民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「からんころんと歩いていった人」 小沢 信男

2014年02月10日 00時09分21秒 | 雑学知識
 「山下清の放浪地図」 昭和の日本をぶらりぶらり 監修:山下 浩 平凡社 2012年

 「からんころんと歩いていった人」 この人にどうして惹かれるのか   小沢 信男

 山下清といえば、だれでも知っている。四十年もまえに亡くなった人なのに。
 ひところは「日本のゴッホ」とも「裸の大将」ともよばれて、一風も二風も変わった人気者だった。
余韻はふしぎに長く、いまなおテレビ番組の「開運!なんでも鑑定団」で、
スケッチ一枚にもけっこうな値がつく。

 いったいなにをした人か。下駄履きで日本列島を北へ南へ歩いてまわった。
ゆくさきざきで三度の飯を乞いながら、敗戦当時の日本中が貧しく空腹だった時代にですよ。

 これは偉業だ。戦災や復員や諸般の事情で当時は放浪者各位が各地にいた様子だが。
山下清が独自なのは、歩いてのけた足跡の途方もなさと、その体験を絵に描き日記にしるしたことだ。
その画業が、ある時期一気に注目を浴びた。
マスコミに追いまわされる当人の茫洋たる言動が、なおさら人気を煽った。

 裸の大将。いかにも、小肥りの山下清は暑がりで、リュックをせおった丸裸で歩き、
証拠写真を撮られたりしている。この素裸の人柄が魅力の一つですね。

 そもそもは八幡(やわた)学園で、資質をはぐくまれた。
清をはじめ知的障害児たちの貼り絵の独創的なできばえに、衆人が目をみはった。
劣れば優れる生命力のふしぎ。
これを根にも幹にもして、かずかずの評判の枝葉がのびた。

 中略

 喜捨(きしゃ)を乞うて三食しっかり喰いながら放浪したのは、ほぼ一貫する。
戦後の焼け跡時代には、喰う寝ることに着ることなどは、なにやら共有的な気分もありましたよ。
上野駅地下道を代表に、鉄道の駅舎は家なき人々や無銭旅行者たちが寝泊りして、
清もぞんぶんに活用した。そのうえ、門付けの者に一汁一飯をめぐむ家々があたればこそ。
巡礼にも浮浪者にもご報謝の気分が、日本列島の各地にふしぎにまだ健在だったことを、
山下清は証明してみせた。
そういう伝来の生活文化がふくむ豊かさを、満喫してのけた頼もしさよ。

 中略

 山下清は日本国中を、何年間もたっぷりと好きにまかせてお遍路をしてのけた。
このケタハズレ。
学歴とか生涯所得とか、ちまちました常識社会からずっこけておればこそ、
どうでもかまわぬまるはだかで、からんころんと歩いていった人がおりました。

「人魚伝説」 ネットより

2014年02月08日 00時09分33秒 | 民話(昔話)
 「人魚伝説」  http://www.info-niigata.or.jp/~yana3228/ninngyou.html

 むかし、遠くに佐渡ヶ島が見える雁子浜(がんこはま)という小さな村(今は大潟町・上越市)に、
明神さまのお社(やしろ)があった。
夜になると、漁師たちのあげるたくさんのろうそくの火が、荒海を越えて、佐渡ヶ島からも見えたそうな。
この雁子浜(がんこはま)に、ひとりの若者が、母親とふたりで暮らしておった。

 ある時、若者は用があって佐渡ヶ島に渡り、ひとりの美しい娘と知りあった。
娘は、色が白く、豊かな黒髪は、つやつやとひかり、潮(しお)の香を含んでいた。
まるで、北の海に住むという人魚かと思うほどであったと。
ふたりは、すっかり親しくなって、人目をしのんで語りあうようになった。
けれども、まもなく、用がすんだ若者は、娘を残して雁子浜(がんこはま)へ帰っていった。

 佐渡の娘の若者を慕う心は、それはもう激しかった。
ある夜、娘は若者に逢いたい一心に、とうとう、たらい舟にのって、荒海にこぎだした。
雁子浜(がんこはま)の明神さまのあかりを目当てになあ。

 若者も、佐渡の娘が夜の夜中に、たらい舟にのって、命がけで逢いに来てくれたことを、
どんなに喜んだことか。
 けれど、夜はみじかい。ふたりの語りあえるのは、ほんのわずかだった。
一番鳥が鳴くころには、娘は、なごりを惜しみながら、佐渡ヶ島に戻らねばならなかった。

 こうして、佐渡の娘は、毎晩、たらい舟で荒海をのりきって、雁子浜にやってくるようになったと。
若者は風の強い日は、娘が目当てにしている明神さまのあかりが消えないように、
守りつづけていたそうな。

