【歴史】
天文6年(1537)美濃の守護代一族である斎藤妙春(正義)が築城した烏峯城がルーツとされる。妙春が天文17年(1548)謀殺されると、長井道利が城主となったが、やがて道三の娘婿である尾張の織田信長が美濃を支配したのに伴い、信長家臣の森氏が城主となった。
慶長5年(1600)に城は石川氏の預かりとなり、翌年に建物は解体され犬山城の改修に使われた。天守も移築されたとの説もあるが、今日では否定されている。
【縄張】
標高約276mの古城山の山頂に築かれた山城である。天守台を山頂の本丸北東隅に配し、本丸を中心に左翼と右翼に広がるような形で、二の丸や三の丸が配置されていた。また、天守台の北東にも東曲輪が設けられていた。本丸は総石垣、その他の曲輪でも部分的ながら石垣が用いられていた。、、、続日本100名城(学研)
場所は岐阜県可児市兼山
東海北陸道可児御嵩IC下車、国道21号線から県道381号線「市立兼山小学校」(岐阜県可児市兼山1444−1 )を目標にすると分かり易い。
城址・小学校分岐には標識と、第1駐車場があります。
ここからは「出丸」や「蘭丸広場」に行く遊歩道が整備されています。
麓にある兼山小学校
を過ぎると、城戸門(再現)の向かいに第2駐車場があります。
この第2駐車場から本丸登城口までは、「蘭丸広場駐車場」へ向かうルートと山頂の「出丸駐車場」に向かうルートに分かれます。
「蘭丸広場駐車場」から出丸経由で本丸登城口までは遊歩道にて約20分、また直接クルマで「出丸駐車場」に向かうルートは道幅が狭いですが、舗装されており傾斜も緩やかなので注意して走行すれば5分ほどで到着出来ます。
但し、「大堀切」から「出丸駐車場」への林道は夜間通行止めとなっているので要注意❕❕❕
午後5時から翌朝の午前8時30分まではゲートが閉鎖されているので進入できません。
自分は午前7時ころに到着したので焦りましたが、幸いにも「大堀切」分岐点に駐車場がありましたのでそこに停めることができました(^^)/
「大堀切」分岐点から、爽やかな早朝の空気を吸いながら林道を歩く事5分。
まず見えてきたのは「物見台」
最近多くの山城でこう言う施設がありますよね。山城=高い山の頂=パノラマ眺望 でも、高いところは怖い=けど、つい登ってしまう(;^ω^)
正面の「高根山」から、左手に広がる「明智の荘」や「明智城址」が一望できます。
直下は兼山小学校。
ここからは「出丸櫓石垣」も見えます。
主郭登城口はこの物見台と出丸の中間位にあります。
木箱にはパンフレットが準備されているので、山城歩きでは本当にありがたいですね。
「三の丸門跡」
礎石が残っており、ここには門があったと考えられています。この門をくぐると三の丸、二の丸へと進みます。
「破城の痕跡」
城を故意に壊して再び城が築かれないようにすることを破城と言い、美濃金山城跡には多くの場所に壊された石垣が残っています。
中略
この石垣は天端(一番上)と角が崩される破城の痕跡が残っています。、、、現地案内板より
このヤラレタ感が山城ファン、石垣ファンのハートをわしづかみ❕❕なのです(笑)
三の丸虎口付近に建立されている
「古城山払下げ記念碑」
古城山とはこの山のことであり、江戸時代には兼山の地を治めた尾張藩のお留山となって村人の立ち入りが禁止されていました。
中略
昭和28年に払下げを受けた記念碑で、長年にわたり利用できなかったことが、城跡の遺構を残すことになったのです。、、、同上
「お留山」と言えば、石川県加賀市にある「大聖寺城跡」も加賀藩によってお留山として入山禁止になり、後に立藩された「大聖寺藩」は「大聖寺陣屋」を城の代わりとして政務を執り行ったため保存状態が凄く良かったのを記憶しています。→こちら
「三の丸虎口」
麓の城下町からの登り道がここに通じていたようです。またここは「水の手」とも呼ばれ、山城の最大の課題である水を確保する場所があったとも伝えられているそうです。
写真左手は自然岩盤を削って虎口の壁にしています。
「三の丸北曲輪」
西腰曲輪の下の段に三の丸と呼ばれる曲輪があります。
ここからは、上段にある「西腰曲輪」の石垣を見ることができる。
こちらも破城の痕跡、落石が多数散見されます。
「二の丸」
払下げ記念碑から時計回りに東側へ進むと、二の丸の曲輪があります。
発掘の結果、礎石の形状から渡り廊下のある建物があったと考えられているそうです。
また、二の丸南端には「物見櫓」の跡もあり、敵の監視にあたっていました。
「二の丸西面石垣」
角石
「二の丸南面石垣」
三の丸から主郭に向かって登るルートが二俣になっているので見落としがちですが、必見です!
