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あみの3ブログ

ラーメン食べ歩きとお城歩き、その他感動したことを写真で綴る雑記帳
更新は不定期です

宗守城@富山県南砺市福光町 令和三年(2021)10月23日

2021-10-31 04:32:26 | 城歩き
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戦国時代初期の永正年中(1504~1520)上杉顕定が砺波地方を略し、弟の九郎房義の将、小林壱岐守がこの地に城(砦)を築き山田郷をおさめていた。現在ある土塀は当時のものと伝えれ本丸跡を示すものである。小林壱岐守は、主人房義死後は、越後に帰り廃城となるが、地元の人たちは神明社を迎え現在に至っている。、、、福光町教育委員会(現地案内板より)

場所は富山県南砺市福光町宗守
JR福光駅から、県道27号線(金沢井波線)にて北陸線踏切を過ぎ、その先の大井川を渡ります。
東海北陸自動車道の高架をくぐると左手にファミリーマート南砺宗守店があります。この「宗守交差点」を右折、県道277号線を250mほど行くと左手に神明社の石柱が見えます。



神社石柱と民家の間に「銭屋の碑」が建っており、鳥居をくぐった田んぼの中に「神明社」があります。ここがかつての城址です。
車は一つ手前の道から入って神明社に向かうと空き地があるので、そこに停めたほうがよさそうです。



縄張り図
佐伯先生著、越中中世城郭地図Ⅲより(ブログ管理者加筆)




◆遠景 北面(神社正面)


遠景 東面



◆北東隅


南東隅


南西隅


西面



◆北面土塁(正面)
鳥居の西側土塁


鳥居の東側土塁
西側に比べ明らかに短いです。圃場整備により取り崩されたのでしょうね。


同内側より
鳥居の西側土塁内側


鳥居の東側土塁内側
内側から見ても東面土塁には植物が少なく、新しい時代の盛り土ということがわかる。




◆内側より
南面土塁 本殿西側


南面土塁 本殿東側
昭和初期にこの辺りから、珠洲焼の壺が発掘されているそうです。


西面土塁




◆当時の堀跡???
東側の用水




史料によると、南北190m、東西が45~81mもある大規模な城域と、周囲には堀跡と推定される小川が描かれているそうです。
現在の城跡にその長さを当てはめてみると、このようになるのではないでしょうか??
※マップに赤文字で書き込んでいる推定城域はあくまでも妄想に過ぎませんのでご注意願います💦
、、、googleマップより


特に注目したいのは、北側の道路を挟んだ民家側の土地の形状です。
東面を流れる用水が北まで伸び、この用水を挟んで大きな高低差を作っています。なのでこの高い部分が城域の北端だったのではないでしょうか。

北側の用水と地面の高低差








【宗守城】
《むねもりじょう》

名称(別名);
所在地;富山県南砺市福光町宗守437
城地種類;平城
標高/比高;
築城年代;16世紀
廃城年代;16世紀
築城者;小林壱岐守
主な改修者;
主な城主;小林氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪、土塁
近年の主な復元等;現状神社


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;




上見城@富山県南砺市城端 平成三年(2021)10月23日

2021-10-30 05:04:04 | 城歩き
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富山城郭カードは→こちら


上見城は、天正年間(1573~1591)に篠村太左衛門が居城していたとされる。近世に編まれた加賀藩士富田景周の『三州誌古墟考』に『南北四十間、東西十七間、西北東は深谷、南は山と接す 天正年間篠村太左衛門拠る』と記されている。また白川郷帰雲城主内ヶ島氏の家老で萩町城主山下大和守の系譜には、嫡子氏時の妻に「越中川上郷上見城主篠村太左衛門娘」と書かれている。現地には古井戸と土塁が遺り当時の面影を忍ばせる。
 上見の地名の初見は、南北朝時代、興国2年(1341)の南朝の頃である延元3年(1338)新田義貞が越前金ケ崎で挙兵した際、越後の新田党が援軍として赴く途中、越中新川で北朝側の守護井上俊清を打ち破った。この新田勢に滝口蔵人がおり、上津見を安堵された。富山県教育委員会・南砺市教育委員会、、、現地案内板より


場所は富山県南砺市城端上見、ザックリ言って東海北陸自動車道道の「城端SA」辺り。

同自動車道「福光IC」下車、国道304号線を城端方向に左折。
国道304号線「細木交差点」で交差する県道292号線を右折。
県道292号線「千福交差点」から3っ目(建築会社作業所が右手に見えたら次)の三差路を左折。
、、、googleマップより


(山田川の辺りからの遠景)



山田川を渡り大きくカーブした先に集落の入り口があり、右手に城址の案内看板が建っています。



この看板のところから林道に入り50m位歩いたところに、城址登り口があります。(林道は行き止まりなので徒歩にて)
案内看板から城址までは5分ほどです。



なだらかな丘に階段が整備され、下草も奇麗に刈り取られていました。



登り切ったとことが「A主郭」です。

ここでいつものように佐伯先生の越中中世城郭地図Ⅲにて行程を説明します。(ブログ管理者加筆)


A主郭
北側方向を観ていますが、広い曲輪です。この先の北側が道路建設によって破壊されているそうですが、現存していればB副郭と比べ遥かに広い空間だったようです。
そうするとB副郭は当時の侵入経路からみて主郭に対して直角に侵入経路を変える「升方虎口曲輪」だったようにも見えてきます。



A主郭南側虎口土塁、奥は西側土塁


A主郭虎口


A主郭、西側虎口土塁の断面



井戸、城址碑
城内に水の手があるという事は生活の場でもあった事が伺えます。




B副郭


B副郭、西側土塁



B副郭、東側虎口
当時の侵入経路とA主郭への入り口(虎口)はここで直角に曲げられているので、敵の侵入を食い止める役割があったようです。




堀切
B副郭の南側にあって、尾根を断ち切り、南側からの敵の侵入を防ぐ防御施設



竪堀
上記堀切の西側斜面に築かれた竪堀
南側尾根の防御として、尾根を断ち切るだけでは心配だったのか?西側斜面に回り込んだ敵の侵攻を阻む二重の防御。
しかし、東側の斜面には防御施設がない💦


南側尾根から見たB副郭
一段と高く盛り土されているのが土塁、左手(西側)には堀切土塁の延長が残っている。


南尾根の先には平坦地が広がっており、現在は耕作地となっています。その先には墓地もありました。
急峻な尾根筋という印象は無く、こちらの平坦面も活用すれば良かったのにと思うのですが(;'∀')



◆東側斜面(民家側)



東側斜面に当時の通路があり、北から南に進むとB副郭虎口に至る。
虎口は通路に対して直角に設けられており、敵兵は一旦虎口入り口に滞留する。そこを南側土塁上に設けられた「④張出」から横矢をかけるのだと佐伯先生は解説しています。
その後の城郭構造で言えば「石垣の折れ」みたいなものでしょうか。



四角いブロックをつなぎ合わせたようなシンプルな造りで、遺構の状態が良く原形をとどめています。(お城探検隊より)

