「女優の仕事」 山本 安英 岩波新書 1992年
わかりきったことのようですけれど、俳優にとっては、どんな役に扮するにせよ、その基本は自分自身だということです。
この自分---いろいろな性質を抜きがたくもってこの世に生み出され、そして今日までさまざまな体験を重ねながら、十数年あるいは何十年という生活を送ってきたこの現在の自分というものが、その役に扮するのだということ、それがまず根本にあります。その意味で俳優というものは自分自身をはっきりつかむと同時に、まず最初に、自分の欠陥を発見して意識的になおしてゆくこと、そういう基礎勉強からはじめて、役の人物をつくる仕事にやっと入ることができるようになるわけです。
人間は誰しも、自分のなかにいくつかの”歪み”をもっています。それは幼児のころからもっていたものであったり、環境によって後に芽ばえたものであったりするのでしょうが、ひがみとかはにかみ、臆病や短気といった俳優の仕事をしていく上で邪魔になるようなものが、いくつも自分のなかに棲みついています。
”人前で悪びれずに一つの事をしようとする”とき、まして何百、何千の人にみつめられて自分以外の人間像を描こうとするとき、その人間のなかにそれを妨げるような歪んだ面や暗さがあったりしたら、決してできるものではないし、”ものの本質をはっきりつかみとること”も、不可能になります。
ですから、まず最初に、自分の欠陥を発見して意識的になおしてゆく、そして人間本来の自然の法則に即した状態を獲得できるようにする。それが、いわゆる”俳優修行”であって、いちばん基礎的な勉強にあたるわけです。(P-2)
二重マルという、ちょっと変な言葉を使うことがよくあります。劇場に着くと、楽屋に入る前に、私は準備中の舞台に立って無人の客席を見渡し、声を出してみます。いちばん条件の悪い席にも、ちゃんと芝居が伝わらないといけない。そのためには小屋(劇場空間)の大きさ一杯の芝居ではだめなんですね。小屋を一重マルとすると、外側にもう一つマルを描いて、その二重マル一杯に自分の気持ちを置くんです。それは同時に、劇場の外からそれぞれの営みをもって、いまここに集まってきた人びとの現実生活の空気のようなものを舞台で受けとめることでもある。劇場の外にひろがっている時代といいますか、状況に向かって声をひびかせ、語りかけていくんですね。(P-14)
洗練された芸の上のことでなくても、たとえばいろりのそばでおじいさんやおばあさんが昔話をしていて、子どもたちがそれをきいている場面でも、似たようなことがあるように思います。何度も何度も同じ話をせがみ、また聞かされているうちに、子どもたちのほうが先走るくらいに声をあげる。クライマックスにかかる直前に、「うん、うん」とか「それで、それで」など、いろんなことを言うんですね。これが入ると、昔話がなんとも生き生きとしてくるということがあります。これは観客の参加による間、といってもいいかもしれません。
民話や昔話の場合は、同じように読んだり語ったりといいますが、本来、口から耳へと語りかけられる口承性の強いものが、現代では文字で書かれていて、それを朗読することになります。これは文体というよりも語り口といったほうが正確かもしれませんね。木下順二さんが言われるように、民話の語り口のなかには、じいさまやばあさまの顔つきから声音、ときには入れ歯がカクカクという音までが含まれていて、そこに聞き手の間合いも入ってくるわけです。したがって、一般的な表現よりも、もう一つ個性的な声と語り口が必要になるように思います。それは長い歴史のなかでつみ重なれてきた日本人の生活の型に裏付けられた個性であり、日本人に共通な美意識や感覚というものを表現する方法が工夫されねばならないということですね。宇野重吉さんがタクアン声という言い方で、民話を語る声というものに注目したのは、そういう問題を考えあわせての発言でしょう。
声質、語り口、文字との距離と向き合いかた、読み手の介入の度合いなど、作品それぞれの表現形式に応じたさまざまな朗読の方法が、これからようやく整理され、つくられていくのでしょうが、原則は、朗読者自身がいま読んでいる本から何を聞いているのか、その聞き方を提示するのが朗読なのだと思います。自身の読み方をチェックしながら、絶えず本からもっと聞きたい、もっと聞こえるように読みたいと思うんですね。そしてその本が語っている思想と文体とを、どのように自分の身体を通して伝えていけるかということで、読むということの奥の深さをますます強く感じております。(P-42)
