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柳美里の虐待から脱出ドキュメンタリー

2011-05-16 10:08:37 | 子ども・子育て・保育

 15日(日)のNHKスペシャルは、「虐待カウンセリング-作家柳美里500日の記録-」だった。
 柳美里が、子どもの虐待をカウンセリングによって改善されるドキュメンタリーである。虐待の発覚は、自身のブログに子どものことを綴ったのを読んだ人が問題にしたためである。柳がブログに書くということは、虐待という意識がない、あるいは弱いからなのだろう。
 わたしは柳の作品を、芥川賞以降3,4本読んだことがある。私小説とは言いがたいが、自分の体験を素材にした小説である。それ以降わたしは関心が継続せず、遠ざかっている。
 その内容は、体験をデフォルメしフィクション化し読者の関心を呼ぶよう構成に工夫を凝らしている。垣間見られる体験がすさまじい内容なので、闇を抱えて生きている人だと、とらえていた。柳の鬱屈した心と表現のパワーがどのように爆発させるのか、普通には生きるより波乱に富んだものになるかもしれない、と思ったものだ。柳にとっては、それが生き方となるだろうことなのだろうが。

 わたしが柳の作品から遠ざかっても、シングルマザーで子どもを生んだということを知ったので、さもありなんという思いだった。ひとつの生き方として、わたしには違和感があるわけではない。

 虐待は連鎖されるといわており、その枠組みで臨床心理士が介入、カウンセリングで改善が試みられている。なお、PTSDやトラウマが長期間のカウンセリングによって改善されることはありえるのだ。ただし、長期間のカウンセリングを通して、本人が自覚するに至り克服しようとしなければ難しく、簡単に改善されることはむしろ少ないようである。
柳の虐待は連鎖されているととらえられ、改善していくために関係が途絶えている父、母、韓国在住の伯父(父の兄)の妻にも会う。
 これまで若くして独力で脚本家、その後作家として生きてきたので、家族と関係がないと思っている柳にとっては、自分を家族の関係で対象化するために必要なことである。さらに結果として、柳が虐待行為に距離を置いて見られることにつながる。

 母に父親のことを聞いたが、語りは少なかった。すでに娘と元夫との関係が疎遠であり、今の生活があるために語れないのではないだろうか。父親の性向を理解するために、父親の生い立ち理解が必要である。そのために伯父の妻の言葉がもっと必要だと思うが、少なかった。
 この辺の事情は、ドキュメンタリーの制作責任者の意図によって編集段階で映像採用を決めるので、なんとも言いがたい。
 ちなみに制作の際、柳以外の映像は撮影した時間の10%も採用していないと予想される。柳の映像の場合は、撮影に対して採用映像は5%以下ではないか、と推測する。

 このドキュメンタリーのテーマである虐待の連鎖でもいいが、わたしは虐待をする人格傾向に注目してみることにする。
 わたしは父親の言葉を注目した。「どんな生き方をしたかったか」という娘美里の問に対して「日本でも突出した学者でありたかった」とのことだった。これは彼の人格と価値観を象徴している言葉に思える。

 この言葉には2つの面があると思われる。1つは社会システムとかかわる仕事ではなく、自分の力だけで周囲に力を誇示して生きた自分を語っている。釘師などがそれであり、何はともあれ一匹狼で生きてきた自分の人生を、娘に肯定して見せた。
 もう1つは、作家として世間に評価されている娘に対して、父親である自分が学者ということで、知性を誇示する心理が働いていた発言なのではないか。

 父親の言葉の知的独立した高度な専門職像は、小説家として柳が実現している。その成功に対して父親として面子を保ち、父親として娘より優位にあるということの表明ともとらえられる。長い別離で老いてからの再会でありながら、家族だった頃と変化していないと、とらえられる。

 この2つ面で共通しているのは、社会システムの中で生きるのではなく、誇大な自己像を描き、それを追い続けるためには手段と内容を問わない、ということである。目標と内容がはっきりしなけらば、虚栄と自己顕示が増大し、どこまで到達したか自己測定ができず、不充足感をいつも持ちいらいらして粗暴な行動、つまり暴力になるのではないだろうか。
 家族がこのような人格の父親が中心であり、それに似たところがあると思われる母では、小説の素材に十分な、ドラマ性を持つ壮絶な家族となるというものだ。ここでの母親の価値観の手がかりになる事例としては、娘(美里)を名の通った高校へ入学させるといったことが象徴しているととらえた。その高校で、柳はつまずき1年で中退するのだ。

 虐待が単純に連鎖をするのではなく、父親の混沌とした自分と肥大化している自己という人格傾向が遠因を作っているのではないか。このところの臨床心理や精神医学でよく言われる、人格障害的な視点から接近するのも必要ではないだろうか。
 と見てきながらも柳の父親のような人は、近代化されていない時代の田舎には特別でなくいたと思われる。通俗的には「激しい気性の人」といった言われ方をした人である。

 柳は、作家であるから記録を書き、複数の臨床心理士や精神科医あるいは社会心理学研究者が分析するといった構成で本を出版したらどうだろうか。多くの人に、人間理解と家族のあり方を考える機会を与えて欲しいものだ
 とはいっても柳は、自分は破格の人生を素材に書いて、小説家という高度な専門家として社会に認知されているので、虐待や家族に対しての専門家が分析したりする内容の本は企画でしないだろう。柳の『命』『ファミリー・シークレット』といった作品にしたほうが小説家としての本業がうまくいくというものだ。
 かつて芸能人などのプライバシーを覗き見する情報で雑誌などの商品にしていたが、今は自らの生活を告白して小説やノンフィクションの商品にする時代にあるのだ。


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