![milliondollar_baby milliondollar_baby](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/18/5f/f819f5f4584331933d815b9e0dd1a410_s.jpg)
書けない。どうにも感想の言葉が出てこない。いや、裏切られたとか、予想外だったとかいう作品だったらまだいい、なんと言えばいいのだろう。その作品が「賞取り」を最初から意識した作品であることが見え透いていて、それでそのドンデン返しさえもが「賞」を意識したに違いないと思わせるとなんとも書く気がおこってこないのである。
「俺に質問するな」「言われたことだけをやれ!」「自分を守れ!」
役柄でもあるワンマン・トレーナーそのままにクリント・イーストウッドにそうせきたてられてこの作品は撮影されたに違いない。この作品にはイーストウッドの映画人生のノウハウ、泣かせどころや勘所がいっぱい詰まった作品には違いないだろう。だが、なんとも後味が悪いのである。
その作品とは、もう分かっただろうけどクリント・イーストウッドがメガホンをとり本年度のアカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞をとった映画『ミリオンダラー・ベイビー』である。
この作品を見たのはこの1日、映画の日の1本に選んで見に行ったものである。
中盤まではいい、胸のすくようなボクシング・シーン。女性どうしのボクシング・シーンに見ているこちらまで身体がおもわず左右に動いてしまうほどだった。31歳すぎから名トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)の門を叩くマギー(ヒラリー・スワンク)。彼女がハングリ-精神のみで成り上がって行くそのプロセスは胸がすくようで痛快だ。華やかなパンチひとつで百万ドルを一晩で稼ぎだせると言うアメリカン・ドリームのような一発逆転の賭け事のような世界。そこまではいい。しかし、それはクリント・イーストウッドが描きたい世界ではなかったらしい。
しかし、映画の後半、これは日本でつくられたらアカデミー賞どころか、どこかの難病患者団体から抗議のくるような結末ではないか!
まだ未見のひとのために、詳しくは書かないでおくが、「安楽死」にたいする慎重な考察が全く欠如した映画でクリント・イーストウッドはアカデミー賞をとったことになり、アカデミー賞選考委員も軽薄なくらい配慮しなかったらしい。
これは、フィクションだからいいんだ、と言えるのだろうか?
実に、映画は後味悪く終わる。拍手をしたい気持ちも、観客の高揚感にも水をかけ、そして結論として言えばクリント・イーストウッドのそれが計算通りだったのだ。
まるで、場末のボクシング・ジムとか、なんだかハリウッド映画はもちろん、映画では最近見なかったダウンタウンがメインのロケーションだったので(とはいえ、この作品では風景は全くと言っていいほど重要ではない!)、期待したのだが、ボソボソとセリフを言うイーストウッドそのままにすべては計算尽くされているのだった。イーストウッドに重要なのは、観客の感情のコントロールだったのかもしれない?
しかし、百歩ゆずるならイーストウッドが栄光のスポーツ、格闘技の中に栄光と挫折だけでなく、死の匂いまで嗅ぎ付けていたのだったとしたら、ある意味たしかに凄いのだが、呼吸補助装置を止めることは、そして苦痛を感じないように興奮剤を患者に注射することはこれは立派な殺人罪になってしまう。もしかしたら、マギーは一時はおちぶれたジャンキーだったのだろうか。しかし、そのような伏線はない。
とはいえ、ジャズファンでもあるイーストウッドは音楽に素晴らしい感性を発揮する。この作品の音楽も監督自身の作曲である。(評価:★★★1/2)
(6月6日の朝日新聞夕刊に沢木耕太郎が「銀の森へ」で、書いていた。沢木氏は、まだ未見の読者に考慮したのか、突っ込んだ表現は取っていないが、こう書いている。「私にはこう思えてならない。確かに、これはほとんど完璧に作られている。だが、傑作ではない、と」。ボクはこれを読んで、大笑いしてしまい、やっとこの感想を書く気になったのだった。)
…………………………………………………………………………
その華麗で耽美的な日本語でボクを圧倒した歌人の塚本邦雄氏が9日、呼吸不全で亡くなった。84歳だった。
前衛的で先鋭なその歌は、驚き以外のなにものでもありませんでした。
先生の死去の報に、せめてなりと哀惜の念をあらわさせていただきます。
素晴らしい歌人としての現世でした。
「死者の書」と 懐かしきひと めぐりあい うたい競うか 曲水の宴
先生にはかないません。ずっと圧倒されてきました。ボクなりのスタイルで継承します。
中有あり 極彩色の ほとけをば 抱きうつつに 煉獄めぐり
(塚本邦雄ファンサイトのBBSへのボクの書き込み)