進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「HENTAI」ブランド

2011-06-29 19:46:13 | ブログ情報(News Release)
これは面白い。
技術の一つのあり方として、ブランドを立ち上げるのもありなのではないか。

アメリカ人だったら脳IFを通して仮想的に抱きしめたのと同じ感覚を再現するとかやって、それこそ最先端の研究になるのだろうが、日本は違う。
全く違う。
物理的に抱きしめる感覚を再現してしまうのが日本人。
匠の国、日本は健在だ。

電通大の天才がまたしても画期的デバイスを開発!世界を再び騒然とさせること必至(暇人速報)

AKB48を批判するために資本主義まで否定する愚

2011-06-29 15:28:19 | AKB48
な、なんとWSJらしくない記事か。
こんな記事を載せて大丈夫か?

AKB48「総選挙」報道過熱―騒動の裏側分析ほとんどなし(THE WALL STREET JOURNAL)

ただ、冷静に見れば、この選挙の本質は票を金で買う「金権選挙」「買収選挙」でしかない。当落すれすれの議員候補が、金にあかせて有権者に札束をばらまく構図の逆バージョンなのだ。金権選挙が言い過ぎなら、熱を上げたホストを店のナンバーワンにしようと、ドンペリを抜く女性客と変わらない。いずれにしても、本来は趣味人同士がひっそりと行う行為ではないだろうか。


この手の勘違いについては、過去に何度も説明したので今更語らない。
とりあえず↓を読んで頂きたい。
『【AKB48】 なぜAKB48は批判されるのか、わかりやすく説明しよう。』

ただ、私がこの記事に噛み付くのは、この時期がWSJの記事として配信されているからだ。
この人はWSJにしては珍しく資本主義を否定するつもりらしい。
その理屈で従えば「株式」だって金権選挙や買収選挙になる。
(ちなみに私はアイドルを株式会社化すればという提案もしている。『「育てるアイドル」とアイドルの株式会社化』)

この記者が根本的に勘違いしているのは、次の箇所だ。

「本来は趣味人同士がひっそりと行う行為ではないだろうか。」

なぜ?
どこで、どのような理由でその線を引くのだ。


AKB48の総選挙は芸能界の話題にすぎないという見方もあろうが、そうはいかない。この騒動を社会的な現象としてメディアが取り上げた以上、その瞬間から普遍的な問題になったのだ。そうであるならば、このイベントが持つ構造的怪しさをえぐってみせるメディアが1社くらいあってもよさそうなものだ。「政治とカネ」の問題を追及する100分の1の気概と労力があれば、この選挙の構図を暴けそうなものである。


ジャーナリストなのだから、100分の1の気概と労力をかけて取材して欲しい。
是非、選挙の構図を暴いて欲しい。
そうすれば、AKB48の素晴らしさも理解できるでしょう。

人は心で支えあい、 未来は志で支えあう

2011-06-28 17:46:17 | ビジネス

「JIN-仁」は見てなかったけど、たまたまモーラで『いとしき日々よ』が気になってクリックしたら、その紹介文に感動した。


「時代はいつも名曲を求めている。」

日本が世界に誇る稀代の美メロウ・シンガー平井堅の甘美な歌声による、切なさと心に染みるメロディーが印象的な極上の名バラードと空前 のヒットを飛ばすこと間違いなしの最大級のタイアップによるコラボ・シング ル。
音楽チャートの上位を占めるアーティストを見れば一目瞭然、音楽と の付き合い方が劇的に変化し、音楽への欲求までも低くなった印象すらある昨今。
これまで、時代と共に名曲が生まれ、そして今でも人は無意識に歌に感動を求めているはずです。J-POP史を語る上で、平井堅の珠玉のバラ ード「瞳をとじて」は、映画主題歌でありながら"音楽も主役"という結果を残した稀有な作品として紹介されますが、その社会現象にもなった"セカチュー・シンドローム"から早くも7年。平井堅が2011年の代表曲、そして平井堅の新たな代名詞となるであろうこの名曲とTBS開局60周年記念 日曜劇場「JIN-仁-」主題歌というタイアップによって、音楽との関わりが薄くなった人々に再び音楽のキラキラとした存在感を示してくれるでしょう。
平井堅の想いから生まれ、発せられる、切なくも未来への遠大な希望を含んだこの楽曲は、今の時代を取り巻く空気と我々のこころを震わせる、日本の宝物になるに違いありません。


人々は、音楽を求めているんじゃない。

音楽が与えてくれる感動を求めているんだ。

私は、音楽から教えられたものがたくさんある。

学校の授業より、ずっと人生のいろんなことを教えてくれた。

寂しい時や悲しい時、不安に打ちひしがれる時も、そっと傍にいて励まし勇気付けてくれる。

怒り狂っている時も、そっと大事なものに気づかせてくれる。

音楽でしか伝えられない感動がある。

だから音楽屋は音楽をやるんじゃないのか。

人々は音楽を必要としていないんじゃない。

皆が、それだけをモチベーションに音楽について追求したら、皆が自分にやれることに一生懸命になったら、昨今の音楽業界を取り巻く問題も、解決できると私は信じている。

それは、これまでの音楽とは違うかもしれないけれど、音楽がそれ自身の目的を果たすこと、それこそ皆が求めていることだろう。

男性にも「出産適齢期」がある

2011-06-27 21:45:52 | 社会
男性にもある「出産適齢期」 - 高齢の父親と子どもの障害の相関性(WSJ)
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_254698

先天性疾患を持つ子供の親として言っておきますが、こと出産に関して言うと、早い方がよいです。
男も女もです。

あくまでも確率的問題ではありますが、高齢になればなるほど確率は高まります。
もちろん、平均的人間などおらぬため、健康を考える上では個体差、誤差を考慮に入れるのは当たり前であり、高齢だから即NGというわけではありません。

しかし、確かな理由がわからなくても、統計を取ると有意な結果が得られるわけです。
年齢というパラメータは放射線被曝よりもずっと先天性の奇形に影響を与えると考えられます。

そもそも、出産期が高齢化したのは、ここ数十年のことであり、以前は今よりずっと若い時期に出産していました。
現代のように、高齢出産が一般化した状況は、人類未踏の領域であり、非常にリスキーな可能性が大です。
現代社会における経済的合理性は高齢出産に傾いているでしょうが、生物学的な合理性は高齢出産を歓迎するとは限りません。
今後、もっと違った形で、高齢出産の影響が出てくる可能性もあります。

私の子供は中核病院に通っておりますが、似たような状況の子供の多くは高齢出産です。
しかし主治医の論文も読んでみましたが、やはり親の年齢で有意な差が見て取れます。
原因が完全に解明しているわけではないので、バイアスもあるでしょうけれど。

あくまで総体としてのお話で、例外があるのは常識です。
何の提言にもなっていませんが、こと出産に関しては、放射線よりもずっと年齢を気にした方がよいようです。
放射線を気にするなってことではなくて、もっと全体として年齢を考えた方がよいということです。
だからといって早く生む方法があるわけでもないので、どうすることもできないわけですが、要点は、医療技術を過信して事後の対応に頼るのではなく、あくまで生活スタイルの範囲内になってしまいますが、事前の対応で未然に防げるものは防いだ方がよいということです。

健康に関しては言えば、時代は「治療」から「予防」へ移っていく、これは避けられないのであります。

先輩に賞を譲った時の話

2011-06-27 15:35:57 | 社会
この話は私の記憶を再構成したフィクションです。
決して学会の権威を貶めたいのではなく、人間社会を考察するためのケーススタディです。
小さい話だし、かっこつけた話なので、小話程度に思って頂けるとこれ幸いです。