深い森にある山城は、木立が太陽の光を遮り下草の繁殖を抑えます。また雨や雪から傘を広げたように遺構を守ってくれたんだなとつくづく感じます。
東側斜面は地域住民によって整備されていますが、西側斜面の竪堀辺りは日差しが当たるせいか下草が繁殖し分かりにくかったですが、総じて歩きやすく里山にあって耕作による破壊からよくぞ残っていてくれたという思いです。



【上見城】
《うわみじょう》



名称(別名);
所在地;富山県南砺市城端上見
城地種類;山城
標高/比高;205m/20m
築城年代;16世紀
廃城年代;16世紀
築城者;篠村太左衛門
主な改修者;
主な城主;篠村氏
文化財区分;
主な遺構;曲輪、切岸、堀切、竪堀、土塁
近年の主な復元等;


※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;



朝日山城@富山県氷見市幸町 令和三年(2021)10月21日、16日、2日

2021-10-24 16:46:27 | 城歩き
お城検索は→こちら


2021年3月石川県にある「加賀朝日山城」の資料を検索していると、富山県氷見市にも「朝日山城」が存在していたことがわかりビックリしました(@_@)
子供のころから親しんでいる「朝日山公園」がお城だったなんて全く知りませんでした(;^ω^)
加賀朝日山城の記事は→こちら

朝日山丘陵にある「朝日山公園」と「朝日山城跡」との位置関係
谷を挟んで一体と見ることもできますね。



越中のお城と言えば、いつもお世話になっている私の聖書
「佐伯先生著 越中中世城郭地図」を引っ張り出しましたが、ナント!!!記載がありません。この本に載っていないという事は幻の城なのか????

そこで今回も氷見市立博物館を訪ねることにしました。



朝日山城に関する資料として
「氷見の山城」(氷見市教育委員会 平成13年1月発行)と、同じく氷見市教育委員会発行の埋蔵文化財調査報告第26冊「朝日山城跡」(平成10年3月)の2冊を入手することができました。


【埋蔵文化財調査報告】
朝日山城跡は、朝日山丘陵の東西方向に伸びる尾根上に立地し、南側は緩やかな谷を挟んで丘陵が広がり、北側は急峻な崖で平野と接しています。
この尾根の途中に「堀切」があることは古くから知られており、昭和38年発行の「氷見市史」にも写真が記載されています。また、江戸時代後期の氷見町役人田中屋権右衛門の日記「応響雑記」にも、場所は特定できないが『朝日山ののろし台』の記事がみえます。しかし、堀切以外の防衛施設は確認されておらず、内容の不明確な城です。
平成9年、急傾斜地崩壊防止工事に先立つ発掘調査では合計213点の出土品があったが、中世以前の遺物や城に関する遺構も確認されなかったそうです。
まとめとして朝日山城跡は、一時的な「砦」あるいは見張り場所として利用されたものと結論付け、文献にみえる「氷見城」の候補地の一つであることを再確認しておきたい、としています。


【氷見の山城】
5・上庄川流域の城(一)朝日山砦 によると
朝日山の一画に堀切の跡が一か所残っている。位置は氷見高校の北側の崖のヘリで、西から東に伸びる尾根を斬る形で設けられている。堀切の上幅は10m、西側が一段高く、こちら側では深さは5mを測る。今のところ周辺に明確な城郭遺構は見出し難いが、おそらく過去の氷見高校建設などに際し、失われたものであろう。付近では1996年に発掘調査も行われたが明確な遺構は確認できなかった。(上記調査報告のことです) 堀切の形状からみて、遺構はコの西側に存在していたと考えられるそうです。
14世紀の半ばには、「氷見(城)」がたびたび軍事拠点として登場しするが、この遺構にあたるかどうかはなお検討を要する。としています。
しかし、朝日山の位置、地形は南北朝時代にとどまらず、戦国時代を通して重要であったことから、必ずしも南北朝時代の遺構とは限定できず、戦国の頃にも改修の上使用された可能性が強い。たとえば、朝日山に近い鞍川を本貫地としていた室町・戦国時代の神保氏家臣、鞍川氏に関わる城郭であったかもしれないそうです。


氷見漁港から朝日山を望む
14世紀半ばには成立していたとみられる「氷見湊」にも近い。



市内のSC屋上より朝日山城跡を望む
朝日山丘陵の東西の伸びる尾根上にあったと考えられる



朝日山城跡から北方向の眺望
氷見漁港から阿尾城・石動山、灘浦海岸が見渡せる



同北西方向
千久里城・木谷城など周辺の山城も一目瞭然



立地としては北側の眺望に優れ、重要拠点の「湊」を眼下においていることがわかります。



現状
朝日山城跡は現在、
大型遊具や休憩所を供えた芝生広場と、氷見市内や有磯海(富山湾)が一望できる「見晴らしの丘」として整備され、2021年3月14日にオープンしました。



新たにできた見晴らしの丘は朝日山公園とも近く、県立氷見高校の北側に造成されました。
朝日山公園と見晴らしの丘相関イラストマップ



航空写真(googleマップより転載)



明治41年に現在の朝日山公園が開園し、大正15年には氷見町の火葬場が、さらに昭和3~6年にかけて県立氷見中学(現県立氷見高校)の校舎・グラウンドが建設され、一部住宅化も進行した。これにより、朝日山城の遺構は破壊されたものと思われます。



また、唯一残っていた堀切も、急傾斜地崩壊防止工事や見晴らしの丘造成に伴い、消滅したのでしょう。




堀切
当時はこんな見事な堀切が残っていたんですね。
平成10年 調査報告書より



北側の市街地からでもハッキリと痕跡が見えたそうです。
「氷見の山城」より




堀切からの眺望(北方向、市街地から阿尾城址が見える)
平成10年の調査報告書より



同一ヶ所からの現在の眺望
丸印で囲んだ阿尾城址の位置、崖下の民家の重なりや屋根の向きなどから、ここに堀切があったと考えられます。


堀切は崖の工事に伴い、階段が設置され


尾根上は公園化により削平、もしくは埋め立てにより消滅していました。



ただ、尾根の東側にはいまだに雑木林が残り、一部耕作地となっていますが、往時の雰囲気を感じさせます。



また、尾根の西の端にはこんもりとした盛り土と、段になった法面がみえ、いかにも土塁か物見の櫓台跡にも感じられます(妄想ですw)




では幻の「氷見城」は何処???

