世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

固定観念で論じられている諸問題 懐疑的視線を持つことが思考のはじまり

2013年01月23日 | 日記
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固定観念で論じられている諸問題 懐疑的視線を持つことが思考のはじまり

 ウィキペディアによると、社会学は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関する因果関係を解明するための学問。その研究対象は、行為、行動、相互作用といったミクロレベルのものから、家族、コミュニティなどの集団、組織、さらには、社会構造やその変動などマクロレベルに及ぶものまでさまざまである。思想史的に言えば、「同時代を把握する認識・概念」を作り出そうとする学問と云うことだ。まぁ社会学が学問として“どんなものか”等と云う難しい事を考えるつもりも、書くつもりもない。

 社会学が社会的現象を基礎に、“なぜ?”を探求する学問で、実践が基礎で成り立つものなら、当然、その学問から得た知識や予見を基に、先に進むのだろう。筆者の単純な頭脳だと、その先には“哲学”があるのだと思う。まぁ、哲学の場合、あらゆる学問の集荷場と云う役割もあるだろうし、その集荷された知識や知見、予測、科学的立証の事実などを総合的に分析解釈して、また世間に向けて、咀嚼したイデアを放つのであろう(真理の探究)。勿論、放たれたイデアが真理にほど遠い場合もあるわけだが、そのイデアに行き着いた思考経路には充分価値があるのだと思っている。

 筆者などは、哲学とか社会学にも及ばない社会的現象を追いかけているだけだ。ただ、哲学者にせよ、社会学者にせよ、一番必要となる彼らの資質に“疑う心”があるのだと考えている。筆者の場合、世間で起きている現象や出来事と“観念”の関係を自分なりに咀嚼して、政治や社会問題に繋げようとしている。かなりの頭の体操にはなるのだが、正しい答えに行き着くことよりも、誤った答えを導き出している方が多いようである(笑)。おそらく、奇を衒うことに快感を憶える異常な体質の所為だろうと思っている。

 なにも独白するつもりはないのだが、なんとなく、こんな書き出しになってしまった(笑)。日本の社会は、どの時代からか判らないが、なんとなく生まれた“空気”に従属することが、安全な生き方だと云う処世術が支配的だ。善悪の区別、常識・非常識、道徳・不道徳、成長・停滞…。多くの日本人が生活至上主義に陥ったのも、これらの様々な観念を固定的に植え付けられた結果なのだと思う。特に政治経済や外交防衛などは部外者に近いポジションを保つことが、生活者として有利だと云う認識は固定観念として成立している。彼らが、興味や個性や身勝手を求め、表現しているのは、どこまでも生活者としての視点から脱していない。

 成り行きに任せる生き方が身についたのは、必ずしも日本人が生活至上主義に陥っただけが原因ではないだろう。そもそも農耕民族が陥りやすい、自然任せの生活文化の時点まで遡らなければならないのかもしれない。このような日本人の特性を見事に利用しているのが、マスメディアのプロパガンダ手法による世論操作なのだが、議論し、その議論で相手を打ち負かせ、自己主張を通す強引さが、日本社会では必ずしも“素晴らしい”と称賛に値する事はない。特に日本社会では、議論は“声のデカイ奴が勝つ”と云う傾向を持つ。

 まぁ日本人が議論するとしても、その機会は企業人としてである場合が多く、日常生活の中で議論が伯仲することは滅多にない。このような民族に政治など不向きなのだろうが、民主主義の国家である限り避けて通ることも出来ない。特に最近になって筆者が気になるのが、日本人は固定観念に酷く支配され、ものごとを自分の頭で考えることを放棄しているのではないだろうかと思うことが多くなった。各マスメディアが駆使する街頭インタビューとか云う代物が典型的だ。

 勿論、都合の良い発言をピックアップするのがプロパガンダの手法なのだが、その返答が、賛否両論共にステレオタイプの回答者が選ばれている。マスメディアの論調を聞きかじった観念的返答が目立つのだが、それを聞いた次なる視聴者もステレオタイプ二世、三世となり伝播する。これでは、乞食と役者とテレビ屋は一度やったらやめられないだろう(笑)。国民に固定観念を植え付ければ、政治とか選挙とか思いのままに左右させられるのだから、面白くてしょうがない。教育の現場でも似たような事が起きているだろうし、家庭でも似たりよったりの状況なのだろう。

 小沢一郎の生活重視の党是では、根本的部分で自立を求めていた。しかし、政治家の悲しさなのだが、自立を強く主張しきれなかった。この部分を強く主張すると、維新や自民が標榜する“自助”と同一視されてしまうからだ。人間の生命に関する尊厳にも固定観念は強く滲みでている。麻生の発言は公人として不適切だが、私人としては尤もな部分を指摘している。人の命の価値感も、時と所によってはまだら模様なわけで、一概に人命尊重が正しい価値観として普遍的だと思っていること自体滑稽でもある。

 現に、第二次大戦中に扱われた沖縄の人々の命の尊厳は、どれ程のものだったのだろうか?命の尊厳を口ずさみながら、他国の民族を殺戮しようとした権力者がどれだけ居たのか、空々しい気分になる。成長は善、停滞は悪。その固定観念が角をためして牛を殺す可能性はかなりある。ゴメン、やっぱり腹が痛くなったでは済まされない話なのだ。単に安倍の発言を利用してひと儲け企んでいるファンドの金が流れ込んでいるだけだったら、どうなるのだ。財政出動に連動する景気浮揚が起きず、格付け会社から“格下げ”の宣告を受け、大慌てになるのが目に見えている。

 おそらく、筆者がどれ程文句を言っても、この生活至上主義な国民の性癖は治らないだろう。常に大衆とは、そういうものだと云う観念もあるのだから抗いようがない。筆者の興味は、日本人はどの辺まで痛めつけられると怒り出すのか、そこに観察の興味を変えつつある。バブル期でさえ、インフレ率は2.2%だったそうだから、今回の共同声明で言う処の2%のインフレ目標というのは、猛烈な目標数値なのである。あり得んだろう(笑)


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