民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「古屋の漏り」 柳田 国男

2014年11月29日 00時21分48秒 | 民話(語り)について
 「桃太郎の誕生」 柳田 国男 著  角川ソフィア文庫(昭和7年初版 平成25年新版)

 「古屋の漏り」 P-374

 前略

 以上の話を聞いてすぐに思い出すのは、今も不思議に全国に行き渡っている「古屋の漏り」という寓話めいた一篇である。私の『日本昔話集』にもその例を載せておいたが、これが土地によって詳略の二種になっている。雨の降る晩に虎狼という獣が、人を食おうと思って、とある古屋の軒に立ち聞きすると、内では老二人が寝もやらず話をしている。「虎狼よりは、モリ殿こそこわけれ」というのを聞いて、さてはこの世の中には、自分よりも強いモリという者がいるのかと、にわかに恐ろしくなって逃げ去ったという話。私などが幼年のころに聞いていたのは、もうこれだけをもって終わっていた。ところが九州でも、また奥羽の遠い田舎でも、話はさらにその後段があって、このほうに小児は心をひかれていたのである。ちょうどその晩に馬盗人があって、たった一匹あるこの家のやせ馬を盗もうとして忍び込んでいた。それが狼の足音を聞いて、馬が離れたと思って、いきなり狼の背に飛び乗る。狼のほうではそれを「古屋の漏り」という怪物だと心得て、足を限りに逃げ去っていく。そうして空井戸に落ち、または路傍の辻堂の前で乗り手を落として、そのまま辻堂の中へ飛び込む。そのあとが話はまた二とおりにわかれていて、狼が尻尾を盗人にとらえられ、恐ろしさに夢中になって尾をひっ切って逃げたというものが一つ、いま一つはその場へ猿が来合わせて、狼々そこで何をしている。いやモリという天下一恐ろしい獣が、今おれに乗りかかってきて、この中に飛び込んでいるという。何がそのようなものがこの世にはあろうぞ。どれ私が見てやろうとこざかしい猿は、長い長い尻尾をその中に差し入れて探ってみる。空井戸の盗人は上がりたいために、また辻堂の中の盗人なら恐ろしさのあまりに、格子の目から入った尻尾をしかとつかんで放さない。猿は苦しがって強く引くうちに、その尾が根元からぷつりと切れて、今のような形の尾になってしまった。すなわちまた猿の尻尾はなぜ短いかの、いわゆる「なぜ話」の一つの形になっているのである。

 いわゆる「古屋の漏り」が狼よりおっかない話などは、禅家か心学の説教にでもありそうな話で、その思いつきから見て少しも古いものではない。ことに小児輩には貧窮の味などはわからぬから、そんな皮肉な寓意に悦喜するはずはなかった。それで是非なく後段のおろかしい葛藤は付け添えられたものと思うが、しかも昔話らしく語るためには、やはり古来の格調を踏襲しなければならなかったのである。猿の尾はなぜ短いの本筋の話というのは、誰でも知っているように狐にあざむかれて、寒中氷の底で魚を釣ろうとした話である。これも猿の少ない北の方の田舎に行くと、狐が川獺(かわうそ)にだまされて尻尾を水に垂らし、氷に閉じられて抜けなかったことになっているのだが、狐は現在あのとおり太い尾があるのだから、話は単なるある一個の冒険談になって、これを聞く者の胸にそのおもしろさが映らない。そこでどうしても猿とか猫とかのような、実際に尾のない者の古い歴史としたほうが、感動を与える力が大きかったのである。猿と氷とを一つ話に取り合わせた国は、たぶん日本ばかりだろうということは、かつて私が説いた北欧の諸国の動物説話中には、尻尾で魚を釣ろうとした話は最も著名であるが、だましたのは例のとおり必ず狐、だまされて尾を失った者は熊より他にはなかった。アイヌの類話においてもまた当然に熊であり、どうやら跡をつけたらこの両所の連絡は知れそうである。しかもわが国に入ってから猿の尾の釣りとなり、古屋の漏りの結末となり、さらに秋田県の仙北郡のごとく、踊ってしゃべって、身元を露顕した猫の話とも複合しているのである。これを尾が切れたという一点の一致によって、たちまち輸入と説くのが往来の比較神話学なるものであった。結果はあたっておろうとも、なおでたらめの責は免れない。それが「古屋の漏り」などという近世寓話を、発生せしめたのでないからである。

 後略

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