【歴史】
永禄6年(1563)織田信長は小牧山城を築き、主要兵力を移して美濃への侵攻を繰り返した。永禄10年(1567)美濃稲葉山城を陥落させると、これを岐阜城と改名して入城し小牧山城は廃城となる。
17年後の天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康の直接対決である小牧・長久手の戦いでは、家康が小牧山城に本陣を敷き城を改修して、秀吉と互角以上に渡り合った。江戸時代には小牧山は尾張徳川家の領地となり、一般人の入山は禁止された。
【縄張】
濃尾平野の北東部に位置する標高約86mの小牧山に築かれた。東西約600m、南北約400mの山全体を城域とし、多くの曲輪から形成されていた。小牧山城は従来、美濃攻めの一時的城と考えられていたが、近年の調査により、主郭の四方を石垣で囲んだ本格的造りの城であったことが判明している。、、、続日本100名城(学研出版)
場所は愛知県小牧市堀の内、「小牧市役所」正面
にある標高約86mの小牧山にあります。
事前にパンフレット等で調べると、小牧山内へは「史跡公園南口」から車で入れそうで、「れきしるこまき」という施設に駐車できると思い込んでいました。
ところが実際現地に到着すると「史跡公園南口」への進入口はあるものの、車止めがあり閉鎖されていました。
後刻同じ場所を通りかかると、知らずに侵入しようとする車が何台かありました。この通りは車の通行量も多く、侵入できないで立ち止まってしまうと、後続車に追突される危険性があります。
小牧山の専用駐車場としては、市役所から山の反対側に「北駐車場」があるようです。
自分は小牧市役所の駐車場を利用させてもらいました。
まず訪れたのは、史跡公園南口から入ったすぐのところにある小牧山史跡情報館「れきしる」
ここで小牧山城や城下町の歴史、小牧・長久手の戦い、などについて事前に学ぶことにします。
れきしる発行パンフレット(館内展示内容)
同(小牧山概要)
そして、重要なのは「御城印」はこちらです。
印鑑の家紋は三つ葉葵になっており、信長ファンにはちょっと残念(;^ω^)
主郭に建てられている「小牧市歴史館」で頂いた「信長四城」の朱印(スタンプラリーカード?)には、清洲城・岐阜城・安土城とともにこの小牧山城がちゃんと入っているのに、、、💦
【小牧山史跡情報館 れきしる】
webページは→こちら
料金;おとな100円、こども中学生以下は無料
開館時間;午前9時~午後5時(常設展の入場は4時30分まで)
休館日;毎月第3木曜日・年末年始(12月29日~1月3日)
電話;0568-48-4646
一般財団法人 こまき市民文化財団
「れきしる」発行の小牧山散策マップを参考に、モデルコースをほぼ全周してみました。
「大手道コース」(図中オレンジ色)
「自然満喫コース」(図中黄色)
「搦手道コース」(図中青色)
【大手道コース】
市役所の向かいにある大手口から、主郭に向かうコースです。
「城下町から小牧山城に向かう大手道」
かつてここに大手道があったことが分かるようにしたモニュメント。この先は市役所の1階の床へと続いているそうです。
後の安土城に見られるような、山頂に向かって直線に伸びる大手道は、斬新で先進的な城造りでした。
小牧公園石碑(マップ-2、ブログ管理者加筆の番号に対応しています以下同)
尾張徳川家九代藩主「徳川源明公墓碑」(マップ-3)
昭和28年、菩提寺である名古屋市東区にある建中寺の区画整理に伴い移設されました。
小牧山稲荷神社(マップ-4)
「大手道」
現在の大手道の下からは発掘調査により信長築城時(永禄期)の大手道が見つかり、中央部には排水溝が掘られ道幅は5mもあったそうです。また道の両側には人頭大の自然石を約3段積んだ石積みが配され区画されていました。
大手道の土塁は、小牧・長久手の戦(天正期)の折に徳川家康によって新たに築かれものであり、信長築城時(永禄期)の大手道に約1.6m盛り土して整地されたことが分かったそうです。(遺構図-24)
遊園地(マップ-23)
桜の馬場(マップ-22)
主郭に向かう分岐で大きな「空堀」と遭遇
大手道に対し直角に築かれた堀と土塁(遺構図-25)
大手道と平行に掘られた巨大な「空堀」と「土塁」(遺構図-26)
空堀を追っかけるうちにコースから外れ、逆回りとなる。
「虎口・土橋」
