民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「本居宣長」 物のあわれ その2 吉田 悦之

2016年04月08日 00時19分20秒 | 古典
 「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年

 「すべて「物のあわれを知る」ことに尽きる」 その2 P-64

 引用した言葉には、「とかく物語を見るは」とあります。
「物のあわれを知る」こおてゃ、ふだんの生活でも起こることですが、ではなぜ「物語」という限定をつけるのでしょうか。それは歌や物語が、まさに「物のあわれを知る」心から生まれてくるものだからです。
 人の心は、古今東西みな同じだと思いがちです。しかし宣長はその見方に与(くみ)しません。
 変化しないところはもちろんあるが、たとえば花や月を見るときの心、恋する心などは、昔のほうがはるかに繊細であったと言います。国や時代が異なれば物の見方も価値観も異なるということです。

 たしかに、これは私たちにも実感できることです。現代と宣長の生きた時代を比べると、昔のほうが時間がゆったりと流れていたような気がします。
 また、『古事記』の夜が明ける描写などを読むと、その鋭敏な感覚に驚きます。感性も時代によって違いがあるのです。その感性は古典を読むことで磨かれるのです。
 歌と物語りでも違いがあることが指摘されています。同じ題材を扱っていても、心の微妙な動きを描写することは、散文である物語がはるかに勝るとも言います。
 そのような思索を重ねた末に選ばれた究極の作品が、『源氏物語』だったのです。

 (作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。