朝日山公園の頂上部にある展望広場(神武天皇像がある広場)が本丸、その下にある遊具広場が二の丸、旧誉一山荘(ホテル)がある場所が三の丸
な~~んてね??
どうしても削平地の配置がお城を思わせますよね。



①展望台
昭和42年(1967)に完成、高さは18mもあり、幾何学的デザインで展望広場のシンボル的存在でしたが、2021年7月に老朽化が激しく解体開始。もう影も形もありません。
解体の記事は→こちら



③展望広場
神武天皇像


市内が一望できる展望休憩所。「見晴らしの丘」ができるまではここがイチオシのスポットでした。



⓹遊具広場



⑥噴水広場
小便小僧の氷見versionは「氷見寒ブリ」を抱えた小僧です。おしりプリプリ💛



氷見が生んだ幕末の剣豪「斎藤弥九郎」の銅像がある広場



旧誉一山荘のある削平地
氷見で一番格式の高いホテルだったが。。。。先月予約したんですがね残念です→こちら



今後の研究に期待しましょう(^^)/

【朝日山城】
《》
名称(別名);朝日山砦
所在地;富山県氷見市幸町
城地種類;山城
標高/比高;45m/30m
築城年代;南北朝時代
廃城年代;天文19年(1550)?
築城者;鞍川氏?
主な改修者;
主な城主;鞍川氏?
文化財区分;
主な遺構;
近年の主な復元等;


※出典、、、
地図;

四方台場@富山市西岩瀬 令和三年(2021)9月25日、10月2日

2021-10-22 08:58:29 | 城歩き
お城検索は→こちら


加賀藩は文化3年(1806)1月の『ロシア船に備えよ』との幕命を受けて以降、着実に海防の準備を進め、佐渡沖に異国船出没が伝えられた嘉永年間には、海辺防衛を一層厳重なものにするために、越中国を含めた沿岸一帯に御台場(砲台)を建設するなど、一連の防衛構想を実行に移していきます。
越中国では、伏木放生津を加え直ちに着工の運びとなりましたが、藩主視察の結果生地氷見にも築造が命じられたそうです。

黒い☆印は先発築造の6ヶ所、赤い☆印は越中国、青い☆印は富山藩の台場を現わしています。




《越中の御台場を訪ねて第1弾》
大砲のレプリカと、砲台跡の復元展示は県内ではここだけ!
【生地台場】
生地台場の記事は→こちら


《越中の御台場を訪ねて第2弾》
加賀藩が最初に築造した6ヶ所の台場の一つで、越中初の台場はここだ!!
【伏木台場】
伏木台場の記事は→こちら


《越中の御台場を訪ねて第3弾》
放生津八幡宮に痕跡を求めて。。。
【放生津台場】
放生津台場の記事は→こちら


《越中の御台場を訪ねて第4弾》
氷見台場を訪ねて氷見市立博物館へ行ってきました。。。
【氷見台場】
氷見台場の記事は→こちら




《越中の御台場を訪ねて第5弾》

加賀藩の沿岸防備に追随して富山藩も台場建設に着手しました。
その前に
そもそも越中(現富山県の中に、加賀藩と富山藩が別れて存在したなんて知らなかった(;^ω^)、と言う人も多いかも(;^ω^))
そうなんです、佐々成政が切り開いて統一した越中は、豊臣秀吉に反抗したばかりに秀吉配下の(元同僚の)前田利家と敵対関係になり、秀吉の成敗を受け敢無く降参💦
仕舞には九州に飛ばされ、成政の領地は利家の嫡男・前田利長に割譲されました。
なので、利長は能登の国・越中国・加賀国、三国の国主となったのです。時代は過ぎ、利長は義理の弟利常に代を譲りました。その利常が隠居をする際、嫡男には加賀藩を継がせ、次男利次には越中を割譲し富山藩を立藩し10万石で分封。また三男利治には大聖寺藩を立藩し7万石で分封したのです。
そう言ういきさつで、越中4郡「射水郡」「砺波郡」「新川郡」は加賀藩。真ん中の神通川流域の「婦負郡」は富山藩という飛び地になったのです。

地図中の赤い部分が「婦負郡」で富山藩の領地です。その他青い部分は加賀藩の領地。
地図は「ごの会」富山県立富山東高等学校5回生親睦会HPより転載させていただきました。→こちら




【富山藩四方台場】
富山藩では、安政元年に西岩瀬と四方間に「海固倉」を作り米三百石を詰め込んで異国船来週に備えていました。同年6月4日に発生したロシア船の伏木侵入は富山藩にも大きな衝撃を与え、苦しい藩財政をやりくりしての御台場建設を決断しました。文久元年(1861)7月に四方で測量を開始し、同3年に四方西岩瀬間に設置を見ます。また、付帯設備として海防御役所と見張り所を設営し、桜台の高台で常時海上監視にあたりつつ、河原での鉄砲稽古を幾度も重ね、防衛力の強化に努めました。


場所は富山市四方から西岩瀬の何処
四方漁港から八重津浜海水浴場の辺りでしょうね。その東は臨海工業地帯で富山新港が広がっています。
なので当時の富山港すなわち岩瀬浦に対する防衛拠点だったと思われます。





◆富山港にある「富山港展望台」から俯瞰してみました。
富山港、神通川を挟んだ対岸が西岩瀬、四方地区
現在は、化学コンビナートから八重津浜海水浴場、四方漁港へと続きます。


同展望台内部に展示してある古地図
上に描かれているのが展望台のある東岩瀬地区、神通川を挟んで下に描かれているのが西岩瀬、四方地区となります。




【富山港展望台】
住所;富山市東岩瀬町地内
入場;無料
利用時間;9時から16時30分




では神通川を渡って西岩瀬・四方地区へ行ってみましょう。

四方緑地
東岩瀬・神通川富山港方向(新潟方向)



伏木港・新湊方向
こちらの緑地は砂丘に雑草が密集している状態。雰囲気はあります。



八重津浜緑地
八重津浜から四方(伏木・新湊)方向の海


八重津浜から東、富山港(新潟)方向


八重津浜緑地
芝生が整備されています。ここだけ切り取ったら台場跡と言い切っても良いくらいです(笑)



◆推定台場跡
四方緑地から八重津浜緑地のいずれかだったと思われます。
しかし、実際に台場が築造され、大砲が設置されたとすれば史跡指定に値すると思うのですが、どうなんでしょうか?
説明板もなく、現地に手掛かりがないと言うのが腑に落ちません。
やはり公的機関で追加の調査が必要ですね。
もう少し調べてみたいと思います。


※参考資料、、、板垣英治「加賀藩の火薬」、「越中国の歴史と文化」


場所;富山県富山市四方西岩瀬(場所が特定されていませんので推定です)
地図;





◆★☆♪周辺散策◆★☆♪


四方漁港周辺
春になると「ホタルイカの身投げ現象」で大量のホタルイカが打ち上げられるポイントでもあります。
食べて美味しい、獲って楽しいホタルイカ♪
但し、何時でも誰でもと言う訳にはいきません。天候・時間・場所によってゼロから100まで、、、だから楽しいのかもしれません。
マニアの皆さんは情報共有が大切で、有料会員制サイトがあるくらいです。
※参考無料サイト→こちら



東岩瀬地区
こちらのキーポイントはやはり富山港を中心とした海運、北前船の寄港地があり廻船問屋が莫大な富を得た地区です。
それに伴う町並みと、運河・水路、さらに富山市内から乗り入れる路面電車???

