とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

ヤモリ クラブ

2020-08-30 09:22:23 | 日記
泥棒だけでなく、すきあらば、家の中に入いり込もうと狙っている生き物達がいる。
ゴキブリは普通だろうが、私の家では他にアシタカグモやハエトリグモなどのクモ類、梅雨時などには、ムカデやダンゴムシなんかもやってくる。
いったい何処から入ってくるのか。こんニャロメと思う。

中でも頻繁に入り込み、よく目立つのがアシタカグモだ。
大きな長い脚を使って走り回る様はオーバーリアクション気味で、不気味な形状とあいまって娘の天敵だ。
対策として、家の周りに草が茂らないよう気を付けたり、蟻やムカデ用の薬剤を散布しておいたりするのだが、それでもどこからかやってくる。
さっき一匹捕まえて外に放り出した。
放り出してから玄関横を見ると、私の目線から逃げていく者がいる。


オー~ヤモリさん。
いかんいかん。こんなのが娘に見つかったら大騒ぎになる。


「いいい子だから、外で遊んでいなさい」と外へ放り投げる。
どうも困ったことに、家の中に食物連鎖が出来上がっているようだ。

こおろぎの鳴く夜

2020-08-23 21:51:41 | 日記
昨日の雷雨は、干からびた植物を蘇らせた。

夜には、こおろぎが鳴くようになった。
まだ少ない数だが、
澄んだ音色は秋を感じさせる。

そういえば蝉の鳴声もだいぶ良くなった。
夜の無駄鳴きも無くなった。

夏の日照りに、久々の雷雨。
めぐみの雨だった。

上鶴間の青柳寺に田中冬二の詩碑を見に行く

2020-08-22 15:52:19 | 本、作家






青柳寺(せいりゅうじ)は町田駅近くにある大きなお寺だ。


句碑が立ち並ぶ詩歌好きなお寺である。
詩人の田中冬二の菩提寺で、寺内に詩碑もある。




この詩は、冬二の第一詩集「青い夜道」の中の「明るい雨」の章、一つ目の詩である。
冬二の命日は4月9日なのでこの詩が選ばれたのだろうか。

この猫ちゃんの意味はなんだろう。




詩碑の横にある坂道を登ると冬二のお墓がある。墓碑の文字は草野心平によるものだ。



すっきりした和モダンな墓石は冬二さんらしい。
なんだか「サングラスの蕪村」の詩集のような感覚のお墓だ。

お寺のご住職が俳句好きだったようで、生前からご縁があったようだ。

田中冬二全集を読むとこのお寺で詠んだ句が載っている。

白足袋の若き和尚や花あせび
露霜の縁に牛乳壜おきゆきぬ

武相困民党発祥の地の碑もある。



お寺として、とても雰囲気がよい。
隣りにマンションが迫ってきているが、ここは別空間だ。

御岳山から日の出山、日向和田へ

2020-08-21 09:32:18 | 山行
ケーブルカーを降りると右手側から進み、レンゲショウマの群落へ(うのしょうまの親類に非ず)




御岳山の山頂は歴史ある宿坊が立ち並ぶ。
昔は小学校まであった。
まるで神社の高野山みたいなところだ。
その宿坊の一つに小学6年生の時に泊ったことがある。

たぶんここだったと思うのだが、あまり自信がない。


多摩川で川遊びをして、夜は宿坊から細い道を登り小学校の校庭を借りて花火をした。
どうもクラスの有志で行った行事であったようだ。それで、児童のおかあさん方も参加していて、唯一参加していた同級生のお父さんは、宿坊の大広間でマンドリンの演奏を披露した。
部屋は一つの大広間であったと思う。

花火をした小学校がどこの場所であったのか、御岳山を通るたび気になっていた。
今回、はっきり確認出来た。
ビジターセンターの隣りであった。



付近には立派な宿坊が立ち並ぶ。

丸山荘


東馬場
(馬場家御師住宅)







