とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

昭和の子供向け雑誌

2021-12-25 19:50:01 | 独り言
学研の科学と学習が好きだった。
私は、地元の小学校を通して定期購読していた。
付録のクオリティが高いことで、最近も話題になっていたようだが、休刊になってしまったようだ。
私のころのことだが、付録に鉱物のサンプル一覧が付いてきたことがあった。
天然ゴムなど、鉱物でないものもあったと思うが、ボーキサイトなど普段おめにかかれないようなものも入っていた。

その時の鉱物のサンプルに入っていた石。
宝石っぽいものだったので、これだけ今でもしまってある。


園山俊二さんの漫画も連載されていた。
今では有名になった「ギャートルズ」も「はじめ人間ゴン」として連載されていた。
その後「うみがめ先生」の連載が始まったのだが、
覚えているストーリーで、島の漁師達が、嵐の夜に燈台が壊れて港に帰れなくなってしまうというものがあった。
うみがめ先生は、躊躇なく自宅に火を放ち、漁師たちのため灯台代わりの灯りとした。
うみがめ先生のおかげで方角が分かり、漁船は無事に港へ帰ることが出来た。
実にヒューマニズムにあふれた豪快なストーリーだった。
(なにしろ50年以上前のことなのでザックリとしか覚えていないが。)
物に執着しないさまは、後のさすらいのギャンブラーに通じるものがあると思う。
この号を読んだあたりでなぜか雑誌が受け取れなくなってしまった。

他にはこどもの光という雑誌もあったがこれも短い期間だった。
こどもの光は家の光と対で定期購読していた。(農協系雑誌)

バッハ・コレギウム・ジャパンのメサイアのコンサートへ行く

2021-12-25 06:52:27 | 音楽 美術
バッハ・コレギウム・ジャパンのクリスマスコンサートへ行く。
今年はレイチェルさんら海外アーティストの参加が予定されていたが、入国規制で参加できないこととなってしまった。
ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団のニューイヤーコンサートは2年続けて中止だ。
恐るべしコロナ。

バッハ・コレギウム・ジャパンのメサイアコンサートは21回目だそうだ。
今年のパンフにはその歴史が記されていた。

メサイヤにもいくつかの演奏バージョンがあり、年度によってパターンを変え演奏してきた歴史があるらしい。最近では「ソリスト4人の稿」を7年連続で演奏されている。
バッハ・コレギウム・ジャパンとしては、このバージョンの演奏を定番化したようだ。

それぞれのバージョンの演奏年度

ダブリン初演版(1742年)2002年
ロンドン初演版(1743年)2008年、2012年
ソリスト4人の稿(1753年)2000年、2005年、2007年、2010年、2011年、2013年、2015年~2021年
孤児養育院版(1754年)2004年、2009年、2014年
モーツアルト編曲版K.572(ドイツ語)(1789年)2003年、2006年

演奏が終わると万雷の拍手で、いかにこの演奏会にはコアなファンが多いかがわかる。(私も4回目ぐらいだ。)
アンコールの讃美歌は、日本語の歌詞もついている有名な曲だったが、題名を忘れてしまった。


晩秋の横浜散歩

2021-12-19 18:37:23 | 横浜散歩

三ッ沢上町駅から歩き始める
豊顕寺(ぶげんじ)へ寄る
かつての横浜のご領主様であった多米家のお墓へお参り。


続いて、翠嵐高校へ行ってみる。

翠嵐高校の前身は旧制中学で、二中と呼ばれていた。
なにしろ昔のこと、私の住んでいる横浜北部の小学生が旧制中学に進学するとなると
この二中へ行くことが多かったようだ。
それで私の叔父や父親はここまで通っていた。
昔はバスもなかっただろうから、家から駅まで歩き、さらに横浜の駅から中学までも20分ぐらい歩くことになる。通学だけで一日10キロ以上歩いていたことになる。
昔の人が、足腰が丈夫なのは道理だ。

それにしても伝統ある名門校の割には校舎がオンボロだ。

最近の小学校の方がよほどおしゃれで綺麗だ。
神奈川県の文教予算はそうとう厳しいのだろう。

続いて元町、港の見える丘公園へ行く。
米軍機墜落事故で亡くなられた親子三人の像

1977年、私の家からほど近い荏田に米軍機が墜落した。神奈川県も沖縄と同様米軍基地が多い。特にこの事故は、私の家に墜落していても何ら不思議ではないほどの身近さだった。

晩秋の花壇は派手さないが、風情がある。

山下公園


とうとう横浜市役所が取り壊しとなる。



有隣堂へ寄って本を買う。



短いわらべうた

2021-12-19 06:09:08 | 独り言
おーさむこさむ
山から小僧がとんできた
なーんと言ってとんできた
寒いと言ってとんできた

今日はやけに冷えるなと思いながら
ふとんの中で、ふと、このうたを思い出した

ところがこの短いフレーズ以外思い出せない
ほんとうにあった歌なのか、
「あーららこらら、いーけないんだいけないんだ、せーんせにいってやろ」と同じで、仲間内で歌っていただけだったのか
なんだか自信がなくなりネットで調べてみた。

でてきた、でてきた。
やはりまぼろしではなかった。
だけど歌詞が少しちがっていた。(曲も微妙にちがう)
「山から小僧が泣いてきた」?

