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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-28

Vol.-27からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第87番 神齢山 悉地院 護国寺
(ごこくじ)
公式Web

文京区大塚5-40-1
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第87番、江戸三十三観音札所第13番、近世江戸三十三観音霊場第13番、東京三十三所観世音霊場第24番、山の手三十三観音霊場第7番、東都七観音霊場第7番、弁財天百社参り第46番、東国花の寺百ヶ寺霊場東京第3番

御府内霊場は、結願直前の第87番に御府内きっての名刹を配しています。
音羽の護国寺です。

第87番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに護国寺で、第87番札所は開創当初から音羽の護国寺であったとみられます。

護国寺は御府内有数の名刹につき記録類はふんだんにあり、逐一追っていくときりがないので、公式Web、『江戸名所図会』、『小石川区史』をメインに縁起・沿革を追ってみます。

護国寺は天和元年(1681年)、徳川5代将軍綱吉公(大猷公)が生母・桂昌院の発願を受け、上野国碓氷八幡宮(上野國一社八幡宮)の別当・大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山として創建されました。

幕府の高田薬園の地を賜い堂宇を建立、桂昌院の念持仏である天然琥珀如意輪観世音菩薩像を御本尊とし、神齢山悉地院護国寺と号しました。

なお、碓氷八幡宮(上野國一社八幡宮)の元別当・大聖護国寺(高崎市)は現存し、多彩な御朱印を授与されています。
公式Webには、御本尊の不動明王を含む五大明王、および三十六童子が桂昌院寄進であることが記されています。


【写真 上(左)】 大聖護国寺
【写真 下(右)】 同

 
【写真 上(左)】 大聖護国寺の御朱印
【写真 下(右)】 同

寺領三百石の寄進を受けて当山は大伽藍を整え、御府内屈指の巨刹となりました。
幕府の祈願所にもなり綱吉公、桂昌院も度々参詣したといいます。

音羽は江戸城の北方、武蔵野台地のほぼ南端にあり、その台地の高みは武州の山々や、遠く上信の霊山までつながっています。
風水では北の丘陵には玄武が備わり守護するという考えがあります。

幕府の祈願所を音羽に置いたのは、あるいは音羽の丘陵の玄武の守護を期待したものかもしれません。

護国寺は大和長谷寺末ながらすこぶる高い寺格を有し、御府内に多くの末寺を抱えていきます。

享保二年(1717年)正月、神田の護持院が焼失したのち、享保五年(1720年)幕命により護持院を当山内に併置。
観音堂を護国寺、本坊を護持院と称して、護持院の住持が当山を兼攝しました。


〔護持院〕
護持院は、筑波山知足院を号した御府内有数の名刹です。
護持院の開祖権僧正光誉は和州初瀬の西蔵院の住職でしたが(おそらく家康公の)篤い帰依を受けて江戸に招聘され、常州筑波山の宿寺の住持となり知足院と号しました。

筑波山・中善(禅)寺(知足院)との関係については史料により錯綜していますので、簡潔にまとまっている筑波山大御堂の公式Webから抜粋引用させていただきます。

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・筑波・知足院中興の祖・宥俊(第1世)は家康公の帰依篤く慶長七年(1602年)朱印五百石を賜る
・慶長十五年(1610年)筑波山中禅寺知足院の江戸別院として江戸に護摩堂を建立
・第2世・光誉は護摩堂の経営に当たるため江戸在府となり、以降筑波山には院代を置いて寺務執行が通例となる
・元禄元年(1688年)綱吉公の後押しで護摩堂を護持院と改称して開山
・江戸将軍家代々の加持祈祷を行う寺院へ発展、上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹となる
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上記と史料類をまとめてみると、

筑波山知足院の宥俊は家康公の帰依篤く慶長七年(1602年)朱印五百石を賜りました。
慶長十五年(1610年)、大神君(家康公)の命を受けて寺地を賜り、筑波山中禅寺知足院の江戸別院として江戸銀町(神田九軒町ないし日本橋?)に護摩堂を建立。
江戸城の護持所と定めました。

和州初瀬・西蔵院の住職・光誉は(おそらく家康公の)篤い帰依を受けて江戸に招聘され、筑波山中禅寺知足院第2世になるとともに、江戸別院の護摩堂(のちの護持院)を護持しました。
以降、筑波山知足院の住持は江戸(護持院)在所となり、筑波山には院代を置きました。