わかりきったことのようですけれど、俳優にとっては、どんな役に扮するにせよ、その基本は自分自身だということです。
この自分---いろいろな性質を抜きがたくもってこの世に生み出され、そして今日までさまざまな体験を重ねながら、十数年あるいは何十年という生活を送ってきたこの現在の自分というものが、その役に扮するのだということ、それがまず根本にあります。その意味で俳優というものは自分自身をはっきりつかむと同時に、まず最初に、自分の欠陥を発見して意識的になおしてゆくこと、そういう基礎勉強からはじめて、役の人物をつくる仕事にやっと入ることができるようになるわけです。
人間は誰しも、自分のなかにいくつかの”歪み”をもっています。それは幼児のころからもっていたものであったり、環境によって後に芽ばえたものであったりするのでしょうが、ひがみとかはにかみ、臆病や短気といった俳優の仕事をしていく上で邪魔になるようなものが、いくつも自分のなかに棲みついています。
”人前で悪びれずに一つの事をしようとする”とき、まして何百、何千の人にみつめられて自分以外の人間像を描こうとするとき、その人間のなかにそれを妨げるような歪んだ面や暗さがあったりしたら、決してできるものではないし、”ものの本質をはっきりつかみとること”も、不可能になります。
ですから、まず最初に、自分の欠陥を発見して意識的になおしてゆく、そして人間本来の自然の法則に即した状態を獲得できるようにする。それが、いわゆる”俳優修行”であって、いちばん基礎的な勉強にあたるわけです。(P-2)
二重マルという、ちょっと変な言葉を使うことがよくあります。劇場に着くと、楽屋に入る前に、私は準備中の舞台に立って無人の客席を見渡し、声を出してみます。いちばん条件の悪い席にも、ちゃんと芝居が伝わらないといけない。そのためには小屋(劇場空間)の大きさ一杯の芝居ではだめなんですね。小屋を一重マルとすると、外側にもう一つマルを描いて、その二重マル一杯に自分の気持ちを置くんです。それは同時に、劇場の外からそれぞれの営みをもって、いまここに集まってきた人びとの現実生活の空気のようなものを舞台で受けとめることでもある。劇場の外にひろがっている時代といいますか、状況に向かって声をひびかせ、語りかけていくんですね。(P-14)
洗練された芸の上のことでなくても、たとえばいろりのそばでおじいさんやおばあさんが昔話をしていて、子どもたちがそれをきいている場面でも、似たようなことがあるように思います。何度も何度も同じ話をせがみ、また聞かされているうちに、子どもたちのほうが先走るくらいに声をあげる。クライマックスにかかる直前に、「うん、うん」とか「それで、それで」など、いろんなことを言うんですね。これが入ると、昔話がなんとも生き生きとしてくるということがあります。これは観客の参加による間、といってもいいかもしれません。
民話や昔話の場合は、同じように読んだり語ったりといいますが、本来、口から耳へと語りかけられる口承性の強いものが、現代では文字で書かれていて、それを朗読することになります。これは文体というよりも語り口といったほうが正確かもしれませんね。木下順二さんが言われるように、民話の語り口のなかには、じいさまやばあさまの顔つきから声音、ときには入れ歯がカクカクという音までが含まれていて、そこに聞き手の間合いも入ってくるわけです。したがって、一般的な表現よりも、もう一つ個性的な声と語り口が必要になるように思います。それは長い歴史のなかでつみ重なれてきた日本人の生活の型に裏付けられた個性であり、日本人に共通な美意識や感覚というものを表現する方法が工夫されねばならないということですね。宇野重吉さんがタクアン声という言い方で、民話を語る声というものに注目したのは、そういう問題を考えあわせての発言でしょう。
声質、語り口、文字との距離と向き合いかた、読み手の介入の度合いなど、作品それぞれの表現形式に応じたさまざまな朗読の方法が、これからようやく整理され、つくられていくのでしょうが、原則は、朗読者自身がいま読んでいる本から何を聞いているのか、その聞き方を提示するのが朗読なのだと思います。自身の読み方をチェックしながら、絶えず本からもっと聞きたい、もっと聞こえるように読みたいと思うんですね。そしてその本が語っている思想と文体とを、どのように自分の身体を通して伝えていけるかということで、読むということの奥の深さをますます強く感じております。(P-42)