アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

ティファニーで朝食を。やられたらやり返せ。

2021年06月09日 12時31分00秒 | 貧乏人搾取の上に胡坐をかくな

 

ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」という旅行記があります。大阪市のあいりん地区観光キャンペーン「新今宮ワンダーランド」の協賛記事です。最近、本屋の店頭に並ぶようになった「新世界・西成ワンダーランド」という雑誌で、このキャンペーンが盛んに宣伝されています。そのキャンペーンの為にかかれた旅行記がネットで炎上してしまいました。

…新今宮ガード下の立ち飲み屋で見知らぬおっさんと意気投合し、おごってもらった上に、行きずりの銭湯でも、入浴客のおばちゃんからシャンプーまで借りる事が出来た。ここは何て優しい街なんだ。次からは借りた分だけお返ししなければ。
 
そう思っていた矢先に、ジュースが漏れて鞄が濡れてしまった。タオルで鞄を拭いていたら、通りがかりの野宿者が、濡れタオルを入れるビニール袋をくれたが、代わりに「ラーメン代に100円恵んでくれ」と言われた。
 
よし、この野宿者の人にお返しをしよう。そうして、野宿者の人にあいりん地区のツアーガイドをやってもらう代わりに、「松のや」の定食と煙草と缶コーヒーと銭湯代をおごる事にした…という形で、話は進んでいきます。それが「ホームレスを見世物にしている」と叩かれたのです。
 
 
しかし、私には、この町がそんなにフレンドリーだとは、とても思えません。確かに、この街は優しいです。何せ、銭湯が街中に9軒もあり、早朝6時から営業しているのですから。コインランドリーもあちこちにあり、中には洗剤無料(ご自由にお使い下さい)の店もあります。
 
その一方で、日雇い労働者のドヤ(簡易宿泊所)を観光客向けにリニューアルしたホテルに住んでいた時には、廊下に人糞が落ちていたのを目撃したし、共同浴場でヤクザが暴れ回っている場面に遭遇した事もありました。
 
挙句に、隣人との騒音トラブルに巻き込まれ、部屋の壁がベニヤ板造りの安普請である事を知り、遂にホテルを解約し、今の賃貸物件に住むようになりました。
 
あいりん地区では、1961年から2008年までの間に、24回も暴動が起こっています。そのうちの10回ぐらいが、野宿者と近隣の商店主、パチンコ店、簡易宿泊所、病院等とのいざこざが原因です。
 
最後の2008年に起こった暴動も、野宿者が鶴見橋商店街のお好み焼き屋で邪険に扱われたのを怒って、警察に通報されたのが原因です。この旅行記を書いた女性が、銭湯でシャンプーを借りる事が出来て、優しい街だと感動した。その銭湯のある鶴見橋商店街が、暴動の発火点になっているのです。
 
あいりん地区の町中には、「居酒屋で覚醒剤を売るな」という標語が、今もそこかしこに掲げられています。これは脅しでも何でもありません。過去には実際にそういう事が行われ、今もこうして撲滅キャンペーンが張られているのです。旅行記の女性がおっちゃんにビール代をおごってもらい、街の優しさを実感した、居酒屋のまた別の一面がそこにはあります。
 
 
実際のあいりん地区の住民は、よそ者を極端に敬遠します。よそ者と目があっただけで、「何メンチ切ってんねん!」と言われかねない近寄りがたさがあります。その一方で、一旦親しくなれば、今度は打って変わって馴れ馴れしくなります。両極端で中間がないのです。
 
その雰囲気は、競馬場やウインズ(場外馬券売り場)のそれとよく似ています。競馬場やウインズでは席取りや馬券購入の順番を巡るトラブルが日常茶飯事です。その一方で、「馬券が外れた」と思わず呟いたら、隣にいた見ず知らずのおっちゃんから「おっ、兄ちゃんもか」と声をかけられ、意気投合し、帰りに居酒屋で酒を酌み交わす事も珍しくありません。
 
上記のTシャツは、私が数年前に、あいりん地区の夏祭りで買ったものです。表には「黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ」、背中には「釜ヶ崎解放」の文字が踊ります(釜ヶ崎:あいりん地区の旧称・通称)。
 
数年前の夏に、これを着て、上からジャケットを羽織り、会社に出勤しようとしたら、動物園前駅の前で、見知らぬおっさんから声かけられました。
 
「兄ちゃん、そのTシャツ、カッコいいな!一体何て書いてあるねん?何々、黙って野垂れ死ぬな、やられたらやり返せ…おう、その通りや!黙っとったらあかんねんでー!」と、そのおっさんは、私をなかなか離してくれませんでした。
 
私はこれから会社に出勤しなければならないのにw。このままでは電車を乗り過ごしてしまう。この時は、話を振り解くのに一苦労しましたw。
 
「何メンチ切ってんねん!」と「おう、その通りや!」の両極端で、その中間がない。つまり「裏表がない」のです。だから、こちらも余計な事に気を使わずに済みます。「空気を読め」とか「忖度(そんたく)する」とか、そんな「相手の顔色を伺い、言いたい事も言えない」最近の風潮とは無縁の世界がそこにはあります。
 
これこそが、あいりん地区の最大の魅力だと思います。私は、大阪市内の他の下町にも、賃貸物件の下見に訪れたりしましたが、そこでは大なり小なり、ある種の疎外感を感じざるを得ませんでした。
 
どんな疎外感か?まず街に活気がありません。ほとんどの商店街がシャッター街と化してしまっています。平日の休みに訪れたからかも知れませんが、若い人をほとんど見かけませんでした。そして、老人や貧乏人は、肩をすぼめて街の片隅を歩いている…そんな感じが、どうしても否めませんでした。
 
他方で、あいりん地区も、他の下町と同様に、住民の高齢化が進んでいますが、前述の疎外感は露ほども感じません。それは何故なのか?
 
