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「若さと老年と」 金子 光晴

2014年08月30日 00時36分25秒 | 健康・老いについて
 「若さと老年と」 金子 光晴(1895~1975)詩人  エッセイ集「日本人について」より

 老年については、知っている人が少ない。老年になってなお、心や肉体の若さを失わないものを、人は、稀有のことのように感嘆するが、それはただ偶然なことで、老年とは本来、若いものと異質な人間に変化することではなく、もって生まれたものは、案外、棺(ひつぎ)に入るときまで、変哲もなくもとのままなのである。いずれにしても、人間は若さをもつにこしたことはない。
 
 経験は、人生を狭くする。そして、人間を用心ぶかくし、早速の処理や、対応の方法をあらかじめ知っておくことができるようになる。だが、どうにもならない事態は、結局、どうにもならないことで、そこには若さも、老年もない。

 分別ということは、それほど立派なことではない。老年の体面上、分別のないことは沽券にかかわるので、老人は、判断のつかないことは、そのままにしておいて、できるだけ消極的な身がまえで、ただ、持ち前の白髪頭と年の皺でつくった「分別顔」にものを言わせるようにする。

 老年のポーズと功利心が、老年をなにか曰くありげなものに、神秘化してみせるようになる。老年の空虚さは、実人生の場からはなれた、補給不足によう。真に、生きている老年は、若者との本質的な距離があるはずはない。より敏感で、より緻密で、柔軟性があってもいいわけだ。

 中略

 僕は、僕の老年から若さの汚染のあとをさがすだけで、辛うじて満足を得ているのだが、老年の御託などに耳をかす気は、毛頭ない。

 精神の若さを、ちらさないように老年の時期まで一つにまとめて整理し、清新なままにしておくことは可能であるが、たとえ、それが精神の若さでかがやくようにみえることがあっても、どうにも手のほどこしようのないものである。老年が肉体の滅亡、変化を旧態に止めようとして費やすむなしいあがきほど、みていて気の毒なものはない。容姿の落魄(らくはく)は、修飾するほど醜くなる。

 老年は石だ。ぞうり虫だ。いなくてもいいものだ。舞台から下りようとして、とまどって、まごまごしているだけの人間だ。だが、それだけのことで、その他の点では、諸君とおんなじなのだ。なに一つ成長したわけでもないのに、うかうかとつれてこられて、いわゆる年よりがいのない連中が大方なのだ。彼らがうるさいのは、不平のもってゆきどころがないからだ。そして、本心は、若くなりたいのだ。

 後略

 所載「老いの生き方」 鶴見俊輔  筑摩書房 1988年
 底本 「金子光晴全集 11」 中央公論社 1976年

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