◆◆◆◆◆◆

もうずっと前、私が修士1年だった時のこと。
私の学部時の卒業研究を元にした論文が、ある学会の査読付き論文誌に掲載されることになった。
私としてはどうでもよいことだったのだが、研究室には企業から共同研究の名の下に多額の資金が入ってきており、指導教官達にとっては査読付き論文を何本とれるかは重大な関心事であり、学部研究で1本稼いだ私は高い評価を得た。

しかし、私は非常に複雑な心境であった。
むしろ嬉しくなかったのである。
なぜなら、その論文のFirst Author(第一著者)は私になってはいたが、実際に論文を書いたのは2nd Authorの先輩院生だったからだ。

なぜ、先輩が私の名前で論文を書いたのか。
それにはわけがある。

まず第一に、論文の元になった研究成果の大部分が私の業績であること。
次に、指導教員は先輩よりも私の将来に期待しており、論文掲載を私の業績としたかったこと。
(研究者にとって論文数は非常に重要だからだ。)
そして何より、私が指導教員からの論文執筆要請を右から左へ流し続けたことがある。
(単純に忙しかったから。恋愛に・・。)

その先輩は、真面目かつ勤勉で、技術的なことは私よりずっと詳しかった。
しかし彼は少し不器用だった。
真面目すぎたのだ。
だから実質的な指導教員である助教からは評価されていたが、大御所の教授には認められなかった。
逆に、私はいい加減な性格で物事をきっちりこなすのが苦手な上、技術的なバックグラウンドは持ち合わせていなかった。
しかし、私はその適当な性格ゆえに細かいことを気にせずに大きな画を描くことが得意だった。
だから先輩とは逆に大御所の教授に認められていた。
私は自覚していた。
私が適当を通せるのは、技術を持った先輩や同期の友人達がいるからで、私に対する評価は、私をサポートしてくれる人々を含めた全員に対する評価なのだと。
私は全員を代表しているに過ぎない。
そう、つまり先輩は一人で勝負しているのに、私は周りを自分のところに引き込んで組み合わせて付加価値を生み出して自分の業績にしていたのだ。
もちろん意識的にである。

しかし、その後に起きたことが私を陰鬱とさせた。
なんとその論文の功績で学会から賞をもらうことが内定したのだ。
もちろん受賞者は私一人だ。
そして、2nd Author の先輩もその事実を知ることになった。

とても私事なことだが、当時、その先輩の母親は余命いくばくもない状態であった。
何かを意図してということはないが、ある時、先輩はぽつりと「母親に最期に賞を取ったことを報告したかった・・。」と漏らした。

先輩自身は何かを期待してということではなく、単純に自分の不甲斐なさを悔いて言った言葉であったと私は確信している。
今から死に行く母親にとって、息子のそのような後悔が何でもないことはわかっていた。
だが、先輩の気持ちを思うとやりきれなかった。
私の中で何かが動いた瞬間だった。

何も考えずに学部主任の教授の部屋へ行って、こう伝えた。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」

もちろん、大説教をくらった。

「賞は私事都合で決まるものではない。」
「なんと身勝手かつ不謹慎な理由だ。」

その教授は私の直接の指導教員ではなかったが、人の良さでは知られていたので、少し期待していたのだが、やはり現実は甘くなかった。
しょぼくれた私は意を決して、自分の指導教員の教授のもとへと行くことにした。
指導教員は皆から恐れられる大御所で、下手をすると研究室にいられなくなる可能性があったが、自信はあった。
私自身が教授に特別に好かれていたこともあるが、教授の癖をうまく利用する手はあると考えたからだ。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」
「こんな賞はいらない。他人の論文で賞をもらうなど自分が許せない。」
「私はこの論文に全く満足できていない。」
「次の論文でもっと大きな業績を得るつもりだ。」
「私ならそれが出来ると思う。」

いろいろあって、その教授は、次のように答えてくれた。

「君らしいな。」
「わかった。あれは所詮名誉賞みたいなものだから、本当に素晴らしい研究と認められたことを意味するわけではない。」
「私の方から言っておくよ。」

むしろ最後は笑顔で私の印象がさらにアップしたくらいである。
教授に気に入られることが、どれだけ研究生活にメリットがあるかは言うまでもない。

で、この話の中で、何が言いたいか。

日本の学会なんて適当だというところではない。
(これフィクションだから)

この話を聞いて、いい話と思うか、駄目な話と思うか。
その違いだ。
「先輩も受け取っちゃだめだろ」という突っ込みを聞きたいのではない。

要するに、この話の中で誰が損をして、誰が得をしたかという話なのである。
良いとか悪いとかではないところで、人間って何ができるだろうかって話だ。
そもそも「賞」がなかったら悩みもしなかったところに、「賞」が出てくることで問題が発生したわけだ。
賞なんて食べれないものに一生懸命になってしまう。
人は善意ゆえに傷つくのだが、そこの技術は何かなのです。
これも「人間の問題」。

電車の中で45くらいのサラリーマンの男性が「はぁ?キモッ」といわれて
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e1c768d6bd9f572604a0c5de99262323

私がAKB48批判を批判する理由  究極の理論を教えてほしい
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d817115b717b669bb72f14467ecbeb7

このエントリを関係者が見ないことを祈ります。

◆◆◆◆◆◆

ちなみに、その後、私が賞をとることができなかったのは言うまでもない(笑)
より正確に言うと、本気で狙いにいった研究で見事に滑った。
はっはっは。

あくまでフィクションだ。

「命をもってあがなう」日本文化論の嘘八百

2011-06-27 13:32:52 | 社会
この記事はいいところを指摘していて面白い。

「命をもって購う」日本文化論の嘘八百
この国は本当に先進の法治国家なのか (伊東 乾)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/12591

[...]

民衆支配の構図の中では、当然のようにして「死をもって購う文化」が恐怖を裏打ちとする見せしめとして、延々続いていた、いやむしろ激化していた可能性すらあるでしょう。

 問題は、それらが文書に必ずしも残されず、多くが識字能力のなかった民衆層を恐怖心に基づく統治=「(フランス革命期の命名の正しい意味における)テロリズム」による支配を、法を超えて支え続けてきた、という草の根だと考えられるわけです。

[...]

悪党の特徴は、刀を持っているということです。これは何か? 殺人の道具です。

 後々まで「切捨て御免」と言われるように、悪党すなわち初期の武士は「裁判」の手続きなど踏まず、何か揉め事があれば「彼自身が法」となって「切捨て御免」で物事を解決していった・・・現代で言えばこれ、ヤクザの問題解決法と変わりありません。

 一方で、都から来たエリートはきれいごとで「平安なまつりごと」を司る。他方で地元の実力者は、法もへったくれもない暴力で有無を言わせず政治を動かす・・・こう言い切ってしまうなら、史学であれば誤りになります。

 しかし現実には、中央政権の力と地元の力、この「二重支配」が8世紀から15世紀まで、ほぼ700年にわたって二重のパワーで日本全国を支配し続けます。

[...]

秀吉の行った「太閤検地」と「刀狩り」などの武装解除が、「非公認の悪党」を全国から駆逐するのに、最終的な力を持ちました。

 しかし、幕藩体制下にあっても、武家は各地の惣村の中にまで手を突っ込もうとはしませんでした。時代劇で見るような「お奉行様」の裁きなどはごく一部のことであって、農村内部の掟や裁きは、各々村の中での合議、あるいはむき出しの暴力で内々に処理されることもあったようです。

 ここで重要なことは、そのような各地の「ホンネの裁き」が、成文法に基づくものではない、直接的な暴力と感情的判断が支配する世界であった、という事実です。

 鳩山邦夫さんが「日本文化」と言ったものは、一面極めて正確だと言えます。それは、決して表の記録で文書に残るようなものではない、「受領」が律令という文字で明確に記された「罪刑法定主義」でとりつくろうのとは別の、暴力を背景とするパワーの調停、親分仕事です。

 これは、フランス革命期、恐怖を背景として民衆動乱を抑え、支配を確立しようとした元来の「テロリズム」そのものであるところの一切無関係の「ホンネの力の政治」です。

[...]