主郭地区と西側曲輪地区を隔てる空堀の北側に虎口がありました。堀幅は約5m、堀底から土橋までの高さは2.5~3m、同じく土塁までの高さは最大6.5mもあり、土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。
この虎口は信長築城時に築かれましたが、小牧・長久手の戦い(天正期)には土橋が封鎖されたそうです。
空堀と両脇の土塁 (遺構図-27)
大手道と虎口(遺構図-27)
明治時代、県立公園化に伴い遊歩道の整備や施設建造によって削平され、土橋や曲輪の遺構が埋め立てられたようです。
「主郭西面石垣」
裏込石(マップ-27)
主郭下曲輪の崖際では、「裏込石」として使われていたと考えられる大量の礫の堆積が発見されました。
石垣(マップ-28)
小牧山の自然地形を活かし、岩盤を基礎としてその上に積み石をしたり、切り立つ露出した岩盤の崖そのものを石垣に見立てていたようです。
屈折具合や築かれた面の傾斜具合から、山の地形に合わせて築かれた塁線である印象を与えています。
転落石(マップ-27)
露頭石垣から北側では、所々で積み石が抜け落ちている状況が見られます。この石はそこから転落したものと思われます。
主郭部に建設された「小牧市歴史館」(マップ-4)
名古屋市在住の篤志家が私財を投じて小牧市に建設寄贈し、昭和42年に竣工した小牧市の歴史資料館です。
南面
西本願寺の飛雲閣を模した鉄筋コンクリート3層4階建。
北面
館内
1F休憩スペース以外は有料となっています。
天守からの眺望
長久手古戦場方向
主郭下の曲輪群
二の丸、三の丸などがあったのでしょうか?
【小牧市歴史館】
webページは→こちら
入館料;おとな100円 中学生以下無料
開館時間;午前9時から午後4時30分(有料エリアの入館は午後4時15分まで)。
休館日;第3木曜日・年末年始(12月29日~1月3日)祝日の場合は翌平日
TEL;電話番号:0568-72-0712
小牧市役所教育委員会事務局 文化財課 文化財係
【自然満喫コース】
歴史資料館からぐるっと山を反時計回りに回り「タブの木」「土橋」「観音洞」「砕石場」「さくらの園」から「小牧山神社」へ向かうコース。
ここからは「土塁」や「空堀」などの遺構を中心に見て回ることにします。、、、小牧・長久手の合戦ガイドマップより引用(紫色の文字と記号はブログ管理者記入)
「主郭北東面石垣」(遺構図-29)
露出していた石垣の巨石群は、西面から北西、北東の一部にまで石垣が連続して残ることがわかりました。
タブの木(マップ-30)
市の木に指定されています。
スギ並木(マップ-31)
スギ並木を下って行くと搦手口に至ります。
スギ並木空堀と土塁(遺構図-32)
タブの木のある土橋付近から眼下に見える空堀と土塁
スギ並木沿いにその地点まで降りて藪に分け入ってみました。北側の谷筋に沿って敵が駆け上がるのを防御するラインだったようです。
観音洞跡石碑(マップ-7)
観音洞土塁切断(遺構図-32)
公園化された際遊歩道を通すために削り取られた爪痕でしょうか?(写真中の赤斜線はブログ管理者加筆)
観音洞縦に伸びる土塁(遺構図-33)
横に伸びる土塁切断(遺構図-34)
こちらも土塁が削り取られて遊歩道が通っています。
石切り場土塁(遺構図-35)
さくらの園(マップ-36)
さくらの園土塁(遺構図-36)
小牧山稲荷神社本殿(マップ-6)
本殿裏にある竪堀(遺構図-37)
【搦手道コース】
歴史資料館から「スギ並木」を通り、麓まで降りて外周部の堀や土塁沿いにほぼ半周するコース。
自然満喫コースで曲輪や土塁を見て大手口に戻り、最後に小牧山麓の外周に巡らされた「空堀」と「土塁」をぐるっと一周することにします。
大手口(虎口)復元土塁と空堀
市役所庁舎正面にある土塁と空堀前のある空間は、かつて旧市役所が建設されていた跡地です。
旧市役所を建設する際壊してしまった土塁と堀が、現在復元されています。
濠の深さは約6m、南面土塁の高さは約8mもあり、内側の土塁は東側から延びてきて上の曲輪と繋がっています。
「西自然遊歩道」
ここから時計回りに外周を一周します。
同じ大手口土塁ですが、市役所向かい側と比べ自然が残る景観と言うかメッチャ滋味です。(遺構図-38)
南側、土塁の切れ間に忠魂碑(遺構図-39)
西側バス停口(遺構図-40)
