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「なまけものコンプレックス」 別役 実 

2014年11月27日 00時04分19秒 | エッセイ(模範)
 「馬に乗った丹下左膳」 エッセイ集  別役 実  (株)リブロポート 1986年

 「なまけものコンプレックス」 P-74

 なまけものが、木の枝に手足をからませてぶらんとぶら下がっているのを見ると、何となくそうしないでいることが、恥ずかしいことのように思えてくる。そいつらにそういうつもりはなのかもしれないが、暗に「お前さんは何故ぶら下がらないんだい」と聞かれているような気がして、そう言われてみるとそうしないでいることの方が、むしろ不自然なことのように見えてくるのである。

 なまけものが木にぶら下がっている姿には、どことなく瞑想的なところがところがあって、それに気落ちされるということもあるかもしれない。立ってせかせかと動きまわっていることが、何となくあさましく思えてくるのである。もちろんそれは、立ってせかせか動きまわることで創りあげてきた我々の文明に、現在、我々がいささか自信を失いつつあるせいでもある。
「こんなことなら、最初から奴等のようにぶら下がっていればよかった」と思いだしたのだ。少なくともなまけものは、そうすることでこれまで何とかやってきたのだから。

 何故なまけものが木の枝にさかさにぶら下がっているのか、については二つの説がある。最初はなまけものも木の枝に乗ってまともに世間をながめていたのだが、それに飽きたので、以来さかさまにぶら下がることを始めたのだという説と、本来はみんな木の枝にさかさにぶら下がっていたのであり、しかしそのうちにみんなやめてしまったのであり、なまけものだけがやめなかったのだという説である。どちらにしても、このなまけものの態度は、称賛されてしかるべきものであろう。

 まともに世間を見ることに飽きたので、木にぶら下がってさかさになって見てみようなどという発明は、なまなかの知能のよく成し得ることではない。我々の文明内で、これに比較すべき業績といえば、アインシュタインの相対性原理の発見ということになるだろうか。しかも、彼がそれを発見した時、既になまけものは木にぶら下がっていたのである。

 よしまた、全てのものが最初から木にぶら下がっていたのであり、なまけものだけがそれをやめることをしなかったのだとしても、それによってなまけものが責められるべきいわれは何もない。「大地にしっかり足をつけている」ことが全てのものにとっての最も安定した姿であるという考え方は、ぶら下がることをやめてしまった我々が、それを正当化するために唱え始めたことかもしれないからである。我々が既にそれを信じ、なまけものが未だにそれに疑いを抱いているのだとすれば、事態に対してなまけものの方がよりゆとりのある考え方をしている証拠にほかならないではないか。

 ともかく我々とその文明は、我々自身気づかないままに、かねてよりなまけものに対して深くコンプレックスを抱いてきた。なまけものという明らかな蔑称は、言ってみればその「コンプレックスの裏返し」にほかならない。しかし、我々ももうそろそろ気付いてもいいころだ。間違っていたのは、なまけものではなく我々の方かもしれないということを・・・・・。

 実は、なまけものが我々よりはるかに進化した生き物であるらしいことを示す証拠がひとつある。なまけものには、盲腸がないのだ。何の役にも立たず、時々炎症を起こして我々を苦しますだけの盲腸を、我々がどれほどもてあましてきたか考えてみるがいい。つまりなまけものは、如何なる手続きを経たのかは不明であるが、既にそれを克服したのである。

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