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ナンプレ(数独)マイエッセイ 62(先行掲載)

2020年10月06日 16時38分47秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
   ナンプレ(数独)

 ナンプレに夢中になっている。やめなきゃと思っているのにやめられない。なにかというと、つい手が伸びてやってしまう。ナンプレ依存症(中毒)の一歩手前じゃないかと、いくらか危機意識を感じている。
 始めたきっかけはまったくの偶然だった。今年のゴールデンウイークの数日前、百円ショップでナンプレの本を目にして、知り合いがやっているのを思い出し、どんなものかやってみるか、百円の安さもあってついカゴに入れてしまった。
 ナンプレとは空いているマスに1~9のいずれかの数字を入れていくパズルである。
 基本ルールと解き方はすぐに理解できた。さっそく最初の問題をやってみると、拍子抜けするくらいスイスイと数字が埋まっていった。
「なんだ、簡単じゃないか。こんなの、どこがおもしろいのだろう。」
 これが悪魔の甘い罠だったと気が付くのはだいぶ先になってからのことだ。
 それからは病みつきになって、ちょっとでも時間が空くと、とりつかれたようにナンプレをやっていた。リタイアしているから時間はいくらでもあるし。ひとりでできるから、いつでもやりたいときにやれてしまう。
 一冊一〇〇問の問題集はレベルごとに全部で十二冊ある。初級編、中級編と進み、いまは六冊目の上級編をやっている。最初のころはたいして時間もかからなかったのに、ここまで来るとだいぶ難しくなって、目標タイムは二十分とあるのに、一時間ほどかかるようになった。それでも解ければいいほうで、答え合わせをすると間違っていたり、途中でギブアップすることも多くなってきた。この先にまだ超上級編、名人編がある。いま、ここで参りましたと降参するか、なにくそと上を目指すかの岐路に立たされている。

 ナンプレを解くのに特別な知識や高度な技術はいらない。コツコツとシラミつぶしに数字を探していく根気強さがあればいい。
 手応えのある問題にぶつかって、にっちもさっちも行かなくなったとき、神が降臨したかのように、パッと数字がひらめき、それを手掛かりに、次々と数字が埋まっていくときがある。そんなときは、まるで砂上の楼閣が崩れるのを見ているような快感があるし、全部のマスを埋め終わって、答え合わせをしてすべての数字が一致したときの達成感、安堵感はなかなかに得がたいものがある。かかる時間がまるっきり違うので比較にはならないが、ジグソーパズルで最後のピースをはめ込むときの感覚に近い。
 やっているときはほかのことは忘れて無我の心境になれる。集中力、注意力が鍛えられるし、頭脳の活性化になるからボケ防止にもなりそうだ。
 ただし、ちょっと気になるのは、ナンプレは詰碁や詰将棋と比べると、歴史も浅いし、奥深さがあるとは思えないので、ただヒマつぶしをしたような喪失感、虚無感がある。
 ほかにすることはいくらでもあるのに、時間がもったいないと思ってしまう。そんなことをやる時間に、ギターが弾ける、連続ドラマが一話分観れる、本だってかなりのページが読める。そんなことを考えると、やめなきゃと思ってしまう。
 オイラは怠け者のクセにけっこう向上心が強く、意外と頑張り屋なのだ。
 続ける口実はないかとインターネットをサーフィンしていて、追い風になるような情報を見つけた。フランスでは小学校の二年生のカリキュラムにナンプレ の遊び方という授業があって、子供たちはこの簡単なゲームによってロジックを習うという。
 さらに、徹底的にナンプレに付き合ってみようとの名目でとことん取り組んでみた。その結果、新しい発見があった。堂々巡りが続いて、いままでなら諦めていた局面をグッとガマンして、それまでに身に着けた解き方をフル動員して問題を睨み続ける。作者と剣を交えて果し合いをしている心境になる。そのうちまさかというところで、これが作者の作成意図だと思える手順を見つける。
 おっ、そうきたのか。思わず手を差し伸べて見えない作者に握手を求めたくなる。ナンプレにはこういう楽しみもあったのか。作者と解答者の頭脳対決である。ナンプレも捨てたものじゃない。詰碁や詰将棋にも匹敵する高尚な知的ゲームじゃないか。思ったより奥が深そうだ。みんなが熱中する理由がわかった気がする。
 とうぶん、ナンプレをやめられそうにない。


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