進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

業の成ると成らざると

2010-03-31 12:45:10 | ビジネス
ソフトバンクの来年新卒採用の学生に向けた、孫正義氏による講演会がUStreamで公開されている。
(1週間限定公開らしい)

孫正義LIVE2011 2010/3/29
http://www.ustream.tv/recorded/5801731
http://www.ustream.tv/recorded/5802425
http://www.ustream.tv/recorded/5802937

孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし(その1)
http://kokumaijp.blog70.fc2.com/blog-entry-40.html

泣いた。

感動した

こともあるがそれだけではない。

悔しくて泣いた。

自分の不甲斐無さに

「ちくしょう。」これが私の本音だ。

まだ諦めてないが。

とにかく、このくらいブットンデないと大業は成せん。
孫正義は日本経済界最後のビジョナリストである。


道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、
志の立つと立たざるとに在るのみ。
(吉田松陰 17歳)

市場も国も信用していない日本

2010-03-31 10:30:06 | 社会
阪大の大竹文雄氏の最新著作が面白そうだ。
早速買って読んでみたいと思う。
後日、まとめてみたい。

「競争と公平感―市場経済の本当のメリット(大竹文雄)」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121020456?ie=UTF8&linkCode=as2&tag=blogsofdankog-22

競争忌避=協調忌避 - 書評 - 競争と公平感(404 Blog Not Found)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51423461.html


P. 7
大陸ヨーロッパ諸国とロシアは比較的市場に対する信頼が低い国だ。しかし、日本はその大陸ヨーロッパ諸国や旧社会主義国である中国やロシアよりも市場のメリットを信頼しない国なのである。

第一部のタイトルともなっている「競争嫌いの日本人」の証拠がこれであるが、「社会主義国よりも社会主義的」という揶揄がまた聞こえてきそうであるが、ちょっと待っていただきたい。次の図が、それをあっさり否定してくれる。

日本人は市場も信用していないが、国による再配分も信用していないのである。

P. 8
日本人は自由な市場経済のもとで豊かになったとしても格差がつくことを嫌い、そもそも市場で格差がつかないよいうにすることが大事だと考えているようだ。たしかに市場によって格差が発生しなければ、国が貧困者を助ける必要もない。


繰り返しになるのだが、この指摘は強烈に面白いし、日本の現状の本質をよく表しているので説明する。

日本は社会主義国家の人々よりも市場を信頼していない。
が、同時に国も信用していない。

国を信用していないから、国による再分配(セーフティネット)を信用せず、国の再分配に頼らないようにするために、市場で格差がつくことを嫌う。
市場で格差がつかなければ、貧困者になることはない。
だから、日本ではこれまでコミュニティ内で生きる限り安定を手に入れられるシステムを一生懸命に構築してきた。
そこから外れる者には絶望的な環境が待っているのだが、だからこそ、その恐怖を利用して強力な(長期的)互恵関係を築くことができたのだ。

ただ、市場で格差がつかなくても、市場全体が沈没すれば終わりなのである。
そこで、最近ではコミュニティ内に入れる人数を制限し、減少させ、既得権益者だけは助かる方針を採用しているのだ。
そこから、あぶれるのは常に弱者である。
コミュニティが大多数であるうちはいいが、これが多数派ではなくなった時、大転換が起きざるを得ない。
振り子は、振れ幅が大きいほど、その戻りは大きくなる。
その時に巻き返されて失う損失を考えれば、今、この時から、何らかの手を打つべきなのは誰もが理解できることだ。

郵政よりも先に民主党が破綻する

2010-03-31 02:12:41 | 政治
もはや冷静な判断力は期待できないようだ。
全国郵便局長会の集票力が100万に満たないのに対し、無党派層の数は3000万は下らない。
極一部の声を拡声されるのが民主主義バイアスでもあるが、こんな単純計算もできないようでは、今後も期待できない。
民主党には有能な経営者がいないことが問題のようだ。
このような組織は破綻するのが必定である。

あらゆる「システム」に等しくビルトインされている欠陥は、「システムそのものにはシステムが破綻する事が予見できない」ということだ。
破綻への道を歩んでいる時点で、既に終わりなのであり、だからこそ、その道へ進まぬようにすることが重要なのである。
オペレーションズ・リサーチの専門家である鳩山首相には釈迦に説法であろうが。
民主党システムも同様だったということに過ぎないし、また間違うことが民主主義であると同時に、間違いを修正できるのもまた民主主義のメリット(デモクラシーのコスト)である。

