「子どもに語りを」遠野市での講演 桜井 美紀 2006年 「子どもに昔話を」所載 石井 正己編
ほーらあー 寝えーろ、ねえーん ねえーろ、
ほーらあー 寝えーろ、やあー やあー
寝んー 寝ろー 寝ろー 寝ろー、ほらあー 寝ろー やー やー。(東北地方の眠らせ唄)
みなさん、眠くおなりになったかも知れませんが、今の歌では「ほーらあー 寝ろー、ほーらー 寝ろー」と、同じ言葉が何度も何度も繰り返されます。「やー やー」というのは赤ん坊のことですね。同じ言葉を何度も繰り返し、メロディはあまり急激に上がったり下がったりしないのです。そして調子がゆっくりしているということ。こういうことが赤ん坊にはとても大事な言葉かけです。声を聞かせながら心を静めさせる、安定させる役割を持っているということなのです。
これは昔話を聞かせることと同じです。幼い子どもに昔話を語るときは言葉をゆっくり聞かせることが大事なんですね。
それから昔話の語りの調子には、あるかなきかのよい調子がついています。決して棒読みに読むのではないのですね。
(棒読みのように)「むかしむかしあるところに、お爺さんとお婆さんがありました」(これはわざと棒読みのように言ってみたのですが)、こんなふうには語らないのですね。多分、こちらの方たちは、(歌うような調子をつけて)「むかーし、あったったづもなー」と言うのでしょうか。
私は子どもの頃、石川県出身の年寄りに昔話をたくさん聞かせてもらいました。たくさんと言っても、その年寄りの一つ覚えみたいに「舌切り雀」を繰り返し繰り返し聞いたのです。その「舌切り雀」の語り方が、「むがーしあったといーねー、じいとばあがあったといーねー」というのです。「昔ありました」というのではなくて、「むかーし」と音を伸ばします。「あったといーねー」というように母音を伸ばします。語尾は「したがやとー」っていうように語られます。
それは子守唄と同じで、一つ一つの言葉の”母音を伸ばす”声の届け方なのですね。昔話は、とっと、とっとと行かないで、ところどころ子どもの様子を見ながら、ゆっくり語ったり、わざと声をひそめたり、もうこのあたりで寝てしまうなーと思ったら、わざとゆっくりゆっくりするという、そんなやり方をしていました。眠らせ歌を聞かせて眠らせるのとまったく同じだと思うのです。
私の本には「舌切り雀」のことを書きました。「舌切り雀」は、この地方でも語られていますか?
いろいろな語り方が各地にあるのですが、私の聞いていた「舌切り雀」は石川県の昔話ですから、婆が雀の舌を切るところは全国のどの地方よりも三倍残酷なのです。婆は雀の舌を切って、羽を切って、尾を切って叩き出すのです。すると爺が帰ってきて、「可哀想になー、可哀想になー」と言って探しに行くのですが、爺は唄を歌っていきます。
「舌切りすーずめ、どっち行った、羽(は)~切りすーずめ、どっち行った、尾ー切りすーずめ、どっち行った、と言うてったがやとー」と、そんなふうに聞きました。
これも三回、繰り返します。昔話ですから三ヶ所に行くのですね。最初は牛洗いさまの所へ行き、次は馬洗いさまの所に行き、そしてその後ですが、私が子どものころ聞いていた「舌切り雀」では”おしめ”(おむつのこと)を洗っとる婆がいて、「おしめを洗っとる婆に、婆さま、婆さま、ここを雀が通らなんだかいのー、と言うと、通った、通ったと言う、どっち行ったか教えてくれんかいのー、と言うと、そんならこのおしめの洗い汁、たらい一杯のんだら教えてやろう」(笑い)私が子どもだったころは、洗濯はたらいでやっていましたから、聞いていて、それがどのような洗い汁か分かるんです。
私に話してくれた年寄りは、このように言ってました。
「おしめを洗っとる婆が、このおしめの洗い汁、たらい一杯飲んだら教えてやろうちゅうた。ほうしると、爺は、ちゅう、ちゅうーと飲んだがやーとー」
そう言って、話を進めました。私は聞きながら、なんだか汚いなと思いながらも「それから、それから?」と、この話を何度も何度も聞きました。
私は「舌切り雀」の中の「したーきり、すーずめ」の唄を赤ん坊のころから、その人が亡くなる年まで、何百遍聞いたか分からないのです。その調子が耳に残っていまして、自分の子どもを育てるときに、また思い出したのです。そう言えば、こんな話を聞いたなと思いながら、覚えているところだけを語りました。その後、昔話資料を調べ、欠落した部分を補い、自分の子どものほかにも、地域の語りの活動で語るようにいたしました。