嶺雲荘


御岳山荘


そして御岳神社


畠山重忠公の像


宝物館は土日のみの開館だそうだ。

劇画風なおいぬ様


奥之院はいっそう霊験あらたかな雰囲気がある。




参道には講の奉納記念碑が立ち並ぶ
近所の住所のものも多い

農協系が多いと思ったら、農家に特別なご利益があるそうだ。


日の出山の山頂には、萩やわれもこう、やまゆり、つりがねにんじんなど、趣のある植生が見られる。意図的に増やしたものなのだろうか。
日の出山からの御岳神社


この景色が奥多摩らしい。





琴平神社から日向和田の駅へ

御岳山は、歳をとったら人生最後の登山の砦となるかもしれない。
宿坊文化もすばらしい。
家族で、一族で利用するというのも魅力がありそうだ。


藤沢市村岡 二伝寺 村岡城址 坂東平氏平良文流旧跡を歩く

2020-08-18 21:38:16 | 神奈川散歩


坂東平氏は高望王が平氏の姓を賜り、関東に赴任したのが始まりとされる。
坂東下向の際には、息子達やその家臣団も随行したので、関東移民団団長のような存在だった。息子世代までは、京で暮らしていた都会者ということになる。

長男の国香の息子は、将門を打った平貞盛で、子孫の一部は、後に京に返り咲いた。
栄華のピークが平清盛だ。
一方、国香の年下の兄弟であった平良文は、兄たちに遅れて関東にやってきた。
その子孫達は後に関東の一大勢力となる。
千葉氏、三浦氏、畠山氏、長尾氏、梶原氏、秩父氏、鎌倉氏、などだ。
関東においては、良文が大樹の家系となる。

鎮守府将軍も務めた名門の為、地元民は何かと因縁を付け、祖先にしてしまったのではないかと思う。私の姓もその枝葉に当たる。
はじめに鎌倉の北西(藤沢市村岡)に住んだので村岡良文(村岡五郎)とも言う。(埼玉の村岡が本拠だとの説も有力だが、いろいろ引っ越しをしているようだ)
平将門とも仲が良かったそうで、将門が打たれるとその息子をかくまい、身が立つようにめんどうを見てやるなど男気がある人物だったようだ。

若いころは、紅顔の美少年(優しい面立ち)であったそうで、源宛との一騎打ちの説話(今昔物語)なども伝わり、武勇に優れていたとされる。

一応高祖と伝わる人物なので、このくそ暑いのに藤沢市村岡の村岡城などを巡ってみた。




城址の碑文は東郷平八郎の書
やはりご先祖は平良文流秩父氏だそうだ。ということは、東郷平八郎と私は縁があるということになる。ばかばかしいような話だが、素朴に面白い。
一族が増えた要因というのは、こういう所にあるのだろう。








旧日本陸軍 迫撃砲の薬莢

2020-08-15 17:08:51 | 昔の話


長さ15.5C
底辺直径8C
底辺部の穴(発射用の火薬が入っていた所か)
奥行き8C
羽の長さ4.5C
迫撃砲の種類は不明



祖父は陸軍の歩兵部隊に所属していたので、演習で使用した薬莢を家に持ち帰ったものかと思う。迫撃砲は歩兵が使用した兵器であった。
同じものがどこかの博物館に展示されていたのを見たことがあるが、どこであったか忘れてしまった。
他にも小銃の薬莢がたくさんあった。(真鍮製)

一応、家の者が何だか分からないといけないので書いておく。

アオゲラが庭に来た

2020-08-15 06:57:57 | 庭、花木、畑、ガーデニング
暁のころ、日の出前のひとときは小鳥の声がさわやかだ。
朝の澄んだ空気に響く。(日が出ると蝉の鳴き声がやかましくなる)
小鳥の独唱。
いいのどを聴かせてくれた。

ところがそれに、今日は別の音が加わった。
ココココ、コ、ココココ、コ、柿の木を打つ小気味よい音。
いつものコゲラかなと思い窓から覗くと、コゲラよりずっと体が大きいことに気が付いた。
あわててスマホで写真と動画を撮る。

ネットで調べてみると、アオゲラのようだ。
本州に普通に分布しているようだが、私は初めて見た。
あるいは、普段でも飛んでいるのかもしれないが、あのドラミングの音を聴かないとそれと気が付かないので、このように観察したことはない。
頭に鮮やかな赤色が縦に長く入っている。
目のあたりから後ろにはねるような黒と赤の色も鮮やか。
全体には薄い色で、そこだけ目立つ。