岩瀬まち歩き
北前船寄港地・船主集落、、、大町新川町(旧北國街道)


「森家」「馬場家」などの廻船問屋が軒を連ねる


酒屋・田尻本店の店舗も森家土蔵群をリノベーションしてつかっています。オート三輪が時代をタイムスリップさせる


廻船問屋森家


銀行もこのように(笑)


桝田酒造


桝田酒造酒蔵


廻船問屋馬場家倉庫群をリノベーションした飲食店


「KOBO」コボブルーパブ


富山港展望台の足元にある岩の虎口を持つ問屋の倉庫跡


そこから古い町並みへ抜ける小径


土蔵が連なる倉群


一つひとつがリノベーションされ店舗にも使われている



古い町並みとそれを活かした新しいお店が融合し、観ても楽しく食べても美味しい町となっています。


◆運河・水路
富岩水上ライン
富山市内にある「富岩運河環水公園」から
春には運河の両側にある桜が咲き誇り、めっちゃ美しい


「中島閘門」を経て
水位の高さを水門で調整、水上のエレベーターみたいです(スエズ運河みたいなw)


富山湾、岩瀬運河を通って東岩瀬にある「岩瀬カナル会館」まで運行しています。
時刻表など運行状況は→こちら



◆路面電車が船の上を走る???


富山市内を走る路面電車「セントラム」と、岩瀬と富山を結ぶ富山ライトレール富山港線「ポートラム」が令和2年に繋がりました。
超低床次世代型電車「LRT」です。
右と左のホームの高さの違いに注目!
右はLRTに対応した新東岩瀬駅、左は旧東岩瀬駅。現在は地元に返して保存されています。



岩瀬まち歩きマップはこちら

氷見台場@富山県氷見市地蔵町 令和三年(2021)10月15日、2日、9月16日

2021-10-20 08:48:17 | 城歩き
お城検索は→こちら


加賀藩は文化3年(1806)1月の『ロシア船に備えよ』との幕命を受けて以降、着実に海防の準備を進め、佐渡沖に異国船出没が伝えられた嘉永年間には、海辺防衛を一層厳重なものにするために、越中国を含めた沿岸一帯に御台場(砲台)を建設するなど、一連の防衛構想を実行に移していきます。
越中国では、伏木放生津を加え直ちに着工の運びとなりましたが、藩主視察の結果生地氷見にも築造が命じられたそうです。

黒い☆印は先行築造の6ヶ所、赤い☆印は越中国、青い☆印は富山藩の台場を現わしています。




《越中の御台場を訪ねて第1弾》
大砲のレプリカと、砲台跡の復元展示は県内ではここだけ!
【生地台場】
生地台場の記事は→こちら


《越中の御台場を訪ねて第2弾》
加賀藩が最初に築造した6ヶ所の台場の一つで、越中初の台場はここだ!!
【伏木台場】
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《越中の御台場を訪ねて第3弾》
放生津八幡宮に痕跡を求めて。。。
【放生津台場】
放生津台場の記事は→こちら





《越中の御台場を訪ねて第4弾》

【氷見台場】
富山県氷見市の海岸に築造が計画された台場であり、金谷ら一行は嘉永3年6月11日に立ち寄り、唐島対岸の海岸を台場の建設地としたことが金沢市玉川図書館近世歴史資料館所蔵「氷見浦台場の縄張りの図」に記されている。
 嘉永3年6月に本台場は建設されたと記されているが、本台場は同年に築造された6ヶ所の台場には含まれていないことから調査が必要である。
5個の砲丸が配置された台場であったが、大砲の配備には至らなかった。図面では「丈」で記載されているが「間」に換算すると、伏木台場の図と同じである。
、、、

上段、、、金沢市玉川図書館近世歴史資料館所蔵「氷見浦台場の縄張りの図」
下段、、、氷見浦御台場「富山県史編纂委員会1983」

※参考資料、、、板垣英治「加賀藩の火薬」




『唐島ノ左ニ受ケタル砂浜ニ上ガリ、台場ヲ定メテ縄ヲ設ケ、、、』と記録にあるため現在の地図に当てはめると赤い斜線の辺りでしょうか?
海岸が埋め立てられて現在は氷見番屋街となっているので、更に内陸側という事になりますよね。


朝日山公園より俯瞰
つり橋の橋脚が見えるところが「上庄川河口」です。「唐島」は上庄川の沖合にあるので、その「左」となると、赤い五重塔が見える辺りです。
当時配備が計画されていた「臼砲」の射程を考えると、河口から300m以内と言うところでしょうか。



赤い五重塔辺りには現在「氷見番屋街」が建設されていますが、その敷地よりも内陸側に旧堤防がそのまま残っています。つまり、海岸線はもっと内陸にあったわけです。




◆ここで詳しいことを調べるために「氷見市立博物館」を訪ねました。
対応にあたってくれたのは同館 大野究館長でした。大野館長と言えば地元紙北日本新聞の「とやま お城探検隊」で9月20日No111から10月12日No125まで氷見の城について担当され、紙面でも紹介されたところです。

解説頂いたところでは、江戸時代後期に加賀藩領の越中射水郡氷見町で蔵宿業を営み、町役人を歴任した田中屋権右衛門の日記「応響雑記」に氷見台場の件が記載されているという。
嘉永3年6月11日には、異国船に備えて地蔵町愛宕神社前の海岸に御台場の築造が計画され、縄張りが行われたが、実際に築造されることは無かった。同年9月7日には金沢専光寺浜で大筒などの軍事演習が行われ、安政2年4月20日に今石動で行われた砲術訓練は、権右衛門も見学している。、、、2020氷見市立博物館 特別展「応響雑記の世界」誌より抜粋

ここで重要なことがわかりました。『唐島の左に、、、』と言うのは向かって左ではなく、唐島から見て左と言う意味だったのです💦💦

朝日山からの俯瞰
写真左の海に浮かぶ小島が「唐島」
唐島から見て左なので、写真では中央の辺りとなります。



古地図
天保10年射水郡絵図 富山県立図書館蔵



現在の地図では
『地蔵町愛宕神社前の海岸、、、』とは推定この辺り
【地蔵愛宕社】




住所;〒935-0014 富山県氷見市地蔵町5−9
地図;



愛宕社から50m程で海です。



右手奥が「唐島」
氷見漁港



こちらの海岸線も埋め立てが進み、古地図で描かれた海岸は道路の手前の旧防波堤より更に内陸だったと思われます。



上記田中屋権右衛門の日記「応響雑記」には、『嵐で杭が流されたので打ち直した』との記載もあるそうです。
なので写真の住宅が建っている辺りが推定台場建設予定地だったと思われます。



加賀藩としては、越中国の守りをあまり重要視していなかったのでしょうかね(笑)
東の守りは生地台場、西の守りは伏木台場、この二か所で十分。氷見へは外国船の襲来の可能性が極めて低いと判断したんでしょうね。



◆ ☆ ★ ♪ 【周辺】◆ ☆ ★ ♪

氷見漁港場外市場 ひみ番屋街


道の駅氷見
住所;〒935-0004 富山県氷見市北大町25−5
地図;



上庄川に架かる「北の橋」
リニュアルされ「藤子不二雄Aキャラクターブリッジ」と言うそうです。



街中ではこんな楽しいシーンにも出会えます♪
「喪黒福造のスマイルベンチ」は女子に人気です。(SNS投稿快諾です)