「命をもって購う」と称する人たちの主張が、文章に書かれた「法治主義」をホンネでは軽んじ、力と感情に支配された「人治主義」を、フラストレーションのたまった21世紀初頭の民心を背景に「日本文化」の如く称しているだけであることが明確になりました。

[...]

そのような浅い理解の、正体不明ながら選挙向けの「日本文化」という強弁で、現行法の本質と一切矛盾する「人知主義」的ホンネを「根拠」としながら、民主主義的な政府で法務を司るはずの職務にあたるとしている部分が、根本的に間違っている、ということです。


よく見かける風景であるが、何の根拠も示さずに「日本文化が」という理由で物事の善し悪しを判断する人は、基本的に危険だ。
私も私的な日本文化論を披露することが多いが、あくまでも説明を短縮するためであって、根拠にしているわけではない。
全ての物事を完全に追求することは能力と時間の問題で不可能ではあるので、どのレベルまで論理性を求めるのかは、物事によって変わる。
人は、人間のことも宇宙のことも完全にはわかっていないから、最後は信念だ。
これまで幾度となく経験してきたが、どんな世界も最後は信念対決のフェーズに入る。

ただ、完全はないからといって、決め付けてはならないし、諦めてもならん。
重要なことは、出来得る限りお互いの理解を得ようとして、論理の正当性を議論しようとする姿勢である。
なぜコンセンサスや相互理解を得ようとすることが重要なのかといえば、人の理性が完全ではないからだ。
完全ではないから、人はその論理の正当性を保証することはできない。
だから、論理の正当性を徹底的に叩いて、上の次元へ昇華させるプロセスが必要であり、それがコンセンサスや相互理解を得ることの意味なのである。

誤解して欲しくないのは、だから全ての物事についてコンセンサスを得る必要があると言っているのではない。
内容や詳細よりもまずは動くことが求められる状況では、コンセンサスを得ている暇はない。
内容如何に関わらず、やる必要があるからだ。
内容にこだわるのであれば、コンセンサスを得ようとすることが"有用"である。

さらに重要なこと。

「コンセンサスを得ようとすると何も決まらない。」というのは、元の目的を失っている。
コンセンサスを得るのは、その内容をより高い次元に昇華させるためである。
内容をより高い次元に昇華させる必要がなければコンセンサスを得る必要がない。
逆に、内容が低レベルなものであれば、徹底的にコンセンサスを得る努力をすることで、内容を鍛え上げるのだ。
目的を履き違えてはいかん。

ドラッカーは、日本企業のコンセンサス重視型経営を見て「事前の情報共有を徹底的に行うことで、いざ作戦を実施する段階になった時に情報共有コストを大幅に低減させることができる。未来型の経営スタイル。」と評したが、これも結局は作戦の内容を磨き上げるということなのだ。

【妄想シリーズ】AKB48の異質 孤高のアイドル 渡辺麻友 【追記あり】

2011-06-25 15:20:25 | AKB48_メンバー
※注意これは完全なる妄想であり、誰に向けたものでもございません。
ただ、AKB48のメンバーについて語るなら、AKBオタの方からフィードバックを頂けるのではないかと思い、それなら自分の妄想を試す価値もあろうかと考えるところであります。
あとは妄想の訓練です。

私は各メンバーのことを詳しく知っているわけではありません。
その上、私は、ろくな調査もせずに語ります。
これは意図的なものです。
私個人の勝手な都合なのですが、あくまでも妄想によってどこまで語れるかというところに意味があるのであり、事実を確かめるためにやるのではありません。
よって、全く頓珍漢なことを述べる可能性が大でございますので、もし心ある方は、その旨ご指摘頂けると助かります。
ご指摘によって勉強させて頂きます。

◆◆◆◆◆◆

第1弾は「渡辺麻友」さん。

なぜ第1弾に渡辺麻友さんを選んだのか。
それは、AKB48の上位メンバーの中で最も妄想するのが難しいタイプだからです。
たぶん、それは彼女自身に妄想族の気があるからだと思います。
少し自分と重なって見えるところもあったりして、妄想がいのある人物です。

ちなみに、私が彼女について知っているのはマジすか学園のネズミを演じているというだけで、その他は全く、彼女がどんなキャラの人なのかすら知りません。


それでは、はじめましょう。


ぱっと見の印象は「わからない。」
全然つかめない。

掴みどころがないというのではなく、つかむにも、どこ掴んでよいのかわからないほど、掴むところが多い。
想像性に富んでいて天才肌でありながら、その一方でかなり現実、いや実利主義。
その二面性は2重人格を思わせるほどで、おそらく幼少の頃から両者のバランスが取れずに苦労したはず。
少なくても周りからは理解されないことが多い。
しかしながら、周囲の理解を自分から好んで求めにいくタイプでは決してない。
人に合わせるのではなく、あくまでも自分に合わせる。
他人は他人、自分は自分、と考えることができる。

たいてい、このような二面性は、大人になるに従って社会的経験を通すことで、バランスが取れるようになり成熟する。
ぱっと見の印象では、彼女はまだその途中。

この手のタイプは、幼少から中学生くらいの年齢までは引きこもり、高校生では仲の良い友人とスルメイカ的な付き合い(噛めば噛むほど味が出る)を好み、大学生も2年生から3年生くらいになると大ブレイクを起こす。
というのも、このタイプは個人の裁量が大きくないところでは個性を発揮できないためで、そのような状況ではむしろ没個性で亀の甲羅に閉じこもる。
大人になり自由裁量が大きくなると、そのすっ飛んだクリエイティビティと、冷静な洞察力を発揮する場面にようやく出会うことができ、人が変わったかと思うほど大躍進を遂げる。

決して表面には出さないが、内面は非常に熱い情熱家。
あえて表現しなくても、この内面的な情熱を察してくれる人、つまり言葉にしなくてもわかる、コンテキストを共有できる人との付き合いを好む。
というのも、そのクリエイティビティがあまりにハイコンテキストであるために、自分の中ではそれなりに論理が通っていることも、誰からも理解されないことが多く、しかしそれをいちいち言葉で表現するのも面倒だからだ。
理解しようと思って理解できるものではなく、理解できる人にしか理解できない。

たぶん・・その現実に疲れている。
というか失望すら感じており、既に期待すらしないレベルに到達している。
彼女は、彼女の想像性を裏切らないものを好む。
だから、現実よりも仮想。
いや、現実か仮想かの区別なんてものはどうでもいい。
彼女の知的欲求を満たせるものであれば、なんでもよいのだ。
彼女の想像性を邪魔しない、制約を設けない、そういうものを好む。

違った視点で妄想してみる。
おそらく、彼女は周囲の自分評と、自分自身の自分評にかなりギャップがあると認識している。
自分自身では自分の二面性を認識しているから全然いい子じゃないと思っているのだが、周囲がいい子を求めて、なぜか実際にいい子だと評価してくれるから、それに違和感を抱きながらも安堵している。
さっきも書いたように「理解しようと思って理解できるものではなく、理解できる人にしか理解できない。」のだ。
説明するのも面倒だから、その価値観の中で生きるのは窮屈だが楽だ。
ちょっと方向性は違うが、ちょっと妥協するのも有りかなと思ってもいる。

