していた。それだけでも何が始まるのかと言う感じだった。
正確には思い出せないが、筒状の送風機が付いており、ガソリンか灯油を燃料とした。
設置には手間がかかり、年に一度であったので、段取りも思うようにならないことが多く、毎年父親がイライラして家族に当たり散らしていた。
そんなに不機嫌になるなら餅なんかつかなければいいのにと思ったものだ。

蒸した米は、家の中に運び入れ電動式のもちつき機で餅にする。(家の中と言っても私の家は玄関兼作業場の土間のある12畳ほどの部屋だった。)
モーターは外付けの大きいものを使用していた。餅つき機専用というわけではなく汎用型のものだった。それにベルトを掛けて回転力を餅つき機に伝える方式だった。今の人にはイメージがわかないと思うが、昔、モーターは貴重品で、一台のモーターをいろいろな用途に使用していた。モーターの動力を伝えるのは歯車ではなく、平たい環っか状の長いベルトを使用した。(頑丈だが布製だったのではないかと思う?)モーターの回転軸にベルトを掛け、餅つき機の方は、より円周が大きい動輪になっていた。引っかかりのないベルトを回転させるので、モーターを動かしながら、時折固形の松脂をベルトに押し付け摩擦を大きくしていた。
餅つき機には、蒸した餅米を投入するロート状の部分が上についており、蒸米を入れたら上からすりこ木で突く。すると、らせん状の回転軸の出口から、ちとせあめを大きくしたような餅が押し出されて来た。(イメージはひき肉機と同じ)

出来たての餅は、あんこ、きな粉、大根の辛味餅(海苔を入れる)などで腹いっぱい食べた。
伸餅は、初めのころは浮き粉をひいた板に伸ばしていたが、後に専用のプラスチック製のものが農協から発売された。(浮き粉を使わなくともくっつかなくなった)

お供え餅も沢山作った。(昔は神様仏様が家の中に沢山おられた)

それと特筆すべきは、我が家ではかき餅を沢山作っていたことだ。
細長くのした餅を2、3日放って置き、程よく固くなった所を包丁で切っていく。
よく水気を切るため、家の中でさらに乾燥させ保存食とした。

食べる時は油で揚げ、揚げたてをボウルに入れて醤油をまぶした。
家族みんな大好きで、いくらでも食べられた。
家族だけではなく、家に遊びに来た友人などにふるまうと誰もが絶賛した。
かき餅を目当てに我が家に遊びに来るものがいるほどだった。
それで商売にできないものかと、本気で考えたこともあった。

自分で作った餅は、餅自体が美味しかった。
だからお雑煮なんかもご馳走だった。
今の人はお雑煮なんかあまり食べたくないと言うが、信じられない。
特別な米を使っていたわけでもないが、どうしてあんなに美味しかったのだろう。



あんときの猪木

2022-10-03 23:07:47 | 昔の話
昔はテレビでプロレス中継をやっていた。

四の字固めに、まんじ固め。
コブラツイストなんかもよく友達とじゃれ合った。

日本勢ではジャイアント馬場の他、サンダー杉山、大木金太郎なんていうレスラーを思い出す。
外国人勢では人間風車のビルロビンソン、ボボブラジルなんかが印象にのこっている。

さすがに私は力道山の時代ではないが、
力道山の歌なんていうのも歌っていた。

おーもいだすのはルーテエズ
恐怖の脳天逆落とし
とっさの返し技力道山

少年時代の僕たちに
夢と力を与えてくれた
カーラテチョップに黒タイツ
あーあ僕らの力道山

もう一部分しか思い出せないが。

梅雨時の童謡

2022-06-22 21:29:55 | 昔の話
何時覚えたのかも記憶にないほど昔から知っている歌というのがある。
ソウルフードならぬソウルミュージックだ。

そこで、私が梅雨時に聴きたい名曲3選

あめふり
北原白秋作詞・中山晋平作曲/
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン

この曲は誰でも思い浮かぶだろうが、私にはもう一曲、頭の中でくり返し、リプレーする曲がある。

雨が雨が降っている
聞いてごらんよ音がする
ピチピチ パシャパシャ
音がする
ほーら お池に降っている
 金魚はどうしているかしら

「雨」杉山米子作詞 小松耕輔作曲

特に「金魚はどうしているかしら」のフレーズがふとした時、勝手に頭の中で流れる。

そしてもう一曲は

雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
 一人でからかさ さしてゆく

野口雨情 中山晋平

原点回帰というのか
沁みるねえ

シン・ウルトラマン(見てきました)

2022-06-18 19:42:35 | 昔の話


映画の初めの方で、ウルトラQの回想シーンがある。
我々世代は、まずウルトラQで衝撃的なインパクトを受けた。
当時は白黒テレビで、
白黒の方が空想を掻き立てられる要素が多い。