この他にも
まんがロード→こちら
では藤子不二雄Aキャラクターにたくさん出会えますよ~♪

膳所城@滋賀県大津市本丸町 令和三年(2021)10月9日

2021-10-18 08:35:33 | 城歩き
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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)東海道を制し、弧状の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所埼)に膳所城を築城させました。築城計画は藤堂景虎が担当し、それまで膳所埼に流れていた相模川を北方に付け替えたと言います。はじめのお城は、本丸と二の丸、三の丸が別れていましたが、寛文2年(1662)の大地震で大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間、南北が最大約55間の規模を持つ本丸として再生しました。
本丸の後は現在、膳所公園となっています。またそれまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。
江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に移る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの江に膳所城は書き残されています。
現在の膳所城公園の北側に位置していた天守の規模は(4重4階の天守が上げられ)、最上階が3間四方、その下が4間四方、さらに5×6間、最下層が7×8間だったそうです。
城主(膳所藩主)は、初代が戸田一西、戸田氏、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安4年(1651)本多俊次が再任して以降、代々本多氏が城主を歴任しました。、、、現地案内板より

膳所城といえば江戸城、大坂城、名古屋城、彦根城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第一号であり、築城の名手・藤堂高虎の縄張りによるものとして知られています。

逸話として家康が水運の要・大津城を天下普請の城として推したところ重鎮の本多正信が、関ヶ原では京極高次が毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000を引き付け籠城した功績は大きいものの、背後の長等山からの大砲の攻撃を受けるなど守りの甘さを指摘して膳所に築城することを進言したという。家康は正信の言を承認して膳所城が築城されたという。

膳所城址公園
公園南側の堀


同北側の堀


同北側から



模擬城門外側
重厚に再現されています


模擬城門内側
高麗門様式です


城址碑
好天に恵まれ、親子がお弁当を食べていました。『どうぞそのままで』と言って摂れせてもらった一枚。


公園内
公園中心部にある天守台のような盛り土



本丸があった膳所埼は琵琶湖に突き出た出島のような形をしていました。



波打ち際には石垣の痕跡が見られます。



本丸跡石碑



北の丸方向



二の丸方向


二の丸跡地に建つ浄水センター
金沢城の「三十間長屋」風の倉庫をイメージした外観



三の丸があったころ、郡屋敷などの藩の役所が立ち並んでいた場所
現在は高層の集合住宅となっています。
今回はこのコインパーキングに車を停めました。



公園の向かい側にある「科学博物館」
当時は「作事所」があった場所でしょうか
この駐車場を利用するのが一番近い



公園の向かい、膳所神社に至る大手道
公園の交差点付近にある「市民センター、歴史資料館」
ここで下調べをしてから散策するのがベストで、駐車場が利用できますね。




【膳所城】
《》

名称(別名);石鹿城、望湖城
所在地;滋賀県大津市本丸町7
城地種類;梯郭式平城
築城年代;慶長6年(1601年)
築城者;徳川家康
主な城主;戸田氏、本多氏
文化財区分;国の重要文化財(大手門、北大手門、南大手門 ※全て他所へ移築)
近年の主な復元等;模擬門
天守の現状、形態;4重4階(非現存)

※出典、、、現地案内板、滋賀県観光情報他
地図;




◆★☆移築門◆★☆
【膳所神社】


重要文化財 膳所神社表門
この表門は旧膳所城二の丸から本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されたそうです。(旧国宝)


表門内側
藥井門様式で、屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。



南門
内側は高麗門様式です



北門



膳所神社御朱印
よく見てください!
「膳所城」と揮毫してもらいましたよヽ(^o^)丿
御城印は無いけど、日本でたった一枚の膳所城御城印、、、という事にしてください(笑)




住所;〒520-0815 滋賀県大津市膳所1丁目14−14
地図;







◆★☆移築櫓◆★☆
【芭蕉会館】


隣の公園が一段高くなっているので屋根がハッキリとわかる撮影ポイントです。



住所;〒520-0822 滋賀県大津市秋葉台35−9
地図;




瀬田の唐橋
湖水に移る天守閣はひときわ美しかったらしく、
「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。


坂本城@滋賀県大津市下坂本 令和三年(2021)10月9日

2021-10-16 04:15:52 | 城歩き
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元亀2年(1571)9月の山門(比叡山延暦寺)焼き討ち後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じると共に、浜坂本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の天守がそびえていた坂本城について、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正4年(1576)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と称賛しています。
 坂本城の目的は、山門の監視ばかりではなく、彦根の佐和山城と共に、信長の領国美濃と京都のルートの確保、水運の重要な拠点などがあげられます。この城は、天正10年6月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽秀長によって再建され、同14年頃、城主浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にありました。
 昭和54年(1979)の「字城畔」の発掘調査では、厚い焼土や城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸・土坑・溝・石垣の基礎石などが見つかっています。大津市教育委員会、、、現地案内板より


場所は滋賀県大津市下坂本
国道161号線(琵琶湖西縦貫道路)と並行して琵琶湖側を走る、県道558号線(高島大津線)「石川町」交差点から少し北に進んだところの右手に【坂本城公園】があります。
ここの駐車場に車を停め、公園内にある案内看板を確認してから、近くにある「本丸跡」「坂本城石垣」を見学しました。
また二の丸跡に建てられた「坂本城址の碑」周辺には駐車場が無いので、ここから徒歩で行くのが良いでしょう。




坂本城公園
城址石碑


光秀公銅像


ボランティアガイドによる説明
現地案内板を背に、ボランティアガイドのおじさんが説明をしてくれました。観光客が集まり次第始まりますが、土・日・祝日のみのようです。


琵琶湖畔
公園から砂浜に出ることができ、魚釣りをしている人や波打ち際で遊ぶ親子連れなど、地元の人にも親しまれています。
この浜伝いに本丸跡まで行けるのかボランティアガイドさんに訊いたところ、『芦が水中まで茂っており無理』との事。
一旦県道に出てから、回り込むしかないそうです。


「坂本城の石垣」
琵琶湖が渇水した際水位が下がり、水中に沈んでいた石垣列が露出した時の貴重な写真を見せて頂きました。


この石垣露出写真は2020年某TV番組の中で、城郭考古学・千田嘉博先生がこの地を訪れた際に放映されたものと同じものです。
感動です~\(^_^)/



「御城印」
ナント!!!!!
おじさんに御城印はどこで手に入るか質問したところ『ここにあるよ』って、やっぱりコミュニケーションは大切ですよね。



本丸
現地説明板の後方、中央の民家の裏手だそうです。


県道まで出て北へ100mほど、「すき家」の向かいのあぜ道を琵琶湖に向かって歩きます。


途中に案内標識もあります。


琵琶湖畔の波打ち際に到達しましたが芦が水辺まで密集しており、何が何だか分かりません。
意を決して左手の藪に突入!!!