光誉上人は大阪冬の陣の際に陣中で祈祷をおこなったとありますから、家康公の帰依まことに篤かったとみられます。

常陸の名山・筑波山は古来から人々の信仰を集め、建久二年(1191年)源頼朝公は安西景益、上総介広常、千葉介常胤等を伴って筑波山当神社に参詣、神領を寄進しています。
頼朝公への尊敬の念が篤かったという徳川家康公が、関東鎮護に当たり筑波山を重視したのは故あることかもしれません。

実際、筑波山神社の公式Webには、これをうかがわせる記述がありますので抜粋引用させていただきます。
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・天正十八年(1590年)八月、徳川家康は江戸城に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め(た)
・慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の合戦に大勝の後(略)家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた
・宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長十五年(1610年)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願
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結城の総鎮守・健田須賀神社の公式Webには「霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した」とあり、筑波山信仰との関係を示唆しています。

健田須賀神社はまた、結城家第一の氏神として知られています。
家康公の次男・秀康公は羽柴家(豊臣家)の養子となったのち結城家に入り結城秀康を名乗りました。

秀康公の結城家入りは秀吉公と結城晴朝とで進められたとされますが、秀康公は関ヶ原の戦いの際に宇都宮に留まり、北方・上杉勢の南下を能く抑えました。

筑波山は江戸からみて鬼門の方角に当たり、江戸鎮護という観点からも重要な霊地だったとみられます。

このように、筑波山信仰や鬼門鎮護、そして北方を抑えた結城秀康公の事績などが重なり、筑波別当・知足院が将軍家代々の祈祷寺院となっていったのでは。

上野寛永寺が江戸城の鬼門にあることはよく知られていますが、こちらは天台宗。
さらに北東の筑波山に真言宗系の知足院を置き、二重の江戸鎮護結界を張ったという想像も許されるかもしれません。

知足院江戸護摩堂は、元和八年(1622年)夏以前に成立とされる「新義真言宗触頭江戸四箇寺」の一寺となり寺格を高めました。

御本尊は不動明王で、古くは御本尊に釈迦如来を安したとも伝わります。

寛永三年(1626年)大猷公(徳川家光公)により諸伽藍を建立、延宝二年(1674年)再修するも火災に罹り、貞享元年(1684年)湯島切通(かつての根生院の在地)に一旦移転しました。

元禄元年(1688年)綱吉公の後押しで(知足院江戸)護摩堂を護持院と改号して開山。
江戸将軍家代々の加持祈祷を行う寺院へと発展し、上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹となりました。

元禄(1688-1704年)任元の年に神田橋に移転。
移転後も徳川将軍家の帰依浅からず、松平若狭守・仙石越前守により護摩堂、祖師堂、観音堂、経堂、灌頂堂、鐘楼堂、二天門などの伽藍が整備されました。

このとき、隆光を開山とし権僧正に任せられ、元禄四年(1691年)寺領千五百石を拝領して院家に列し、関東新義(真言宗)惣録と定められました。

おそらくこの神田橋移転の前後に、護持院は「新義真言宗触頭江戸四箇寺」を外れたとみられます。

「新義真言宗触頭江戸四箇寺」については第35番の根生院でふれていますが、再掲します。
Wikipediaに「触頭(ふれがしら)とは、「江戸時代に江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。」とあります。

『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏、PDF)では、新義真言宗触頭江戸四箇寺は知足院(湯島~一ツ橋→大塚護持院)、真福寺(愛宕)、円福寺(愛宕)、彌勒寺(本所)で、元和八年(1622年)夏以前に成立の可能性が高いとしています。

「港区Web資料」には「新義真言宗の江戸触頭は江戸四箇寺と呼ばれ、本所弥勒寺・湯島知足院(後に湯島根生院)・円福寺・真福寺からなる。」とあり、『寺社書上』にも「根生院儀● 新義真言宗之触頭江戸四ヶ寺之内ニ御座候」とあるので、貞享四年(1687年)に根生院は触頭の地位を湯島知足院から承継したとみられます。

これは護持院が降格になったわけではなく、むしろその逆で「護持院は江戸城守護の役割に専らにするため触頭江戸四ヶ寺」を外れたとする史料が複数みられます。
じっさい、護持院は元禄四年(1691年)寺領千五百石を拝領して院家に列し、関東新義(真言宗)惣録に定められています。

