とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

ゴミ拾いのわけ

2014-07-26 18:06:51 | 日記
私の住んでいるところは、都会の郊外で
その昔は大変環境のよい所であった。
ところが、まわりの都市化にともなって急激に環境が悪化していったのである。

悲しいかな一昔前までは、
街には放置車両が溢れ
不法投棄のゴミは道をふさいでいた。
夜になると放置車両が次々に放火され、至る所で火の手が上がった。
中には盗難車もあったようだが車の状態を見て被害者も回収に来ない。

新入りの放置車両は、まず最初にタイヤが外され
毎日少しずつ部品が盗まれて行く。
最後には、窓ガラスも割られて、
車の中は不届き者が捨てたゴミで一杯になった。

バブル崩壊後は車の中で寝泊りしている人もあり
朝には、その車の中で亡くなっている人もいた。
それはそれで気の毒な話ではあったが
住民としては、気持ちのよいものではない。

なんとかしなければ。
とても子供や女の人が歩けるような環境ではない。

あるとき私は行動にでた。
まず警察と道路を管理する土木事務所に相談した。
警察はめんどくさそうにやってきたが、形だけ様子を聞いて帰っていった。
どうもあまり期待できそうにない。

土木事務所は個人的な要望では動けないとの回答だった。
そこで恐縮だが町会長に相談し、
しかるべき要望書を作成し、土木事務所に提出した。

一方私は実力行使にも出た。
終日駐車の車をピックアップし、警察に警告してもらうというものだ。

彼らのやり方はこうだ。
まず朝方に普通の自家用車でやってきて、路上駐車をしているトラックなどの営業車に乗り換える。
乗ってきた自家用車をまたそこへ止めて現場へ向かう。
帰りも同じ。
かれらは道路をまったく私的な駐車場として利用しているのだ。

終日駐車は、直接口頭で注意したこともあったが、
こちらは地元で、相手はどこの誰かもわからない。
こちらの素性はすぐに相手にバレてしまう危険があったので頻繁には行えなかった。
それでもいろいろ工夫をして、違法駐車との対決が何年か続いた。

そのうち、土木事務所も放置車両の撤去に積極的に動いてくれるようになった。
また自動車リサイクル法などの成立により新たな放置車両が激減した。
すかさず私は道路の清掃活動を行った。(ゴミを放置しておくとゴミを呼ぶのである)

あれから10年以上経つが、土曜の朝はゴミ拾いが日課となった。
かつての放置車両やゴミで溢れていた所を中心として
300mほどの区間のゴミ拾いを自主的に行っているのだ。
ところが、粗大ゴミを捨てられてしまうと個人ではどうすることも出来ない。
ある程度量が多くなると土木事務所が片付けてくれるが、
わずかな量では撤去費用がかさむので動いてもらえない。
その量も年々減ってきているように思う。


ゴミは大別すると次の3種類が多い。
1.営業車などで昼休みにやってきて、弁当のトレイや空き缶、タバコの吸殻などを捨てていく。
2.引越しで出た粗大ゴミ、(家の普通ゴミも含む)などを夜中に捨てに来る。
3.業者の不法投棄。建築廃材や取り壊した家の家具、使い残しのペンキ缶など様々だがこれが一番やっかいだ。

土曜日に拾い集めたゴミの量は当初は毎週ゴミ袋にして3、4袋になったが、
今では一袋のみで済むようになり、ゴミ袋がいっぱいとなることも稀だ。

あと一息といったところだが
景気が回復すると、また業者のゴミが多くなるのではないかと心配する。

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踊る阿呆に見る阿呆

2014-07-26 00:19:27 | 日記
今年も阿波踊りのシーズンがやってきた
かれこれ私は、10年以上も阿波踊りに参加している。
始めた当初は、踊る阿呆の方であったが
最近は、チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカ、チャンカの
かね役が定番となってしまった。
たまには踊りもいいとおもうのだが、代わりの者がいないのでやらしてもらえない。

阿波踊りのリズムは、連によって異なる。
特に出だしのリズムに凝っている連は多い。
かねの叩き方も様々だ。
一年中練習している連もあるようだが、私のところは、本番少し前に練習するだけなのでたいした実力はない。(今日は8時半まで練習があった)