余計なお世話だが、彼女に何か助言できることはないか考える。

ない。

彼女は自分自身で答えを見つけ出す。
自分で見つけた答え以外には絶対に満足しない。
だから何を言っても無駄。
何か教えてやろうなんて気持ちで彼女に近づくと痛い目を見る。
そんなものは求められていない。
彼女に必要なのは経験だけ。
彼女はその類稀なるクリエイティビティで自分自身で新しい答えを見つけ出すことができるから。


彼女はAKB48の中にあって異質である。

誰にも理解されない孤高のアイドル。

その名は渡辺麻友。


★★★★★★

【追記】

その後、妄想で浮かんできたこと。

この手のタイプは、二面性からくる精神的不安定についてバランスするために、ちょっとしたことに異常にこだわる傾向がある。
服装、化粧、アクセサリー、髪型、ネイルなどなど。
(彼女の場合は、前髪にこだわるそうだ。)

パートナーに恵まれると大きな力を発揮する。
想像力と創造力があるため、アイディアが次から次へと浮かんでくるが、それらを具現化する前に伝えたくて仕方がない。
それを受け止める器量の大きさを持ち、アイディアを実現するための実行力・実践力のあるタイプと相性がいい。
また、スルメイカ的付き合いを好むので、時間や場所など気遣いしないとなおよい。
たいていは先輩などの目上の人がよい。

つまるところ、彼女の潜在力を発揮するにはコンビがよい。
あくまでも彼女の戦略を発揮するとう観点で考えるとだ。
ソロの次にリスキーなので、実際にやった方がいいのかはビジネス判断だ。
今5人グループらしいが、実はコンビの方がよい。

AKB48の中を覗くと・・先輩で合いそうなのが約1名。
だけど、ちょっと難しいので、それ以外でと考えると松井珠理奈かなと思う。

センターじゃねーかw

と思った瞬間、マジすか学園2のシナリオの元を考えている人は只者ではないと改めて感心した。
あの二人の関係性含めて、まさか全部考えてのことなのか・・と。
ありがちなクサイ話と単純に思いきや、前フリもしくは試しているというのが本当のところなのではないか。
元ネタ考えている人は、伝えたいものや試したいものを強く持っている人なのだろうなと感じる。
話を面白くしたいというだけの気持ちじゃないのは間違いない。
もっと確かなものを持っている人だ。
世の中のイメージとはずいぶん違うのだろうな。
誰かは知らないけれど。


★★★★★★

まゆゆファンに怒られるかと思いきや意外に平穏だった。
相手にする価値もないということなのだろうが、ちょっと突っ込んでくれたら嬉しい。
その前に、そもそもまゆゆファンは誰も当Blogを見ていないというのが正しそうだ。

いつのまにかAKB48づくしのブログになってしまった。
当Blogは目的がないのが目的なので、なんでもありだ。
内容も、なんでもありだ!

次はどのメンバーにしようかな。
人間オタ(&思考フェチ)の私としては、人間的に面白い人がよいのですが、上位メンバーの中から候補を軽くサーベイすると・・

前田敦子さん:まぁわかりやすいが、意外と地味。キーワードは広い意味での「家族」かな。
大島優子さん:この人はわかりやすい。大人。うまく言えないが、良い意味でオヤジ。
・・・
渡辺麻友さん:わかりにくい。天才肌で孤高。とっつきにくい。
・・・
板野友美さん:わかりやすい。まとめるのに時間がかかりそう。
・・・

疲れた。寝る。

★★★★★★

自分の書いたことを確かめるために、いろいろと見たりしてみました。
時間の関係上、まだまだですが。
どんな話し方するかもよくわかっていなかったのですが、まぁまぁいい線行っているんじゃないですか。
少なくても抑えるところは抑えられている気がします。
それにしても、映像作品は実時間で見るしかないのが辛い・・


この勝負、菅直人の勝ちっていうか初めから勝負にすらなっていない圧倒的勝利

2011-06-24 12:33:30 | 政治
今更言うことでもないですが、呆れ返るほどの無策ぶりに痺れを切らしてしまいましたので、少しモノを言わせてください。

菅直人が辞めると言ったが辞めない状況について、多くの識者が「コンセンサス社会の日本では裏切り行為は自殺行為なのだからして、菅直人は実質的に辞職したも同然。」みたいな論調を飛ばしておりました。一方、私はこちらのエントリ『小沢の無策ぶりに驚いた。日本の夜明けは近いかも。』で、いやいや攻める方が無策すぎてダメダメ、これでは菅直人を追い込めないと書きました。


その後の展開を見ていますと、浜岡原発議論よろしく菅直人に「再生可能エネルギー」を人質に取られてしまいまして、追い込む側は打つ手を失った感がございます。
(『悔しいが菅直人の術中に嵌らざるを得ない 浜岡原発議論停止』)
このような玄人的展開に「さすが菅直人。稀代の反権力ポピュリスト政治家だ」と評価する向きもございまして、現状、優位に立っているのは民主党の反菅派でもなければ、自民党でもなく、完全に菅直人です。残念ながら、菅おろしに精を出せば出すほど追い込む側は自分の首を絞める展開になるでしょう。

なぜ、菅直人の優位が揺らがないのか。理由は非常に単純です。こちらのエントリ『見てるのも辛いので、民主党を楽にさせてあげなければ』で書いたように菅直人おろしの根拠が「無能なリーダーが総理大臣であることは日本にとっての損失であるからして、菅直人を即刻辞めさせなければならない。」というものであるならば、当然ながら「だったら次の総理は日本にとって損失にならない有能な者が就任するんだろうな?」という真っ当な質問に答えねばならないわけですが、これに回答できる者が誰一人としておらぬわけです。

要は「誰がやっても菅直人よりもマシ」とほぼ等価なロジックで一国の総理を失脚させようとしている人々がいて、一方に震災や経済縮小で頭悩ましている人々がいるわけです。この構図を見て、だれが前者に賛同しますか。するわけないのです。

というか、ここで久しぶりに当Blogの日本文化論を披露いたしますと、大多数の日本国民のみなさまは無意識的に自分達が直面する矛盾を非常に巧みに止揚しおり、その観点からすると、この騒ぎは所詮は祭りでしかないという受け止め方をせざるを得ない状況なのであります。

何かといいますと、日本人は「リーダーが・・」「総理が・・」みたいな話をしながら、その一方で実は全くリーダーに期待していないのであります。そもそも日本国民が、その歴史の中でリーダーに依存してきたのは、ほんの極わずか、米粒みたいなものでありまして、多くの日本人が「やっぱりリーダーがね・・」なんて話をしながら、内心では「とはいえ、リーダーだけの問題でもないし、やっぱり個々人がどう考えてどう動くかというのが本質的な問題だよね。」と実に冷静かつクレパーに考えているのであります。そしてこの個々人の自律的な意識の高さが日本国家の他国と比した時の強みなのであります。
(日本人が自律的な意識の高さを発揮できるのは限られた範囲内でのことですが)

では、なぜ日本人が「リーダーが!」「総理が!」みたいな話を好むのかといいますと、それは日本社会における「責任」のコンセプトに依拠しているのでありまして、どういうことかといいますと、もともと日本社会には責任を分散するシステムがビルトインされているのでございますが、この狭くて資源がなく自然災害も多いこの辺境弱小国家日本において、責任の明確化なんて切ないことをするよりも、責任を分散・緩和し、問題の解決について皆で和を尊び協力し合うことに全力を上げた方が皆が実によく生きられるということなのです。