ケムール人、ペギラ、ガラモン、マンモスフラワー、録画もしていないのに、何処かのシーンがいまだに頭の中に残っている。それくらい小さい子には衝撃的なものだった。(物語的にはウルトラマン以上だった。)
曲もミステリアスな雰囲気を高めた。
石坂浩二のナレーションもすばらしい効果だった。

その後に登場したウルトラマンは、明るく威風堂々としていて、安心して見られるテレビドラマだった。
シュワッチ、ぴーこんぴーこん、ウルトラマンが発する音もみなでまねた。

シン・ウルトラマンでは、今の技術で作るとこうなる、と教えてくれた。
ビフォー、アフター的な要素もあり、それはそれで面白い。
キャラクターも進化形のデザインだ。

物語的には抑揚のない感じになってしまったのが残念だ。
細かい心理描写が難しいようなら、シンプルな構成でラストまで盛り上げて行く手法で良かった気がする。欲張りに怪獣や宇宙人を沢山登場させたからそうなってしまったのかも知れないが、人物描写はセリフが多すぎて個性が見いだせなかった。

S先生の版画をネットで見る

2022-02-23 21:48:12 | 昔の話
S先生は小学校の時に習った先生。
6年生の時に習ったわけではないので、卒業してからはお会いする機会がない。
若くてハンサムで教育熱心。
大変人気な先生だった。

先生は版画という、少し珍しい趣味を持っていた。
近所の風景、擬人化した動物、木の葉をモチーフにした版画などを好んで彫っていた。

最近、先生の名前を検索すると、ヒットすることを知った。
先生の作品がネットで見られるのでオオと思い、たまにみている。

版画の絵本を出版されたこともあったようだ。
個展も開かれているようだ。
SNSで去年のコメントもあるので、今もお元気なようだ。

その先生に憧れたかは知らないが、同級生で小学校の先生になった者がいる。
それで昔、先生たちの研究会でS先生とお会いする機会があったと言っていた。
先生は各校の校長先生を歴任され、最後は国立大付属の小学校の校長先生や
大学の非常勤講師のようなこともされていたようだ。

ネットで見られる版画には、動物をモチーフにしたものがある。
その動物の表情を見ているとS先生を感じる。
いっそう懐かしい。


横浜の初霜11月25日

2021-11-25 19:59:30 | 昔の話
今日は初霜。
いつもより一週間ぐらい遅いかな。


小さいころは、ろくに暖房もなかったなあと思い出す。
コタツすらなかったように思う。

私はごく小さい頃、手にあかぎれをこさえていて、手を洗うのを嫌がった。
擦れて痛いし、しみるからだ。
それで不衛生になり、よけいにあかぎれがひどくなったことを覚えている。

今の子は知らないが、私らのころの小学生の男の子は真冬でもみな半ズボンだった。
どういうわけかそういうお約束だった。

教室には石炭をくべたダルマストーブがあった。
石炭係の当番の子がいて、朝、口の広い石炭用のバケツと着火剤を取りに行った。
エアコンではないので、ストーブ近くの子は照り返す熱で顔を真っ赤にしていた。
そんなことがあったものだと、はるか昔を思い出す。


静岡の親類にお茶をもらう

2021-05-16 21:56:50 | 昔の話
毎年静岡の友人兼親類が自家製のお茶を送ってくれる。
たいへんありがたい。

昔は毎年ゴールデンウイークの頃に一家総出で茶摘みをしていたが、今ではさすがに機械で刈っているそうだ。最近お茶の価格の低迷でお茶農家の経営も思わしくないとのことだが、昨年はとうとう鹿児島県に生産高でも抜かれてしまい、茶どころ静岡のブランドまで怪しくなってきているようだ。

そこで、さっき礼の電話をした。
ついでに山の話もした。
今年の春は奥さんと二人で八ヶ岳へ行ってきたそうだ。
3月に根子岳、ゴールデンウイークには、硫黄岳へ登って来たとのことだ。

今年のゴールデンウイークは荒れていた。
だいじょうぶだったのか。

やはり吹雪だったそうだ。
ピッケル、アイゼンの冬山フル装備を持って行ったとのことだが、奥さんもよく付いていったものだ。
ここだけの話だが、去年奥さんは、北八ヶ岳の横岳付近でころび、拍子に手の骨を折るアクシデントを起こしている。
それでもこりずに雪の八ヶ岳へ出かけるのだからたいしたものだ。