職掌範囲が江戸から関東に広がっているわけで、これはどうみても格上げかと。
松平若狭守・仙石越前守という幕府重鎮肝入りの普請も、これを裏付けています。

元禄五年(1692年)隆光上人は大僧正に昇進し、元禄九年(1696年)元禄山護持院の号を賜わりました。

濃州大野郡實相院から弘法大師御自作の真像をお迎えして、祖師堂に奉安。
観音堂の御本尊も霊験あらたかな御守護として信仰を集めていたようです。

しかし、享保二年(1717年)正月、火災によりすべての堂宇を焼失しました。

享保五年(1720年)、幕命により護持院の住持僧侶は音羽の護国寺内に移り、江戸城祈祷所も音羽の地に遷りました。
観音堂を護国寺、本坊を護持院と称して護持院の住持が当山を兼攝したといいます。

なお、音羽移転時に御本尊についての記載がないので、従前どおり不動明王を御本尊に安していたとみられます。
護持院域内には、この地の蟹ヶ池から出現された薬師如来、歓喜天尊、東照大権現御正真の御尊像を奉安と記されています。

護国寺と同様、護持院も御府内に多くの末寺を抱えていたので、護国寺山内は御府内屈指の新義真言宗の宗務センターとなりました。
なお、本末記載ではそれぞれ「音羽護国寺」「大塚護持院」とされる例が多くみられますが、これは護国寺本坊(=護持院)が大塚寄りだったからかもしれません。

護国寺・護持院両寺併せてじつに二千七百石を賜わり、壮大な山内は『江戸名所図会』所載の絵図からもうかがえます。
高台にある景勝の地で、御府内霊場、江戸三十三観音の札所でもあったことから多くの参拝者を集めたといいます。

明治維新後、護持院は復職(復飾?)して寺号を廃しましたが護国寺は法派を堅持し、これまで護持院と称した部分も護国寺に復しました。

しかし、公式Webに筑波山大御堂のリンクが張られていることからも、旧護持院(筑波山知足院(大御堂))の法統はいまも護国寺のなかに息づいていると思われます。


【写真 上(左)】 筑波山大御堂
【写真 下(右)】 筑波山大御堂の御朱印

明治16年旧本坊を焼失、大正15年にも天和草創の大師堂を失いましたが、本坊はすぐに再建、元禄時代建立の薬師堂を大師堂跡に移して大師堂としています。

現在の本堂は元禄十年(1697年)建立の観音堂で、壮大な結構は元禄時代の代表的建築物として国の重要文化財に指定されています。

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護国寺本堂 江戸中期/1697
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、向拝三間、瓦棒銅板葺
重要文化財
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昭和3年、原氏寄進の月光殿は三井園城寺の中院にあった日光院の客殿で、桃山時代の書院作りの形式を備えた代表的建築物として、こちらも国の重要文化財となっています。

その他にも薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門、中門など、山内には多くの見どころが点在し、いまも多くの参拝客を迎えています。


〔吹上稲荷大明神〕
『御府内八十八ケ所道しるべ』に「本尊:如意輪観世音菩薩 本社 正一位吹上稲荷大明神 弘法大師」という記載があります。
この史料で「本社」とある場合、ほとんどは札所寺院が別当をつとめる神社です。

しかし、 『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)には「今宮五社 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町古の鎮守なりと云伝ふ」とあり、当山鎮守で当地の鎮守でもあったのは山内の今宮五社でした。

それではどうして御府内霊場拝所として吹上稲荷大明神が記されているのでしょうか。

境内掲示、『小石川区史』および東京都神社庁Webによると吹上稲荷神社(吹上稲荷大明神)の創祀沿革は以下のとおりです。

元和八年(1622年)、徳川秀忠公が日光山より稲荷大神の御神体を奉戴し江戸城吹上御殿内に「東稲荷宮」号して勧請斎祀。
のちに水戸徳川家の分家松平大学頭家が徳川家より拝領し、宝暦年間(1751-1764年)前に大塚村の総鎮守として松平家より拝受し小石川四丁目に奉斎とあります。
また、このときに江戸城内吹上御殿に鎮座せられるを以て吹上稲荷神社を号したといいます。

その後、護国寺月光殿から大塚上町、大塚仲町と御遷座され、明治45年に大塚坂下町(現在地)に御鎮座といいます。
一時期小日向の善仁寺山内に御遷座という史料もあり、御遷座地について諸説あります。

『小石川区史』に「後護國寺境内に移され、明治五年更に今の地に移った。」とあり、『御府内八十八ケ所道しるべ』が編纂された明治初頭時点では護国寺月光殿に御鎮座とみられます。

護国寺は徳川将軍家とゆかりのふかい寺院、吹上稲荷大明神ももともとは徳川将軍家とのゆかりをもたれるので、護国寺月光殿に御鎮座の吹上稲荷大明神が御府内霊場の拝所とされたのかもしれません。


