「日本人のこころの言葉 本居宣長」 吉田 悦之(本居宣長記念館館長) 創元社 2015年
「すべて「物のあわれを知る」ことに尽きる」 その2 P-64
引用した言葉には、「とかく物語を見るは」とあります。
「物のあわれを知る」こおてゃ、ふだんの生活でも起こることですが、ではなぜ「物語」という限定をつけるのでしょうか。それは歌や物語が、まさに「物のあわれを知る」心から生まれてくるものだからです。
人の心は、古今東西みな同じだと思いがちです。しかし宣長はその見方に与(くみ)しません。
変化しないところはもちろんあるが、たとえば花や月を見るときの心、恋する心などは、昔のほうがはるかに繊細であったと言います。国や時代が異なれば物の見方も価値観も異なるということです。
たしかに、これは私たちにも実感できることです。現代と宣長の生きた時代を比べると、昔のほうが時間がゆったりと流れていたような気がします。
また、『古事記』の夜が明ける描写などを読むと、その鋭敏な感覚に驚きます。感性も時代によって違いがあるのです。その感性は古典を読むことで磨かれるのです。
歌と物語りでも違いがあることが指摘されています。同じ題材を扱っていても、心の微妙な動きを描写することは、散文である物語がはるかに勝るとも言います。
そのような思索を重ねた末に選ばれた究極の作品が、『源氏物語』だったのです。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。
「すべて「物のあわれを知る」ことに尽きる」 その2 P-64
引用した言葉には、「とかく物語を見るは」とあります。
「物のあわれを知る」こおてゃ、ふだんの生活でも起こることですが、ではなぜ「物語」という限定をつけるのでしょうか。それは歌や物語が、まさに「物のあわれを知る」心から生まれてくるものだからです。
人の心は、古今東西みな同じだと思いがちです。しかし宣長はその見方に与(くみ)しません。
変化しないところはもちろんあるが、たとえば花や月を見るときの心、恋する心などは、昔のほうがはるかに繊細であったと言います。国や時代が異なれば物の見方も価値観も異なるということです。
たしかに、これは私たちにも実感できることです。現代と宣長の生きた時代を比べると、昔のほうが時間がゆったりと流れていたような気がします。
また、『古事記』の夜が明ける描写などを読むと、その鋭敏な感覚に驚きます。感性も時代によって違いがあるのです。その感性は古典を読むことで磨かれるのです。
歌と物語りでも違いがあることが指摘されています。同じ題材を扱っていても、心の微妙な動きを描写することは、散文である物語がはるかに勝るとも言います。
そのような思索を重ねた末に選ばれた究極の作品が、『源氏物語』だったのです。
(作者 注意書き)原文は原則として新字体・現代かなづかいに改め、読みやすくするために、適宜、ふりがなや句読点をつけるとともに、かなを漢字にするなどの調整をしました。和歌・俳句は、旧かなづかいのままとし、ふりがな、濁点をつけました。