なにしろこの二人、新婚旅行はスイスアルプスのオートルートのスキーツアーだった。

ある年、私は後輩達を引き連れて平ヶ岳、至仏山へ山スキー登山に出かけたことがあった。
鳩待峠に着くと、後輩が驚いたような声で言った。
「すごい雪洞がありますよ。」穴を覗き込むと、いったい何人泊まったのか、洞窟のような大きな雪穴だった。
この時はまだ知らなかったのだが、
オートルートの山岳スキーツアーに参加するのに、事前に雪山トレーニングがあったそうで、参加者全員で至仏山に登るスキーツアーを行ったとのこと。数日違いのニアミスであった。

後に奥さんに聞いたのだが、「そうなのよ。冬山なんて登ったこともないのに雪の中で寝かされて。」「寒くて寝れたものじゃなかったわ。」

と、なんだかんだで若い時から鍛えられている奥さんなので、ズブの素人というわけでもないのだった。

昭和30年代横浜の田舎の生活

2020-10-17 11:05:23 | 昔の話

私の記憶に残るのは昭和30年代後半ぐらいからなので、それほど昔の話ではない。
大都市の感がある横浜だが、昔から多くの人が住んでいたわけではない。統計によれば明治時代は10万人そこそこの人口で、昭和に入り50万人を越え、昭和30年代でようやく100万都市の時代となる。今では370万人ぐらいの人が暮らすようだが、急速に都市化が進んだ都市なので、昭和30年代でも特定の地域を除けばド田舎であった。

<私の家>
私の家の30年代と言えば、前にも書いたが、食事の煮炊きには、まだかまどを使っていた。それでも私の家は良かった方で、レンガ造りで煙突もあるモダンなかまどだった。部屋の中には薪置き場もあり、北側には風呂場(トトロに出てくるような風呂)もあった、かなり広いスペースの台所だったが、どうも後から建てた専用の建物だったようだ。

水道はなく、井戸水をポンプで汲み上げていた。
電気はあったが、主に照明に使うぐらいで家電製品も少なかった。
近所にはまだ茅葺屋根の家も多く存在していた。
当然ゴミ収集車なんて来ないから。ゴミはすべて自宅で処理していた。もっとも、家でも燃やせるもの、穴に埋めて土に返すものぐらいしかなかったと思う。汚い話だが人間の排泄物でさえ肥溜めに運んで肥料としていたのだから、ほとんど無駄なものはなかった。

<道>
今のようにまっすぐな道ではなかった。感じとしては、初めに家在りきで、その後家々の玄関先を通る道を作ったという感じだった。むろん舗装道路ではなく、雨の日には、わだちに水がたまり、車一台がようやく通れるような狭い道だった。

<近所のお店>
それでも近所にストアーがあった(今ではセブンイレブンになっている)
当時の食品は現在とだいぶ違っていた。

納豆
わらで包んだ納豆しかなかった。

豆腐
大きな水槽に入っていて、買う時には「絹どうふ一丁ください」と店の人にお願いする。その都度店の人が水槽から豆腐をすくい上げ青色のビニール容器にいれてくれた。

もやし
もやしも木の樽にドバと入っていて、注文するとその都度取り分け渡してくれた。(いずれの樽も井戸水を流しっぱなしにしていた。)

鰹節
今のような削り節はなかった。鰹節をカンナで削るのは大変だったが、美味しかった。親は仕事で忙しかったので、小学生のころよく自分で鰹節をかいておにぎりを作って食べていた。

海苔
今は焼き海苔が当たり前だが、そのころ焼き海苔なんてなかった。
海苔はあぶって焼いて食べるものだった。
私の家で食べる海苔は大森のおばさんと言って、大田区の大森で海苔の養殖をしていたおばさんがいて、お歳暮には決まってその海苔を送て来た。私の記憶する海苔が東京湾産のものであったかは不明だが、たいへん厚手で今ではまずお目にかかれないような天日干しの海苔だった。

9.11

2020-09-12 22:07:05 | 昔の話
若いころの話である。
ある時、ニューヨークで仕事をしていたS先輩が日本に帰国した。
当時外国で仕事をする先輩はまだめずらしかったし、
Sさんが、英語が得意だったということもしらなかった。
そこで、飲み会の席で、ニューヨークでなんの仕事をしているのか聞いてみたことがあった。
Sさんが言うには、仕事というのは、保険の売買だとの話だった。
保険契約が売買されていることなど私は知らなかったので新鮮だった。
なんの保険なんですかと聞くと、ジャンボジェット機なんかに掛
けられている保険だとのことだった。

それから時が流がれて、ある日会社から帰ってくると、ニューヨークで飛行機が高層ビルにぶつかったというニュースが飛び込んできた。
状況がわからぬままにNHKの中継が流れた。
アナウンサーが現地の画像を映しながら現在の様子を説明している中で、ライブで2機目がビルに突っ込んでいった。にわかには信じがたい光景だった。
それが9.11同時多発テロ事件であった。