チョット開けたところに出ました。左手には桟橋が見えます。これこそTVで千田先生が指摘していた石垣の場所!!!
さらに藪をかき分け進みます。

水中の石垣
今は水位が上がり水没していますが、ここです!!



現在の桟橋の付近でも発見されています。



琵琶湖が最大渇水した平成6年(1994)9月15日、水位は-1.23mを記録。
この際湖底に沈んでいた石垣の大規模な調査が行われました。その結果全長34mに及ぶ石垣列が発見され、さらに石の最下部には胴木(現在でも軟弱地盤で不等沈下が予測される現場に適用される)と呼ばれる丸太を敷き、その上に石を積むと言う工法を採っていたことが確認されました。




本丸跡から琵琶湖眺望
信長が構想した琵琶湖城郭ネットワークが見えてくるようです。



NHK大河「麒麟がくる」
近江坂本城の場面


同、天守内にて光秀と煕子(ひろこ)の場面
築城途中の坂本城天守から二人で琵琶湖を見るシーン。一国一城の主となった光秀と、苦労をかけた妻煕子を労う感動の場面に涙したものです💦


真っ白に光が差し込む天守の先に見えるのは、きっとこんな景色だったんでしょうね。

対岸に見える安土城(白いカントリーエレベータ―の隣に見える山)




二の丸、三の丸
ボランティアガイドさんが現地説明で配布している資料より
坂本城本丸と二の丸三の丸

湖畔に突き出た一角が本丸で、中央先端に天守が描かれています。
NHK大河のお城の場面もこれに対応していますね。
先に訪ねた「大溝城」同様船着き場や桟橋があり、水上交通の拠点だったことがわかります。




同配布資料より
「明智光秀を歩く」坂本城を考える会
坂本城址周辺の地図と関連施設(みどころマップですね)

この中で比叡山坂本駅近くにある⑨「聖衆来迎寺」は坂本城の移築門があるほか、宇佐山城の戦いのおり坂本で討ち死にした宇佐山城主森可成の墓がある事でも知られています。



①坂本城址の石碑
二の丸と三ノ丸の境にある中堀の南角、北國街道沿いに石碑が建つ



背後の山は比叡山





【坂本城】
《》

名称(別名);
所在地;滋賀県大津市下坂本3丁目
城地種類;水城
築城年代;1571年(元亀2年)
築城者;明智光秀
主な城主;明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政
文化財区分;なし
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;不明(天守と小天守が推定されている)

※出典、、、
地図;



宇佐山城@滋賀県大津市錦織町 令和三年(2021)10月9日

2021-10-14 05:55:47 | 城歩き
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元亀元年(1570年)織田信長は、京都と湖西路とのルートを確保するために新路(現在の山中越)を作り、森可成(森蘭丸の父)に湖西を監視するために宇佐山城を築城させた。同年、浅井・朝倉連合軍との戦い(志賀の陣)で森可成は討死した。元亀2年(1571年)信長は、明智光秀に近江志賀郡(後の滋賀村、現在の滋賀学区付近)を与え、宇佐山城に入城させた。同年、信長は光秀らに比叡山焼き討ちを命じた。比叡山焼き討ちの直後その功績で、光秀は信長から坂本を与えられ坂本城を築城し、宇佐山城は廃城となった。本丸跡にはテレビ放送塔が建っており、石垣だけが現存している。

宇佐山城主森可成(もりよしなり)
織田信長の家臣として尾張統一で活躍。
浅井長政・朝倉義景の連合軍迎撃のため坂本に陣取り、9月16日の緒戦においては連合軍3万を1千の軍勢で撃退するも同20日、信長の弟・織田信治、近江の国人・青地茂綱と共に討死(宇佐山城の戦い) 墓は坂本の聖衆来迎寺にある。
本能寺の変で信長と共に討ち死にした近習・森蘭丸の父でもある。
美濃金山城主森可成の記事は→こちら


森三左衛門可成と森蘭丸長定、、、美濃金山城下の資料館で購入した武将カード




場所は滋賀県大津市錦織町
琵琶湖の沿岸で背後には比叡山、京都の隣と言う位置です。
自分は『宇佐山八幡宮 大津市錦織1-15」をセットしナビ任せで来ましたので、詳細な道順は説明できません(;^ω^)💦
取りあえず、名神高速道・京都東IC下車、国道161号線から錦織地区に降りて、山中の住宅街をくねくね曲がって、たどり着いたという感じです(;^ω^)💦

別の資料によれば、
陸上自衛隊大津駐屯地がある県道558号線柳ヶ瀬交差点から近江神宮鳥居前に向かい、県道30号線から川沿いに細い道を登って宇佐山八幡宮に進みます。




宇佐八幡宮登り口標識(宇佐八幡宮0.4K、近江神社0.3K、大津宮錦織遺跡0.5K)
山の斜面にある住宅街の細い道を曲がったところでナビは『目的地付近です』と放置(笑)
周辺をみると宇佐八幡宮の案内看板があったので、後は自力で500mほど移動してこの標識の場所に出ました。



そこから標識に従い山に向かいましたが、細いながらも舗装されているので車で登りました。(図面中緑色のライン)
かなり急な参道で、徒歩で登る人にも何人かすれ違いました。
暫く登ると突当りに駐車スペースが見えてきました。よかった~、正直な感想です(^^♪
ここからは神社への参道と、城址への登城道に分かれます。



志賀小学校PTAのみなさんでしょうか?要所要所に案内看板を設置してくれていますので、迷うことなく安心して登ることができました。
また『もう少しです』とか『滑りやすい急斜面です』など短いコメントが添えてあり、すごく励まされました。

※「滋賀村プロジェクト・いいね滋賀」の一環として2020年8月1日に設置されました。構成団体:滋賀学区青少年育成学区民会議、志賀小学校はなぞの会(保護者会)、滋賀学区文化協会 協力団体:滋賀学区自治連合会



山頂近く「本丸石垣」の看板が目に飛び込んできました。(※看板では本丸、図面では主郭、I 、と表記 以下同)



ここで縄張り図をもとに行程を説明します。
「近江の山城を歩く70・宇佐山城」樫木規秀先生執筆より引用(ブログ管理者加筆)
青字は現地案内板の表現、図中に併記しました。




本丸東面石垣(図面Ⅰ、主郭)の下





同石垣の北側の端


同北側より



横堀(図面主郭下武者隠し横堀)
削平してあるようで、石垣下から三の丸分岐まで続いています。どちらかというと帯曲輪のようにも感じました。



石仏
転用石だったのでしょうか? お賽銭を供え 合掌



武者隠し曲輪の石垣
本丸下石垣列の上段に造られた削平の法面を覆う石積み。



曲輪
本丸東側、尾根が「くの字」に曲がっている角を削平して築かれた曲輪。



同曲輪先端から下を見下ろすように置かれた地蔵、これも転用石だったのでしょうか? 背後に見えるのは本丸です。



本丸直下に残る石垣跡
本丸東側石垣の上に武者隠し石垣があり、さらにその上に残る石垣列。
この東に突出した地形は特に重要な場所だった事が伺えます。



遊歩道から主郭へ登る階段が整備されています。
この場所は三の丸、搦手道への分岐にあたり、大きな堀切でもあります。



山頂の主郭跡にはNHKや民放の放送中継局・アンテナが建っており、当時発掘調査が行われたそうです。
主郭一帯をこの施設が占める計画で遺構は完全に破壊されるところでしたが、調査の結果建物の基礎を上げたり虎口を残すなど、遺構を保存することができたようです。