【写真 上(左)】 吹上稲荷神社
【写真 下(右)】 吹上稲荷神社の御朱印

なお、護国寺鎮守の今宮五社については、第76番金剛院でふれていますが、すこしく複雑なので再掲整理します。

御府内霊場第76番札所は、もともとは小日向の田中八幡宮の別当・西蔵院でした。
田中八幡宮(別当:西蔵院)は現在の今宮神社の場所(音羽裏)にありましたが、明治の神佛分離で西蔵院が廃寺となり、田中八幡宮は氷川社(別当:日輪寺)と合祀されて、現在の小日向神社の地に御遷座、小日向神社と号されました。

一方、田中八幡宮の跡地には護国寺の鎮守であった今宮五社が明治6年に御遷座され、今宮神社を号していまに至るようです。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
八十七番
音羽壱丁目
神齢山 悉地院 護國寺
本山長谷寺 新義
本尊:如意輪観世音菩薩 本社 正一位吹上稲荷大明神 弘法大師

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
神齢山護國寺
悉地院と号し音羽町の北にあり新義の真言宗なり
和州長谷小池坊に属す
開山を亮賢僧正と号し公より寺領二千百石を附せられ盛大の地なり
古鹿子に云 寺領三百石大猷公(徳川家光公)守御本尊瑪瑙石観音像開基

本堂
 本尊 如意輪観世音菩薩
 瑪瑙石にして天然のものなり 元禄半の頃 前川三左衛門入道道寿といへる人 異邦に渡り持ち来りしを黄檗隠元老師の弟子黒滝の潮音 前川氏と子弟の縁ある●-● 潮音に授与す 其御故ありて桂昌一位尼公崇敬したまひし由

薬師堂
 本堂左にあり本尊薬師如来ハ昔当寺草創の時 此地蟹ヶ池より出現ありし霊像なりといへり 今の本尊薬師仏の胎中に収む 左右に十二神将の像を置り
西國三十三番巡礼所写
 本堂より西の方の山間にあり天明年間(1781-1789年)深林を伐開き各其地勢によって●を模す
歓喜天
 境内寿●院に安す 桂昌一位尼公尊信の本尊なりとそ永代不退ぢんす 天下安全の浴油の法を修せしめられ寺産を●ふ
仁王門
 仁王の裏に置所の廣目増長の二天の像ハ古への火災に残りしといふ
今宮五社
 当所鎮守と云 天照太神宮 八幡大神 春日大明神 今宮大明神 三部大権現五社を祭る 音羽町青柳町桜木町古の鎮守なりと云伝ふ

当寺ハ延宝九年上野國八幡別当大聖護國寺の住持 法印亮賢に高田御菜園の地を賜ひて寺とす 依って大聖護國寺と号亮賢初
御在胎の時より御祈祷を●りし故 天和元年(1681年)に 憲廟将軍の宣下蒙りて同年都下新建の大聖護國寺を仁和寺に録し●て院家と●依って寺領三百石を附したまふ
貞享二年(1685年)大聖護國寺の住持法印賢廣 黄衣を許る
其後元禄年中(1688-1704年)桂昌院殿一位尼公の御志願によろしく御菜園の地をちんし其頃御建立ありし 
江戸密乗最大の梵宇にして結構奉り 春時ハ櫻花爛漫として頗る地勢洛の御室を彷彿せり

『江戸名所図会 7巻 [12]』(国立国会図書館)
筑波山護持院
音羽町の北にあり真言宗にして和州長谷の一派なり
寺領千有五百石を附せらる

本堂
 本尊 不動明王 古ハ本尊に釈迦佛を安せしと云
歓喜天
蟹ヶ池 昔此所より薬師如来の像出現ありしとそ
権現山 東照大神君御正真の御尊像を安置し奉る

当寺開祖権僧正光譽ハ和州初瀬寺の西蔵院に住職ありしに 御帰依浅●●に江府に召され 常州筑波山の宿寺を下したまふ 即知足院と号す
其始知足院宥俊ハ下野國筑波山中善寺を兼帯し 真言宗新義四箇寺の支配●り 慶長(1596-1615年)の始 大神君の厳命を蒙り江城の護持所と定させられ 同庚戌の年(慶長十五年(1610年))江戸銀町に寺院をたまふ 其地末考九軒町の●