阿波踊りにも基本の踊り方があるが、男踊りには個性的に崩して踊る楽しさがある。
なにより、リズムにのって楽しく踊るのが一番だ。
反対に女踊りは一糸乱れず、ピシッと揃える美しさがある。

一般に阿波踊りは連と呼ばれるダンシングチームが基本単位となっているが、
見ている人も飛び入りで参加できる阿波踊りがあったら楽しいと思う。
飛び入り参加の人は、気に入った連の最後尾に付くというのはどうだろう。
同じ阿呆なら踊らにゃソンソンを地でやってみたいものだ。

たまに外人さんの入っている連を見かけるが
明らかに外人さんは興奮している。
阿波踊りは日本版のサンバだと思う。
外国の人にもわかりやすい踊りなのではないだろうか。
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天神様

2014-07-20 23:16:14 | 日記
雷鳴轟く今日
天神様がお怒りじゃ
各地で大雨洪水警報が出ている。



昔、天下国家のため革新的な改革を進めようとした高貴な人が
保守派による陰謀で無念の死を遂げると
雷神などの怨霊となり人々にたたったという。

菅原道真は怨霊となったが、、
後に天神様として広く民衆に愛される神様となった。

神田明神の平将門も、もとをただせば怨霊だったそうだ。

そして意外なのが
蘇我入鹿だ。

蘇我入鹿は大化の改新の後
怨霊となり人々にたたったというので、恐れられていたそうだ。

実は聖徳太子は蘇我入鹿なのだという説がある。
それは、入鹿が本当に悪政をしいたのであれば、
後の人々から怨霊として恐れられることはなかったはずだというのである。
(自業自得であれば怨霊にはなれない)

蘇我入鹿の怨霊に恐れおののいた権力者達が
後に入鹿に対して聖徳太子というおくり名を贈って祀ったというだ。

蘇我入鹿の本名では供養できないので、聖徳太子という名前で
供養するから許してくださいといったところだろう。
(聖徳太子を祭る太子堂(仏堂)も天神様のように各地にある。)

実に論理的で納得してしまうのだが

今のところ聖徳太子が蘇我入鹿であるという説は、
定説とはなっていないようだ。


それにしても今日のカミナリ凄かったですね。

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谷間の妖精

2014-07-19 01:21:17 | 日記
借りぐらしのアリエッティを見ていて思い出した。
南アルプスの百間洞のキャンプサイトで一泊した時のことだ。
朝方4時ごろだっただろうか
トイレに行こうとテントから出ると、
峯の向こうから月の光がこちらの谷間をほんのり照らしていた。

キャンプサイトから延びる沢沿いの道には、両側に葉先の長い草が生い茂っており
そのしなやかに弧をえがいた葉の先端一つ一つに
大きな丸いしずくとなった朝露が真珠のように月の光に輝いていた。
薄暗い闇の中で
無数のしずくだけが、きらきらと光り輝いている様は
息をのむような美しさで、
その神秘的な光景に見とれていると
なんだか今にも妖精が現れそうな気がした。


ヨーロッパの人達が妖精がいると想像した光景は、きっとこのような景色に違いない。
そのとき妙に納得したのだった。

もう題名も忘れてしまったが、(歌詞も少し違っているかもしれないが)
小学生の頃に習った歌で、こんな歌があった。

ティンティララ、ティンティララ、踊るよ
夜も更けた野原で
ティンティララ、ティンティララ、小人が
銀の露をまきながら

手を打ち輪になり
あざやかな身振りで
ティンティララ、ティンティララ、小人が
銀の露をまきながら

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あの人は今

2014-07-13 11:43:16 | 日記
NHKのテレビを見ていて目を疑った。
学生時代のクラブの後輩がテレビに出ているではないか。
もう何年も会っていなかったので、
人違いかとも思ったが、
ある独創的な創作活動の達人ということで、
番組の中で実演し、インタビューを受けていた。

彼がその妙なことに凝っているというのを
人づてに聞いていたので
間違いなかった。

こんなふうに
ときおり昔の仲間の消息を思いがけず知ることがあるが
みんな、それぞれに活躍しているようで、
なんだかとても嬉しかった。
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ハエハエ、カカカ、キンチョール

