「家族を想うとき」という英国映画があります。今年12月には日本でも公開される予定です。
この映画は、失業して宅配業者との「ゼロ時間契約」で働かざるを得なくなった家族の悲哀と抵抗の物語です。「ゼロ時間契約」とは出来高払い契約の事です。今はやりのウーバーイーツの様な働き方です。労働者が宅配業者と結ぶのは雇用契約ではなく請負契約です。従業員は労働者ではなく「一人親方」として働かされます。実態は配達ノルマもある労働者なのに、荷物が無くなればいつでもお払い箱。逆に繁忙期にはとても運べないような量の荷物でも一人で運ばなければなりません。運びきらないと給料もらえないので24時間仕事に追われる羽目になります。車両事故を起こしても労災が適用されず全て自己責任。場合によっては宅配業者から損害賠償を請求される事もあります。
そんな働き方をはびこらせたのが英国のサッチャーであり、日本の中曽根です。サッチャーは労働組合を目の敵にし、英国の福祉制度を木っ端みじんに打ち砕きました。日本でも、中曽根が80年代に国鉄分割民営化で、国鉄職員の大量解雇を行い、国鉄の労働組合を潰しました。その結果、国鉄の後に誕生したJRでは、安全無視、儲け最優先の経営が横行し、信楽高原鉄道事故や福知山線事故を引き起こすようになってしまいました。だから、英国の左派は今でもサッチャーを目の敵にしています。「家族を想うとき」を製作した映画監督のケン・ローチも、「サッチャーの葬儀なんて、民営化による競争入札で、最低価格でやれば良い。民営化を主導したサッチャーもそれが本望だろう」と述べています。
ところが、この日本ではどうか。サッチャーと並んで民営化を推進した中曽根康弘の葬儀を自民党と内閣の合同葬で行い、国から9600万円も「公助」(公費)で出そうとしています。国民には「自助」という名で散々「自己責任」を強要しておきながら。その上、官庁や国立大学に事実上の弔意強制を呼びかけるような真似までする始末です。国は「強制ではない」と言いますが、従わなければ後で何をされるか分からないので、皆従わざるを得ません。そのやり方は、事実上の強制でありながら、あくまで「自粛要請」だと言い張り、コロナ休業補償の支払いを免れようとした手口と同じです。
ところが日本では、「民営化による最低価格でやれば良い」なんて言う人はほとんどいません。逆に、自分から進んで忖度(そんたく:迎合)し、国と一緒になって弔意を表さない大学を叩く始末です。橋下徹なんてその典型じゃないですか。学術会議の任命拒否問題でも、国による「学問の自由」侵害については何も言わず、まるで学術会議の方に非があるかの様に、「白を黒と」言い繕っています。「虐められるのは虐められる方にも非がある」という詭弁です。たとえ、どんなに虐められる方に非があったとしても、「虐めは100%虐める方が悪い」のに。
何故このような「奴隷根性」がはびこるのでしょうか?明治以降、家族が国家機構に完全に組み込まれ、まるで「国家の下請け」みたいになってしまっているからです。世界のどんな国でも、家族の誰かが虐められたら、他の家族は一丸となってその誰かを庇おうとします。もし虐めるのが国家権力であったとしても。たとえ国家権力に渋々従わざるを得ない場合でも、面従腹背を貫き、あくまで家族の一員を守ろうとします。だから、上がどんな独裁国家であっても、国民にはそれに対する抵抗力が一定備わっているのです。
ところが日本では、橋下みたいな奴がのさばり、国と一緒になって弱い者虐めに加担します。「自粛警察」なんて正にその典型です。だから、毎年3万人もの人間が自殺に追い込まれ、虐めや引きこもりの問題も全然解決しないのです。そして、上にはペコペコして何も言えず、その鬱憤を下に八つ当たりするしか能のない「毒親オヤジ」が大量生産される事となるのです。実際、私の親父も、私が会社の労災もみ消しに遭った時に、最初は会社の非をなじっていたくせに、いざ私が会社と徹底的に闘う姿勢を見せると、いきなり手のひらを返すように「会社に逆らうな」と言い出しました。
そんな事だから、いつまで経っても中曽根や安倍、麻生の様な人物が大手を振って首相に居座ってしまうのです。パソナ会長の竹中平蔵が政府の審議会に居座り、派遣労働の規制緩和や労働基準法の改悪を企んでも、誰もそれをおかしいと思わなくなってしまったのです。
もう、そんな「奴隷根性」に、いつまでも縛られるのは止めにしませんか?「死者に鞭打つな」と言いながら、実際は相手が中曽根だから何も言えないだけで、その鬱憤を弱者叩きで晴らすしかない。そんな内弁慶で小心者の「スネ夫」や「毒親オヤジ」みたいな惨めな生き方は、もう止めにしませんか?それでも、どうしても中曽根康弘の葬儀をやりたいと言うのであれば、民営化による一番安い葬儀で行うのが筋です。中曽根自身が「民営化」を推進したのですから、文句は言えないはずです。国民には「自助」を強いながら、自分の葬儀だけ盛大に「公助」で行うとするのは、余りにも身勝手です。以下転載。