依光譽知足院をうつし営建を 同癸亥年大阪御陣の頃も光譽命を受けて御陣中に於て祈祷其御寛永三年(1626年)大猷公(徳川家光公)諸伽藍御建立あり

延宝二年(1674年)有廟御再修ありし● 天和五年(1685年?)火災に罹るよりて貞享元年(1684年)湯島切通に移したまふ 今の根生院の地なり
憲廟御帰依浅●●に元禄(1688-1704年)任元の年神田橋外武士屋敷の地に移され松平若狭守仙石越前守に命せられ 護摩堂 祖師堂 観音堂 経堂 灌頂堂 鐘楼堂 二天門 坊舎に至迄 金銀をちりばめたまひ 隆光を開山とし権僧正に任せらる 又護持堂後建立ありて釋迦佛を安せらる
同四年(1691年)寺領千五百石を附したまひ院家に列し 関東新義惣録とせしたまひ 色衣免許の●り当院より沙汰せしと命したまふ

同五年(1692年)覚鑁上人贈官の時に及び隆光改任し大僧正に昇進を 同九年(1696年)元禄山護持院の号を賜ハり(略)弘法大師自作の真像ハ濃州大野郡實相院と云 真言寺にありしを取寄られ祖師堂に安置せり 観音堂の本尊ハ有廟御信敬の御守護佛なり
享保二年(1717年)正月火災ありて 堂塔一宇も不残焼失すれハ 其頃住持とも護國寺に●ひ 大塚護國寺の内にうつし江府城護持の祈祷●所となさしめられ 筑波山兼帯●坊舎日輪院月輪院と云あり

『小石川区史/第七章P.822』(文京区立図書館)
神齢山悉地院護國寺。
新義真言宗豊山派大和長谷寺末。本尊は琥珀如意輪観世音菩薩、開山は亮賢僧正である。当寺の草創については『江戸名所図会』に『求凉亭云く、当寺は京の清水寺を模さるゝ故に、前の町を音羽と名付け、又青柳町、櫻木町など名付けられ、又音羽町九丁あるも、京に一條より九條までの名あるにもとづくとぞ』とあり、天和元年(1681年)将軍綱吉が母公桂昌院の請に依り、元の高田御薬園の地へ一寺を建立し、桂昌院の念持佛であつた天然琥珀観音像を本尊とし、寺領三百石を寄進したのに始まる。
その後桂昌院及び綱吉も度々参詣し(略)本寺は善美を尽せる大伽藍を擁し、将軍の祈願所として、府内屈指の巨刹として、誰れ一人知らぬものがないほど著名になつた。

享保五年(1720年)神田護持院が焼失した時、幕命に依って護持院を当寺に併置し、観音堂の方を護國寺、本坊の方を護持院と称し、護持院の住持が当寺を兼攝した。
兩寺領凡て二千七百石を賜わり、其規模の壮大であった事は、『江戸名所図会』所載の護持院、及び護國寺の圖を見ても知られる。又府内八十八ヶ所の八十七番札所としても多くの参詣者を集めた。

明治維新後、護持院は復職して寺号を廃したが、護國寺は開山以来の法派を保持し、従来護持院と称した部分の堂宇も護國寺分に復した。
然るに明治十六年失火して舊本坊を焼失し、更に大正十五年には天和草創当時の本堂たりし大師堂を失ったが、本坊は直に再建し、元禄時代に建築した薬師堂を大師堂跡に移して大師堂とした。

現在の本堂は元禄十年(1697年)建立の観音堂で、その結構は雄大であり、元禄時代の代表的建築物として寛永時代に建立された浅草寺本堂と併称せられ、都下の江戸時代代表的大建築として特別保護建造物に指定されて居る。
また昭和三年、原氏の寄進になる月光殿が有る。これは元滋賀縣大津市の三井園城寺の中院にあった日光院の客殿で、桃山時代の書院作りの形式を備えた代表的建築物の一つとして、特別保護建造物に指定されて居り、桃山時代の建築としては東都随一の物である。

尚ほ本堂の側に、畿内各地の名物を模造して高橋箒庵居士の寄進した石燈籠二十基があり、東都の一名物として好古家の推賞する所となっている。
又大師堂前には同じく箒庵居士の尽力に依って成った茶亭、仲麿堂及び圓成庵がある。
当寺の墓地は明治二十四年三條實美公の墓地に選ばれて以来、山田顯義伯、大隈侯、山縣公、二荒伯、田中伯、酒井伯、島津公、南部伯、平田伯、河野盤州、梅謙次郎、竹添進一郎氏等維新の元勲を始め、多くの近代名士の墓域となり、俗に『公園墓地』の称がある。
是等の諸建築物や墓地を有する当寺は概ね丘陵の上に有り、境内頗る廣濶、林樹風致に富み、築山、池水等もあって公園の趣を呈し、又音羽通り十数町を其門前町とし、現に市内屈指の佛刹である。
当寺は現在新義真言宗豊山派別格本山で、寺内には豊山派宗務所(がある。)

