「初心者の壁」
どういうわけか囲碁・将棋といって、将棋・囲碁とはいわない。囲碁は碁会所で打つと言い、将棋は将棋道場で指すと言う。囲碁と将棋は似ているようだが、かなり違っている。それがどちらも経験したわたしの感じたことである。
東京で学生をしていたころ、将棋に夢中になって将棋道場に入り浸っていたことがある。そんな学生生活も六年が過ぎたとき、「いつまで遊んでいるんだ、早く帰ってこい」と、親に戻されて社会人になってからは、すっかり将棋と縁が切れていた。
囲碁をやるようになったのは二十年前、子どもの手が離れるようになった四十五歳のときである。将棋は四段の免状を持っていたので、初段くらいはすぐ取れるだろうと思っていた。ところが、大間違いであった。
まわりに囲碁をやる人がいなかったので、碁会所のドアをたたいた。初めての人には敷居が高いようだが、わたしは将棋道場のことがあったので気にはならなかった。
ところが、まったくの初心者なんか相手にしてくれる人はほとんどいない。それで、初心者でも相手をしてくれる人がいる碁会所を探した。やっと見つけたのが、当時、下野新聞の囲碁観戦記を書いていた人が日曜祭日だけ自宅の一室を開放していた碁会所だった。席料も五百円と安く、雰囲気もよかったので、毎週、通うようになった。ようやく顔を覚えてもらったころ、何人かが相手をしてくれるようになった。
囲碁は弱い人でも強い人と対等に戦えるようにハンディがある。わたしは碁会所の中で一番弱い人が相手でも、最初に石を九つ置いてスタートする。相撲でいえば九人がかりで戦うようなものだ。
それでも、最初のうちは勝てない。悔しいから囲碁の本を手当たり次第、買って読んだ。それだけで強くなったような気がしたが、実戦はそんなに甘いものではない。なんとか勝てるようになって、囲碁のおもしろさがわかるようになるまで二年くらいかかった。
そうなるともうやめられない。あらためて囲碁教室に入門した。碁会所にはいなかった同じくらいの棋力の人たちと知り合って、それが励みになり、毎週、日曜日の午前中、囲碁教室に行くのが楽しみになった。通いだして三年目、囲碁の大会に出場して条件をクリアし、最初の目標である初段の免状を取ることができた。
仕事をリタイアしてからやりたい趣味として囲碁をあげる人は多い。でも、わたしはリタイアしてからはじめたのでは遅いと思っている。習い事というのはなんでもそうだろうが、囲碁にもおもしろさがわかるまでに「初心者の壁」みたいのが厳然とある。それを破るには成果のはっきりしない努力を続ける忍耐力と、年下の者にも頭を下げられる謙虚さが必要にある。それらは年をとればとるほど維持するのが難しくなっていく。
囲碁はとっつきにくいけれど、やってみればこんなにおもしろいゲームはない。
今まで苦労した分、これからは初心者を相手に、「どうだ、このひよっこ」とつぶやく楽しみを味わいたいものだ。
どういうわけか囲碁・将棋といって、将棋・囲碁とはいわない。囲碁は碁会所で打つと言い、将棋は将棋道場で指すと言う。囲碁と将棋は似ているようだが、かなり違っている。それがどちらも経験したわたしの感じたことである。
東京で学生をしていたころ、将棋に夢中になって将棋道場に入り浸っていたことがある。そんな学生生活も六年が過ぎたとき、「いつまで遊んでいるんだ、早く帰ってこい」と、親に戻されて社会人になってからは、すっかり将棋と縁が切れていた。
囲碁をやるようになったのは二十年前、子どもの手が離れるようになった四十五歳のときである。将棋は四段の免状を持っていたので、初段くらいはすぐ取れるだろうと思っていた。ところが、大間違いであった。
まわりに囲碁をやる人がいなかったので、碁会所のドアをたたいた。初めての人には敷居が高いようだが、わたしは将棋道場のことがあったので気にはならなかった。
ところが、まったくの初心者なんか相手にしてくれる人はほとんどいない。それで、初心者でも相手をしてくれる人がいる碁会所を探した。やっと見つけたのが、当時、下野新聞の囲碁観戦記を書いていた人が日曜祭日だけ自宅の一室を開放していた碁会所だった。席料も五百円と安く、雰囲気もよかったので、毎週、通うようになった。ようやく顔を覚えてもらったころ、何人かが相手をしてくれるようになった。
囲碁は弱い人でも強い人と対等に戦えるようにハンディがある。わたしは碁会所の中で一番弱い人が相手でも、最初に石を九つ置いてスタートする。相撲でいえば九人がかりで戦うようなものだ。
それでも、最初のうちは勝てない。悔しいから囲碁の本を手当たり次第、買って読んだ。それだけで強くなったような気がしたが、実戦はそんなに甘いものではない。なんとか勝てるようになって、囲碁のおもしろさがわかるようになるまで二年くらいかかった。
そうなるともうやめられない。あらためて囲碁教室に入門した。碁会所にはいなかった同じくらいの棋力の人たちと知り合って、それが励みになり、毎週、日曜日の午前中、囲碁教室に行くのが楽しみになった。通いだして三年目、囲碁の大会に出場して条件をクリアし、最初の目標である初段の免状を取ることができた。