ええそうなの
なっとくできない私は、ほかのもクリックしてみたら
あったあった「山から小僧がとんできた」もあった。
ほっとした。


50年後の日大闘争

2021-12-12 20:45:59 | 主張 感想
象徴的な学生運動であった日大闘争
大学の不正経理を正すために立ち上がった学生運動は、全理事が退陣するというところまで追い込んだのだが、突然約束は覆された。
当時私はまだ小学生だったのだが、私たちの担任のW先生は、よほど理不尽に思ったのか、児童に向かってN大は大学じゃないと怒りをあらわにしていた。

それから50有余年、その間も旧態依然の大学経営のままであったようだ。
ようやく大学の体質が改善されそうな気配だが、結局内側からの改善は出来ずじまいで、本来はあってはならない国家権力による変革になってしまったのは、なんとも嘆かわしいかぎりだ。

とは言え、日大の社会への影響力は計り知れない。
かく言う私の親族にも日大出身者は数多くいる。あまりネガティブなことは言いたくないが、これを期に本当に日本を代表する大学になってもらいたいものだ。

私が大学生のころは、まだ学生運動の余波が辛うじて残っていた。
それで当時次のような本も読んで大学自治の重要性を感じていた。
今の学生のみなさんも他人事とせず、一度向き合ってみたほうがよいと思う。

  


安土城へ行く

2021-12-11 22:19:24 | 旅行
前に安土城へ来たのは1970年。
学校を休んで大阪万博へ行った。ついでに彦根城、安土城、伊賀上野城、伏見城、大阪城、姫路城を巡った。父親の運転するトヨタハイエースの荷台に寝泊まりするキャンピングツアーだった。

安土城は特に観光化もされていないころで、どこをどう歩いたのかあまり覚えていない。が、石垣だけは印象に残っている。

駅前にレンタサイクル店がある。(レンタサイクルはこの辺りの観光にとても有効だと思う。次回晴れていたら湖東三山へ行くのに使いたい)手荷物も預けられるがそのまま歩きだす。


おお、これは信長公のご降臨か

セミナリオ跡

明治時代の地図 安土城は湖畔の城だった。





本丸


摠見寺(そうけんじ)の三重塔

長命寺山を望む(真ん中の三角形の山)

近江八幡の街方面

帰りは活津彦根神社経由で駅へ向かう。
活津彦根神社の鳥居 家の敷地に食い込んでいる。

電車の時間調整で、鮒ずしのお土産を本にごろ鮒専門 飯魚へ買いに行く。

石山寺 三井寺 五箇荘 12月7日

2021-12-11 18:08:46 | 旅行
通勤、通学客に混じり石山駅へ。
朝だからかも知れないが、お寺関係者以外だれもいない。
本堂に一人。
燈明を上げる。

紫式部像


続いて三井寺へ
やはり小雨まじりの中、お堂を巡る。
観音堂で線香と燈明を上げる。


自分も歳のせいか、祖先の供養の気持ちのせいか、神様仏様よろしう、という感じで線香を上げる。

三井寺は大寺なのでこんなに観光客の少ないことはめずらしいだろう。




午後からは五個荘へ
近江八幡から近いのに、近江鉄道でいくと不便だ。
八日市でだいぶ待つと思ったらバス路線があることがわかった。(能登川駅-八日市駅)
電車よりバスの方が直接観光地区に到着できる。

五個荘駅はひどくローカル
駅から方向だけ確認して歩き始める。
意外と距離がある。
藤井彦四郎邸(近江商人屋敷)へ

近江商人の旅姿。


昔のことなので車があるはけでもなし、たいした荷物はもてなかったろう。
これは各地に商談におもむく時の姿なのか?
せいぜいサンプル商品ぐらいしか持ち歩けなかったろう。


外村繁邸


堀の鯉をねらっているのかサギが物欲しそうにのぞき込む。


五個荘は安土から観音寺山を越した反対側に街が広がる。


近江八幡を歩く

2021-12-11 11:31:34 | 旅行

長命寺からひたすら歩く。
大嶋神社 奥津嶋神社へ行く。
神社の碑文は桂太郎の書だそうだ。

格式の高い神社のようだが、地味な場所にある。
昔はこの神社の前まで琵琶湖が入り込んでいたのかもしれない。
そうなれば湖畔の神社となり重みがかなり増す。

西の湖の方へ周りこむように歩くと蕪畑があった。

いわゆる千枚漬けなどに使う関東にはない大きな蕪だ。
(聖護院蕪か)