ある郵便局員からの手紙と全国郵便局長会
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1526289/


一言で言うならば、国民新党とその集票マシーンである全国郵便局長会(旧全国特定郵便局長会)との癒着です。その結果、表現は適切ではないかもしれませんが、郵便局が旧特定郵便局長会に乗っ取られたかような状態がまかりとおっています。このような内部の問題を報道する機関がありません。

そもそも、旧特定郵便局長会は自分たちの既得権益である賃貸料や世襲を守るため、郵便局のユニバーサルサービスを大義名分にやりたい放題です。報道機関も郵便局のネットワークを維持することが国民の総意と受け止め、内部事情を報道していません。


当Blogで述べてきたように、いつ誰がユニバーサルサービスの正当性に合意したのか。
確かに、人間にとって、結果の平等バイアスは非常に強い。
が、それを追求することが、人間にとって望んだ結果をもたらすかは別次元の問題だ。
「戦後世界経済史」(猪木武徳) にこうある。
(この本はとてもいいので、後日触れたい)


「平等」への情熱は一般に「自由」へのそれよりもはるかに強い。すでに手にした自由の価値は容易には理解されないが、平等の利益は多くの人々によってただちに感得される。自由の擁護とは異なり、平等の利益を享受するには努力を必要としない。平等を味わうには、「ただ生きていさえすればよい」のである。


小泉政権下で郵政民営化を推進した高橋洋一氏が、政策を無視した政局のみでの判断と指摘している。

「再国有化」郵政が歩む破綻への道(高橋洋一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/388

「郵政改悪法案」で 国民負担は1兆円増える(高橋洋一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/337

[つぶやき] やっぱ歌だよ

2010-03-27 01:02:57 | スピリチュアル
何回同じ話をしてんだよって感じですが・・人間酔っ払うと同じ話を何回もしちゃうじゃないですか。酔っ払ってないけど・・

人は本当に不思議だ

世界平和を願ったその後で、明日の100万人の命より、今日の愛する人の命が優先する

もし明日世界が滅んでも、今日を生きるのだろう

そのくせ、溢れんばかりの未来があるのに、今日命を絶つ


人は矛盾を内包していて、その矛盾を言い表すことができないという本態的な弱さを持っている
人は、人自身を完璧に語ることができないのだ
だから、あらゆることが無限循環する
生まれながらにして七転び八起きが宿命付けられている
絶望せずに済むのは、その循環がらせん構造であるからだ
当Blogのあらゆる議論の根底にある「進化」だ

弱さを語れるのは物語だけだと文学者はいうが、
私は、弱さを一番上手く表現できているのは歌だと思う
言葉を使っては表現できない心の奥に潜む想い、
人は存在しているだけで言語を遥かに超えている
現に音楽は国境も言語も人種も文化もあらゆるものを飛び越える
音が言語よりもっと根源的なものだからだ

歌手にならなきゃって意味じゃなくて、
歌のように語るべきなんだと思うんだ
共感経済とか贈与経済とか
それはもう物語ではなくて、歌なんだと思う
意味不明かもしれないけど
そういうことなんだと思うだな


一時期、私は合理で世界を変えられると信じていた
いくつかの宗教関係者に道場破りのように討論を申し込んでは
打ち負かすことばかりを考えていた
精神改革によって世界は変えられると、
馬鹿みたいだが、本気で考えていたのだ

でも、ある時に気づいた
誰もそんなこと望んでいやしないと

自分が何時間かけても理解してもらえないことを、
TVから流れてくるたった数分の歌が、理解どころか感動まで生んでやがる

これは笑うしかないだろう

そしてようやくわかったのだ
誰かを理解させることなんてできないんだと

その時に、ヴィクトール・フランクルの言葉が突き刺さった

人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。

自分の人生を決めれるのは自分しかいない
「自由」だ
それは全ての人にとって同じことなんだ
ある程度制限できても全ての「自由」を奪う事はできない

そこで思った

やるべきことは、この「自由」を開花するお膳立てをすることではないか
「自由」とは「可能性」のことに他ならない
それは制限され、狭く、小さく、暗い可能性かもしれないが、
人それぞれの「自由」を精一杯行使できるよう、支援することなのではないか

