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「声が生まれる」 ことばを見つけに その1 竹内 敏晴 

2016年12月14日 00時26分15秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 ことばを見つけに その1 P-18

 (一高に入学して弓術部に入った著者は自己紹介の時に自分はしゃべれないことに気づく) 

 はじめて気づいたのは、わたしがほとんど会話をしないということだった。生活上、必要最小限度の事柄について尋ねたり答えたりしているだけで、友人たちの話の輪に入っている時は、ただ黙って相槌を打つとか時には笑い出しもする、という程度。会話がないからいわば世間をまるで知らない。ことばによって入ってくる情報がまるで乏しい。出来事、特に人と人との関係の噂話などはまるで縁がない。しかし会話しようと志してもことばを持っていない、というのは自らの尾をかんでいる蛇、ウロボロスの輪のようなものだ、出口がない。

 もう一つ、こちらは改めて気づいたことだが、どうにも声が出ていないらしい。今から見れば発音の仕方をまるで知らないでいた、ということになるが、当時、ただ声を大きくするば他人に伝わるだろうと思いこんでいた。

 実を言うとこの誤解は、どうもことばが相手にちゃんと伝わっていないようだと感じる悩みを持つ人々に、かなり共通する思い込みである。そう思い込む根本的な理由は、そもそも自分の声を自分で聞くことはできない、という単純な事実に、わたしたちが気づけないでいることにある。自分の声を自分の耳で聞くことは不可能なのだ。骨を伝わって聴覚神経にとどく波動としての、自分の発する声は骨導で聴覚の中枢に伝わる。わたしたちは内部の音を聞いているので、同じ自分の声でも唇から外へ出、空気の疎密波として他人の鼓膜を振動させる「声」を聞くことはできないのだ。録音した声を聞いた人はだれでも、コレガオレノコエ?と違和感を覚えるのはそのゆえだ。自分が外界へ発している声を、聞き分けるというより感知できるようになるには、訓練が要る。呼びかける声によって、相手と自分の共に立つ場全体がどのように活気づくか、的確に響き合い受け取る体験がひらかれてはじめてできることなのだ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

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