山頂西側の斜面に築かれた荷揚げ設備



虎口遺構と基礎を上げた建物構造
基礎部に空洞を設け、地表の遺構を保存・展示している。



建物基礎部に保存展示されている石組溝の「暗渠跡」
宇佐山城主郭の配水施設だったのでしょうか。



喰い違い虎口
両脇の土塁と平坦部で構成された喰違虎口、ここが大手だった見られています。
虎口の石段も確認されています。



櫓跡
虎口を形成する一方の土塁は高く大きく築かれており、櫓が建っていたと考えられています。


櫓台東面には石垣跡も見受けられます。調査の結果、櫓の基礎部も確認されています。
また、東側に傾斜しているため高低差が大きく、高く見えます。


虎口付近に置かれた石仏
これも転用石だったのでしょうか? 人為的に置かれているので、発掘後ここに安置したのかも知れませんね。



本丸から二の丸方向を見る
虎口土塁から南の方向をみると、10m位下に削平地が広がっている。



横堀(貯水)
本丸と二の丸を隔てる溝、櫓台の直下にあります。
敵の侵入を阻む防衛施設だったんでしょうか。まあ、窪みですから水が溜まって「貯水」になるかも知れませんね。



二の丸
本丸下の一画が有刺鉄線で四角く囲まれていますが、どこの管理地なんでしょうか?厳重過ぎますね(笑)


その先、南方向の二の丸削平地
こちらは雑木林となっています。両方合わせると結構な広さがあります。


二の丸西側の削平地
10m位崖下にある削平地、用途は不明。



二の丸から南尾根方向
尾根は麓に向かって下って行く。この先が大手道だったのでしょうか。


二の丸石垣
二の丸削平地直下の石垣跡





二の丸東面帯曲輪
二の丸削平地東面から、2段下の削平地
二の丸下から本丸下の辺りまで細い削平地と連絡通路的に繋がっているように見える。



二の丸下東面石垣
この石垣は見逃す恐れがあります。二の丸から帯曲輪に降りて行かないとみることができませんし、1段下の石垣跡で満足して引き返す可能性が大きいい(笑)
本丸石垣より保存状態が良いですね。



野面積み石垣の南角石


同、北角石



同石垣、北側
東面石垣は北の端で、西にほぼ直角に折れています。
二の丸下の段段となった削平地の様子がよくわかります。




ここで折り返し
本丸と三ノ丸の分岐、階段のあるところへ戻ります。


遊歩道を登ってくると
右手が三の丸
左手が本丸、階段方向
直進には案内看板がありませんが「搦手道」で、麓に続いているようです。


反対方向、搦手道から見た写真
本丸と三ノ丸の間の谷部が大きく深く削り取られています。自然地形を利用した堀切だったのでしょうね。



三の丸
分岐から小山を登る勢いで三の丸頂上へ向かいます


三の丸削平地
本丸や二の丸に比べ幅広な削平地。正面からは琵琶湖・大津方面の視界が開ける。


三の丸西側の階段状曲輪群
10m程斜面を下ったところにある削平地、その下にも同じような規模の削平地が続き、北側尾根にも広がる。
また、北尾根の先には「北峰の城郭遺構」があるそうです。



三の丸北側には「宇佐山テラス」と言って眺望を楽しむ休憩場所となっています。
地元の有志が雑木林を切り開いて、見事な景色が広がっています。



宇佐山テラスからの眺望
比叡山と琵琶湖、眼下に広がる大津市内と左上は坂本方向



織田信長は、ここ宇佐山城(1570年築城)からの風景を見ながら、坂本城築城(1571年)、安土城築城(1576年)の構想を練りました。







石垣は主に東側に集中していることから琵琶湖側からの眺望を意識し、織田氏の権威・築城技術を見せつける狙いだったのかもしれませんね。


【宇佐山城】
《》

名称(別名);志賀城、志賀の城、志賀要害
所在地;滋賀県大津市錦織町
城地種類;山城
標高/比高;336m/100m
築城年代;元亀元年(1570年)
廃城年代;元亀2年(1571年)
築城者;森可成
主な改修者;明智光秀?
主な城主;森氏
文化財区分;なし
主な遺構;曲輪、暗渠、石垣、石段、櫓台、虎口、堀切、横堀、竪堀
近年の主な復元等;なし


※参考資料、、、「近江の山城を歩く70・宇佐山城」、現地案内板、
地図;



太山寺城@高島市安曇川町中野大山寺 令和三年(2021)9月30日

2021-10-08 08:32:11 | 城歩き
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地元では「御屋敷」または「寺屋敷」と呼ばれている。また、同地が小字「阿弥陀山」に属すること、天台宗寺院の立地条件の特徴を備えていること、最上段の曲輪には寺院の堂塔の基壇を思わせる石積み状遺構が存在すること、周辺には平安時代後期の陶器片が散布することなどから、創建時の太山寺が在った可能性が極めて大きい。
 一方、遺跡全体の構造は、中世城郭の連郭式に分類でき、堀切・竪堀・土塁・帯曲輪など山城の縄張リとしての特徴も顕著である。
 したがって・太山寺城は古代山岳寺院の遺構を利用して、戦国時代になって山城に改築されたものと考えるのが妥当と思われるが、築城の主体者については、田中氏・朽木氏・横山氏の領界付近にあることから、3氏いずれかと考えられるが現時点では決め手にかける。、、、太山寺里山保全づくりの会webページより引用→こちら


場所は高島市安曇川町中野大山寺から田中および横山にかけての山中です。



国道161号線、高島市「青柳北」の信号を県道23号線に向けて「安曇川」沿いに走ります。
「五番領」交差点を過ぎ、県道293号線が通る「広瀬橋」が右手に見えたら300mほど先の三差路を左折、「太山寺」地区に向かいます。この三差路には信号がありませんが、小川沿いなのでそれが目印です。「中野区入り口」まで行くと行き過ぎです。一筋戻って下さい。


太田地区まで舗装された山道が続きますが、左手に大きな養鶏場が見えてきたら道は左にカーブします。



そのカーブの手前、側道を右に入ります。側道は細くて見逃しそうなので要注意です!