よく考えてみれば、人が快を得る時というのは、
この「自由」を謳歌している時ではないか
自由意志があるから、知的好奇心を満足することができるのだ

深入りすると決定論と非決定論との論争にはまるわけだが

[妄想] 地球全体近所計画 ハイパー・ウルトラ・メディア

2010-03-26 12:07:45 | 哲学・思想
久しぶりの妄想シリーズです。
前の「ハッピートレイン計画」は意外に好評でした。

アメリカでも年金問題がいずれ火を噴きそうな様子。

米国のソーシャル・セキュリティ・ベネフィット (Murray Hill Journal)
http://wholekernel.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MurrayHillJournal+%28Murray+Hill+Journal%29ソーシャルセキュリティの支給額が


納付額を上回ることになるのは、予定より7年も早まって、今年からそうなるらしいんである!

   ★   ★   ★

アメリカのシステムに詳しくない方のために、簡単に説明する。

ソーシャル・セキュリティの給付というのは、要するに、リタイア後に国から受け取る年金のこと。米国で仕事する者は全員、ソーシャル・セキュリティ番号を付与されて、その番号に対してせっせと給与から毎回タックスの形で天引きされ、積み立て続ける。

ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(SSN)を持っている者には全員、毎年、誕生日近くなると、関係省庁からステートメントが送られてきて、これまで自分のSSNには毎年いくら積み立てられて、引退後はいくらもらえる予定なのか、ということが明記されてくるんである。

支給開始の時期は、62歳から70歳までの間にどの年齢から受け取るかを自分で決められる。

※ もらう時期を早くすれば毎月払い込まれる額は当然少なくなる。


日本よりは柔軟な制度になっているのだな~と思う。


70年代の経済不振が尾を引いて、同プログラムは破綻寸前になっていた。その解決策には、①増税、②支給減額、③国庫からカネを引っ張ってくる、の3つしかなかった、とグリーンスパンは振り返る。政治的にもっともやりやすかったのは③だが、それをやってしまうと同制度はただの福祉に成り下がるとの懸念が出され、③はあきらめた。


「①の増税」と「③の国庫」は結局原資は同じ「税金」で手続き上の違いでしかないから同じだろうと思う。
そうすると、やっぱり原則的には「収入を増やす増税」か「支出を減らす減額」しかないわけで、しかもリンク先を読んでもらいたいのだが「 outlays will exceed revenue every year, no matter how well the economy performs.(経済がどんなに好調でも毎年の支出は収入を上回る)」とあり、この問題は単純な経済成長では解決できないようだ。

日本でも「福祉には強い経済がセットでなければならない。」ということは言われても、そもそも「福祉の維持が根本的に無理」という話は少ないようだ。
北欧諸国のように「高負担・高福祉」がよいという意見もあるが、最近ではスウェーデンの行き詰まりもクローズアップされるようになり、進むべき道は明らかではない。

そうなると、これは後日述べたいのだが、第2二次世界大戦後、世界中で起こった公共部門の拡大による国民の幸福度の追及は、根本的に難しいのではないか、という問いが起きる。
国家による福祉とは、つまるところ所得の再分配なのであり、所得の再分配では問題を解決できないということではなかろうか。
富の最適再分配を目指した方法論として市場を通じた交換経済というものがあるわけだが、交換経済という仕組みでは、人間の知性が不完全である以上、おそらく富の最適再分配を達成することは不可能であって、それゆえに最近幾人かの識者から贈与経済なるワードが流行っているのではないか。

個人的意見を述べるとすれば、おそらく贈与経済が世界的に機能するための条件は、地球が一つになることだろうと思う。
これは私が学生の時(だいぶ昔)に構想し、小論文コンテストで見事に滑った(たぶん、審査員に私の考えは理解できなかったのであろうが)「地球全体近所計画 ハイパーウルトラメディア(当時HTMLという技術が注目されていた時代であった・・どんだけ前やねんという話でもある、最近はHTML5まで出てきて・・とほほ)」と奇妙にも一致するのであるが、要するに地球市民全員が近所の人だったら協力し合えますよね、で、そのためにテクノロジーは何ができるんだっけ?という問題提起だったのである。
しかし、これより先、情報通信コストの低減と運輸コストの低減がいくら進んでも、コストを0にできない以上、やはり「距離の暴虐」の前に人間は屈せねばならず、人間が生ある存在である限りにおいて、贈与経済が地球規模で成立する時はこないのではないか、そう考えるのである。
このあたりは、生きるということがどういうことか、という難題とも向き合わねばならぬ問題であり、ここで答えを出すつもりは毛頭ないのだが、しかしながら、内田樹がいうように「クレバーな交換経済からファンタスティックな贈与経済」への移行といわぬまでも、バランスとしての移行は有り得るし、それを可能にする技術が生まれつつあり、それ以外に解はないのではないかという気がする。

