民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「外郎売り」 二回目

2013年03月09日 00時45分07秒 | 大道芸
 今日もデイサービスで「外郎売り」をやってきた。
(下野民話の会のボランティア)
二回目の人前での披露。

 今日は一部(6行分)抜かしてしまうし、噛んだところも多かった。
でも、やれば、なんらかの収穫はある。
あっ、ここはこうすればよかった、とか。
その積み重ねで少しづつ上達していくのだから。

 この外郎売り、口で聞いたのではわかりにくいので、
(文字を見ればだいぶわかりやすい)
みんなに原文を見ながら聞いてもらおうと、15部ほどコピーして持って行った。

 今日は語り手が6人、俺の番は5番目。
どうしようか迷ったけど、結果的には渡さなかった。
40人ほどいて足りなかったのと、字が小さくて読めないんじゃないかと思ったのと、
それと、最終的に決めたのは、やはり、口上は字を見ながら聞くものではないという判断。
どっちがよかったかはわからない。
 これはこれから試してみる課題かな。

 実は、月に一度出演している定例ライブが明日(3月9日)あるので、
そこでやろうかなと思っている。
今日はそのリハーサルをかねてやってみたかったのだ。


「百姓女 たよ」 木下 順二

2013年03月08日 00時27分38秒 | 民話の背景(民俗)
 「百姓女 たよ」 木下 順二 1954年 ラジオの朗読台本 (朗読者 山本 安英)

          木下 順二集 11巻 岩波書店 1988年

 「女工哀史」は一度、リメイクしたいと思ってる作品。
それで調べていたら、木下 順二が「女工哀史」という作品を書いているので、
図書館で借りてきた。

「絵姿女房」「女工哀史」「百姓女 たよ」の三つの作品が朗読台本として書かれたようだ。
「女工哀史」はその中のひとつの作品。
意外と短い作品(8ページ)なので驚いた。

 他に、「女工哀史」細井 和喜蔵、「わたしの女工哀史」高井 としを、
の二冊も借りてきて、その分厚さに、なかなか読む気力が起きないでいた。

 借りてきて10日くらいして、やっと手にしたのが木下 順二だった。
そして見つけたのが、「百姓女 たよ」の中の、以下に紹介する文章。
 書き出しから、少ししたところに書いてある。 

 「縁切寺というお寺の話を聞いたのは、たよが まだ少女の頃のことだった。
村一番の物知りのじっさがその話をしてくれた。
その物知りのじっさというのは、顔中一杯切りこんだような深いしわのある、
しかし、てらてら禿げの大入道で、たよたち村の娘が集まっているところへやってきて、
娘たちのもっともはずかしがりそうな話をしては、
キャッキャッと、娘たちを笑わせるのが、何よりの楽しみであるらしかった。
縁切寺の話も、顔をまっかにしてキャッキャッと笑いながら、たよたちは聞いた。


  ― ― ―ええか、何でも若え時に仕込んどいて、これが無駄だというもんはねえだ。
よう聞いて、ようおぼえとけ。


 というのが、そのじっさの決まり文句だった。
そして、さもさも 尤(もっと)もらしく、一大事をこれからうちあけるといったようす(様子)で
話し出すじっさの調子に、たよたちはいつもすぐ乗せられてじっさの顔に目を集めた。」


 以下 略

「外郎売り」 初披露

2013年03月06日 00時08分52秒 | 大道芸
 「外郎売り」

 「外郎売り」という歌舞伎十八番にも入っている演目がある。
(「ういろう」という薬を売るための口上、「がまの油」のようなもの)
発声の練習題材として、アナウンサーや俳優志望の人がやっているという。
(先日、朗読の会に行った時、これをやっていた。)
(原文はこのブログの最初の方にアップしている。)

 一年半くらい前、民話をやるなら、まず発声が大事だろうと、
この「外郎売り」をやろうと決めた。
覚えられない苛立ちに耐えながら、3ヶ月くらいかかって、なんとか覚えた。
(時間にして六分半くらい)

