世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

肌感覚で時代に感応する若者たち 過ぎた日の懐古と観念であらがう大人たち

2013年01月15日 | 日記
資本主義の「終わりの始まり」: ギリシャ、イタリアで起きていること (新潮選書)
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肌感覚で時代に感応する若者たち 過ぎた日の懐古と観念であらがう大人たち

 時代は確固たる歩みで変わってきていると思う。その方向が、正しいとか、間違っているとか評論する声も多く聞かれるが、今さらの感である。時代を背景にして生まれてしまった、その場の社会と云うものを変えさせると云う考えは、殆どの場合あらぬ方向を向くものであり、強制も伴う事が多く、碌な事にはならない。嘆かわしい気持があっても、それが現実である以上、その現出している社会に合わせて生きて行くのが原則だ。

 勿論、自分の生き方が、その社会が表している様々な現象に不快であるなら、その不快な現象に対して、個人的に対応をすべきであって、他者に向けて、不快だとか、慎めとか主張するのは他人の自由を束縛する事であり、己の自由も理屈上は束縛される事である。仮に多くの人間が不快だと思う事、或いは具体的被害がある場合は、法律や条例によって規制すべき問題であって、個別の問題で、特定の人々の生き方がどうのこうのと言っても埒は明かない。

 当然、時代と共に変遷してゆく、文化や習慣の違いは、どの時代にでもあり得る。ただ日本の場合、現憲法下で育った人間と旧憲法下で育った人間には壁があるだろうし、その中間で育った人間にも壁と云う特殊性は存在するだろう。富国強兵においては、衣食住の満足が生活者の興味であった時代もあれば、戦後、何もかも無くなった喪失の時代もある。衣食住を維持する時代を経て、高度成長期を迎えた人々もいる。高度成長期の後には、捏造されたバブル経済時代もあった。そして、ここ30年近くは、適度に衣食住は満たされているが、成長性ゼロの時代が続いている。

 成長性ゼロで育った人々が、成長なんてする筈がないと思うのは当然だ。抜け駆けして、自分だけは成長するぞ、と云う決意の人もいるだろうが、それは例外に過ぎない。今生き残っている日本人は、戦前戦後・高度成長バブルを経験している人もいれば、戦後と高度成長バブルだけを経験した人もいる。高度成長バブルだけで育った人々もいる。そして、高度成長もバブルすらも経験していない人々がいる。時代背景だけで、すべてを決するわけではないが、育った時代の同時体験は、その人々の精神構造に大きな影響を及ぼすのは自然なことである。

 ただ、このように同時代を共有しているからと云って、他の前後した時代の人々の考えに共鳴できないとか、理解出来なと云う論には怪しさがある。この同時代とか、同じような時代背景を共有した人々の経験的事実に、どの程度の価値があるか推し量る必要があるだろう。なぜなら、その特定の同時代と云う経験は、すべからくその時代に生きていた人々に同等に与えられた経験的事実であったと云うだけで、その時代背景の中で共通の思考が成立していたとは言い過ぎである。要は、その同時代における通俗的空気を持って、他の時代と比較し、とやかく言うのは奇妙な主張だともいえる。

 少なくとも、あらゆる世代が持つ、その時々の時代背景を持って他を批判する価値が、同時代の共鳴にあるとは思えない。同時代通しで懐かしんだり、思い出に浸る分には、何ひとつ害はない。害があるとすれば、その時代の考えが基準で、前後の時代に対し、プラスやマイナスの尺度で使おうとする時、害が生まれる。逆に、他の時代背景を理解する事で、その時代に生きた人々の思考を理解するのは益なことだろう。少なくとも、多くの論者が40代から80代に分布していると仮定するなら、現在の10代から30代の人々は多くの論者たちと異なる同時代層であり、論者は未経験なものを理解する事が重要であり、己の経験を持って批判するなど笑止な言動だと言えるだろう。

 筆者自身、異なる同時代を抱える人々の事は、肌感覚では理解出来ない。故に文献や経験話の中から、その同時代を理解しようと努めてみる。それでも、中々理解には遠いのだが、少なくとも他の時代に対し、批判として、その時代背景を使おうとは思わない。15歳のゲーム漬けの少年、21歳のフリーター兼援交で生計を立てる娘、22歳でエリートコースを歩む青年、30歳でフリーターとして生きる東大卒の青年、35歳で結婚か仕事かで悩むキャリアな女性、38歳でシングルマザーになった女性。彼ら、彼女らの生きざまに賛同も出来ないし、共鳴も出来ない。しかし、理解は出来る、或いは理解しようと接近する。一番問題なのは、他の世代の時代背景を理解しようともせずに、起きている事象だけを捉えて、自分の経験則な時代背景に当て嵌めて、ああだのこうだのと云うメジャーな論者が多過ぎることだ。

 彼らはたしかに、人生を重大なものとして考えていないかもしれない。しかし、それはいつの時代でも似たりよったりだったろう。若い人々と云うものは、そう云うものである。ただ彼らに共通する、過去の世代の人々と異なる点は、今日よりも明日、明日よりも明後日が良くなると云う希望を持っていないことである。あきらかに、“今だけ”を生きようとしている。“今だけ”と云う表現に語弊があるなら、“今”を生きていると云うことだ。大人達は、そんな若者に夢を与えられないのは、大人の所為だ等と言うわけだが、大人達が逆立ちしても、時代の流れを変えることは出来ないことを、肌で知っている。本当に、夢のある世界を提供できるならいざ知らず、出来もしないことを言って、善人ぶろうとしている姿の方が余程滑稽だ。

 現在の政治にせよ、行政にせよ、将来にツケ回しをせず決断する政治が流行りだが、それを決めている連中が、30代以下の人々の時代背景と、感受性や思考を理解した上で決断している様子は伺えない。野田も安倍も橋下も教育改革が重要だと主張している。小沢一郎も、異なる次元に於いて教育の必要性を語っている。善かれ悪しかれ、彼らの思考には過去がある。過去に戻ることが、未来に向かうことなのか、非常に悩ましい。復古することで、物事が解決するなら、何処まで戻ろうと云うのだ。縄文か江戸か明治か?

 筆者の好みは江戸中期だが、他者まで引き摺り込もうとは思わない。足手まといである(笑)。列強の欧米諸国からの搾取を逃れた長閑な島国である。徳川幕府の圧政がどれ程のものでも、欧米列強の太らせて食べる、知恵ある肉食獣の餌になるよりはマシな時代の方が良い。太らない方がマシなのだ。ただ、こういう類は単なる好みであり、強く主張するつもりはない。公な立場でメシを喰う奴らは、論者も含め未来の世代の時代背景を理解する姿勢なしに、先のことを語ることは控えて貰いたいものである。憲法改正とか、憲法破棄とか、死んでゆく連中が決めるのは、些か不条理だ。国民投票法の議論で、投票資格を18歳にする、しないも、その辺を考慮した中から生まれたのだろうが、15歳くらいでも良いような気がする。勿論、熟考はしていない。


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