写真は窓越しでボケているが、我が家に来てくれた記念で、貴重だ。


今日もめちゃんこ暑いのう

2020-08-10 19:49:31 | 日記
朝の気温が日ごとにずんずん上がる。
二三日前まで朝方は涼しかったのに、一日中熱帯化。外に出るのに躊躇する。

それでも墓掃除に行ってくる。
花立てを洗い、雑草の掃除。水鉢をごしごしと洗い、水をはる。
汗が額からしたたり落ちる。
最近ゴミは持ち帰りとなってしまったので、大きなゴミ袋を持っていく。
一応さっぱり。
この暑さでは花を供えても30分でしおれてしまいそう。
考えものだ。

家に帰り庭のタカサゴユリを供える。
お墓よりはましだろう。


タカサゴユリは種でどんどん増える丈夫なユリ。
ちょうどお盆の時に満開になる。
でもやっぱり日持ちはしないんだよね。


今日もやたら暑いのお

2020-08-09 21:23:33 | 庭、花木、畑、ガーデニング


昨日に続き庭の芝刈りをする。
今日は大バサミを使って芝を刈る。

お盆前はたいていの農家で、先祖を迎える準備のため、ひっしに庭の草むしりをする。
今日は細部の整理をする。
植木の足元、敷き石の周りなどエッジを立て景色を引き締める。
ぼかし、(透かし)で奥行きを出す。
基本は絵画を描くのと一緒


夕方までやったが、ここらで限界
もういいでしょう、助さん角さんで終了。

敷石の中の丸石は、ひいじい様が建てた家の礎石に使われていたもの
他にも庭のそこらにごろごろしている

一応、今年の記録として写真に撮っておく

今日も暑いのお

2020-08-08 13:23:03 | 日記
お盆になるから朝から芝刈り、先週は雨が派手に降っていたので出来なかった。
朝方薄曇りでいいかと思ったら、あっという間にボウだの汗、
生命の危機を感じ途中で家の中に逃げ帰る。
氷水を飲み、保冷剤をぬれタオルで包み、首に巻く
再度トライ、それでも見る間に汗で眼鏡が曇る。20分が限界。
再度作戦タイム。
コーヒー屋さんにコーヒーの予約を入れ。予約時間まで再度トライ。
それでも終わらないので後は夕方。


コーヒーのついでに食料品も買い込む。
アイスにビールに清涼飲料水、水物も多くなる。
重たい荷物をオートバイに詰め込む。まいどのことながらスーパーカブ・プロはスーパーだ。いくらでも積める。
お惣菜のとんかつを、カツ丼にアレンジ(奥さん担当)ちょとしたひと手間でググッと美味しくなる。味噌汁に追加のトッピングで朝とって来たオクラをたっぷり入れる。これでなんとなく健康的。


道ぎわにある女郎花の花
女郎花は母が好きだった。庭のそこらじゅうに増やしていた。これもそのなごり。
悪い奴がいるもんで、一番背の高いのを途中から折っていく。前にもあった。
少し残念。


大庭城へ行く

2020-08-07 23:30:27 | 神奈川散歩


大庭城は藤沢駅の北方、引地川と小糸川の合流地点の北にそびえる台地状の要害である。
大庭城の城郭は大変立派ですばらしい。
ところが歴史上はさしたる活躍もなく廃城となってしまった残念な城である。

小田急善行(ぜんぎょう)駅から歩く。たいへんありがたい名前の地名だ。
丘陵を下りまた丘陵を越えると引地川親水公園になる。その向かいにあるのが大庭城。
お城ファンならずともこの威容を目にすれば、ただならぬ城であると感じるはずだ。

大庭城落城にまつわる悲話伝説のある船地蔵。



この先にある南口から登る。


登りきると広大な平地が広がる。
当時どの程度の平地であったか分からないが、相当数の兵が籠城できそうだ。

掘っ建て柱の遺構がでてきた場所(川の合流点のすぐ上の台地の所)
城の中心部分ではないかとされる場所だ。



空堀も残る。


大城郭の三の丸ほどの広さがある。


大庭城からは、旧道と思われる道を歩く。旧大庭神社、宋賢院へ






大庭城があまり活躍できなかった理由を考えてみた。
一般には大船駅近くの玉縄城がこの辺の拠点とされたためだということのようだ。
ではどうして玉縄城の方が優れているのか。
大庭城は城そのものは立派なのだが、その立地に問題がありそうだ。
ようはへんぴなのである。
主要道から離れている。
物流の点で、東海道に面している玉縄城の方が断然有利だ。
大船から鎌倉へ行くのは現代でも一般ルートだし、
経済の有利性は中世であっても変わらないだろう。

