民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「風景になる」 平松 洋子

2016年05月31日 00時23分13秒 | エッセイ(模範)
 「人間はすごいな」 2011年ベスト・エッセイ集 日本エッセイスト・クラブ編  ㈱文藝春秋

 「風景になる」 平松 洋子 P-247

 鰻屋の入れ込みの座敷で、律儀に銀髪をなでつけたおじいさんが鰻重を食べている。コートとマフラーをたたんで脇に置き、そのうえにハンチング帽。座布団に胡坐をかいて、ちょこなんとおさまっている。大座敷に並んだ卓はぜんぶ埋まって満席。週末の昼下がりは老若男女入り混じって機嫌よくさんざめいている。そのただなか、壁ぎわの小卓にちいさなおじいさんがひとり。
 動作がひとつひとつ、ゆっくりしている。お重にかるく左手に手を添え、右手の箸で蒲焼きとごはんをほわっとすくい、口のなかへおさめる。もく、もく、と口を動かしながら、なにを見るでもなく視線をときおり遠くに遣り、肝吸いの椀につと手を伸ばして熱い汁をすーっと吸う。喉仏がこくりと上下するのが、一卓はさんだこちらから見てとれる。こうしておじいさんは鰻重をいかにもうまそうに味わうのである。
 そのようすに見惚れた。ことさら洒脱とか粋だというわけではない。外を歩けばどこにでもいるごくふつうのおじいさん。気に留める者もおらず、いてもいなくてもおなじに見える。
 すてきだった。わたしは目が離せなくなってしまいました。おじいさんは鰻屋の座敷の空気にすっかり馴染み、それどころか溶けこみきっている。つまり、「鰻屋の風景」になっていたのだ。
 風景になる。これほどむずかしいことはない。はんぱな50代などでは、とてもとても。若いもんはどうしたって輪郭が立って、存在自体がくっきりしてしまう。目立とうという気などなくても、あたりの風景との境目がおのずとはっきりするのだ。
 ところが、おじいさんおばあさんはすごい。素でありながら、葉隠れの術みたいにすーっと風景になれるのだから。染まるのではない。輪郭を滲ませて風景そのものになってしまうのである。
 きっと自意識のありようなのだろう。若いときはいやがおうでも自分が先立つ。それが勢いや自信のみなもとになるのだから自然のなりゆきだ。いっぽう、老いたるひとは、世のなかのざわめきからすこし遠のいている。やや遠く、または数歩退いた位置から世のなかを見る薄墨みたいな距離感は、老いに足を踏みいれたひとでなければ得ることのできない境涯のようである。
「まあいってみれば天命を待つきぶんなんだよな」
 朝ごはんのあと、庭木に止まった小鳥に目を細めながら渋茶をずずーと啜って連れあいが言う。連れあいは69。わたしは17下なのだが、この30年、年齢の差をとりたてて感じたことがなかった。ところがここ数年、「まさかこのひとがねえ」。ひそかに虚を突かれることが増えていったのである。
 天気のよい休日、いそいそと植物園に足を運ぶようになった。煎茶をじぶんで淹れて、「きょうの淹れぐあいはとろっと甘くてうまい」「今朝はいまひとつ」などと、いちいちよろこぶようになった。洗濯ものを取りこんで丁寧にたたむようになった。「午後から雨もようだが明日の朝はからりと晴れる」、天気にこまかくなった・・・ぜんぶ、10年前には想像もできなかった行状だ。当の本人も、じぶんが道端の草花にこれほど惹きつけられるとは驚天動地だよなと苦笑いするのである。
 老いに向かうということは、個人の生活にもどってゆくことでもあるのだろうか。
「ふと思うわけさ。これはきっと『準備』なんだな、じぶんが消えてゆくための」
 遠くないうち、おわりが訪れる。その実感がしだいに現実味を帯びるにつれ、世のなかのなまなましいざわめきとの距離があるぶん、ぎりぎりと弓矢が引きしぼられて舌鋒犀利。わずかなひとことにいっそう含みと鋭さがある。そうだったのか。どうやら「消えるための準備」は隠れ蓑、むしろ周到な戦法なのではないか。
 多少なりとも忖度ができるのは、50を越えたばかりのわたしにも思わぬ変化があったからだ。数十年にわたって熱心に蒐集しつづけてきた李朝のうつわや古いものに、おいそれと手を出さなくなった。もちろん飽きたのではない。むしろ、はんたい。手持ちのものを繰り返し繰り返しじっくりと味わい尽くそう。そうすれば、いつ別れが来たとしてもだいじょうぶ――こんな感覚を抱くなど想像したことさえなかった。
 別離がいつのまにか射程距離に入っていたとは。あれほどじぶんの執着に手を焼いていたくせに、なんという意外な展開だろう。けれども、開いた扉のむこうにわたしが目にしたのは、むしろすこんとかろやかな晴朗であった。
 ところで、こんな言葉がある。
「いい年のとりかたをする」
 酒など飲みつつ「おたがい、いい年のとりかたをしたいものだね」、うんうんとうなづき合ったりするわけだが、これがよくわからない。「いい年のとりかた」って、なんだ?
 じつはどうやら、他人にとって「いい」かどうか、らしいのです。傍目に映る様子がよければ「いい年をとっている」ことにしていただける。つまり、評価をあたえる言葉。はかでもないじぶんお人生、本人がよけりゃ万事モンダイないはずなのに、そこへ世間が割って入っている。
「いいなあ、あんな上手な年のとりかたができたらなあ」とつぶやくとき、それはひとさまに褒めてもらえるだけの老いを手中にしたいという願望の吐露にちがいない。
 なんだか気弱になってしまう。好かれたり憧れたりされなきゃ「よい老人」失格なのだろうか。老いてなお、得点はやっぱり高いほうがいいものなのか。偏屈な年寄りに道は開かれていないのか。口をへの字に曲げたいじわるばあさんもそれはそれなり、座敷に坐ればぐっとシブい鰻屋の風景になるだろうに。

 以下 11行略 (『考える人』冬号)

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