■ 『小石川区史』(国立国会図書館)
今宮神社
音羽町九丁目に在る。祭神は天照大神、素戔嗚尊、伊弉册尊、譽田別尊、天兒屋根命、大國主命、少彦名命、大宮乃賣命である。
その創建は社伝に依れば、元禄年中(1688-1704年)五代将軍綱吉の生母桂昌院が、護國寺建立と共にその境内に奉祀したと言ふ。
明治初年、神佛混淆禁止に依り、同六年元田中八幡宮の跡なる現地へ遷座した。明治五年村社に列せられ、現在境内は三百餘坪、祭日は九月七日で、東・西青柳町、音羽一丁目乃至九丁目、櫻木町を氏子としてゐる。

■ 『小石川区史』(国立国会図書館)
稲荷神社(吹上)
大塚坂下町に在る。保食命を祭神とする。
俗に吹上稲荷と言はれ、其創建年代も由緒も不明であるが、江戸末期の切絵図に今の大塚窪町邊を吹上と記してあり、又『小石川志料』には、智香寺境内に吹上稲荷大明神のあった事が見えて居るから、それが此の神社の起りであらうと思はれる。後護國寺境内に移され、明治五年更に今の地に移つた。社格は無格社であるが、境内は約二百坪あり、祭典は九月二十二日。竹早町、窪町、大塚町、大塚上町、同仲町、同坂下町を氏子としてゐる。



「護國寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


「大塚護持院」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ有楽町線「護国寺」駅で駅出口が山門前です。
振り返ると音羽通りは江戸川橋に向けてまっすぐに伸び、かつてはこのあたり門前町だったのかもしれません。
(『江戸名所図会』には、当山が京の清水寺を模したため門前の町を”音羽”と名付けたとあります。)

護国寺については見どころ満載すぎるので、さらっといきます。
素晴らしい山内なので、ぜひいちどお運びくださいませ。(と逃げる・・・(笑))

山内の伽藍配置については、↓の案内図をご覧くださいませ。



【写真 上(左)】 護国寺駅と仁王門
【写真 下(右)】 仁王門

仁王門前に交番を守衛所のように置くさまは、まさに名刹の風格。

仁王門は、切妻屋根桟本瓦葺の単層丹塗り三間一戸の八脚門です。
建立は元禄十年(1697年)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が下るとみられていますが、徳川将軍家祈願寺の表門の役割を果たしただけあって、単層とはいえ軒高が高くかなりのスケール感。
本瓦葺、丸柱、丹塗りと、山門からしてすでに寺格の高さを見せつけています。

- 護国寺の 山門の朱の丸柱 強きものこそ 美しくあれ -
窪田空穂


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所碑


仁王門扁額

向かって右手に「大本山護國寺」の寺号標、左手には御府内霊場の札所標。
左右に「大本山護國寺」の提灯を掲げ、見上げには山号扁額を掲げています。

正面南側の両脇間に阿吽の金剛力士像、背面北側両脇間には二天像(右側増長天、左側広目天)が安置されています。


【写真 上(左)】 ご縁日の仁王門
【写真 下(右)】 ご縁日の掲示

山門をくぐると右手に宗務所。こちらは真言宗豊山派の大本山です。

 
【写真 上(左)】 惣門
【写真 下(右)】 惣門の扁額

仁王門の西側に惣門があり、こちらは本坊(旧護持院)の門かと思われます。
綱吉公と桂昌院の御成のために建築されたといい、冠木門をとりこんだ住宅門の造りです。
案内板によると、五万石以上の大名クラスの格式に相当する形式だそうです。
見上げに独特な字体の寺号扁額。

惣門の先に本坊(寺務所)、書院、桂昌殿(葬祭場)、内仏殿を置いています。

山内は北の大塚方面から伸びる武蔵野台地が音羽谷に降るところで、山門と本堂(観音堂)にかなりの高低差があります。


【写真 上(左)】 音羽富士
【写真 下(右)】 音羽富士山頂

本坊裏手の高みには富士浅間神社(音羽富士)が御遷座、一合目から合標が置かれ頂には石祠があります。


【写真 上(左)】 仁王門前から山内
【写真 下(右)】 縁日の参道

仁王門からはしばらく平坦な参道がつづき、ご縁日などこちらに屋台が並びます。


【写真 上(左)】 手水舎と階段
【写真 下(右)】 水盤

左右に手水舎を置いたところから、いよいよ急な参道階段がはじまります。
この手水舎の唐銅蓮葉手洗水盤は桂昌院の寄進で、元禄十年(1697年)江戸の鋳物師権名伊豫良寛の作と記されています。


