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長篠城は、永正5年(1508)に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城した。ここは二つの川が堀となり、断崖が城壁となる天然の要害の地となっている。菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、のちに徳川家康が城を奪い大改築した。天正3年(1575)、家康の家臣奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼軍が城を包囲し落城寸前まで攻めたが、織田・徳川連合軍がかけつけて城を死守した。現在城地の中心を鉄道が通ってしまっているが、断崖の北側にも堀・土塁が多重に残っている。、、、日本100名城公式ガイドブックより
場所は愛知県新城市長篠市場
新東名「長篠」IC下車。「新城インター」交差点で国道151号線へ右折。新東名のガードをくぐり、豊川に架かる「長篠大橋」を渡り、「長篠広面」交差点を過ぎると、右手に案内看板があります。そこを右折すると「長篠城址史跡保存館」と駐車場があります。
※発掘調査の結果、同館の地下には『三日月堀』の存在が確認されました。そのことから主郭虎口には『丸馬出」が設けられていたと考えられています。


平面図
※長篠城パンフレットより

本丸空堀

空堀と土橋

帯曲輪跡(現在の駐車場)

本丸


城址碑


宇連川に面した東側は、JR飯田線によって城址が分断されている。
飯田線と堀跡

分断された土塁

厩跡

野牛曲輪跡

本丸土塁


「後堅固な城郭」
二つの川は天然の堀となり、急峻な崖地傾斜(中央構造線の岩盤)は天然の石垣

本丸と弾正曲輪を挟む寒狭川「不忍の滝」

弾正曲輪

現在は民家が建っていますので立ち入りは自粛

土塁

《周辺散策》
弾正曲輪の向かいにある「家老屋敷跡」
こちらも現在は民家です。

馬場美濃守墓

「フォッサマグナ露頭地」から豊川に架かる国道151号線「長篠大橋」

どうしても見たいものがあって、この橋を渡り、豊川と新東名の間の田んぼを探し回りました。

ようやく見えてきました。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
武田の大軍に包囲されるなか、籠城の窮地を報告、援軍を要請するため城を抜け出し、岡崎の家康の元に走ったが、帰路武田方に捕縛された。『援軍は来ないと言えば助けてやる』と言われたが、大声で『援軍は来る!』と城内に向かって叫んだため磔にされた。籠城の将兵は大いに鼓舞され、徳川・織田連合軍の到着まで耐え抜いた。この死をもって鼓舞したことが忠義の証として後の世まで語り継がれることとなりました。 まるで戦国版走れメロス→こちら

磔死跡石碑

豊川を挟んだ向かい側には長篠城本丸が見える。

長篠城から見た鳥居強右衛門磔死の跡

【まとめ】
ヤマップ行動記録
活動時間:1時間51分
移動距離;4100m

ヤマップ3D

【御城印】

長篠城址史跡保存館にて販売
内部展示
子孫や地元に伝わる本物の資料がたくさん展示されています。

【長篠城】
《武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城》
名称(別名);ながしのじょう(末広城,扇城)
所在地;〒441-1634 愛知県新城市長篠市場22ー1
城地種類;平山城
標高/比高;60m/30m
築城年代;永正5年(1508年)
廃城年代;天正4年(1576年)
築城者;菅沼元成
主な改修者;奥平信昌、徳川家康
主な城主;長篠菅沼氏,奥平信昌
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;
長篠城は、永正5年(1508)に土豪菅沼元成が宇連川と寒狭川の合流点の断崖上に築城した。ここは二つの川が堀となり、断崖が城壁となる天然の要害の地となっている。菅沼氏は武田氏の支配下に入ったが、のちに徳川家康が城を奪い大改築した。天正3年(1575)、家康の家臣奥平貞昌(信昌)が城主のとき、武田勝頼軍が城を包囲し落城寸前まで攻めたが、織田・徳川連合軍がかけつけて城を死守した。現在城地の中心を鉄道が通ってしまっているが、断崖の北側にも堀・土塁が多重に残っている。、、、日本100名城公式ガイドブックより
場所は愛知県新城市長篠市場
新東名「長篠」IC下車。「新城インター」交差点で国道151号線へ右折。新東名のガードをくぐり、豊川に架かる「長篠大橋」を渡り、「長篠広面」交差点を過ぎると、右手に案内看板があります。そこを右折すると「長篠城址史跡保存館」と駐車場があります。
※発掘調査の結果、同館の地下には『三日月堀』の存在が確認されました。そのことから主郭虎口には『丸馬出」が設けられていたと考えられています。


平面図
※長篠城パンフレットより

本丸空堀

空堀と土橋

帯曲輪跡(現在の駐車場)

本丸


城址碑


宇連川に面した東側は、JR飯田線によって城址が分断されている。
飯田線と堀跡

分断された土塁

厩跡

野牛曲輪跡

本丸土塁


「後堅固な城郭」
二つの川は天然の堀となり、急峻な崖地傾斜(中央構造線の岩盤)は天然の石垣

本丸と弾正曲輪を挟む寒狭川「不忍の滝」

弾正曲輪

現在は民家が建っていますので立ち入りは自粛

土塁

《周辺散策》
弾正曲輪の向かいにある「家老屋敷跡」
こちらも現在は民家です。

馬場美濃守墓

「フォッサマグナ露頭地」から豊川に架かる国道151号線「長篠大橋」

どうしても見たいものがあって、この橋を渡り、豊川と新東名の間の田んぼを探し回りました。

ようやく見えてきました。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
武田の大軍に包囲されるなか、籠城の窮地を報告、援軍を要請するため城を抜け出し、岡崎の家康の元に走ったが、帰路武田方に捕縛された。『援軍は来ないと言えば助けてやる』と言われたが、大声で『援軍は来る!』と城内に向かって叫んだため磔にされた。籠城の将兵は大いに鼓舞され、徳川・織田連合軍の到着まで耐え抜いた。この死をもって鼓舞したことが忠義の証として後の世まで語り継がれることとなりました。 まるで戦国版走れメロス→こちら

磔死跡石碑

豊川を挟んだ向かい側には長篠城本丸が見える。

長篠城から見た鳥居強右衛門磔死の跡

【まとめ】
ヤマップ行動記録
活動時間:1時間51分
移動距離;4100m

ヤマップ3D

【御城印】

長篠城址史跡保存館にて販売
内部展示
子孫や地元に伝わる本物の資料がたくさん展示されています。

【長篠城】
《武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城》
名称(別名);ながしのじょう(末広城,扇城)
所在地;〒441-1634 愛知県新城市長篠市場22ー1
城地種類;平山城
標高/比高;60m/30m
築城年代;永正5年(1508年)
廃城年代;天正4年(1576年)
築城者;菅沼元成
主な改修者;奥平信昌、徳川家康
主な城主;長篠菅沼氏,奥平信昌
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;石垣,土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;