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「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)

2015年01月21日 00時09分58秒 | 民話の背景(民俗)
 「瞽女(ごぜ) 盲目の旅芸人」 斎藤 真一  日本放送出版協会 1972年(昭和47年)

 「目をくれた話について」 杉本キクエ(瞽女)との問答 P-285

 実はこんな話があります。昔、母の赤倉カツさんに聞いた話ですが、左甚五郎の母は蛇で、どうしても一度人間の女房になってみたいと思って、ある日、大工さんの所へ美しい女に化けてやって来ました。大工さんは、その女が蛇であることはつゆ知らず、ついに夫婦になってしまいました。そして、その間にできた男の子どもが実は左甚五郎なんです。貴方も左甚五郎という人知っているでしょう。その男の子が三歳になったときでした。ある日母は突然「いろいろご厄介になりましたからお暇をください」と主人に言ったのです。「暇をくれとは一体どうしたことか」と父は女房のそのような言葉が信じられなくて・・・。

 ところが母は、「お前さんを長い間ごまかして本当に申し訳ありませんでした。実は私は、この奥の池に住む蛇の主で・・・もう貴方と契りを結んで子どもまでできて、思い残すことはありません。一生ここにいられる身ではないし、・・・どうかお暇をくださいませ・・・」と言って母は泣いて立ち去ろうとしました。父はびっくりして「しかし、もしお前が去れば、この子は一体どうなるのだ・・・跡で母を慕って泣いて困るではないか、どうか思いとどまってくれないか・・・」と、途方にくれてしまって、母を一生懸命引きとめましたが、
「それでは、この私の目を置いていきましょう、この目さえ離さないで持っていれば、この子は一生涯泣かないで、それに生活も困らないで生きて行けるでしょう・・・」と母は言って父に目をあずけて消えるように去ってしまったのです。でも左甚五郎は母が去った後、それから毎日ひそかにその目を持っていつもにこにこしてけっして泣かなかったのです。

 やがて、この噂が京都の人々に知れお殿様の耳にも入り、殿様はある日、その大工さんに「お前のところに珍しい蛇玉(じゃだま)があるそうだが、そんなものを持っていて、かくしだてする必要はなかろう。一度見せてもらえないだろうか・・・」と言って使いを出したのです。

 大工さんは殿様のおおせとあらばしかたがないので「これでございます・・・・」と言ってその蛇の目を差し出してしまいました。

 「ははあこれがその蛇玉か、なんて珍しいものだ。きれいなものだなあ」と殿様は大喜びで大工にお金や宝物を一杯渡し、蛇玉は宝のように殿様の床の間に飾ったのです。しかし、蛇玉を失った子どもの左甚五郎は、その日からまた泣いて泣いてどうにもなりませんでした。

 父はせつなくなって、また途方にくれてしまいました。そして思いあたったようにその子を負んぶして山に行き、母のいる池のそばまでやって来ると「お母さんよ・・・出て来ておくれ・・・この子泣いて困るから、早く出て来てくれ」と大声で泣きさけびました。すると母は池の中からまた人間になって出て来て「どうしたことかね・・・そんなに泣いて」、「実は、お前の置いていった目を殿様にくれてしまい、この子が泣いて困るからどうしたらいいものか教えてくれ」と父が言うと「私、この子可愛くて可愛くてしかたがない・・・では私のもう一つの目をこの子にあげよう、そのかわり大切にしてくださいよ。私は盲目になり、これから夜も昼もわからない不具な蛇になるのだが、この子可愛いばかりに、私はかまいませんよ・・・、だが、ここで是非ともお願いが一つあります。・・・それはお鐘を作ってください。そしてお寺に差し上げてください。そのお願いさえかなえてくれれば・・・」と言って母は今一つの目を置いて去って行ったのです。

 おけさや松前に「三井寺の鐘の音色もつかねば知れぬ・・・惚れて添わねば気が知れぬ・・・」と言う唄の文句があります。三井寺の鐘が、その鐘なのです。父は三井寺に鐘を献上し、母の蛇玉を持った子どもは、その後立派に成長して左甚五郎という彫刻師になったのですよ。

 私はこの話を赤倉のお母さんから聞いたが、蛇ですら母は子どもに目をくれてしまったのでしょう。なかなか我が子にだって目なんてくれる親はいませんもの。それも両目までくれて、立派な蛇だと思いました。むしろ人間の方が薄情かも知れませんね。

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