【写真 上(左)】 階段
【写真 下(右)】 不老門


不老門扁額

ここで身心を清めてから登りはじめます。
すぐ上に不老門が聳え段数もさほどではないですが、なぜかかなりの登りでがあります。
浅草の辨天堂から観音堂に登る階段もそうですが、低平地から台地に登る参道階段は、段数以上に登りでがあるように感じます。

不老門は昭和13年月建立。京都の鞍馬寺の門を基本に設計されたといいます。
懸造り、入母屋造桟瓦葺身舎朱塗りで正面上部に唐破風を興し、扁額「不老」の二字は徳川家達公の筆によるもの。
懸造りなので構造は複雑ですが、桁行三間で中央一戸かと思います。


【写真 上(左)】 不老門からの本堂
【写真 下(右)】 地蔵尊と仁王尊

参道階段の傾斜が急なので、不老門を抜けるまでは本堂(観音堂)エリアは見えません。
不老門を抜けた左手に地蔵尊立像と仁王尊像、右手が大師堂参道です。


多宝塔

さらに数段登ると本堂(観音堂)エリアです。
参道左手の多宝塔は昭和13年の建立。石山寺の多宝塔(国宝)の模写で周囲に桜を配して春先は花見客で賑わいます。


【写真 上(左)】 円成庵
【写真 下(右)】 拝観謝絶の庵(茶席)

多宝塔手前には蘿装庵、円成庵、不昧軒、宗澄庵などの風情ある庵が点在しますが、参詣者は立ち入りできません。
不老門右手の三笠亭、仲麿堂、簑庵も同様のようです。

その上手の鐘楼は近くまで寄ることができます。

格高の袴腰付重層入母屋造で、江戸時代中期の建立とされます。
梵鐘は天和二年(1682年)寄進、銘文には桂昌院による観音堂建立の経緯が刻まれています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 釈迦如来坐像

鐘楼前、参道横には結跏趺坐される釈迦如来の青銅坐像。


【写真 上(左)】 月光殿
【写真 下(右)】 葵の御紋

本堂(観音堂)手前で参道を左に折れると正面が月光殿。
大津三井寺の塔頭・日光院の客殿を昭和3年に現在の場所に移築したもの。
桃山時代の建造で書院様式を伝える貴重な建物として国の重要文化財に指定されています。
附設の建物として草蕾庵、月窓軒、化生庵があるようです。

なお、山内の庵(茶席)は明治から昭和初期にかけて高橋箒庵翁が再興されたとの由。


【写真 上(左)】 多宝塔と月光殿
【写真 下(右)】 山内からビル群

月光殿前から多宝塔方面をのぞむと背景は折り重なるビル群で、護国寺が都心のビル街にオアシス的にあることがわかります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 ご縁日の本堂

さて、いよいよ本堂(観音堂)です。
元禄十年(1697年)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りで大造営を完成、同年八月落慶供養と伝わります。
元禄時代の建築工芸の粋を結集した大伽藍とされ、震災・戦災をしのいで江戸期の面影をいまに伝えています。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

桁行七間梁間七間の入母屋造瓦棒銅板葺でこちらも国の重要文化財です。
向拝は三間で、三間に渡って水引虹梁を置き、両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。
軒裏は朱塗りで手前二軒の垂木が目立ちます。

向拝柱には「本尊 如意輪観世音菩薩」の札が掛かっています。
扁額はないですが、羯磨金剛が刻まれた賽銭箱が存在感を放っています。


【写真 上(左)】 御本尊の札
【写真 下(右)】 賽銭箱

こちらの素晴らしいのは、本堂内にあげていただけるところです。
本堂向かって右手の扉が開くのでこちらから参内します。
入ると右手に授与所があるので御朱印帳をお預けします。

堂内はほどよい加減でうす暗く、厳粛な空気がただよっています。
正面が現・御本尊の六臂如意輪観世音菩薩像。
桂昌院の念持仏である唐物天然琥珀如意輪観世音菩薩像は以前に秘仏となり、現在御本尊として安置されているのがこちらの菩薩像のようです。