つまり、富の分配についての最適解を求めるにあたって、国家では全くもって能力不足であるし、市場を通じた分配も国家よりマシだが最適解を見出すことはできない。
理想としての解は(最小単位の議論と仲介機能の議論はあろうが)、個人と個人を結びつける技術が成立した上での贈与になるのかもしれない。という意味だ。
「神の計算(無限演算)」を解くには、地球市民全員の脳がフル活用され、それが有機的に結び付けられなければらないという、実に観念的で空想的なお話なのである。

高度に進化した文明は、そういう生活を送っているのではないか。
たぶん、彼らは体を持たない。


もし、人類が体という物理的制約から解き放たれたら、どのような夢をみるのか

という壮大な夢物語があって、そこから進むべき道を模索せんとする試みなのだ。

飲み屋での肴としてのウケはよいのだが・・

郵政の舵取りを誤ると民主党は民意を失う

2010-03-26 01:55:37 | 政治
今騒がれている郵政問題だが、この問題の処理を誤まると民主党にとって命取りになるだろう。
このまま亀井大臣の言うとおり郵政の制度改革を進めると民主党は無党派層から愛想尽かされて選挙に勝てない。
自民党が郵政選挙で大勝したのも、民主党が政権交代を実現したのも、鍵を握ったのは無党派層である。
民主党のバラマキ・マニフェストに国民が揺らいだかのような言説がマスコミをにぎわしたが、実際にはそのバラマキ対象の有権者ではなく無党派層が結果を決めているのだ。
(考えてみれば当たり前である。日本には圧倒的に都市生活者が多いからだ。)

その無党派層の投票行動は、実はここずっと一貫している。
現状からの変革を主張する政党に投票しているのだ。
どういうことかというと、無党派層は積極的無党派なのであり、現状を打破してくれる政党に投票しているのだ。
そういう意味では、郵政選挙も政権交代選挙も同じ文脈で読めるのである。

それがわかっているから、民主党はこのまま亀井案を飲めない。
一方で国債の引き受け先として期待しているのかもしれないが、そのまま飲めるわけがない。
もともとの民主党案とも真逆ということが問題なのではない。
郵政に関する国民新党のアイディアが国民に合意されたことがないからだ。

大塚耕平氏が様々なメディアに出ては言い訳をしているが、苦しすぎる。
(かわいそうな役回りだなぁ・・と思うが)
彼の説明には致命的な欠陥がある。
郵政選挙で表れた民意をどう説明するかだ。

前々回の選挙で国民は郵政民営化を支持した。
しかし、前回の政権交代で郵政民営化を否定することを支持したわけではない。
まして、国民新党が主張する郵政のユニバーサル・サービスを支持した覚えは全くない
そもそも、何を根拠にユニバーサル・サービスが必要と考えているのかさえ、さっぱりわからない。
あたかも国がサービス強化することが善のような前提で話が進んでいるが、誰がその「前提」を認めたのか。
よりよいサービスが提供できるというが、そのサービスを求めている人がどれだけいるのだ。

小泉郵政改革が不完全なのは誰もが認めるし、ある程度の修正は行うべきである。
しかし、前に決めたことを勝手に変えていいのか。

国民新党の連中はそれを全く理解していない。
彼らの論理は国民が馬鹿でないと成立しないのである。
自分達の論理を正当化するために国民を馬鹿にしないといけないのだ。

なぜなら、彼らが考える通りに郵政を変えようとすると、前々回の衆院選で国民が郵政民営化を支持したことが説明づけられないからである。
自分達のやろうとしていることが民意と矛盾するのである。

それで彼らがどう説明したか?