他の下町にはなくて、あいりん地区にだけあるもの。それは暴動の歴史です。前述した様に、あいりん地区では過去に24回も暴動が発生しています。そのきっかけは、野宿者と近隣住民とのトラブルや、失業・低賃金、賃金をピンハネし暴力を振るう土建業者や手配師とのいざこざが原因でした。
 
その中でも、特に1970年代には1年に何度も暴動が起こっています。これは、当時、大学紛争を主導した新左翼系の学生が、あいりん地区に入り込み、ある種の窮民革命論を掲げて、暴動を扇動したからだと言われています。
 
確かに、そういう側面はあります。前述のTシャツに書かれた「黙って野垂れ死ぬな」の文言も、そんな新左翼の活動家が残した言葉だと言われています。
 
 
でも、「火のない所に煙は立ちません」。新左翼の扇動は、1972年の連合赤軍あさま山荘事件に見られるように、惨めな失敗に終わりました。過去のあいりん地区の暴動も、その大半は単なる暴発に終わり、数日後には収まっていきました。しかし、その中で、ヤクザ支配を跳ね返し、後の権利獲得に繋がる闘いに発展した暴動がありました。それが1972年5月の第14次西成暴動です。
 
1972年5月に、あいりんセンターで見つけた求人に応募した労働者が、話が違うと飯場から逃げ帰って来ました。勤務地が市内と求人票にあったので、てっきり大阪市内の求人だと思い、応募したら奈良の西大寺まで連れて行かれたそうです。そこで抗議したら「奈良市内も市内やないか」と脅されて、逃げ帰って来たのだそうです。
 
日雇いの求人なので、交通費なんて出ません。たかだか数千円程度の日当で、遠方まで連れて行かれて現地解散では、大した稼ぎにはなりません。そう思って逃げ帰って来たものの、センターの求人しか仕事はないので、翌日センターでまた新たな求人を探しているうちに、前日の業者とばったり鉢合わせになってしまったのです。
 
その業者は鈴木組というヤクザでした。そして就業先も、賃金ピンハネや暴力がまかり通る悪名高きケタオチ飯場でした。「貴様、昨日はよくもトンズラしてくれたな。ヤキを入れてやる!」と言う事で、危うく拉致されかけましたが、寸での処で仲間に救出されました。
 
怒った鈴木組は、今度は30人がかりでセンターに乗り込んで来ました。しかし、300人の労働者に取り囲まれ、すごすごと引き上げざるを得ませんでした。
 
今までヤクザの言いなりだった労働者が、ヤクザを追い出す事に成功したのです。この事件をきっかけに、釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)が結成され、各地の現場で、賃上げや労働条件の改善が進められるようになりました。最初は新左翼が主導した闘いでしたが、そのうちに労働者が個人で勝手に釜共闘を名乗るようになり、新左翼もその動きを把握できなくなってしまいました。
 
でも、所詮は労働組合にも加入しない日雇労働者の自然発生的な運動にとどまってしまったので、釜共闘自体も数年のうちに雲散霧消してしまいました。
 
しかし、何も成果がなかった訳ではありません。その闘争がきっかけで、あぶれ手当(注1)や特掃(注2)などの、失業対策事業が進められるようになりました。
 
(注1)あぶれ手当(日雇い労働求職者給付金)…労働者は1日働いたら自分の日雇手帳に収入印紙を業者に貼ってもらう。そうすると、もし翌月仕事に就けなくても、印紙の枚数に応じて規定の失業手当(あぶれ手当)を受け取る事が出来る。
 
(注2)特掃(高齢者特別清掃事業)…55歳以上の日雇労働者は、通常の日雇労働とは別に、あいりんセンターの委託先で、街の清掃や公共施設の補修、警備の仕事に、輪番制で就く事が出来る。
 
 
「新今宮ワンダーランド」のような官製キャンペーンの中だけでは、そんな歴史は分かりません。だから、こんな上澄みだけすくったような、いいとこ取りの、底の浅い旅行記になってしまったのです。
 
敢えてキツい事を言いますが、この旅行者にとっては、野宿者も所詮は「借りを返す対象」でしかなかったのです。もし、旅行者が貸し借りゲームに興じていなければ、野宿者に飯をおごる事もなかったはずです。
 
それでも、この旅行記は、読み物としては大変面白かったです。特に、九九やドッジボール、旅行者の女性が男湯に突進してしまった場面では、私も思わず笑ってしまいました。この旅行者の女性が、ここまで野宿者と交流出来た事については、ある意味凄いと思います。私にはとてもこんな真似は出来ません。
 
折角そこまで交流出来たのであれば、あいりん地区の歴史についても是非学んで欲しかったです。そうすれば、単なる「上澄み」だけでなく、もっと深みのある旅行記が書けたと思います。同じ飯をおごるにしても、わざわざ遠くの「松のや」まで行って、脂っこいチェーン店の定食を食べなくても、もっと近くに美味しい料理を味わる店が、いくらでもあるのですから。
 
例えば、釜ヶ崎の夏祭りで食べたカレーなぞもお勧めです。具が一杯入っていて大変おいしかったです。百円払えば野宿者以外の方も食べる事が出来ます。この女性にも、それを是非味わってほしかったです。

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