で、ここから先がこのコンセプトの実に奥深いところなのでありますが、日本の場合、単に責任が分散されているだけではありません。実態として責任が分散されているにも関わらず、表面的にその責任を受け止める役割が組織ごとに定義されるのでございます。このあたりについては当Blogの人気エントリ『国家権力に対峙する方法について考える』をご参照ください。
長いので一部だけ引用します。

あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある。
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない。
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった。
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである。
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった。
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである。

「君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

「空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。

そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。


実に巧みなシステムです。リーダーの責任なんて実はさほど重くも見ていないのに、リーダーが責任をとることで、自分達がコンプレックスを抱かずに済むのです。だから、リーダーは神輿に限るし、軽いに越したことはないのです。

そろそろ、まとめましょうか。
この観点から導出される結論、それは対論となる何のコンセプトも示さずに菅直人についてリーダーとしてだなんだと騒いでいる人々は、菅直人に「自分達が負うべき責任を全て引き受けろ」と言っているのであって、実に日本人的行動をしていると言えるということです。

換言すると、結局自分達では何もできない人々が、辞めろと言っているということです。
だから、菅直人のように相手に開き直られたらホールドアップになります。
もともと日本的責任コンセプトの中でしか通用しない理屈なので何もできず。

それが国民に見透かされているから愛想つかされているわけです。

同じ日本国民ですから!

【追記】

一方、自民党はというと。

自民、造反10議員への「氷代」停止 国会延長議決(asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0623/TKY201106230634.html

一夜明けて  私はなぜ会期延長に賛成したか(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/06/post-1036.php

私は以前から自民党の河野太郎と小泉進次郎を陰ながら応援している。
二人とも神奈川県選出の議員ということもあるが、それよりも私は二人について次世代を担う若手政治家としてその潜在力を認めている。
二人ともタイプは違う。
河野太郎は、割り切る力、つまるところ決断力と実行力がダントツにある。
私は河野太郎が推す政策の全てに賛成するわけではないが、割り切る覚悟があるという点で非平常時の宰相の器である。
彼に大きな裁量を渡して、上司に器の大きい人徳者を組み合わせれば、きっと大きな仕事をやってのけるタイプだ。
小泉進次郎は、馬力はないが謙虚さと柔軟性を併せ持っている。
その二つがバランス良く合わさると、大きな構想を描く素質になる。
彼自身、常に父親という見えない大きな壁に悩まされるであろうが、それが彼を育てるのも確かだ。
私は彼に期待したい。
いずれにしても二人とも次世代を担う器を持っていると思う。
私は二人を応援したい。

【AKB48】 なぜAKB48は批判されるのか、わかりやすく説明しよう。

2011-06-23 14:50:50 | AKB48
こちらのエントリについて非常に素晴らしいコメント(by tuneさん)を頂きました。
頂いたコメントについてコメント欄では長文になり、読みにくいかと思いましたので、こちらで回答させて頂きます。

AKB48大島優子が1位だった理由

>AKB商法に対する理論的批判はエンタメ業界を発展させると考えています


「一流の板前は一流の客が育てる」ですよね。
(もちろん相互フィードバックが基本で「お互いに育て合う関係」がベストですが)
当ブログもコメントによって鍛えられていくものと考えており、tuneさんコメントは大歓迎でございます。
これをご覧の方も是非コメント頂ければと思います。


>最も有効な批判の要は「アイドルに求められる健全性からの逸脱」だと思います。


仰るとおりだと思います。
私も繰り返し総選挙を例にとり「AKB48の発展は総選挙システムの「健全性」と「拡張性」をどう両立するかにかかっている」と主張しております。
問題意識としては下記のエントリで述べました。

AKB48総選挙におけるビック・プレーヤの存在について考えてみる

当Blogでは、ずっと前に「AKB48の発展は総選挙というランキングシステムの拡張性と健全性をどう保つかという点にかかっている。」と書いたが、このような視点を欠き、何の対応もとらなかったので、今の事態に至っていると言えるだろう。

総選挙のランキングが「誰が最も投資を集められるのか」を明らかにするためのものであるなら、別にビックプレーヤの存在を否定する必要はないだろう。
しかし、ここで重要な問いについて考えなければならない。

「そもそもアイドルとは、何をもってアイドルといえるのか?」ということだ。

ここに、アイドルビジネスと風俗ビジネスとの根本的な違いがある。
それは、アイドルは大衆的・公的な意味合いが強いのに対して、風俗は非常に個人・私的な意味合いが強いという点である。
両者の本質的な違いではないが、重要な違いである。
もちろん、時代とともにアイドルの定義は変化してきた。
どちらかといえば、アイドル側が風俗側を侵食してきた歴史といえるだろう。
大衆的かつある種の信仰的なものであったアイドルが、価値観の多様化の中でパーソナルな領域に踏み込まざるを得なかった。
ユーザはより深いコミュニケーションを求めているのだ。
AKB48は、そうした流れの中で、身近なアイドル、育てるアイドル、会いにいけるアイドル、といった形で事業展開をしてきた代表格であろう。

しかし、アイドルは完全にパーソナルな存在にはなれない。
それはアイドルではないからだ。
もし金を稼ぐためにアイドルをやろうとしているなら、それは間違いである。
純粋に金を稼ぎたいのであれば、風俗業界で働いた方がいい。
金持ちのスポンサーが付けば、金持ち確定である。
しかし、アイドルを目指す人がいるのは、アイドルが大衆的で公的な性質を持っているからである。
歌手、女優、TVタレントといった形での活躍の場と、自己実現欲求とつながっていることがアイドルの重要な存在理由である。
それはアイドルを目指す人だけでなく、ユーザ側においても同じである。
アイドルが"アイドル"であることが非常に重要なのである。

アイドルとして成立することと、一部のビックプレーヤの影響力が大きくなることは、非常にバランスの難しい問題である。


「AKB商法」が「キャバクラ商法」と批判される理由はよくわかります。
tuneさんも指摘されるように参加者の目的は異なっても構図は同じものだからです。
(同じ構図ではないと言えば、また違った議論が可能でしょうけれど、私はtuneさんが指摘するように同じだと思います。)

そうなると問題は、AKB48陣営が、このキャバクラ商法と同様の構図を、目的論的な観点から正当化し得るかどうかにかかってきます。
わかりやすく言えば、「目的は手段を正当化する」という言葉が、ここでも通用するのか否かです。


キャバクラについてキャバクラ商法を否定する人は少ないはずです。
やり方が汚いと言う人はいるかもしれませんが、「それがキャバクラだから」と言われてしまうと「ぐぅ」の音も出ません。
要はそういうサービスを提供するのがキャバクラなのであるからして、キャバクラを否定する理由にならないのです。
一方で、「AKB商法」について「それがAKBだから」と言われると、そうかと思いながらも「でもそれはアイドルではない」と批判したくなるでしょう。
これがtuneさんのおっしゃる「アイドルに求められる健全性からの逸脱」なわけです。

やはり「健全性の定義」に関する議論を避けて通れないようです。
真っ向から挑まなければならない問題です。

◆◆◆◆◆◆

まず「アイドルに求められる健全性からの逸脱」の前に「アイドルに求められる健全性」とは何か?
について議論しなければならず、ということは、「アイドルに求められる健全性」のその前に「アイドル」とは何か?
について議論しなければなりません。

