私の小さな頃はどこの家でも柱時計がありました。
柱時計はちょうどの時刻になるとその時間の数だけボーンボーンと音が鳴り、30分には一つだけ鳴ったものでした。
時間を示す大小の針の動力はゼンマイで、音を鳴らすのもゼンマイでしたので、柱時計にはゼンマイを回す穴が二つありました。
我家ではそのゼンマイを毎朝巻くのは父の役割だったのですが、小さかった私はそれがうらやましくて、いつかは自分がやりたいと思っていたので、たぶん父にもお願いしていたと思います。
そして小学校4年生ぐらいの時になって、やっとゼンマイを回すことが許されたのですが、思っていた以上にゼンマイが堅くて上手に巻くことができずに苦労した記憶があります。
そのうちに時計がいつの間にか電池式になり、ゼンマイを回す役割がなくなってしまったのですが、その時には喪失感というものはなく便利になったことの方に意識が行っていたことを覚えています。
私の人生の中で、無くなってしまった役割や仕事は数えられないくらい多いのですが、新しいテクノロジーへの変換に興奮してきた感があって、喪失感やむなしさを感じたことはほとんどありませんでした。
しかし振り返ってみると、子供にとって憧れの役割だった時計のゼンマイ巻きが無くなってしまったことを、残念なことだと思わなければいけないのかな?と少し感じたりしています。