ほーらあー 寝えーろ、ねえーん ねえーろ、
ほーらあー 寝えーろ、やあー やあー
寝んー 寝ろー 寝ろー 寝ろー、ほらあー 寝ろー やー やー。(東北地方の眠らせ唄)
みなさん、眠くおなりになったかも知れませんが、今の歌では「ほーらあー 寝ろー、ほーらー 寝ろー」と、同じ言葉が何度も何度も繰り返されます。「やー やー」というのは赤ん坊のことですね。同じ言葉を何度も繰り返し、メロディはあまり急激に上がったり下がったりしないのです。そして調子がゆっくりしているということ。こういうことが赤ん坊にはとても大事な言葉かけです。声を聞かせながら心を静めさせる、安定させる役割を持っているということなのです。
これは昔話を聞かせることと同じです。幼い子どもに昔話を語るときは言葉をゆっくり聞かせることが大事なんですね。
それから昔話の語りの調子には、あるかなきかのよい調子がついています。決して棒読みに読むのではないのですね。
(棒読みのように)「むかしむかしあるところに、お爺さんとお婆さんがありました」(これはわざと棒読みのように言ってみたのですが)、こんなふうには語らないのですね。多分、こちらの方たちは、(歌うような調子をつけて)「むかーし、あったったづもなー」と言うのでしょうか。
私は子どもの頃、石川県出身の年寄りに昔話をたくさん聞かせてもらいました。たくさんと言っても、その年寄りの一つ覚えみたいに「舌切り雀」を繰り返し繰り返し聞いたのです。その「舌切り雀」の語り方が、「むがーしあったといーねー、じいとばあがあったといーねー」というのです。「昔ありました」というのではなくて、「むかーし」と音を伸ばします。「あったといーねー」というように母音を伸ばします。語尾は「したがやとー」っていうように語られます。
それは子守唄と同じで、一つ一つの言葉の”母音を伸ばす”声の届け方なのですね。昔話は、とっと、とっとと行かないで、ところどころ子どもの様子を見ながら、ゆっくり語ったり、わざと声をひそめたり、もうこのあたりで寝てしまうなーと思ったら、わざとゆっくりゆっくりするという、そんなやり方をしていました。眠らせ歌を聞かせて眠らせるのとまったく同じだと思うのです。
私の本には「舌切り雀」のことを書きました。「舌切り雀」は、この地方でも語られていますか?
いろいろな語り方が各地にあるのですが、私の聞いていた「舌切り雀」は石川県の昔話ですから、婆が雀の舌を切るところは全国のどの地方よりも三倍残酷なのです。婆は雀の舌を切って、羽を切って、尾を切って叩き出すのです。すると爺が帰ってきて、「可哀想になー、可哀想になー」と言って探しに行くのですが、爺は唄を歌っていきます。
「舌切りすーずめ、どっち行った、羽(は)~切りすーずめ、どっち行った、尾ー切りすーずめ、どっち行った、と言うてったがやとー」と、そんなふうに聞きました。
これも三回、繰り返します。昔話ですから三ヶ所に行くのですね。最初は牛洗いさまの所へ行き、次は馬洗いさまの所に行き、そしてその後ですが、私が子どものころ聞いていた「舌切り雀」では”おしめ”(おむつのこと)を洗っとる婆がいて、「おしめを洗っとる婆に、婆さま、婆さま、ここを雀が通らなんだかいのー、と言うと、通った、通ったと言う、どっち行ったか教えてくれんかいのー、と言うと、そんならこのおしめの洗い汁、たらい一杯のんだら教えてやろう」(笑い)私が子どもだったころは、洗濯はたらいでやっていましたから、聞いていて、それがどのような洗い汁か分かるんです。
私に話してくれた年寄りは、このように言ってました。
「おしめを洗っとる婆が、このおしめの洗い汁、たらい一杯飲んだら教えてやろうちゅうた。ほうしると、爺は、ちゅう、ちゅうーと飲んだがやーとー」
そう言って、話を進めました。私は聞きながら、なんだか汚いなと思いながらも「それから、それから?」と、この話を何度も何度も聞きました。
私は「舌切り雀」の中の「したーきり、すーずめ」の唄を赤ん坊のころから、その人が亡くなる年まで、何百遍聞いたか分からないのです。その調子が耳に残っていまして、自分の子どもを育てるときに、また思い出したのです。そう言えば、こんな話を聞いたなと思いながら、覚えているところだけを語りました。その後、昔話資料を調べ、欠落した部分を補い、自分の子どものほかにも、地域の語りの活動で語るようにいたしました。