「国民の皆さんは小泉の口車に乗せられて、あの時の雰囲気にやられてしまった。」
と説明している人達なのである。

「熱狂的な雰囲気に流されてしまった。」
と。
現状認識が全くできていない。

なぜ熱狂的になったのか、よく考えた事があるのか。
劇場政治だったからか?
でもなぜ国民は劇場政治に熱狂したのだ?
当Blogで繰返し説明するように「物語」が受け入れられるためには、その背後に「願望」がなければならない。
(昼ドラだって需要とマッチしてこそヒットするわけ)
その「願望」を理解しようとせず、平然と国民を下に見るのである。

馬鹿も過ぎると罪である。
「無知は罪か?」みたいな話ではない。
彼らは自分達の私情のために国民を利用しようとしているだけだ。
ここで郵政改革を変えたらしっぺ返しを食らうのは民主党だ。
亀井大臣を切る事は鳩山首相にはできないだろうから、誰かが止めるしかない。
誰が止められるか・・・菅氏、仙石氏、やっぱり小沢・・
しかし最後は人事権を持つ鳩山首相でなければ止められない。

となれば、今回の結末は、首相の人事権を持つ、国民(選挙)で決するしかない。

だが、不幸なのは・・
民主党に変わる政党がないことである。
こっちの方がずっと悲観的なのだが・・

[追記]
アゴラにコメントしてみました。

「官主党」に変質した鳩山政権 - 池田信夫
http://agora-web.jp/archives/965138.html

[私のコメント]
民主党にとっての最大の問題は、郵政の改革案の中身よりも、民意(積極的無党派層)の逆鱗に触れる可能性が高いという点です。

確かに、民主党はマニフェスト『33.郵政事業を抜本的に見直す』の中で「郵政事業における国民の権利(?意味不明)を保障するために」ユニバーサル・サービスに言及し「郵政事業の利便性と公益性を高める」としていますが、これ(マニフェストに書いてある,でも33番目)をもって郵政選挙に表れた民意を反故にするには無理があり過ぎます。
国民新党の人々が民意と矛盾している自分達の理念をどうやって正当化しているかといえば「国民は当時の熱狂的雰囲気に流された」という歪曲された認識であり、大塚耕平氏までこの論理に流されていることが情けない限りです。(彼は「よりよい民営化を進める」というが)
まず民主党は「郵政事業における国民の権利」の内容を問うべきです。極わずかな一部の人々のための権利である可能性が高いことを自覚すべきだと考えます。

中国は情報鎖国を目指す無駄な努力をしているのか

2010-03-24 14:52:33 | 政治
題名と内容に隔たりが・・気合の問題です。
内田樹は冴えてるな~

グーグルのない世界(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/03/24_0728.php


「グーグルが存在しない世界」に中国が取り残された場合、それがこれからあとの中国における「知的イノベーション」にどれほどのダメージを与えることになるのか、いまの段階で予測することはむずかしい。


としながらも、


だが、この「事件」のよって中国経済の「クラッシュ」は私が予想しているより前倒しになる可能性が高くなったと私は思っている。
中国の経済成長はいずれ停滞する。
それは不可避である。
これまで右肩上がりの経済成長を永遠に続けた国は存在しない以上、中国の成長もいずれ止まる。
その成長をブロックする主因は、「知的イノベーション」の重要性を見誤ったことにある。