 ところで、若者には母親の決めたいいなずけの娘がおった。
 ある日の夕方、そのいいなずけが、両親と一緒に若者の家に訪ねてきた。
そして、その晩は泊っていくことになったと。

 若者は、気が気でない。
佐渡の娘と逢う約束の時刻になると、そっと家をぬけだして、海辺へ走ろうとした。
すると、母親が追ってきて、「おまえ、今夜も浜へ行くのかえ。」と、とがめた。

 若者は、返事に困った。佐渡の娘のことは、誰にも内緒にしておった。
ところが、「おっかあは、ちゃんと知ってるよ。おまえに、仲のいい娘のいることをさ。
若いもん同士のことだから、今まで黙って見ておったが、今夜だけは、行かんでく。」と、ひきとめた。
 「おまえと夫婦になる日を待ちこがれている、いいなずけのことを、不憫とは思わないのかね。
さあ、家に入っておくれ。この通りだよ。」母は、そう言って、手を合わせる。

 さすがに若者も、母の頼みをけって、浜辺へ行くことはできなかった。
(今夜ひと晩くらい行かなくても、明日になれば、また逢えるのだ。
佐渡の娘も、おらがいなければ、帰ってゆくだろ。)と、若者は、しかたなく家に戻ったと。

 夜がふけて、風が出てきた。その風が、だんだん強くなってくる。
若者は明神さまのあかりが気がかりになった。
(けども、今までだって、あかりがみんな消えてしまったためしはないし。)
と、若者は、むりやり自分の心に言い聞かせておった。

 やがて、夜があけた。若者は、もうじっとしていられず、夢中で浜辺へ走った。
朝の海は、ゆうべの風もおさまって、波もない。日の光に輝やいている。
海辺には、早起きの村人が五、六人、波うちぎわに集まっていた。

 「かわいそうになあ。こんな若い、器量よしの娘がのう。」
 「まるで、人魚みたいらて。」
 「ゆうべは、明神さまのあかりが、すっかり消えてしまったからのう。」
 「なしてまた、夜の海になど、出るもんかのう。」

 若者が、村人たちのそばへ行くてみると、波うちぎわに横たわっているのは、あの佐渡の娘の、
変わり果てた姿であった。
つやつやと豊かであった黒髪も、今は乱れて、白い、ろうのような顔にふりかかっていた。

 若者は、魂がぬけたようになって家へ戻ったが、その夜 遅く 海へ身を投げてしまったと。
村人たちは、ふたりを明神さまの近くに手厚くほうむり、塚をたてた。
誰が名をつけたのか、その塚は、いつとはなしに<人魚塚>と呼ばれるようになった。
遠く佐渡ヶ島の見える雁子浜(がんこはま)の丘に、人魚塚は、今もひっそりと立っている。





「おっと合点 承知之助」 付け足し言葉

2014年02月06日 00時22分49秒 | 名文(規範)
 声に出す言葉絵本 「おっと合点 承知之助」 文:斎藤 孝 絵:つちだのぶこ ほるぷ出版 

 あとがき 「付け足し言葉は、言葉のロケット」

 前略

 付け足し言葉というのは、言葉の勢いが止まらずに、シャレで言葉を付け足したもののことです。
たとえば、「その手は桑名の焼き蛤」というのは、「その手は食わないよ」と言えば済むところを
勢い余って、「食わない」と地名の「桑名」をひっかけて、
桑名名物の焼き蛤を付け足したということです。

 中略

 付け足し言葉は、人に向かって調子よく言う言葉です。
相手との言葉のやりとりにつける、いわば潤滑油のような働きがあります。
たとえば、縁台で将棋を指しながら、相手と将棋だけでなく、
言葉のやりとりも付け足し言葉で楽しむわけです。
付け足し言葉の多くはまったく根拠がないというものではなく、何かのシャレになっていたり、
古典の引用になっていたりするものもあります。

 「驚き桃の木山椒の木」や「あたりき車力」などは、私の小学校時代は皆が使っていたものです。
しかし今は、急速に廃れてきてしまい、古い付け足し言葉はあまり流行らなくなって
消え去ろうとしています。
おじいさんやおばあさんとのコミュニケーションが少なくなったこともその原因の一つかと思います。
そこで今回は、おじいさんとのコミュニケーションの中で自然に付け足し言葉が出てくるような
ストーリーをつちださんに考えてもらいました。

 声に出してみることで、その言葉は自分に跳ね返ってきます。
そして、自分が出した声で自分が元気づけられるということもあります。
元気があるから、声に出すということもありますが、声に出すことで元気になって来るという側面が
言葉にはあります。

 私は、最近の子どもたちともつきあう機会があるのですが、そこで感じるのは、
からだの「張り」の足りなさです。
子どもは相変わらず子どもらしい元気さを持ってはいますが、それでも昭和の子どもと比べると
エネルギーが外に発散される機会が少ないように、私自身も子育てをしてきて思います。