西側バス停口、公園内西自然遊歩道沿いの土塁(遺構図-40)
小牧山は太平洋戦争末期に軍の管轄下に置かれ、地下壕が掘られ、そこから出た大量の土砂が堀を埋めています。地下壕跡はその後陥没して通行を困難にしているため、築城当時と地形が変わっているところもあります。
土塁を横断する園路も設けられている。(遺構図-40)周辺、以下同
北西側、屋敷跡伝承地(マップ-41)
城が築かれる以前は中世の山岳寺院があったと推定されています。
信長が小牧山に城を築いたとき、南側に大手道を設けるとともに、西側から小牧山に登る道を谷筋に土塁を築いて閉鎖したと考えらています。
小牧・長久手の戦いでは、信長時代に谷を塞ぐ形で築かれた低い土塁を利用して、堀を掘った土砂をその上に積み上げてさらに高い土塁を築きました。(遺構図-42)
山麓に築かれた長大な二重の土塁と堀が残るのはこの付近だけで、水が溜まった景観は水堀のようです。
内土塁の幅12m、堀底からの高さ5~6m、堀の底は平坦で通路のようになっています。(遺構図-43)
屋敷跡を抜け搦め手口に近づくと視界が一気に開けてくる。(遺構図-44)
ここからは山麓に築かれた、武家屋敷と思われる曲輪群が広がります。
左手は山麓外周部に築かれた土塁。(遺構図-45)
搦手口(虎口)ここからスギ並木を通ってタブの木に至る(遺構図-46)
北駐車場口(マップ-47)
同、土塁断面展示(マップ-11)
山麓全体の堀の外側に築かれた二重の土塁は、内側より低くなっていましたが、江戸時代にはほとんどが削り取られて「一重の土塁」となっています。
井戸跡(マップ-48)
信長時代の武家屋敷の井戸で、家康が築いた土塁の下から発見されました。
直径は約2m、深さは3.2m以上もあったそうです。
山北橋虎口(マップ-49)
同小牧山展望
「織田信長公館」(マップ-10)
近年の発掘調査などにより小牧山の東から北の麓に、山を取り巻くように武家屋敷を配置していたことが明らかになりました。中でも、この曲輪は75m四方(他の曲輪が45m四方)と最も広い面積を持つため信長公の居館跡ではないかと推定されています。
同土塁と堀(マップ-10)
中学校の運動場造成の際に削平を受けたため、この堀と土塁の跡しか見つかっておらず、どのような建物があったか明らかになっていません。
ちなみに主郭が曲輪001で、信長公館が曲輪402と分類されているようですが、発掘調査の結果少なくても402個以上の曲輪があったという事でしょうか? 小牧山全体が曲輪などの施設で覆われていたんでしょうね。
御幸橋虎口(マップ-9)
「青年の家・れきしるこまき」のある史跡公園南口を過ぎると、国道沿いに市役所向かいの大手口まで土塁と堀が復元されている。
バス停側入り口はかつて車で侵入できたようですが、現在は閉鎖されています。(マップ-50)
同、展望階段も閉鎖中(マップ-51)
こちらは老朽化からでしょうか?
市役所正面の復元された堀と土塁(マップ-1)
市役所正面から見た土塁と小牧山
ここは今まで攻城してきた山城と違い、街中にある小高い丘の「城址公園」という感じで、かつて信長の居城だったことや、天下分け目の「小牧・長久手の戦い」の舞台だったことが嘘のような穏やかな佇まいでした。
桜の馬場公園では小さい子を連れたママたちが、自然満喫コースや自然遊歩道ではジョギングで汗を流す人たちが、そして土塁と堀を巡らせた麓の外周部ではのんびり散歩をするひとで賑わい、市民から愛され親しまれていることがよくわかります。
※参考資料、、、現地案内板、史跡小牧山遺構分布図(小牧市教育委員会)、小牧山散策モデルコース(けきしるこまき)
【小牧山城】
《美濃攻めを目指した織田信長が築く》
名称(別名);火車輪城
所在地;愛知県小牧市堀の内1丁目
城地種類;平山城
標高/比高;86m/60m
築城年代;永禄6年(1563)
廃城年代;天正12年(1584)
築城者;織田信長 織田信雄 徳川家康
主な改修者;徳川家康
主な城主;織田氏 徳川氏
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;曲輪、石垣、土塁、空堀、切堀
近年の主な復元等;
※出典、、、続日本100名城(学研出版)
地図;
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