仕事をリタイアしてからやりたい趣味として囲碁をあげる人は多い。でも、わたしはリタイアしてからはじめたのでは遅いと思っている。習い事というのはなんでもそうだろうが、囲碁にもおもしろさがわかるまでに「初心者の壁」みたいのが厳然とある。それを破るには成果のはっきりしない努力を続ける忍耐力と、年下の者にも頭を下げられる謙虚さが必要にある。それらは年をとればとるほど維持するのが難しくなっていく。
囲碁はとっつきにくいけれど、やってみればこんなにおもしろいゲームはない。
今まで苦労した分、これからは初心者を相手に、「どうだ、このひよっこ」とつぶやく楽しみを味わいたいものだ。
なんだか文章の中に穏やかな空気が流れているのが伝わってきます。
文章のリズムもとても心地いいです。
私の恩師も素朴な文章を書くのですが、読み手が興味を引くような文章でした。
そうした文章を読むと、自分の文章が雑に見えてきて、こんな恥ずかしい思いをするくらいなら、書かない方がいいと思ったものでした。
初心者の壁・・・おはなしや読み聞かせの勉強をしていると、こういった壁のようなものを感じます。
まだ自分は絵本に関して初心者で、おはなしに関しては「超」初心者です。
特におはなしは、まだ覚えることが大変なレベルで、語ることを楽しむ余裕なんて全くないのです。
けれど、おはなしに魅力を感じています。
言葉ひとつひとつを大切にするところなんかは特に好きで、それによっておはなしの見え方がだいぶ変わりますよね。
骨太なおはなしのもつ、力強さも好きです。
ただ、まだこの辺をなんとなくわかっているだけで、本当の意味ではわかっていないんですけれどね。
きっと、続けていけばわかるんじゃないかと想像しながら続けています。
ちなみに息子は、最近将棋をゲーム感覚で楽しんでいます。
負けるとすぐに癇癪をおこすので、今は夫やたまに家に来る祖父が、手加減をして勝たせてあげていますが・・・
同じ世代の友達と勝負をすると、楽しいのでしょうが、周囲に将棋をしている子がほとんどいないのが現状です。
同世代の友達と真剣勝負をして、負けるくやしさや勝つ喜びを味わえたらいいなぁと思います。
そうです。
マイ・エッセイのカテゴリーに入ってるのは、
私がエッセイ教室でムリヤリ書かされたものです(笑)
この「初心者の壁」は講師に添削されたものをアップしました。
題名は「囲碁」だったのを直されました。
>初心者の壁・・・おはなしや読み聞かせの勉強をしていると、こういった壁のようなものを感じます。
進歩の過程ってスロープではなくて階段であると思ってる。
スロープであるなら、毎日少しずつでも上達しているな、っていう感覚を味わえるけど、
階段はずっと平らで、いつステップを上がれるかわからない。
苦労が報われるかどうかの不安な状態にずっと耐えなきゃならない。
それに負けてやめたらそれで終わり。
続けていけば、ある日突然、トンとステップを上がることができる。
進歩ってのはそのくり返しなんだと思う。
(段階を踏むってのはそういうことなのかな)
進んでいるときはわからないけど、ふり返ってみて、
あのときがターニングポイントだったんだなってわかる、そういうもの。
>ちなみに息子は、最近将棋をゲーム感覚で楽しんでいます。
私の知り合いに小学生に囲碁を教えるボランティアをやってる人がいるけど、
囲碁が終わるとみんな将棋をやりだすっていってこぼしていました。
大学で囲碁・将棋を授業に取り入れているところもあるくらい。
早いうちにやっておくことはいいことですね。
自分が感じていたことと、書いていたことがちょうど重なりました。
「もうだめかも!」と思うのですが、おはなしを少し覚え、前よりアウトプットができるようになると「あれ?少し覚えたかも?!」と、小さな前進を感じるんです。
(実際前進したかはわかりませんが、前進したと信じる)
おはなしの会に「自分が選んだおはなしを信じる」と言うストーリーテラーの方がいるのですが、
「信じるってこんな感じかな?」と最近感じます。
おはなしと自分の両方を信じるとでもいいましょうか。
なんだか精神的な修行をしているようでもあります。
いろいろ書きたいことがあるのですが、今日は遅いのでこの辺にしておきます。
寝る前にakiraさんのコメントを読んでよかったです。
いい夢が見られそうな予感がします。
ありがとうございました!
おはなしにきちんと共感できないと語れないですね。
「自分の伝えたい思い」と「作品(作者)の伝えたい思い」
このふたつがぴったりと一致すればいいんだけれど、
それはなかなか難しい。
優れた語り手というのは、作品の伝えたい思いを
きっちりと伝えられる人なんじゃないか、と思うけれど、
私は自分の伝えたい思いの方が強くて、作品の伝えたい思いを
伝えていないですね。
自分が大事か、作品が大事か、けっこう難しい問題であるとは思うけれど。