日露戦争における日本海海戦を知らない日本人は少ないと思いますが、その当時の状況からすれば、世果中の海軍軍人たちのほとんどすべてがロシアバルチック艦隊と戦う日本海軍は負けると判断していたはずです。
その当時日本には、世界中の陸軍、海軍から派遣されていたたくさんの軍人たちが観戦武官として駐在していたそうです。
観戦武官は基本的には中立の立場で、戦争をしている現場を観戦し、自国戦争時の参考となる事実を確認するという役割ですので、戦場に近い場所におもむくのですが、陸と違って海戦という場では戦闘艦に乗り組む必要がありました。
海軍の観戦武官は20名以上いたそうですが、負けるであろうと予想されていた日本艦隊に乗り組むという決断をした人物は英国海軍軍人とアルゼンチン海軍軍人の2人だけだった。
その1人であるマヌエル・ドメック・ガルシア海軍大佐は、日本の巡洋艦日進に乗り組んで観戦しています。
日進は第1戦隊の殿艦(しんがりかん)で戦隊の一番後ろに位置しましたので、戦隊が反転すると旗艦と同じ位置になり、戦闘中は旗艦の三笠と同じぐらい大砲の砲弾をあびることになったそうです。
砲塔にも被弾して大損害をうけただけでなく、指揮官など人的な被害も大きかったのですが、その後もまるで平然と戦闘を続行し続けたと記録には残っているそうです。
マヌエル・ドメック・ガルシア海軍大佐は砲術士官でもあったので、戦闘中に負傷した士官がいる中、中立であるべき規範を破って日本海軍に協力してくれたという可能性もあります。
ガルシア海軍大佐は日露戦争終結後も2年半ほど日本に滞在し、帰国の際には明治天皇陛下に拝謁し、天皇陛下からの賜り物もあったそうで、それはアルゼンチンのガルシア家で今でも大切にされているそうです。