「アイドル」については、上のエントリで自説を説明しています。
アイドルとは「大衆的・公的な性質を持つもの」であり、一方で風俗は「個人的・私的な性質を持つもの」であると考えます。
これも既に述べたことではありますが、AKB48が批判されるのは、AKB48が、皆が思うアイドルの条件「大衆的・公的な性質を持つもの」から、風俗的な「個人的・私的な性質を持つもの」に大きく踏み込んでいるからなのです。

ここにAKB48の革新性があるのです。
AKB48は「マス・マーケティング」→「ソーシャル・マーケティング」の流れの中で、マス×ソーシャルの両方を併せ持つコンセプトを構築した先駆者なのです。
(参考『なぜ私はAKB48に関心を持つようになったのか』+『AKB48躍進の理由』)

しかし、その革新性ゆえに、このAKB48のコンセプトは、既存のアイドル像を持つ人々からは理解されず、批判の対象になってしまいました。
もっとゆっくり浸透していけば摩擦も少なかったと思いますが、急激な規模拡大路線が批判を大きくしたものと思います。
(AKB48自体は秋元康氏がゆっくり時間をかけて育ててきたわけですが、ここ最近の規模拡大路線は少々疑問を呈したくなるほどです。)


もっと噛み砕いて説明します。

AKB48は、その創設の理念からして「刺さるコンテンツ」「会いに行けるアイドル」というように、従来のアイドル像である「大衆的・公的な性質を持つもの」から、「個人的・私的な性質を持つもの」へ大きく踏み出しているアイドルです。
なぜか。
それは時代が、ユーザが、より深いコミュニケーション、より質の高い顧客満足を求めているからです。
その要請を先取りしたコンセプトこそがAKB48です。

つまり、外から眺めるだけでコンセプトを理解していない人には、AKB48の新しさが、単純に風俗と同じものに見えるということです。
(「個人的・私的な性質を持つもの」部分を見ればキャバクラと似たようなものに見えるからです。)
これが「アイドルに求められる健全性からの逸脱」の正体です。

仕方がありません。
パラダイム・シフトが起きている時、旧来のパラダイムから物事を眺めている人々は、旧来の枠組みで物事を考えざるを得ませんから、どうしても誤解が生じてしまいます。
換言すれば、新しいコンセプトが起きたとき、そのコンセプトを理解できる人は稀なのです。
詳細は不朽の名作「イノベーションのジレンマ(クレイトン・クリステンセン)」をお読みください。
とりあえず解説はWikipediaを引用します。
私が「AKB48をイノベーションと呼ばず、何をイノベーションと呼ぶのだ?」と再三言うこともなんとなく理解して頂ける気がします。


(太字強調は私によるもの)

イノベーションのジレンマ(英語:Innovator's Dilemma)とは、優れた特色を持つ商品を売る巨大企業が、その特色を改良する事のみに目を奪われ、顧客の別の需要に目が届かず、その商品より劣るが新たな特色を持つ商品を売り出し始めた新興企業の前に力を失う理由を説明したマーケティングの理論。ハーバード・ビジネス・スクール教授のクレイトン・クリステンセン(Clayton M. Christensen)が、1997年の著書 The Innovator's Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail (『イノベーションのジレンマ - 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』)のなかで初めて提唱した。


この点に関しては私は『なぜ私はAKB48に関心を持つようになったのか』の中でこう述べています。


企業人にイノベーションの話をしても理解されないのだから、一般人に理解を求める方が間違っている。

だからAKB48のマネジメントは、理解し易いように噛み砕いた事業活動をする必要性に迫られている。
総選挙のあり方についても、もう少し考えるべき点はあるはずだ。
心無い誹謗中傷を、そのまま受け止めるのではなく、一歩高い次元で受け止めるべきだ。
古いコンセプトと新しいコンセプトが入れ替わろうとするところで摩擦は起きる。
摩擦が起きるのは必然的なもので仕方が無い。
この摩擦をどう受け止め、そして今後に生かしていくかを考えなければならない。
これはマネジメントの責務である。


長くなりましたので、そろそろ結論を述べましょう。

AKB48は、アイドルに求められる健全性からの逸脱はしておりません。
正確に言えば、旧来のアイドルに求められる健全性からは逸脱しておりますが、AKB48を新しいアイドルとして定義すれば、何ら健全性を逸脱する行為を行っておりません。

ただし、上に述べたように、このような新しいアイドルのコンセプトを一般の方に理解して頂くのは、非常に難しいことなので、AKB48のマネジメントは、一般の方々が理解し易いように噛み砕いた事業活動を展開する必要性に迫られていると考えます。


◆◆◆◆◆◆

その心は。

ここから先は完全に私の考えを述べるものです。

しかしながら、このまま何も手を打たずに事業を進めることは長期的にはAKB48にとって大きな損失になる可能性もあります。
たとえ自分達が間違ったことをしていないとしても、対応すべき事案は沸いて出てきます。
それは不条理でもなんでもなく、企業が我々が社会内存在であることからの必然です。

ドラッカーの言うように、企業が社会的機関として存在するのであれば、AKB48運営側は、企業の社会的意義を高める(AKB48の価値を追求していくこと)とともに、社会的責任についても考えていかなければなりません。
企業が社会的機関として社会の中に存在する以上、社会的責任は必ず生じます。
社会内存在として社会と関わらずに存続することも、また社会に逆らって生きることも決して許されません。
社会に貢献することによって初めて企業は社会内存在として生き永らえることができるのです。
社会的問題の解決は、社会的機関として企業に課せられた使命であるとも思います。

AKB48にとっての社会的責任の考え方についてです。
AKB48の社会的意義とは、AKB48が社会に対してどのような貢献ができるか、社会に対して担うべき役割とは何か。ということです。
しかし、それがどれだけ素晴らしくても、どれだけ用意周到に進めても、完璧な事業推進は有り得ません。
ゆえに社会的意義を果たそうとする中で展開される事業、その全ての社会的影響においてAKB48は社会的責任を負うべきなのです。

で、あるからして、たとえAKB48がアイドルに求められる健全性を逸脱していないとしても、やるべきことはある。
これは基本的な考えとして持つべきで、改善可能なところは今すぐにでも改善すべきなのです。

【つづく】

本当の意味では、悪はこの世に存在しない

2011-06-22 16:49:17 | 哲学・思想
もう2ヶ月前の記事だが、このモギケンの考えは非常に重要だ。
政治不信の問題も、経済の行き詰まりも、社会不安の問題も、その根っこは同じで、これなのだ。
当Blogでは以前からこのことを「スパイラルな進化」という言葉で表現してきた。

進化というのは、遅々として感じることもあれば、時に行ったり来たりと感じることもある。
我々は、幾世代にもわたって似たようなことを繰り返し、同じ過ちを経験しているかのように思えることもある。
しかし、同じ時、同じ状況、同じ情動が繰り返されることは有り得ない。
同じコトは二度と起きないし、同じものを感じることもできない。
全てがオリジナルなのだ。
似たようなことも、必ずどこかが違っている。
その変化が、時に切なく、辛いものであることもあるだろう。
だが、長い目で見れば、我々が進化の道にあることを理解できるはずだ。
終わりなき旅に辟易する時もあるだろう。
しかし、進化の道しか、我々に与えられた選択肢はない。
進化とは無限のスパイラルなのである。

震災以降(茂木健一郎)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/04/post-c5b2.html

震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。

震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。

震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。

ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。

ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。

みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。

自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。

見てるのも辛いので、民主党を楽にさせてあげなければ

2011-06-20 16:02:50 | 政治
誰もがこれでは駄目だと思いながらも、それを止められない。

今、菅直人を辞めさせようと鋭意努力をされている人々は、本気で「菅直人が総理大臣である期間が長ければ長いほど日本の損失になる!」と考えているのか。
だとしたら正真正銘の馬鹿か、この逆境を跳ね除けるアイディアを持った大天才のどちらかだろう。