2014-07-06 16:17:10 | 日記
いったいいつのころだろうか
蚊が異常に増えだしたのは
昔、昔、私の家の辺は今よりよっぽどジャングルだったが
夏に半袖、半ズボンで走りまわっていても蚊に刺されるのは
せいぜい5,6箇所だった。
ところが今はどうだろう、外に出た途端、蚊の波状攻撃にあい、
何も抵抗しなければ瞬く間に、10箇所以上は刺されてしまう。

明らかに、蚊の攻撃力は増している。
昔が1だとすれば5倍ぐらいの感覚だ。
昔は蚊との間にも、顔は刺さないという紳士協定があった。
今は、顔だろうが、服の上からだろうが、お構いなしに刺してくる。
血も涙も無いような攻撃の仕方だ。(もとい。血はあるが、吸われ放題)

昔と何が変わったのだろうと考えると、ひらめいた。
トンボだ。トンボがいない。
あれほどいたシオカラトンボが一匹もいないのだ。

トンボは蚊を食べる益虫だ。と小学校でも習った。
昔は玄関を出るとシオカラトンボが群れていた。飛び回るもの、物干し竿に止まっているもの、優に10匹以上がすぐに目に入ってきた。
おまけに、ときおりオニヤンマが同じところを、行いたり来たりしながら飛んでおり、ハエや蚊といった悪党どもに目を光らせていた。

村の警察ともいえる、トンボ達がいなくなったので
蚊達は、やりたいほうだいの悪行三昧となったのだ。

今は夏になるとおちおち外にも出られなくなってしまった。
庭仕事をするときには蚊取り線香や、やぶ蚊退治のキンチョール、
うなクールといったグッズが欠かせなくなってしまった。

ちなみにその昔は、生の榧の木の枝を葉ごととってきて、かまどでいぶして、
蚊取り線香の代わりにしていた。
蚊帳なんかも懐かしいですな。
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じいさん達の戦争 その3、運命の戦闘

2014-07-05 10:08:22 | 昔の話
祖父の中国戦線での所属部隊がわかったので、
昨年は、ネットや本で何か情報はないかと探してみた。
所属部隊名は
独立混成第17旅団
独立歩兵第90大隊(第8105部隊)
第一中隊
旅団長は、高品 彪 少将
第90大隊長は、舛尾 芳治 中佐 であることが、わかった。
その後祖父のいた独立混成第17旅団は「江南殲滅作戦」に参戦することになる。

旅団という軍単位は普通5000人ほどの規模のようだが、
祖父のいた旅団は補充兵も多かったと思われるので、
もっと少ないものであったのかもしれない。
旅団の構成は
歩兵大隊5
砲兵隊1
工兵隊1
通信隊1
という編成で
1歩兵大隊は、およそ600人~800人ぐらいの規模で、
中隊4つほどから構成されているようだ。
祖父は第一中隊の小隊長という地位にあり、
通常であれば50人くらいの兵隊を指揮することになる。
ケロロ小隊(漫画)は4、5人(匹)だが本当の小隊はもっと多い。

小隊長ともなれば、戦場での現場責任者となるので、
部下の兵隊に後れをとることはできない。
体力的にも精神的にも大変なものであったと思われる。

作戦は有名な洞庭湖の北西側で行われた。
日本軍は北から南へ向けて進軍し、
中国軍を掃討するという作戦だったようだ。
祖父の旅団は安郷県という所を北から南に行軍しているのだが、
祖父はこの時、中国軍の迫撃砲、あるいは手りゅう弾かもしれない
砲弾の炸裂により、瀕死の重傷を負っている。
祖父はその後、船で後方へ運ばれる途中で、亡くなった。
この戦闘はかなりの激戦だったようで、祖父の他、中隊長も負傷、
第90大隊長の舛尾 芳治 中佐は戦死しており、
5人の大隊長のうち3人が戦死するというものだった。

来週は祖父の命日だ。
このブログに書いているのも、そんな時代があったことを忘れないようにするためだ。
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じいさん達の戦争 その2、中国へ