江戸三十三観音札所、東国花の寺霊場の札所本尊はこちらの観音様になります。
授与所の上には観音霊場札所板が掲げられていました。


【写真 上(左)】 観音霊場札所板
【写真 下(右)】 観音霊場札所標

堀田正虎の母栄隆院を願主とし、元禄十三年(1700年)寄進され、御頭は恵心僧都の作で身体はこの折に新たに作られたといいます。

もろもろの くのうをすくう 観世音
 大悲の恵み 尊うとかりける

なお、如意輪観世音菩薩については、→こちら(東京都区内の如意輪観音の御朱印)をご覧ください。

本堂内は撮影禁止で記憶も定かではありません。
向かって左手には地蔵尊など諸仏、右手には不動明王が御座と記憶しています。

本堂裏手左右が墓域で、本堂正面裏の霊廟は平成8年落慶、聖観世音菩薩像が奉安されています。


【写真 上(左)】 本堂裏手
【写真 下(右)】 閼伽水の井戸

本堂向かって斜め左手おくに傳法灌頂用閼伽水の井戸。
そちらのさらに左おくが薬師堂。
元禄四年(1691年)の建立で、かつての一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用するもの。


【写真 上(左)】 薬師堂
【写真 下(右)】 薬師堂向拝

宝形造桟瓦葺、頂に宝珠を置いて流れ向拝のバランス感に優れた堂宇。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股で、身舎側への繋ぎ虹梁は置いていません。

向拝正面桟唐戸、両脇に花頭窓を据えるなど禅宗様の手法をとりいれ、元禄期の遺構として価値ある建造物とされます。

こちらの堂宇本尊はこの地にあった蟹ヶ池より出現した薬師如来の霊像を胎内に収められるお薬師さまで、左右に十二神将の像を安置します。
こららの霊像は「江戸名所図会」で護持院の項に記載されているので、旧護持院系の御像とみられます。

 
【写真 上(左)】 忠霊堂
【写真 下(右)】 山内の梅

薬師堂のさらに左手おくには忠霊堂。
明治35年建立。日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬する堂宇で、唐金の多宝塔を建立し、その前に拝殿として建てられたのがこの忠霊堂とのことです。
入母屋造瓦葺平入りで、軒唐破風の大がかりな向拝とスクエアな虹梁を備える特徴ある建物です。

さて、御府内霊場巡拝のハイライト、大師堂です。
上で延べたとおり、大師堂への参道は不老門をくぐって右に折れたところから始まります。
参道入口に整った面立ちの六地蔵。
石敷の参道の正面が大師堂です。


【写真 上(左)】 大師堂参道
【写真 下(右)】 大師堂

元禄十四年(1701年)に再営された旧薬師堂を大正15年に大修理し現在の位置に移築して大師堂としたものです。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 大師堂扁額

寄棟造桟瓦葺流れ向拝で身舎・柱ともに朱塗りです。
がっしりとした水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股。
真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物として区の指定建造物に指定されています。


【写真 上(左)】 大師堂札所板
【写真 下(右)】 斜めからの大師堂向拝


【写真 上(左)】 磐座に御座すお大師さま
【写真 下(右)】 大師堂天水鉢

繋ぎ虹梁を置かずすっきりとした向拝。
正面桟唐戸のうえに「遍照金剛」の扁額とそのよこに御府内霊場の札所板、奉納額。
大師堂向かって左の磐座に御座すお大師さまと天水鉢の羯磨金剛が、御府内霊場札所感をひとしお盛り上げています。

堂前説明板には「高祖弘法大師、宗祖興教大師、派祖本覚大師の三尊が安置されている。」とあります。

こちらは本堂(観音堂)に比べて参拝者が少ないので、落ち着いて勤行をあげることができます。


【写真 上(左)】 一言地蔵尊
【写真 下(右)】 身代地蔵尊

大師堂向かって右手には一言地蔵尊のお堂。
願いを一言だけ成就いただけるという霊験あらたかなお地蔵さまです。
その左隣には身代地蔵尊が御座されています。


「さらっといきます。」といいながらやはりこれだけのボリュームになってしまいました(笑)
それだけ見どころの多い名刹ということでしょう。

御朱印は本堂(観音堂)内授与所にて拝受できます。
本堂内の拝観および御朱印授与は、昼の休憩時間を除いた9:00(10:00)〜12:00、13:00~15:00(16:00)で昼はお休みなので要注意です。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリク」「本尊 阿彌陀如来」「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右に「弘法大師霊場 御府内第八十七番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
主印は「キリク」の御寶印の場合もあるようです。

 
【写真 上(左)】 四万六千日の観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺霊場の御朱印

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-29


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 桜 - 中村舞子


■ キミトセカイ - 佳仙(歌ってみた)


■ Boogie-Woogie Lonesome High-Heel - 今井美樹
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