「日本の損失になるから」で辞めさせる以上は、当然ながら「日本の損失にならない人」を総理大臣にする目処が立っているのだろうか。
民主党の中を見渡す限り、そんな人物が存在するとは思えない。
今の状況下では、誰がやっても同じ結果になるのが目に見えている。
次で6人目だ。ロシアンルーレットで当たるまでやるのか。
(→ 安倍晋三 → 福田康夫 → 麻生太郎 → 鳩山由紀夫 → 菅直人 → ?)
それとも「少なくても菅直人よりもマシ」とか言って逃げるつもりか。

誰がやっても同じなら「人」の問題ではなく、組織の「構造」や「仕組み」の問題なのだと思わなければならないし、そうならば構造や仕組みの改善や改革をやらずに、人だけ変えてうまくいくわけないだろう。
日本人は、なんでもかんでも「人」の問題にし過ぎる。
世の中には「人」の問題にしても解決できないことが山ほどあるのに、どうしてわからんか。
(ヒューマンエラーは防ぎようがない)

よほどの事がない限り、もう民主党に次はない。
Chikirinさんは、だから残りの時間で総理大臣の席をたらい回しているだけというが、私は違うと思う。
私には破綻寸前の企業が努力する姿と重なる。
なんとか状況を改善しようと皆が身を粉にして努力することが、逆に破綻する速度を速めるのだ。

だから、現場で一生懸命動いている政治家は、国民生活のために必死に汗を書いているつもりでいて、「どうせ保身のためだろう?」とマスコミに批判されても、大部分の人達は自分の身を粉にして国民の為にがんばっているつもりでいるから、本人達は「政局」として見られることを嫌うし、そうではないと必死に説明するだろう。
原因は、環境が変わって努力する軸、パラダイムが変わっているのにも関わらず、視野が狭くそれに気づけないことだ。

「君達の努力は理解している。だが、がんばり方が間違っている。」
誰かがそう諭してあげないといけない。

営利企業なら破綻するか、もしくは株主が経営陣の刷新などで介錯可能だ。
政治の場合は、国民が判断することになるだろう。
国民が判断しないから政治が変な判断をしたり、官僚機構が暴走したりする。

早く、彼らのために彼らを楽にしてあげないといけない。

AKB48大島優子が1位だった理由

2011-06-20 14:08:26 | AKB48
「漢」だから。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

第3回総選挙の後で、語るには時期を逸してしまった感のあるネタですが、重要なことなので少し説明させてください。

1年前の第2回総選挙の後、私がAKB48について語り始めると、何人かのAKB48についてよく知らない人達からこう聞かれた。
(私も知らない方だと思うけれど。)

どうして1位は前田敦子ではなく大島優子なのか?


もちろん、AKB48を知っている人なら、大島優子さんが1位だとしても理解できるだろう。
(これは、好きか嫌いか、つまり納得できるかの話ではなく、説得力があるかどうかの話だ。)
私自身も特に違和感を感じていない。
AKB48総選挙は、人の頭数で勝負する選挙ではない。
どれだけ多くの人から支持を集めるかを競うものではなく、どれだけ多くの人から、深い支持を集めるかを競うものだからだ。
大島優子さんが熱烈な支持を受けていること自体は、その人間性ゆえ何ら不思議なことではない思う。
しかし、AKB48をなんとなく外から眺めるだけの人達からすると、第2回総選挙の結果に違和感を持つらしかった。

実は、この話の中に「AKB48」というコンセプトを如何に多くの人が理解していないか、そして理解し難いものかを示す鍵がある。
たとえば、世の中の言説を眺めてみると、AKB48をアイドルのパッケージ売りとして理解する人達が結構いる。

ピンでは売れないそこそこかわいい子を集めて、ランク付けをして売り出すことで、消費者のある種の錯覚を利用して購買意欲を掻き立てている。


という感じで、パッケージの組み方がさながら金融商品のようだと説明するものまである。
しかしながら、このような説明をする人達は、決まってAKB48についてよく知らない。
知らないから本質的でないところに目がいってしまう。
彼らの意見を要約すればこうなるだろう。


外から見ていると、AKB48の各メンバーはアイドルが満たすべき品質からすると少し劣る部分があるが、それを総選挙なりAKB商法なりのAKB48全体で取り組まれる様々な仕組みの中で吸収し、無効化している。
実にアコギなビジネスだ。


AKB48を知っている人なら、これが如何に的を外した意見かすぐわかるはずだ。
そのような意見を吐く人は、まるで「AKB48」というコンセプトを理解していない。
(私は理解しなければならないと言っているのではなく、理解していないのにAKB48批判しても誰の心も掴めないよ?それ誰に向けた話?という話をしているだけだ。)

まず、AKB48の各メンバーが「既存アイドルに求められるという基準」を満足しなければならない理由がどこかにあるのか?

ない。まるでない。

そもそも「アイドルの基準」なんてものは存在しないが、ただ多くの人の頭の中には「より多くの人に受け入れられるであろう品質」というものが漠然としてある。
「誰から見ても美人」「誰よりも可愛い」「誰からも愛される」だろうといったものだ。
そう、これまでのアイドルというのはそういう基準によって選ばれてきた側面が大きい。
つまり、「大衆的に受け入れられるであろうアイドル」である。

しかし、それでは結局、美人投票的なアイドルしか輩出できず、消費者と表面的で浅い関係性しか生み出せない。
このあたりは『AKB48躍進の理由』で書いたので読んでもらえればうれしい。

テレビの仕事では常に相手はカメラだ。
カメラの向こうには何百万という視聴者がいるかもしれないが、その反応、手ごたえといったものを直接感じ取ることはできない。
視聴者も、テレビを通して見るリアリティのない淡い蜃気楼のような世界にはすぐ飽きる。
情報量が圧倒的に足りないのだ。
ブームが一度訪れれば、熱狂のように支持された気持ちにもなるが、時が経てば何事もなかったように、まるで幻であったかのように存在さえ無かったことの様に忘れ去られてしまう。
共同幻想だ。

マスは速くて大きなものを引き込みはするが、深くて長いものを構築するのは苦手。
マスを狙うと、どうしても底が浅くて表面的なものを繕ってしまう。

彼はそうではなく「刺さるコンテンツ」を目指す。
深く、深く刺さるコンテンツとは何か。
そして、行き着いたコンセプトが「会いに行けるアイドル」だった。

マスで満たすことのできない渇望の行き先、それがAKB48だったのではないか。


だから既存アイドルや他アイドルと比べて品質が低いとかどうとかいう批判そのものには、全く説得力がない。
AKB48は、そんなところを目指したアイドルではないからだ。
総選挙の仕組みからしてそうだが、ファンとの深い関係性がAKB48のコアなのである。

よく考えてみたらすぐわかる。
アイドルに対して興味関心を持たない人々の支持を得ることに一生懸命になっても仕方がない。
慈善事業でもあるまいし費用対効果として割りに合わない。
だから目指すべき基本路線は、「より多くの人達からより深い支持を得ること。」である。

これまでのアイドルはそのビジネスモデルがマスメディア戦略に偏重していた為「より多くの人達から」というところに比重が寄っていた。
しかし、AKB48は劇場から出発してマスメディア戦略に強く依存しないビジネスモデルを描くことができたため、「より深い」という部分を深堀することができたのである。

