民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「ラフカディオ・ハーン」 その3 牧野 陽子

2014年03月13日 00時24分32秒 | 民話の背景(民俗)
 「ラフカディオ・ハーン」 異文化体験の果てに  牧野 陽子 著  中公新書 1992年

 「祖国回帰の出来ない人々」 P-200

 前略

 ハーンの辿った異文化体験の軌跡は決してありふれたものではない。
生い立ち、資質、才能、時代、日本という場、様々な偶然の条件が重なって編み出された、
まさに一編のドラマといえる。

 だが、ひとり、外的条件は一致しないものの、同じく異文化体験の第三段階に至り、
似通った世界像に到達した人間がいる。
前章でも触れた、民芸運動の創始者、柳宗悦である。
『白樺』の一員として西洋の芸術思想を紹介していた柳は、
いわば一種の西洋離れとして李朝白磁論を著した。
だがそのために、それまでの日本観、ひいては世界観が崩れてしまうことになる。
現在では常識ながら当時はまだ一般的ではなかった認識、
つまり、古代日本の文化財はほとんど朝鮮渡来のものであるとの認識をえた時、
もはや、柳は祖国回帰する場を奪われ、日本人としてのアイデンティティを喪失したも同然だった。

 西洋文明との乖離に悩み、かつ日本回帰も果たせないその柳の見出した活路、
救いとして展開されたのが民芸論だった。
柳が民芸の美の最大要件として挙げるのは、無名の工人の手によって同じ品が作られてきたこと、
およびそれぞれの地方において昔からずっと繰り返し生産されてきたことの二点、
つまり、当人の熟練、また地方の伝統という二重の「時間」の蓄積である。
無名の陶工が無心にろくろを回す手を、一個人の手ではなく、類題の祖先の手であると述べた
『雑記の美』(昭和二年)冒頭の文章はよく知られているが、それはどことなくハーンの
「有機的記憶」の説を連想させる。
柳にとって各「地方」とは文化の空間的力関係とは無縁の場なのであり、
そういう各々固有の伝統をもつ小さな「地方民芸」が無数に点在して日本ひいては世界が
構成されると考えつつ、日本国中の民芸品を隈なく調査発掘して回ったのだった。

 ハーンと柳の最終的世界像はかくも類似している。
それは影響関係というより、同様の祖国回帰不能の結果、
必然的に至った思想的帰結と考えるべきだろう。
ハーンの怪談が日本の民話を題材にしつつも、日本でも西洋でもない不思議な空間を形成
しているがごとく、柳の収集した民芸品もまた、それぞれ個性的な地方色に彩られるべき品々が、
みなどこか相似た風貌を持っている。
柳の思想を最も忠実に具現したとされる浜田庄司の作品に端的に表れているように、
柳の民芸の真髄は抽象化された想念としての土臭さ、地方性にあるのである。
そこに、民芸運動が各地域個別の生産活動から離れ、一つの民芸「様式」に終わる必然性がある。

 ハーンと柳は、怪談や陶器といった具体的な対象に光をあてつつ、
その表層を突き抜けて形而上的思考に浸った。
二人にとって、大衆の生活に密着した民話も民芸品も、他者の無意識の領域に参入することで
自らの想念を未来へと伝達する場、手段としてこそ意味を持った。
そして両者の晩年の著述に共通する、ある透徹した響きは、
いわば祖国や異国なる実際の土地を遊離し、
抽象的な時間の遡行という精神作用のうちに自らを昇華しつつ、
西欧的近代を超克しようとした者の緊迫感に他ならない。

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