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「声が生まれる」 音が聞こえる その1 竹内 敏晴

2016年12月06日 00時07分02秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 音が聞こえる その1 P-8

 中学四年生になった。
 この年(1940年)は大日本帝国にとって特別な年であった。
 
 (中略)

 幼い頃からかかりつけの、医師が当時開発されたばかりの新薬をわたしに投与したのだった。(中略)
 薬剤名はテラポール。後に副作用のゆえに製造中止になったと聞いたが、わたしのからだには劇的と言っていいほど顕著に効き目を現した。たぶん一、二ヶ月で、まず右耳の、ついで左耳の耳だれが止まった。左はその後も塞がったままの感じはたしか十年くらいも変わらなかったが、右耳には、少しずつ、しかし鮮やかに風が拭き入ってくるような感じが起こっていた。

 「ざわわ ざわわ ざわわ」で始まる歌(『さとうきびばたけ』があるが、わたしはあれを聞くと、耳が聞こえ始める時のようだ、と思う。音はあのように入ってくる――というより、起こってくる。あらゆる音が――くっきりしたのも、ただからだに響いてくる感じといった、音にもならぬ振動のようなものも――鋭いのもやわらかなのも、まだそれぞれを聞き分けるということの始まる以前に、ぜんぶ一緒になった「ざわわ」なのだ。

 一般的に、音が聞こえればことばがわかるものと思い込んでる人が多いが、そうはいかない。以前いくらか聞こえていた記憶があるので、気づき方の進度は明確でないが、たとえば試みに補聴器を着けてみるとわかるけれども、ありとあらゆる音がいっぺんに一緒くたに、いわば平等に飛び込んでくる。それを聞き分けることはむつかしい。鋭い音とやわらかい音が別のことだということはわかる。だがソレハナニカがハッキリするということは、それらに一つ一つ別の名前をつける――あるいは既知のことばをあてはめる――ことによってしか成り立たないのだ。これは風、これは鳥の啼き声、これは靴音、怒鳴り声、くすくす笑い、などと文節してゆくのは、すでに存在あるいは潜在している内的言語によるのであって、それが未発達なわたしのような場合には、その対象そのものがなかなか独立の音としての姿を現さない。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

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