2014-07-05 07:41:55 | 昔の話
昭和17年7月25日 東部第六十二部隊に召集

昭和十七年七月二十五日臨時招集ニテ東部第六十二部隊ニ召集同日陸軍機密第二五四号ニ依り補充交代要員トシテ東京出発

昭和17年7月25日同日東京出発
昭和17年7月27日宇品港出帆
昭和17年8月2日呉淞に上陸江湾兵営着
昭和17年8月9日飯田桟橋出航
昭和17年8月13日揚子通過 部隊宿舎に到着
昭和17年8月16日同地発
武昌に一泊
昭和17年8月17日任地岳州着 第九十大隊第一中隊に編入
中支派遣 峯八一○五部隊 第九十大隊第一中隊に編入

以上が祖父の軍隊手帳に書かれていた任地までの記録だ。

(注)
東部第六十二部隊(当時東京の赤坂にあった部隊)
宇品港(広島の港)
呉淞(上海の港)
飯田桟橋(上海の揚子江の桟橋)

招集令状が届いてから2,3日後に入営しているので
あわただしい日程だったことが想像できる。
普通の日常生活を送っていた者が、命令とはいえ
いきなり2、3日後に軍隊に来いと呼び出され、
そのまま最前線へ向けて出発したのである。
戦時中とはいえ理不尽なものだ。

おまけに祖父はこの時47歳
戦前であることを考えると年寄とも言っていいくらいの歳だが、
後方勤務ではなく、最前線へと送り出されている。
しかも歩兵なので任務には相当な体力が必要だ。

小銃や弾薬などの他、背嚢など
かなりの荷物を背負っての行軍となる。
現代人ならすぐにネを上げてしまうことだろう。

祖父はもともと歩兵第一連隊の所属だったので、伯母はこのことを、歩兵第一連隊が起こした二二六事件のせいだと今でも思っている。(二二六事件を起こした部隊はその後最前線へ送られ多くの兵が戦死している。)

その後の祖父の任務がどんなものだったのかは、記録にない。
ただ、任地の岳州から、家族一人一人にはがきが届いている。
昨年そのはがきを伯母に見せてもらった。
はがきの内容は次のようなものだった。

「うるさい父親がいないからと言って、仕事を怠けてはいけませんよ。
お金は少しずつ父が送りますから、正月には母に言って良い着物を買ってもらいなさい。
小さい弟達は叱らないでよく面倒をみてやりなさい。」

父親らしい家族を気遣う優しい内容の手紙であった。
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じいさん達の戦争 その1、軍隊手帳

2014-07-04 19:54:14 | 昔の話


他人にはどうでもよいことだが
本人にとっては、どうも気になるのが
ご先祖様のことだ。
どんな人物だったのか、何をしていたのか、

祖父は、私が生まれる大分前に亡くなっているので、
あまり具体的なイメージはなかった。
ところが、昨年初めて祖父の「軍隊手帳」というものを見せてもらい、
かなりリアルな面が見えてきた。

軍隊手帳の中には、履歴という欄がある。
そこには20歳で徴兵検査を受け、入隊した所からはじまり、
時系列で、何をした、
給料が何等級になった、
軍隊の階級がどうなったということが書いてある。
日本の歴史に重ね合せると、なるほどと思われる点も多々あり、興味深い。

祖父は東京麻布の歩兵第一連隊、第一中隊に入隊している。
第一連隊、第一中隊というと、ちょっとエリートぽく聞こえるが、
所属連隊は出身地で決まることなので関係ない。
ところがこの歩兵第一連隊、
後に二二六事件を起こすことになる軍隊なのだ。

祖父は徴兵期間が終わってもそのまま軍隊に居続けた。
長男ではあったが、家が貧乏だったのでそのまま居残ったのだろう。
その間、中国の青島へ守備隊として出征したり、(第一次世界大戦後のことで青島など中国のドイツ統治領を日本軍が占領していたころのことだ)また、大正12年の関東大震災では、東京の治安維持活動や震災の被害状況の調査などをしたりしている。
予備役として除隊となったのは32歳の時なので、都合12年間軍隊暮らしをしていたようだ。
ここで手帳の記録は一旦終了している。

ところが履歴の欄は、祖父が47歳の時に突如再開するのである。
ミッドウエイ海戦で日本軍が歴史的大敗北を喫した直後のことだ。
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