そして圧倒的なヨシ原が広がる。
(湖畔には、琵琶湖よし笛ロードというサイクリング道がある)

西の湖畔から安土城を見る


近江八幡の中心部へ向かうと一通り歩いてみた。




近江兄弟社のメンターム。
私の家ではメンタムと呼んで万能薬にしていた。


紙平老舗さんで、近江商人のソウルフードであるでっち羊羹とういろうを土産に買う。

ういろうと言えば名古屋だが、近江にもある。(小田原のういろうは薬)近江は名古屋と同じように羊羹風な和菓子。名古屋よりいくぶんかためか?
ういろうざワールドの世界(スティーヴィーワンダーも歌っていた?)

鯖寿司は夕飯用に日牟禮八幡宮前の店で購入。


本当は焼き鯖寿司の方が名物のようだが、その方は帰りがけに米原の駅で購入した。

このままホテルへ歩いて帰る。
近江の人は南天がお好きなようだ。多くの家の玄関先で南天の赤い実が揺れていた。

(今回の旅行では駅前のコンフォートイン近江八幡をベースキャンプとした。)

近江八幡から長命寺へ行く 12月6日

2021-12-11 09:56:45 | 旅行
琵琶湖周航の歌
四国十番長命寺 汚れの現世遠くさり
作詞をした学生も、作曲をした学生も二十代半ばの若さで亡くなっているようだ。
それはたまたまのことであろうが、哀切極まりない曲調のこの歌は、多くの学生に歌い継がれ、愛されている。

長命寺へは、近江八幡駅からバスで向かう。
平日、しかも通勤時間なので観光客は私一人。
あとは、仕事場へ向かう人や学生さんばかりだ。
途中、バス停で乗客が降りると「おおきに、ありがと。」「おおきに、ありがと。」と運転手さんが一人ひとりに声をかける。
なるほど近江商人の街だと、ささいなことで感動する。

天候は小雨、それでも山々の谷から霧が立ち昇る様子は、日本画のようで美しい。
けっきょく終点の長命寺まで乗っていたのは私だけだった。

バス停は琵琶湖畔の船着き場の前。
ここから、参道の石段を登る。


階段を登りきると左右に長命寺の伽藍が広がっていた。


寺には霧がかかり、いっそう霊験あらたかなお寺に感じる。
本堂に線香とお燈明を上げると一人境内を散策する。


水墨画のような陰影の景色に紅葉が鮮やかにアクセントを与える。


修多羅岩 
長命寺にも巨石信仰があるようだ。


寺の下の駐車場脇からの登山道を長命寺山まで行ってみる。

ヒサカキの木が多く目についた。
  
 
下山すると再び本堂に線香とお燈明を上げ、気を正す。

名刹にふさわしい寺院であった。



石田三成の居城、佐和山城へ行く

2021-12-10 23:05:37 | 旅行

近年、近江商人の格言、「売り手よし、買い手よし、世間よし」が脚光を浴びている。
伊藤忠商事など、多くの企業がこの三方よしを社是として掲げているらしい。

ところで、この先進的で色あせない近江商人の経営哲学のルーツは、
大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)「一人が万人のため、万人が一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になる」を旗印にした石田三成にあるのではないかと個人的には思っている。
三成の時代から、近江の人々には、このような人生観が備わっていいたのではないか。

三成公は合戦では後方の兵站や情報戦を担当することが多かったようだ。華々しさはないものの、秀吉の物量作戦を成功させたのは三成の働きあってのことだ。
どことなく商人的な活躍だ。
近年三成公を再評価する動きがあるのは喜ばしい。

佐和山城へは、彦根城見学の後、向かう。
清涼寺、龍潭寺を通り過ぎると正面左手の奥の宇賀神社の横から「東山ハイキングコース」という登山道がある。(龍潭寺からも登れる道がある。)




尾根筋を歩くと佐和山城の曲輪が現れる。


今でも落城した城の瓦が出てくるようだ。


本丸からの眺望


琵琶湖方面


伊吹山


彦根城

石垣はこのぐらいしか残っていないようだ。
あとは全部彦根城へ運ばれたものか。

佐和山城を北から南へ尾根筋のハイキングコースを歩いてみた。

近江路 湖東を行く 彦根城 12月5日

2021-12-09 20:23:48 | 旅行
彦根城へ乗り込む。

天守閣内部の梁、柱。

お城なので武骨だが、このぶっとい梁や柱を、
よく人力で組んだものだ。



みごとな石垣だが、向いの佐和山城の石垣を拝借した部分も多いそうだ。




佐和山城


玄宮楽々園から天守

井伊直弼像

横浜の掃部山公園にも同じような直弼像がある。

今回は彦根城を振り出しに、安土、近江八幡、長命寺、五箇荘、石山寺、三井寺を巡った。