鶴巻温泉駅から真田城、岡崎城、伊勢原駅へ

2020-08-07 18:47:23 | 神奈川散歩
鶴巻温泉から歩き出すと大きな欅の大木があった。


岡崎城は平塚市と相模原市の境に位置し、三浦一族が相模の中央部を抑える重要拠点である。


岡崎城に関係する重要な事件は主に2回あった。
一回目は、平安末期の頼朝挙兵に伴う平家方との合戦である。
源頼朝の旗揚げ時に中心的兵力を担ったのは、三浦一族であった。
岡崎城主の三浦義実とその兄三浦義明は、頼朝の父親である源義朝と主従関係だったことから頼朝挙兵の際にも積極的に動いた。兄弟は平治の乱で討ち死にこそ免れたものの、その後相模における三浦一族の地位は衰退していたと思われる。
主家再興は、三浦党の勢力を盛り返す絶好の機会でもあった。

ところが岡崎城主三浦義実の嫡男の義忠は、石橋山の合戦で討ち死にしてしまう。
若武者の死は、鎌倉武士の間で美化され、語り継がれることとなる。
真田城の城主は義忠であった。


真田城址の天徳寺


義忠は今も地元の人に愛されている。
真田興一というのは三浦義忠のこと、佐那田余一とも書くようだ。


岡崎城へは田圃の中を進む。
稲穂の花が満開?


農民のDNAのせいか、稲穂の中にいるのは気持ちがいい。


その後鈴川沿いに進むと水田から里芋畑が現れる。
尾根の突端が岡崎神社で、ここまで含めて岡崎城というのではないだろうか。


岡崎城が次に脚光を浴びるのは300年後の三浦一族と後北条氏との攻防戦の時代になる。
小田原城を落とした北条軍は、次に三浦一族が守る岡崎城に迫る。
城主は三浦導寸であったが、導寸は三浦氏の養子であった。父親は扇谷上杉、母親は小田原城主の大森氏という銘家の生まれで、この地を押さえる力があった。義父の三浦高時に実子が生まれても家臣から導寸が支持された。
北条勢に対抗するには、相模中央部に勢力を張る上杉と大森氏の力が必要だと三浦一族も考えたのではないかと思う。

小田原城の落城で、大森藤頼は導寸を頼ったが(従弟の関係だった?)導寸はこれを岡崎城のすぐ西の真田城へ受け入れた。攻防は3年に及んだという。3年間、年中戦闘を続けたわけではないだろう。北条が3年かけて辺りの有力者を寝返らせたということだろう。大森氏や上杉、三浦の連合軍には地元の利がある。北条軍も地元の支持がなければ打ち勝てなかったと思われる。

紫雲寺

大森氏頼(導寸のおじ)が若い頃この地に居を構えていたそうだ。
やはり大森氏とも縁がある城である。


ここから岡崎(三浦)義実の墓へ行く。
指導票が沢山あると思って安心していたら、最後の分岐だけなかった。


岡崎城址の碑は無量寺内にある。わりと普通の丘のようだが、南方向の岡崎神社のあたりまで城域であったとするとかなり広い。


今ではあまり大きな城であったことを感じさせる部分は少ない。

大船駅から長尾一族発祥の地、長尾城址を見に行く

2020-08-05 19:33:01 | 横浜散歩
大船駅から長尾台にある長尾城址へ行く。

長尾氏は中世における関東争乱の中心にいた一族なので関心がる。
太田道灌の宿敵であった長尾景春や上杉謙信を生み出した一族の発祥の地が長尾台なのである。
頼朝旗揚げのころには、すでに長尾台に居を構えていたようだ。

