民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「水っぽい」 池部 良

2016年09月07日 00時02分13秒 | エッセイ(模範)
 「水っぽい」 エッセイ集「そよ風ときにはつむじ風」より 池部 良 新潮文庫 1995年

 口にうるさいおやじだったが「食道楽」ではなかった。新鮮で旬のものなら何でもよく、それなりにご機嫌よく食べた。ただおふくろを不幸な女にさせたのは、揚げものなら油の温度、煮ものなら塩を先に入れるか、砂糖を先に入れるか、焼き魚なら魚と炭火の距離、皮の焦げ方にひどくうるさいことだった。
 尾篭な話で恐縮だが、昭和元年辺り、水洗便所なんて洒落た便所はなかった。陶器の「キンカクシ」付きの便器を跨(また)いで、土に埋められた益子焼の大きな瓶(かめ)にどぼんと落とした。
 瓶の中の水分が余分だと落としたものが水しぶきを上げ、お釣りが跳ねてくる。そいつがお尻にくっつかれては耐(た)まらないから、落としものが水面に落ちたとおぼしき頃、膝のバネを利かせて腰を浮かす。この技術は難しかったから女と年寄りは間が合わず用便紙を何十枚も使ったようだ。この瓶に貯まったものを近所の農家が汲み取り、つまり買いに来る。汲み取りは「汲み取らせて頂く」売り手市場だったから後にはお金になり、汲み取り券になったが、まだ東京市だったその頃は「汲み取って肥料にさせて頂く」御礼には農家が自分の畑で作った野菜を一桶に就いて幾らと換算して持って来た。持って来る野菜は、小松菜、大根、葱、胡瓜、かぼちゃの程度だったが、おやじはこの御礼の野菜が大好きで八百屋からは絶対に買わせなかった。「有り難うございます。二桶汲み取らせてもらいましたから」と大根五本、葱三束ぐらいは持って来た。何しろ、今、畑から引っこ抜いて来たという泥つきの新鮮さがおやじにはこたえられないほど嬉しかった。
 小学校に入る前の年の春、おやじと農家のおじさんが便所の汲み取り口の前で言い争っている。
「何が相場だ。お前さん、五桶も汲み取ったんだろ。大根二本と小松菜一束じゃ少なすぎやしないかね」
「そらあ、たしかに五桶、頂きました。だけどよ、何んたって水っぽくて塊が少ねえもんね。これじゃ、水撒いてるみてえで、肥やしになんねえですよ、だから」
「だから、たった大根二本と小松菜一束か」とおやじは腕を組み天を仰いだ。
「そんなに水っぽいのか」とおやじが言ったら、
「お宅じゃ、みなさん、しょんべんの出しすぎか、お腹でもこわしてんじゃねえかね」と農家のおじさんが言った。
 夕食になり、おやじは給仕をしている手伝いの女の子を、まず睨みつけ、倅達、おふくろへと目を移した。
「今日から、めし二杯しか食わない奴は四杯でも五杯でも食え。それから小便は便所でするな。お前達は」と僕と弟に目を遣り「俺もそうするが、小便は庭でやれ、女達は」とおふくろと手伝いの女の子に目玉を送ってから「小便も三度したいと思ったら一度で我慢しろ。何しろ、水っぽくて塊が少ないから、野菜の持って来ようがひどく悪い」と言った。
 おやじの厳命を倅達は守ったが、おふくろと手伝いの女の子はどうしたのか知らない。

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