私はぐるんぱの幼稚園を読みました。
その後、意見交換があったけど、
みんなあたりさわりのないことしか言いませんね。
みんなまだはじめて日が浅いから、
あんまり厳しいことを言うと、先続ける気がなくなることを心配しているのかな。
こっちは素人だからいろんなこと聞くけど、
こっちが納得する答えはなかなか返ってきませんね。
たとえば、読み聞かせには声色は必要ないと言うけど、
やりすぎなくらいのオーバーアクションからまったく無表情のぶっきらぼうまで、
無段階にあると思うんだけど、
こっからはダメで、こっからはOKというはっきりしたラインは示してくれない。
それはある人はいいと言い、ある人はダメという、
答えのない世界なんだろうと思う。
普通はダメだけど、こういう条件ではOKっていう場合もあるだろうし。
答えはないけれど、これくらいがいいんじゃないかという微妙なライン、これを見つけるのが場数なんじゃないかと思うんだけど、どうかな。
人に教わるもんじゃなく、自分でみつけるもの。
人のはなしを一杯聞いて、自分も一杯はなしをして、
すこしづつみつけてゆくもの。
今はそんな風に思ってる。
聞き手から学ぶことが減ってしまいますよね。
絵本の読み聞かせはタイプが少し違いますが
聞き手から学ぶことが多いです。
学生時代、先生方は学校を出てから一生涯をかけて
ある分野を専門的に30年~40年と研究につぎ込む方が多かったのですが
定年前位に、やっと自分なりの結論が出てきたと言う人がいたりするくらいなんです。
研究もそうですが、おはなしや読み聞かせも
とても奥が深く、数年やったくらいでわかるものじゃないですよね。
どれも小さなことの「積み重ね」ですよね。
でもその日々の積み重ねが、とても大切なんだと思いました。
今の私じゃとても無理!できない!わかっていない!
といったことだらけですが、十年後も続けていたら
今よりはだいぶ変わってくると思います。
それでもまだまだのレベルでしょうが・・・
そういうワクワク感が、勉強してみたい!
という気持ちに繋がるんですよ。
体験講座はあくまでさわりなんだなと思いました。
習い事を始める前にやる、体験入学みたいなものと似ていますね。
今はひたすら積み重ねていこうと思います。
絶対にありえないですよね。
いつも今までと違った状況でおハナシしなければならない。
過去の経験(場数)を思い出しながら、
「あの時は~だったな、今は~だから、こうした方がいいかな」、などと、
調整しながら、おハナシを進めていく。
そういう意味でふりかえる「場数」は多いほどいいわけで、
これで終わりということはない。
それを「まだ勉強中」と言ってるんでしょうね。
ノウハウをしって簡単にできるものでなくて
いろいろな作品を相手がいる前で語ったり読んだりすることで
わかってくることがある・・・
ストーリーテリングの先輩がはもう25年くらいもうやっているのですが
それでもまだまだ勉強中だと・・・
私なんてまだ入り口にもたどり着いていないのかもって感じです(^_^;)
内職する子どもの目を覚まさせる語りってすごいですね。
子供がちゃんと成長しているかを確認するわらべうたがあるのですが、それを思い出しました。
そんな確認のわらべうたでも、楽しいんですよ。
そんなことまで楽しくやってしまうのだから、日本の文化ってすごいですよね。
国会もおはなしを見習って居眠り防止に励んでほしいものです。
逆も反面教師になりえるけど。
民話の世界では子どもも大事な働き手、
内職をする子どもたちの
目を覚まさせるための語りもあるとか。
今の時代では考えられないですよね。
結局、これが正解という答えがない世界なんでしょうね。
読み聞かせ、おはなし、みんな含めて。
それを埋めていくのは、ひとつひとつ小さなことの
積み重ねしかないんでしょうね。
おはなしについて、まだ勉強して間もないので
この語り方の加減がイマイチわからないです。
「むか~~しむかし・・・」なんて抑揚をつけるように語ってしまうと
その抑揚ばかりに気がいきそうな気がして・・・
けれど、上手な方は加減が上手ですよね。
語りの領域を超えすぎないというか。
とても面白そうに語るのに、おはなしが見えてきて楽しい!
私がやったらパフォーマンスになってしまいそうな気がしまして・・・
来週おはなしの会の見学に行く予定なので
学校での読み聞かせと語りの切り替えについて
相談してみようと思います。