それからしばらくして、日本のT損保が倒産してしまった。
当時T損保の倒産は突然死と言われた。
その時私は、あの先輩の話を思い出していた。
ジャンボ機の保険のせいだったのである。




旧日本陸軍 迫撃砲の薬莢

2020-08-15 17:08:51 | 昔の話


長さ15.5C
底辺直径8C
底辺部の穴(発射用の火薬が入っていた所か)
奥行き8C
羽の長さ4.5C
迫撃砲の種類は不明



祖父は陸軍の歩兵部隊に所属していたので、演習で使用した薬莢を家に持ち帰ったものかと思う。迫撃砲は歩兵が使用した兵器であった。
同じものがどこかの博物館に展示されていたのを見たことがあるが、どこであったか忘れてしまった。
他にも小銃の薬莢がたくさんあった。(真鍮製)

一応、家の者が何だか分からないといけないので書いておく。

昭和の寝台特急 引退する

2017-04-09 09:18:47 | 昔の話
上野-青森間などを走り続けた寝台特急列車「583系」の車両が、8日ラストランを迎えたそうだ。

この列車で忘れられないのは、中学1年生の時に乗った寝台特急「ゆうづる」だ。
旅のことは以前にも書いたが、中学2年生だった兄との二人旅で、しかも冬休みの厳冬期、
旅先の青森県は雪の中だった。中学生としては、ハイレベルな旅であったと思う。

期待と緊張の中、東横線-日比谷線経由で上野駅に着くと、(今と違い上野へ行くだけでも2時間以上かかった)列車に乗ると食事はないだろうから、日比谷線から国鉄への連絡通路にあった大衆食堂でカレーを食べた。そんな細かいところまで覚えている。

上野駅から生まれて初めて寝台特急に乗り込む。寝台特急「ゆうづる」は常磐線経由で青森駅へ向かう。すぐに寝台ベッドに横になるが、やはりすぐには眠れない。列車が福島県の相馬や原町の駅を通過していったのを今でもはっきり覚えている。
青森駅に着いたのは、明け方7時ごろだった。

若いころの山登りや旅をした時の記憶には、対になって思い出される曲がある。
なぜそうなるのか分からないが、きっとパブロフの犬状態なのだろう。
この時の旅は、この年大ヒットしていた「夜明けの停車場」だった。
(「津軽海峡冬景色」の曲はまだなかった。)
それで、今でもこの曲を聴くと当時の青森の旅のことを思い出す。



米寿の祝い

2016-09-11 17:10:03 | 昔の話
伯母の米寿の祝いの会へ行った。
若いのから年寄りまで、似たような顔が沢山集まっているのは不思議な光景だ。

伯母と話すと、
田舎の農家で、よくみんなを学校へ上げてくれたものだという話になった。
伯母たちが学校へ通ったのは、戦中、戦後の日本が最も苦しい時代だ。
「あんたのお母さんも6年間も通ったんだからねえ」
「え、6年間」

母は女学校へ入学したが、途中から学制改革で現在の6、3、3制となったので、同じ学校へ6年間通うことになったのだ。

6年間同じ学校というのはすごいな。
そういえば母はバレーボール部と合唱部に入っていたと言っていたが、2つもクラブに入っていたというのがなんとなく腑に落ちなかった。
今になってようやくわかったのだが、6年間で、2つのクラブということだったのだ。

特に合唱部は、全国大会で優勝するほどのクラブであったので、
日比谷公会堂でも歌ったことがあったと言っていた。

「あんたのお母さんの合唱部のユニホームは、私が縫ったのよ」
「いろんな所へ応援に行ったものだわ」
へーそうなんだ。
久しぶりに母の話を聞いた。

東横線の青ガエル電車が九州の熊本電鉄で現役引退となる

2016-02-14 17:07:05 | 昔の話
東横線を走っていた青ガエル電車が、
今日、熊本の熊本電鉄で、とうとう本当に引退となったそうだ。

まだ走っているとは知らなかった。

私が、生まれて初めて乗った電車が、おそらくこの青ガエルだと思う。
それくらい古い。

昔の本を探し出したら、こんなのがあった。


小学校で使った副教材だ。
新幹線の下を走っているのが青ガエル

青ガエルがこれまでの港北区の象徴で、
新幹線が未来にはばたくこれからの港北区の象徴なのだろう。

当時の港北区の地図は、こちら(昭和42年当時は、緑区も、青葉区も、都筑区も、まだない)


本の前書きで、当時の港北区の人口が20万人を超えたことを誇っている。
まだまだのどかなものだ。

というように、私にとって東横線のアオガエル電車は特別なものだっだ。(ミドリムシとも言っていた)