 それ以来、一年ちょっと、ほぼ、毎日のように練習してきた。
(散歩など、歩いている時が多い。)
だいぶ、様(さま)になってきたと自分でも思う。

 それで、先週の木曜日(二月二十八日)
毎月一度、ボランティアで行っているデイサービスで、初めて、人前でやった。
結果は、まぁまぁ、かな。

 それから、一週間たったけど、今は、人前で語ることを頭に入れて練習している。



「語りは支えあい空間」 末吉 正子

2013年03月04日 00時02分24秒 | 民話(語り)について
 「語りは支えあい空間」 末吉 正子 2005年 ネットより

「語り」の空間は、語り手がいて聞き手がいて、お話のスピリッツを媒介として、
見えない糸でつながれ、ひととき、同じ思いを共有する優しい世界です。

 語り手の「伝えたいおもい」に対して、聞き手の「うん」といううなずきがあり、
支えがあってこそ成立する空間なのです。

 ですから心のバリアーを破って、互いを受け入れあうという最初の段階をクリアーしなければ、
お話の真髄を共有する喜びも生まれません。

 語り手の側にも、聞き手の側にも、「つながりたい」という深い思いがあり、願いがあり、
語りに込められた内容に対する聞き手の共感があり、その共感を語り手が受けとめ、
また投げ返す、という目には見えない糸のつながりに支えられて、
それぞれの「語り」が「語り」として成就していくのです。

 語りの空間はまさに支えあい空間なのです。

 ときどき、すばらしい聞き手に出会います。
瞳があたたかくて、微笑みもあたたかくて、
お話をすっぽりまるごと全身で楽しんでくださっていることがわかる、
神さまみたいな聞き手に出会うことがあります。

 そういう聞き手のオーラを感じると、語り手のオーラも呼応して、
さらに多くの聞き手のオーラと呼応し始めます。
まさに相乗作用です。

 私たち語り手はいつだって、緊張とリラックスのはざまで揺れています。
語る前、聞き手が受け入れてくれるかどうか、心配で息もできないくらいのときもあります。
でもこんな嬉しい出会いの機会に感謝して、語りの一瞬一瞬をおもいきり愉しみましょう。
語り終えたとき、聞き手とつながりあえたかどうかを自分にたずねてみましょう。

 そして、「よい語り手」をめざす皆さん、「よい聞き手」であることも同時にめざしていきませんか?
聞き終えたとき、語り手の命の吹き込まれた「ことば」をしっかり受け止めることができたか、
自分にたずねてみましょう。

 地球上で、いろいろと大変な事ばかり続きます。
こんな時代だからこそ、「ことば」で伝える「語り」ワールドは、
ますますその重要性を増していくことでしょう。
足を引っ張りあったり、傷口を舐めあったりすることよりも大切なことがあるのです。
互いに心をひらき、認めあい、「つながりたい」と切に願いつつ、
一人一人が豊かな語り手であり、聞き手であることをめざしましょう。

「機転を利かす」  藤田 浩子

2013年03月02日 00時16分01秒 | 民話の背景(民俗)
 昔話に学ぶ生きる知恵 2 「機転を利かす」  藤田 浩子 編著 2006年

 頓智・機転は人づきあいの潤滑油

 人と人がかかわるとき、それが他人であろうと、家族であろうと、ギスギスしそうなときがあります。
潤滑油が必要なときです。
誠意を込めてコトにあたれば必ずうまくいくというものでもありません。

 誠意は必要ですけれど、直球しか持ち玉がなければ一面的で、すぐ底をついてしまいます。
フォークありカーブあり、相手により時と場合によって投げる玉を変えていくのが
人づきあいのおもしろいところですが、ときにはピンチになることもあるでしょう。

 そんなときに役に立つ魔球が頓智です。
相手を煙に巻きながらなんとなくこちらのペースに引き込みます。
しかも相手との関係がギスギスしないように、潤滑油の役割をも果たすのが頓智です。

 私が子どもだったころの悪口言葉に「頓痴気野郎」というのがありました。
頓智の利かない、気の利かないヤツという意味合いの悪口です。
「トンチキヤロウのスットコドッコイ」と言われたら、
ダブルパンチを食らったぐらいのダメージを受けました。
頓智の利かないヤツはそれだけで、悪口の対象になったのです。

 機転を利かせ、頓智を働かせることで、いさかいをせずにすませたり、命拾いをしたり、
上役をぎゃふんと言わせたり、現代人に足りないのはこの機転を利かすことや、
頓智を働かすことではないかと思えるのです。

 機転を利かせ、頓智を働かせれば、あとあとまでしこりを残さずに、問題が解決できます。
まわりに波風を立てずに、こちらの思いを伝えられます。