アラヤの顧問をしてくれている笹尾光彦さんが「ほぼ日刊イトイ新聞」に書かれた記事を転載します。
読者からの質問
60歳です。
保育士の資格を取るには遅いですか?
(60歳・保育補助)
笹尾光彦さんのこたえ
ぜんぜん遅くはないとは思いますけど、資格ってそこまで重要でしょうか。
そしていつかは書の道へ戻ってほしい。
笹尾光彦さん(画家)
笹尾光彦(ささお・みつひこ)
静岡市生まれ。多摩美術大学卒。日本画家の父の影響で、幼い頃より絵に興味を持つ。大手印刷所デザイナー、外資系広告代理店クリエイティブディレクター、その後制作担当副社長を務め、広告業界で活躍する。その間ヨーロッパ、特にパリへ何度も足を運ぶ。仕事のかたわら絵を描き始め、本格的に画家になる決心をする。56歳で、画家へ転身。以来、渋谷のBunkamura Galleryにて、毎年、個展を開催。
わたしも、この方と同じような年齢で仕事を変えました。
この11月で80歳になるので、転職してから20年以上もの時間が経ったことになります。──はい。
笹尾
そういうわたしが、この方に何か言えるとすればと考えたら……やっぱり、この方の「いま」というより「この先の20年」を一緒に考えたいんです。──おお、「いま」ではなく「先」を。
笹尾
そう、そのことを前提として、まずは現在の問題。
つまり「保育士の資格を取るのには遅いですか?」という質問については、
当然「遅くなんかない」ですよね。
調べたところ、幸いなことに、保育士の受験資格に「年齢制限」はないようでした。
だから、もし本当に資格を取りたいなら、すぐに実行すればいいと思うんです。──はい。
笹尾
つまり、質問に対する答えとしては、そこで終わっちゃうんだけど、少し気になったことがあるんです。
それは「保育士の資格を取る」ということが、本当にご自身のお気持ちなのかどうか、ということ。──ああ、質問の前段階として。
笹尾
仮に同僚の有資格の保育士さんと自分をくらべてとか、そういう思いからの悩みなんだとしたら、無理をしなくてもいいんじゃないかな。──どうしてですか。
笹尾
迂闊なことは言えませんが、子どもたちと相対する場面において、資格があるかどうかって、そこまで決定的なことだとは思えないんです。
この目の前の先生が
「保育士」なのか「保育補助」なのか、子どもたちにとって、それほど重要なことだろうか。──なるほど。
笹尾
もちろん資格は大切だけれど、それよりも、子どもたちから、どんなふうに見つめられる人なのかのほうが、ぼくは、大事だと思う。──そうかもしれないです。
資格のありなしで、専門的な知識の有無や、仕事の幅はちがってくるでしょうが。
「人対人」の場面では、たしかに。笹尾この方の文章を読むと「ご縁のあった保育園で」とあるんです。
つまり、
保育士の資格は持っていないけれども「助けてくれないか」とお願いされるんだから、きっと人柄も含めて、いい方なんだと思うんですよね。──ええ。
笹尾
そういう意味で、この方にとっては、保育士の資格って、あってもなくてもどっちでもいいと思います。
でもね。──はい。
笹尾
しかし、なんです。──しかし。
笹尾
この方と同じような年齢で職を変えたわたしには、「その後」のことが気にかかる。
だって、
過去の自分が「通ってきた道」だから。──その後、というと……。
笹尾
つまりね、資格を取るにしろ取らないにしろ、子どもさん相手の仕事なわけですから、体力だって要るだろうし、先々10年くらいしか続けられないんじゃないかと思うんです。──保育園の先生というのは、本当にハードなお仕事ですものね……。
笹尾
そこで、わたしは、この方の「その先のこと」を考えたんです。──なるほど。
笹尾
質問のいちばん最後にね、オマケみたいにして書いてあることなんだけど、
「本分の書道に戻ろうか」ってあるでしょう。──ああー……書いてありました。チョロっと。
笹尾
そう、そのチョロっと書いてあった一文にこそ、この方の本当の気持ちが潜んでいるんじゃないかと。
で、その気持ちにストレートに答えるなら、本分である書の道に、いつか絶対に戻ったほうがいいと思うんです。──はー……。
その答えは、想定していませんでした。
保育士でも保育補助でもなく、「書の道に戻る」。
笹尾
いやあ、それはね、わたしも勤め人から画家になって20数年が経つんだけど、「本分」と呼べる仕事があるというのは、すごいことなんです。
そこまで言える何かに、人生で出会っているということは。──そうですね、本当に。
笹尾
わたしも、自分が本当にやりたいこと、自分の「本分」は何だろうって40代の後半から絶えず考えていました。
そして、ようやく50代の後半で、この先の人生は画家を「本分」として生きようと決めたわけですが、職を変えて本当によかったと思うんです。いまも毎日制作していて楽しいし、これをやって生きているんだという実感も得られる。──絵を描くということを通じて。
笹尾
だから、この方も「本分が書道」だと言うのなら、そこへ戻ることが、やはり人生の幸福につながっていくと思います。
「わけあって書道教室をたたみ」とあるから、続けるにあたっては何らかの障害があったのでしょう。
でも、たたんだあとに「3ヶ月も悶々と」されている。ということは、きっと、書の道から離れたことを、どこかで後悔してらっしゃると思うんです。やり残したことが、あるんだろうと思うんです。──たしかに……。
笹尾
もちろん「生計のために」という理由であれば、また別の話になりますから、今回は、この方の「気持ち」の問題に絞ってお答えしようと思うんだけど。──いや、でも、そうだと思います。
言われてみれば、
じつは「書への気持ち」にあふれた悩みであるようにも思えてきました。
笹尾
だからね、
これは、わたしの勝手な提案なんだけれど。──ええ。
笹尾
ご縁あって、せっかく保育補助の仕事をされているわけだから、週末に子ども向けの書道教室を開いてみるとか、そういうところから再開してみてはどうでしょう。──保育園のお仕事から書道教室へフィードバックされることも、ありそうですよね。
笹尾
そう。──保育園のお仕事と書道教室が、もしかしたら、ご自身の中では結びついていないかもしれないけど
「子どもの書道教室」をやろうと思ったら、いま、すごくいい経験をしていることになりますね。
笹尾
だから、そういうかたちで何年か続けて、保育についても十分に経験できたと思ったら、ぜひ、書道の道に戻られたほうがいいと思う。
というか、ぜひ、戻ってほしい。──保育園でのご経験を活かした、書道教室。
笹尾
うん。──笹尾さんとお仕事をしていてすごいなあと思うのは、前職の「アートディレクターの笹尾光彦さん」が「画家・笹尾光彦さん」の中に、今も、しっかりいらっしゃるということなんです。
笹尾
それは残ってますよ、やっぱりね。
何十年も続けてきた仕事ですから。
身体に染みついているというかな。──絵画という純粋な芸術作品を生み出す笹尾さんと、その作品をもとに商品を生み出す笹尾さんが、場面によって、入れ代わり立ち代わり……。
笹尾
でもそれは、特別なことじゃないです。
何をしてきたのであれ、
誰しも、その職業を生きているわけですから。──はい。
笹尾
なかなかね、「これが本分」って自分でね、わかんないし、言えないですよ。
だからこそ、胸を張ってとかじゃなくても、自然に「本分だなあ」って思える仕事があるんなら、それはもう一も二もなく、そこへ戻るのが「あなた」なんじゃないかなあ。【2020年2月25日 府中にて】