 大きな声でエネルギーを外に出すことで、自分自身も元気になる。
そうした回路をつくってあげたいという気持ちが、この絵本には込められています。
そのときにできるだけ伝統のある日本語を声に出すことで、二重の効果があると考えているわけです。
 
 ロケットに三段ロケットというものがあります。
発射してから二度ほどまた噴射して加速していくロケットです。
付け足し言葉はちょうどこのロケットのようなものです。
「その手は食わない」ではなく、「桑名」ということでひねりをきかして言葉を加速させ、
最後にもう一度「焼き蛤」と言うことでさらに加速します。
この場合は、焼き蛤を食わないというシャレも入っています。
こうした大した意味もない軽口は、話している相手との距離感をなくし、親しい雰囲気を盛り上げます。

 つちださんの楽しい絵とストーリーが、付け足し言葉の言葉のロケットの効果を
よく表現してくれていると思います。
是非この絵本を通して、言葉を声に出してみることで元気になる感じを子どもたちに
味わってもらえればと願っています。

 おはよう ごん左衛門

 何か用か 九日十日

 お茶の子さいさい 河童の屁

 その手は桑名の 焼き蛤(はまぐり)

 平気の 平左衛門(へいざえもん)

 恐れ入谷の 鬼子母神(きしもじん)

 結構毛だらけ 猫灰だらけ

 しーらん ペッタンゴリラ

 すいませんねん(千年) 亀は万年

 嘘を築地の 御門跡(ごもんぜき)

 驚き 桃の木 山椒の木

 あたりき車力の コンコンチキ (あたりき車力よ 車曳き)

 さよなら三角 また来て四角

 ただいま帰って キタキツネ

「江戸時代は世界一」 ネットより

2014年02月04日 00時13分44秒 | 雑学知識
 「江戸時代は世界一」 ネット 松下村塾より 

 http://dainikaientai.weblogs.jp/netshoukasonjuku/2008/12/post-8ee3.html

 今の江戸時代のネガティブなイメージ「封建的・抑圧的で暗い社会だった」というのは、
後世に作られたものではないでしょうか。
 江戸幕府を倒した明治政府は、「昔より今の方が良い」と宣伝し、
新しい政権の正当性を主張する必要があったのです。
新政権が前の政権を悪く言うことは、歴史上何度も繰り返されてきたからです。
 そこで、「抑圧的・封建的な江戸時代」というイメージを外して客観的に考えると、
江戸時代には多くの「世界一」があります。

 ①緑豊かで美しい風景
 田園都市、自然の景観、園芸好きな国民

 ②百万都市(世界一の人口)でも争いない生活
 江戸しぐさ、マナー、密度高くても快適に暮らす知恵

 ③衛生的・安全性
 上下水道完備、ごみリサイクルシステム完備、下肥買い、ものを大事にする
 クリーンな都市ほど犯罪が少ない(「破れ窓」理論)

 ④GDP・金融システム世界一
 米相場、先物取引、掛売り(クレジット機能)
 鎖国により、「自給自足」「限られた資源の効率利用」が進んだ

 ⑤識字率、教育
 庶民=寺子屋、武士=藩校、誰でも自由=私塾
 それぞれ独自の教育法、教科書7000種、
 寺子屋の男女比半々(女性の地位向上)
 マンツーマン教育、専門教育(スペシャリスト養成)
 教育ではなく養育、鍛育(=人間性も育てる)

 ⑥マナー、礼節
 九歳の子供でも時候のあいさつ
 江戸しぐさ、三脱の教え
 武士道
 武士の職分は統治(ガバナンス)と経営(マネジメント)に限定=富と闘争から切り離された

「たらいで通う娘」 佐渡の民話

2014年02月02日 00時38分01秒 | 民話(昔話)
 「たらいで通う娘」  出典「無邪気な大人のための残酷な愛の物語」 西本 鶏介 PHP研究所

 佐渡は 越後の西の方に見える 日本一の 大きな 島である。
昔、この島に住む娘が たまたま 越後に渡った時、一人の若者と 知り合った。
島へ 戻っても、娘は 一日とて 若者のことを 忘れることができなかった。
(どうせ 身分の違う身、とても 一緒になることなどできない)
と、自分に言い聞かせてみても、若者への思いは つのるばかりである。
だが、海の上を 歩いて行くことはできない。
それに 許可なく島を出るのも 禁じられている。
娘は 思い切って 船を探してみたが、勝手な願いを聞き入れてくれる漁師など 一人もいなかった。

「あの人に ひと目でも会えたら、もう 死んでもかまわない」
ある晩、娘は たらいに乗って 沖へ出た。
磯明神の常夜灯が ぽつんと見える。
娘は 両手で水をかきながら、常夜灯をめざし、たらいをこいだ。