側道からの地図に目印となる建物と住所を記載しました。ナビならこの住所を登録すると良いと思います。
山里暮らし交房 「風結び」滋賀県高島市安曇川中野795-3
レストラン「sato kitchin」滋賀県高島市安曇川中野786



大津第一交通の「中野太山寺」バス停を直進


赤い屋根が特徴の就労支援施設「ホトラ舎」前を直進



左手に炭焼き場が見えたら、山に向かって右折すると左に東屋みたいな休憩所があります。



この休憩所を左折



「弥陀山案内板のある広場」までの林道



分岐からすぐにある「旧太子堂跡」
土塁や堀などの遺構でしょうか? うねっていますw



さらに林道を登ると「弥陀山案内板のある広場」に到着。車はここに停め、ここから先は徒歩となります。





谷筋を登っていくと案内看板があります。山腹の歩道を歩きます。


途中のお地蔵さんに安全を祈願し 合掌


尾根に向かっていく案内看板



山頂と城址の分岐看板


アップ・ダウンを繰り返し、沢に出ると大きな案内板が設置されています。縄張り図や城跡についての歴史が書かれています。


沢を渡ると、左に曲がっていよいよ城域となります。



◆竪堀
山腹に掘られた竪堀が目に飛び込んできました。
立体イラストのC曲輪下にあたり、図面⑥の竪堀です。



ここで当日の行程を縄張り図と立体イラストで紹介します。
先ほどの案内板にある縄張り図です。(赤い文字の記号や番号はブログ管理者が加筆したもので、学術的なものと一切関係ありません。 以下同)


出典;滋賀県中世城郭分布調査 滋賀県教育委員会より(同上)




◆参道
山腹に刻まれた道を時計回りにグッと回ると景色は一変します。


地面がうねうねと、うねっています。
道には石が散乱しています。これが参道の石段だったんでしょうね。(図面①)
左手は切岸でここからでは見えませんが、右手は二段になった削平地(図面C)です。


参道上から下の方向を振り返って見たところです。
両脇に土塁が盛り上がっており、下の方では図面Ⅰの帯曲輪に向かう道が分岐しています。


図面B曲輪から参道を見下ろしているところです。
立ち木の間を縫って、石ころだらけの細い道が見えます。
奥が図面C曲輪です。



◆城域東側の二段になった削平地(図面C)
結構な段差です。


一段目の出入り口、虎口と思われます。


参道側の土塁
虎口以外は塀のようにして囲っていたものと思われます。



◆最上段の削平地(図面A)
主郭でしょうか? 北側の山を背にした南向きの一番広い曲輪です。尾根に連なる図面B,D,E,F,G、の曲輪と、東側の図面C曲輪を見下ろしており、西側に土塁を設けその下は崖となっています。

虎口の辺りに案内看板がありました。


この曲輪に登って最初に目に入るのは「基壇」と呼ばれるものです(図面④)
(基壇とは;建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、高くした部分です。飛鳥時代に中国大陸から基壇建築が伝わり、寺院・神社に普及していったそうです。)
つまり、基壇上に建物が建っていたという事ですね。土盛りした基壇の周囲は石で囲まれていたようです。

左側の基壇跡


右側の基壇跡


左右一対となっているように見えます。
本堂の前面に一対であるものと言えば、「阿・吽」で知られる「金剛力士像」のお堂だったんでしょうか??? 



その奥にさらに大きな基壇があります。
本堂跡です。(図面②)
先ほど南向きに曲輪があると言いましたが、本堂や基壇の配置をみると真南ではなく南東を向いています。その先には虎口・参道と繋がっています。



本堂石垣
一番の見どころの一つではないでしょうか
南東面石垣(図面⑪)
隅にはひときわ大きな石を据えているのがわかります。



本堂が建っていた場所は広い曲輪の一番奥で、北側二面を山で守り、



南西面は土塁を巡らせ、南東に開いています。


先ほど紹介した右側基壇、北東部にも主郭の削平面が広がり、背後の山の際には謎の窪みが2か所ありました。
話は飛びますが、この遺構にはこのような窪みがあちこちで見られます。発掘調査のトレンチ?でしょうか、それとも遺構の名残でしょうか?謎です(;^ω^)



背後の山
山城なら山頂部の最高所に本丸を築きそうなものですが、敢えてそれを背後に置いたのはやはり宗教寺院だからでしょうか。
それと、図面では本堂裏の斜面に最大規模の堀切が描かれているのですが、全く見当たりません。


堀切?
ずっと本堂跡に近いところに、ゆるい切れ込みのようなものが残っていましたが、まさかこれではないでしょうね(;^ω^)



土橋(図面⑨)
参道と本堂のあるA曲輪を繋ぐ道。切岸の傾斜をこの土橋で渡って虎口に至る。(図面⑧)



土橋から切岸に至る法面に残る石垣の跡(図面⑨)



B曲輪
主郭と思われるA曲輪の直下にあり、土橋・虎口を守る強い連携が感じ取られます。


堀切(図面⑦)
これも見どころの一つ
B曲輪と尾根繋がりのD曲輪の間を完全に断ち切っています。
この堀切から上のBとAの曲輪が一体的に運用され、もしかしたら寺院遺構はここまでで、それから下(D,E,F,G)は城郭として改修された曲輪だったのかもしれませんね。



D曲輪
南東尾根のB曲輪下にあり、上位郭群とは堀切(図面⑦)で遮断されている。


D曲輪の謎の窪み(図面⑬)
遺構なのか発掘調査の跡なのか分かりませんが、この曲輪にはこのような窪みが3か所もあります。
井戸ではないし、池???  もしかしたら五重塔の基礎???



E曲輪
南東尾根D曲輪の下位にある平坦面


D曲輪(写真上段)とE曲輪(写真下段)の間にある切岸(図面⓹)


切岸に残る石積み(図面⓹)
こちらも見どころの一つですね
大きい意志が残っています。崩れた感じがあります。



垂直に近い角度の法面に石が積んであったようで、土砂崩れ対策だったのでしょうか?(図面⓹)



この他にもD曲輪とE曲輪の間には
東面の竪堀や


西側の土塁があり、南東尾根から駆け上ってくる敵を想定した守りを固めています。



F曲輪



G曲輪
南東尾根最先端の削平地



東側斜面にある細長い削平地は参道と尾根先端の削平地との連絡通路的役割だったのでしょうか。
東側からの備えでもあったんでしょうね。
帯曲輪H



帯曲輪Ⅰ


どこからどこまでが坊院跡なのか?それとも全てがそうだったのか?
これは妄想ですが
南東尾根の堀切は城郭としての改修と思われ、そこから下の削平地はどうも後から付け足したような気がします。
それと山を背にした伽藍配置は、山の斜面を借景とした庭園だったのではないでしょうか?特に図面⑫や、©曲輪上段なんかは池があって水が流れる回遊式庭園で、窪みは池とみなすことはできないでしょうかね(笑)
隣が沢なので上流から樋などで水を引き庭園に流せば池になるし、尾根の傾斜を利用してまた沢に戻せば循環可能ですよね♪
そんな妄想をさせる不思議な遺構でした♪


【太山寺城】
《》

名称(別名);
所在地;高島市安曇川町中野大山寺/田中/横山
城地種類;山城
標高/比高;305m/100m
築城年代;室町期 
廃城年代;
築城者;
主な改修者;
主な城主;
文化財区分;
主な遺構;郭・土塁・堀切・石垣
近年の主な復元等;


※出典、、、滋賀県中世城郭分布調査 滋賀県教育委員会、太山寺里山保全づくりの会
地図;