AKB48にとって「刺さるコンテンツ」であること、これが第一でなければならない。
だから、AKB48陣営にとっての課題は「より多くの人達に刺さるコンテンツになるためにはどうすればよいか。」ということと「今深い支持をしてくれる人達からもっと深い支持を得るにはどうすればよいか。」といことである。
「国民的アイドル」になることは目的でもなんでもなく、単なる結果に過ぎない。
そこは目指すところでもない。

「刺さるコンテンツ」の実現コンセプトが当初「会いに行けるアイドル」で、これには成功したが、今後の戦略をどう考えているか、これには注目していきたい。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

で、回りまわって大島優子さんがAKB48で1位争いをするほど人気のワケ。

「人気」と言うからわからないのであって「深い支持」と読み換えれば理解できる。
深い支持を得るタイプだから。



これだけだとちょっと物足りないので、ここで、ちょっと妄想族の一員として、軽く妄想してみましょうか。
(スピ系の適当コメントなので興味ない方は無視ってください。)

彼女は「漢」だ。
決して「男」ではない。
こだわる部分と捨てる部分の決断をしてきた、もしくはできる人という意味で、器用というよりも器量のあるタイプ。
だから、誰からも好かれる。
というのも、苦しいことや辛いことを知っているからで、一言で言えば「苦労人」。
現実と理想のギャップをどう解釈するかっていうところに人の有様っていうのは出るのだが、彼女の場合は、ネガティブ要素をプラスに転換するエネルギーがあるというのだろうか。
補って余りあるエネルギーが、器の大きさになって表れていて、一歩でないところで、一歩出せる人。
エネルギーの源がどこか。それは時間がかかりそうなのでまた今度だ。
かなり冷静な頭脳の持ち主で、頭は冷えていてかつ冴えている。
おそらくそれは社会的に鍛えられた部分で、でないとエネルギーを制御できずに精神的に乱高下しちゃうんじゃないかなと。
だから理性が衰えるとすっごい騒ぐか、反転して落ち込むかどっちかじゃないかなと推察する。まぁAKB48の中では年齢的にも上だけど「大人」だよね。
そこが一番の魅力なのかなと個人的には思ったりはします。

高田純次ばりの適当コメントなんだけれども。

[予告] 限定合理性と不確実性が織り成す人生の意味

2011-06-19 01:21:26 | ブログ情報(News Release)
リスク論 再考(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1345696.html

当Blogでもよく同じ話題を取り扱っているので、紹介します。
(AKB48ネタでも間接的に同様の主旨の議論を展開しています。)
人生や、社会を語るにあたって実に重要なテーマなのです。

人の限定合理性と、宇宙の不確実性。
人は、この両輪を相対性という軸で繋げて人生の意味をこしらえる。

時機を見て、議論を深めていきたい。

ここ2週間で書き上げたAKB48ネタ25記事

2011-06-17 13:06:03 | AKB48
総選挙に絡みましてAKB48ネタを相当数取り上げたので、一度まとめた方がよいのかなという気がしてきました。

とりあえず、ここ2~3週間で取り上げたエントリを下記に並べます。
埋もれてしまうので。
なんと25件もあります・・。

一番人気は『AKB48批判が全く的外れな件について イノベーションを理解できない日本人』ですね。
頂いたコメント数も他と違います。
ネットを徘徊していると、だんだんアンチの批判ロジックの癖がわかってきたので、それを踏まえてさらに更新したいと画策中です。

まだまだ磨きの足りないエントリばかりですが、気軽にコメント頂ければ嬉しいです。
自分自身では気づけない視点や、不足している点について勉強させて頂いております。


■総選挙

AKB48『Everydayカチューシャ』の出荷予定枚数が驚愕の200万枚

AKB48総選挙におけるビック・プレーヤの存在について考えてみる

AKB48批判が全く的外れな件について イノベーションを理解できない日本人

今一度、AKB48総選挙について語ろう

AKB48総選挙の結果を見て、これは国政選挙に取り入れるべきだと改めて感じ入った

AKB48総選挙 これは祭りです。

■批判を批判

AKB48総選挙でTV局を批判する記者だが、実は自分自身へのブーメラン批判であった

AKBオタに対して無意味な批判をするのをやめて、自省することをおススメする。

AKB48総選挙「票数はみなさんの愛です」を理解できない人は愛を理解できない。

なぜ私はAKB48に関心を持つようになったのか

AKB48のアンチはなぜ生まれるのか 「AKB48」と「原発」の類似性

私がAKB48批判を批判する理由  究極の理論を教えてほしい

ナイナイ岡村のAKB48批判があまりに厨二病である件について

■AKB48

「育てるアイドル」とアイドルの株式会社化

AKB48躍進の理由

AKB48が終わる日

■ 雑感系

AKB白熱教室 大島優子教授による講義

AKB48『Everyday カチューシャ』のPVを視聴してみた

AKB48「マジすか学園2」を見てみた。

AKB48「マジすか学園」を見て思った。「もしドラ」の次は「もしビジョ」でどうでしょう

AKB48『Everyday、カチューシャ』を耳にタコができるほど聴いて思ったこと

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AKB48×SMAP

「AKB48総選挙」×「批判」で検索したら当Blogがランキング上位だった(笑)

AKB48江口愛美のマーケティング だめだこりゃ

ナイナイ岡村のAKB48批判があまりに厨二病である件について

2011-06-17 10:10:38 | AKB48
なんだかみんな勘違いしているようなので、落ち着いてこの問題を考えましょう。

「舞台はエッチな店の様子連想させる」 岡村隆史ラジオでAKBに爆弾発言(J-CAST)
http://www.j-cast.com/2011/06/13098303.html

ナイナイ岡村のAKB48批判に対し、吉本に秋元康から「間に入りましょうか?」と意味深な電話がくる(2のまとめR)
http://2r.ldblog.jp/archives/5042252.html

まず、岡村さんは私情でAKB48はカチタレと批判しているわけです。
岡村さんから何ら根拠は示されておりませんし、裏を取っているようにも思えません。
岡村さんの考えを述べているわけですね。
それは、岡村さんが「おにゃん子クラブ」に裏切られたと思っているため、「今回のAKB48もどうせおにゃん子クラブと同じでしょ?」と言ってるわけです。

冷静になって考えてみましょう。
岡村さんの発言からは、岡村さんがAKB48に関する何らかの事実を確認している節は読み取れません。
「そういうことでしょ?」と言っているだけです。
あくまでイメージを語っているだけに過ぎないのですね。

だから、AKB48側とすれば、これは根も葉もない噂を元にした「名誉毀損」に相当しますね。
ジョークで言ったのならまだしも、何の裏もとらずにこれだけ確定的な言い方をされますと、AKB48側としてはたまりません。

各メンバーの所属事務所としては「訴訟」も選択肢に出てくるでしょう。

だから!
秋元康氏が「間に入りましょうか?」と吉本さんに助け舟を出しているわけじゃないですか。
それを「圧力」と受け取るアンチの頓珍漢ぶりにはあきれ返ります。


もちろん、AKB48のメンバーの中には、岡村さんが指摘しているような行為をしている者がいる可能性を否定することはできません。
どちらにせよ調査せずに結論は出せませんね。
しかし、AKB48全体として、そのような活動を行っているわけではないし、また推奨しているわけでもないわけですから、裏も取らずにレッテルを貼るのは非常にまずい。
その場合、岡村さんはAKB48の問題にするのではなく、そのメンバーの批判にしておかないといけませんね。

今回の件は、明らかに岡村さんの分が悪い。

賢い人なら、こう言うでしょう。

「そういうメンバーがいるとAKB48にとってよくない。」

これならAKB48の名誉を毀損しなくて済みますね。
バカとハサミは使いようですよ岡村さん。