 夜明け前に、やっと 越後の浜に たどりつき、若者の家へ走った。
激しく 戸を叩く音に、何事かと 若者が外へ出てみたら、ずぶぬれの娘が立っていた。
娘は、いきなり 若者の胸に飛び込み、顔を埋めた。
(会いたかった・・・・・)
娘は ぽろぽろと 涙を流した。
「お前は いつかの娘。よく来てくれた」
若者は 娘を抱きしめた。
もう二度と会うことのない娘と思っていただけに、よけいにいとしさがつのる。
欲情を抑えながら抱きしめている時、どこかで一番どりが鳴いた。
娘ははっとして顔を上げた。もう東の空が白くなり始めていた。
「帰らなくては・・・・・」
「だって、今 来たばかりじゃないか」
若者は娘を放そうとしなかった。
「明日は、きっと早く来る」
娘は若者の手をふりほどき、浜辺へと急いだ。浜辺にはたらいが一つあった。
「まさか このたらいで」
若者が驚いてたずねた。娘はこっくろとうなずき、たらいに乗った。
「明日、待っている。きっとだぞ」
遠ざかっていく娘に向かって、若者が手を振った。

 娘は次の日も、夜の明けないうちに たらいでやってきた。
二人はせきをきったように、激しく愛し合った。
ひとときの、だが満ち足りた逢瀬に満足して、娘は、晴れやかな笑顔で 島へ戻っていった。

 それからというもの 娘は毎夜欠かさず、たらいに乗って若者のもとへ通い続けた。
娘は幸福だった。
若者に会えると思えば、49里(約190キロ)の波などだんでもなかった。

 ところが、最初のうちは、娘の気持ちをうれしく思っていた若者も、毎夜欠かさずにやってくる娘が、
しだいにわずらわしくなってきた。
「毎日というのも大変だ。たまには休んだらどうか」
それとなくいっても、娘は承知せず、
「たとえ 海で溺れ死んでもかまわない。こうして あなたと会えるのだから」と笑うだけである。
娘の手は波に洗われ、痛々しいほど白くふやけていた。

 そのうち 若者は浜へ出るのも面倒になった。すると、娘は家まで追いかけてくる。
(なんと しつこい女だろう)
若者はいよいよ娘がうとましくなった。
だが、娘の方は天にものぼる思いで、今では、若者に会うためにだけ 生きているようなものであった。
(いったい、どうすればいい)
若者は頭をかかえた。ふいに 娘へのわけのわからない憎しみがわいてきた。
(そうだ、いいことがある)
若者は娘がいつも常夜灯を目当てにやってくることを思い出した。

 ある晩のこと、若者は娘が沖へ出た頃を見計らって 磯明神の常夜灯を消した。
夢中でたらいをこいでいた娘は、はっとして手をとめた。
(どうしたのかしら)
娘はしばらく常夜灯のついていた方を見たが、いっこうにつく様子もない。
明かりがなくては、どこへこいでいけばいいのか わからなくなってしまう。

 真っ暗な海の中で、聞こえてくるのは波音だけだ。
運悪く、その夜は星ひとつ出ていなかった。
娘は必死でたらいをこいだ。だが、行けども行けども波ばかり。
そのうちに風が出て来て、たらいが激しく揺れ始めた。
波はいよいよ高くなっていく。
ふと、気がつくと、たらいには半分も水がたまっていた。
かい出そうにも、手を放すことができない。
手を放せば、たちまち海へころげおちてしまうからである。
「だれか・・・・・」
娘はたまらず、大声を上げた。
しかし、その瞬間、大きくもりあがった波が、娘もろともたらいを飲み込んだ。

次の朝、海は夕べの風が ウソのように 凪(な)いでいた。
波を赤く染めて、日が昇り始めた。
(ひさしぶりに ゆっくり 休めた)
若者はほっとして海辺へやってきた。
すると 波打ち際に、だれか 女の人が倒れていた。
長い髪が波に洗われ、ゆらゆらと動いている。
若者ははっとして女のそばへかけよった。
「あっ!」
若者は思わず声を上げた。
なんと、それは変わり果てた、あの娘の姿であった。
美しい顔が うらめしそうに 真珠のような歯を くいしばっていた。
不思議なことに 娘の下半身は 魚に変わっていて、赤と銀をとりまぜたうろこが、きらきら光っていた。

 おしまい(佐渡の民話より)

すさまじいばかりの情念、
「怒りゃふくれる、叩きゃ泣く、殺せば化ける」俗諺(ぞくげん)
きびしい生活のなかでは 恋すら ぜいたくな夢である。そんな娘がひとたび男を知った時、
おいそれと身を引くことができようか。
恋しい男に会うために 命をかける女のすさまじい情念。