「枡形虎口」
三の丸、二の丸から石段を登ると枡形虎口があり、その先は本丸下の腰曲輪への入り口となっています。
三方向を石垣で囲み礎石が発見されたことにより、門があったと考えられています。
枡形虎口を主郭側から見る。
二の丸・三の丸方向から石段を登って直進してくる敵兵は、枡形内で直角に方向転換させられたうえ南腰曲輪の門が閉ざされ、三方向から一気に攻撃される仕組みです。
「西腰曲輪」
枡形虎口から反時計回りの西側、本丸下にある曲輪。
「南腰曲輪」
枡形虎口から直角に曲がり、狭い出入り口の先に待ち構えている曲輪。
南腰曲輪から本丸切岸
南腰曲輪から枡形虎口方向
一段下にある二の丸側斜面に「竪堀」のようなえぐれがありましたが、かなり幅が広いです。
「南腰曲輪石垣」
この石垣は二の丸の北側端から南腰曲輪の斜面へ侵入するルートで見ることができます。
遊歩道として整備されていない藪と崖なので注意が必要です❕
南面から東面にわたり石垣で囲んでいます。
野面積みと間詰石
石垣に夢中になっていて、ふと見上げると今迄の最短距離で「カモシカ」と遭遇❕
しかも今まで見た中で最強にどう猛そうです💦
威嚇するようにじっとコチラを睨みつけています💦
ちょっとビビりました💦
崖を駆け下りる後ろ姿はイノシシを思わせる体格の良さ❕
こんな奴に体当たりされてたら、ひとたまりもありませんでしたよ💦
一旦枡形虎口まで戻り、そこからいよいよ本丸へと向かいます。
「本丸南東面石垣」
角石は算木積みです。
本丸南面石垣
発掘調査で明らかになった当時の説明看板は、相当年季が入っている。
「石垣趾
本丸周囲は3米乃至四米(※3mから4m)の石垣をめぐらし石段以外には本丸へ入れぬようになっている」、、、(※ブログ管理者補足)
「本丸虎口」
本丸への唯一の出入り口。
この虎口を入った正面の石垣沿いに四つの柱の土台石である礎石が確認されています。このことは、石垣沿い、もしくは石垣よりもはみ出して、虎口全体を覆うような建物があった事を想像させます。石垣には等間隔で縦置きした石も配置され入ってくる人に見せる石垣であったことを伺わせます。、、、説明板より
「本丸」
発掘調査により、四棟分の建物礎石と排水溝も確認され、周囲から瓦が出土したことから、居住性のある建物だったことが判明しました。茶陶器なども出土したことから、御殿の他に茶室の存在も想定されます。
高石垣・建物礎石・瓦と言う三つの要素がセットで城に用いられるのは、織田信長、豊臣秀吉やその家臣たちが造った城の特徴を物語るものです。豊臣秀吉の家臣であった森忠政が城主であったことから、この城には店主も存在したと想定されています。建物が解体され、その材木などを木曽川を下って犬山城建築の材料に転用したという「兼山超」の伝承も残っています。、、、同上
金山城址石碑
「自然岩盤を利用した石垣と集水桝(井戸)跡」
古城山が岩山であることを利用し、自然岩盤と石積みを組み合わせて石垣としています。
本丸東面石垣
本丸東面石垣下集水桝(井戸)
石で囲まれたこの場所は、雨水を溜めた集水桝のようなものであったと考えられています。
本丸から俯瞰
「東腰曲輪跡」
本丸搦手の最終防衛施設があった曲輪。
土塀や侍屋敷があったと考えられています。
「左近屋敷跡」
「こちですよ」と言う看板があるが、「ここですよ」という看板が見当たらない(;^ω^)
勝手な推測です(;^ω^)
北側に二段の石垣が築かれています。
破城の際に石垣の天端の石や角石を壊した状態が残っているそうですが、、、(;^ω^)
左近屋敷を探して矢印の方向に進むと、九十九折れの急な坂道下って行き、概ね階段を150段くらい降りたところに平坦地がありました。
てっきりここがそうだと思ったら、「やすらぎの屋形」という展望休憩所でした(;^ω^)
その先「米蔵跡」もみたかったのですが、どうやら登り口の反対側の麓らしく、帰りの登りを考えたら脚が勝手に元来た方向に向いていました(;^ω^)
ここからまた階段を150段近く登って、本丸へ戻りました。
最後に訪れたのは「出丸跡」
ここには「出丸駐車場」が併設されトイレも完備しています。
金山城跡は国指定史跡ですが、この出丸跡は県指定史跡なんですね(;^ω^)
主郭から独立して大手口に築かれた防衛施設で、東西約55m、南北約33mの広さがある。
北面は土塁で築かれ南面はおよそ3~4mの石塁で築造されている。
東南隅には建造物の土台の名残である丸石が点在し、ここに出丸櫓があったと考えられています。
出丸櫓跡からの眺望
【美濃金山城】
《東美濃支配の拠点となった森氏の居城》
名称(別名);烏峯城
所在地;岐阜県可児市兼山
城地種類;山城
標高/比高;276m/176m
築城年代;天文6年(1537)
廃城年代;慶長6年(1601)
築城者;斎藤妙春
主な改修者;
主な城主;森氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、堀、土塁、空堀、石垣
近年の主な復元等;
※出典、、、続日本100名城(学研)
地図;
【戦国山城ミュージアム】
県道381号からは平屋建てに見えますが、下を走る町道に面して1階入り口があり、こっちが2階入り口なのですw。
レトロな外観とは裏腹に、内部は近代的なミュージアムです。
山城巡り、城下町巡りの拠点施設として、地域の人々が運営に積極的にかかわる地域密着型の博物館です。
美濃金山城模型
御城印はこちらです。
webサイトは→こちら
住所;岐阜県可児市兼山675-1
電話;0574-50-8433
開館時間;9時から16時30分(入館は閉館30分前まで)
休館日;月曜日(祝日の場合は翌日)
入館料;一般210円
なお、お隣の【可児市観光交流館】→こちら
では美濃金山城グッズやお城関連グッズが盛りだくさん。清潔なトイレも完備しているので是非立ち寄って下さい。
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