地元の人は誇りに思っているのかな。
東海道線の線路沿い、柏尾川沿いに歩いて行くとすぐに長尾台の台地が見えてくる。


東の端の台地へ登る道を行くと長尾砦址の案内板が出てくる。


登り切って左に道を取ると台地上の畑が広がる。

この辺が城の曲輪の後なのか。真ん中辺に小高い所がある。

この辺が大堀切と言われている所か


空堀の谷か あまりよく分からない。


南は急斜面だが北側は緩く下がっていく

東の端には御霊神社がある。


御霊神社は田谷の大洞窟で有名な定泉寺の隣りにもある。


御霊神社は長尾氏の祖、鎌倉権五郎景政を祭る神社なのでこの地にあるのだろう。
ある意味由来がはっきりしているので納得してしまう。


わざわざ長尾城を見に来るなんてもの好きだ。

元町、石川町から、蒔田城、三殿台遺跡、太田道灌屋敷跡へ

2020-08-02 20:13:54 | 横浜散歩
昨日のアド街ック天国は横浜の石川町であった。
ミーハーだが、元町から石川町の方へ散歩した。


元町の後ろの崖は海食崖のようだ。(詳しく調べたことはない)
ともかく江戸時代までは堀川あたりは海だったそうだから、厳島神社や諏訪神社の前は海だったということだ。


石川町のリセンヌ小路というのは女学生通りという意味らしい。知らなかった。
その崖の上には横浜の女学校群がある。昔から思っていたが、横浜というのはどうして女子校が多いのだろう。フェリスや雙葉に横浜女学院、横浜共立学園、それに今は無くなってしまったが山手女子もあった。そういえばうちの母親はフェリスのことを日本語なまりのフェイリスとか変な名前で言っていた。ちなみに桜美林はオベリンと呼んでいた。

昨日のアド街ック天国のゲストには谷原章介さんが出ていたが、母は谷原さんのお父さんとゲートボール仲間であった。当時は谷原さんがブレイクしたばかりだったと思うが「谷原章介さんのお父さんへサインをお願いする人が沢山いるのよ」とかお茶を飲みながら話していた。懐かしい話だ。

そのまま崖沿いに進む。
中村橋を渡ると蒔田町へ

今日の目的の一つである蒔田城を見に行く。
城址自体は横浜英和女学院の敷地なので立ち入れない。
蒔田の森公園から見るとこんな感じ。




南側の勝国寺には城主であった吉良氏の供養塔がある。


吉良氏と言えば室町将軍家に次ぐ家柄。
蒔田御所とも呼ばれた格式の高い城。
この南側には国の史跡にもなっている三殿台遺跡がある。


そして谷を隔てた北側には太田道灌の屋敷跡とされる所がある。
吉良氏の城に太田道灌の屋敷。
これは中世の蒔田がこの地域でも重要な場所であった証拠ではないかと思う。
百戦錬磨の太田道灌がポーと屋敷なんか造るわけがない。
吉良氏にしても地侍ではないのだから、こんな所に城を造る必然性はない。
これは想像だが、昔はこのあたりまで船を付けられる水運があったと思われる。
ここから石川町、元町の入り江まで船で行き海運と結びついた物資の集積地の役割があったのではないだろうか。
太田道灌の屋敷跡は北側が東海道である。主要な陸運とも繋がる兵糧ルートであったのではないだろうか。

これは縄文海進の様子だが、蒔田城や太田道灌の屋敷の前はもろに海だ。


大岡川にも船が浮かんでいる。


太田小学校の敷地が太田道灌の屋敷跡と推定される所だそうだ。
展望もすこぶるよい。


コロナウイルスの厄災

2020-08-02 06:03:51 | 独り言
影響のない人はいないと思うが、今の学生も不運である。
私の姪なども、せっかく大学に受かっても、いまだに学校へ行っていないそうだ。
うちの息子や娘も同じで、通常通りの学費は支払ったものの、ほとんど通信教育の状態である。親からすれば身を切るような高額な学費を出して、ただの通信教育では泣くに泣けない。

横浜の来年の成人式も、当初中止との発表があった。
いやな予感はあったものの、やはりやりきれない気持ちだった。
私の娘は来年成人式で、晴れ着のレンタル料もすでに支払い済み、成人式が中止になると晴れ着を着て行く場所もない。その後、やはりあまりに影響が大きいためか、すぐに中止の取り消しの発表があった。

甲子園など運動部の大会や、学園祭も中止で学園生活の花も無くなってしまった。
当人たちはどう考えているのか分からないが、親は悲しい。
おまけにこの不況である。
来年の就職はどうなるのか、不安の種はつきない。