と中国の対応を切って捨てる。


中国の危機は「著作権」についての施策において予兆的に示されている。
ご存じのようにかの国においては他国民の著作物の「海賊版」が市場に流通しており、コピーライトに対する遵法意識はきわめて低い。
それによって、現在のところ中国国民は廉価で、クオリティの高い作品を享受できている。
国際的な協定を守らないことによって、短期的には中国は利益を得ている。
けれども、この協定違反による短期的な利益確保は、長期的には大きな国家的損失をもたらすことになると私は思う。
それは「オリジネイターに対する敬意は不要」という考え方が中国国民に根付いてしまったからである。
誰が創造したものであろうと、それを享受する側はオリジネイターに対して感謝する必要も対価を支払う必要もない。
国民の多くがそういう考え方をする社会では「オリジナルなアイディア」をもつことそれ自体の動機づけが損なわれる。
これは論理的には当然のことである。
「新しいもの」を人に先んじて発明発見した場合でも、それはエピゴーネンや剽窃者によってたちまちむさぼり食われ、何の報償も与えられない。それが「ふつう」という社会においては、「オリジナルなアイディア」を生みだし、育てようという「意欲」そのものが枯死する。
みんなが「誰かのオリジナル」の出現を待つだけで、身銭を切って「オリジナル」を創り出すことを怠るような社会は、いずれ「そこにゆかなければ『ほんもの』に出会えないものが何もない」社会になる。
「オリジネイターに対する敬意」を持たない社会では、学術的にも芸術的にも、その語の厳密な意味における「イノベーション」は起こらない。
イノヴェーティヴな人々はもちろんどこでも生まれるけれど、彼らは「中国にいてもしかたがない」と考えるだろう。
オリジナリティに対する十分な敬意と報酬が約束される社会に彼らは出て行ってしまう。
中国は欧米先進国のテクノロジー水準に「キャッチアップ」する過程で、緊急避難的に「オリジネイターに対する敬意」を不要とみなした。
そのことは「緊急避難」的には合理的な選択だったかもしれない。
けれども、それは社会生活の質がある程度のレベルに達したところで公的に放棄されなければならない過渡的施策であった。
中国政府はこの「過渡的施策」を公式に放棄し、人間の創造性に対する敬意を改めて表する機会を適切にとらえるべきだったと思う。
けれども、中国政府はすでにそのタイミングを逸したようである。
創造的才能を「食い物」にするのは共同体にとって長期的にどれほど致命的な不利益をもたらすことになるかについて、中国政府は評価を誤ったと私は思う。
グーグルの撤退も同じ文脈で理解すべきことだろう。


中国は今は先進国をキャッチアップすれば成長できる段階にあるので、オリジネイターに対して敬意を持たずに済むが、いずれ近代化が終われば「知的イノベーション」の創発を望むはずである。
しかし、オリジネイターを育む環境がない中国には「知的イノベーション」は起きぬという。


世界は情報を「中枢的に占有する」のでもなく、「非中枢的に私有する」のでもなく、「非中枢的に共有する」モデルに移行しつつある。
これは私たちがかつて経験したことのない情報の様態である。
そして、これが世界標準になること、つまり私たちの思考がこの情報管理モデルに基づいて作動するようなることは「時間の問題」である。
中国政府は近代化の代償として、情報の「中枢的独占」を断念し、市民たちが情報を「非中枢的に私有する」ことまでは認めた。
けれども、そのさらに先の「非中枢的に共有する」ことまでは認めることができなかった


中国共産党による統治システムを揺るがすと思われるものを排除したと。


グーグルの撤退が意味するのは、一情報産業の国内市場からの撤退ではない。
そうではなくて、ある種の統治モデルと情報テクノロジーの進化が共存不可能になったという歴史的「事件」なのである。
情報テクノロジーの「進化」と切断することがどれほどの政治的・経済的・文化的ダメージを中国にもたらすことになるのかは計測不能である。


内田樹の主張としては2点あるのかなと思う。
一つは「相応のコストを負担せずに利益を得る」ことの短期的利益と長期的損失。
もう一つは、権威とは情報であるということ。
前者もさることながら、後者は今後中国共産党がどういう態度で望もうとしているのか個人的に関心の強いところである。

グーグルを追い出して国内の情報通信インフラを全て抑えたところで情報鎖国が可能なのか。
(追い出すという表現は適切ではなくて、Googleを特別扱いしないということだが)
中国企業はビジネスはグローバルで行っているし、一般の中国人も海外に出ているわけだから、まず無理だろう。
共産党指導部とてどのみち不可避なことに取り組んでいることを自覚しているはずで、どのようにソフトランディングしようとしているか、そこが不確実性の高いところで予想が難しい。

衆議院を100人にすれば政局一辺倒も少しは緩和されるだろう

2010-03-24 10:56:52 | 政治
はてさて事態はどちらの方向へ傾くのか・・

小沢氏副幹事長解任撤回で梯子を外された小沢支持者達(木走日記)
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20100323/1269324953

この上記のブログは意味不明ですね。
小沢支持者だからといって、生方氏の解任を支持していると考える時点でおかしい。

当Blogでは一貫して小沢イズム支持(小沢一郎を支持しているわけではない)を貫いておりますが、私などは前回のエントリ「民主党の自民党化への流れは止められないのか」で述べたように、今回の事件は馬鹿な部下の暴走だと考えております。
そして、私は小沢一郎のすべきだった行動として「むしろ高嶋良充筆頭副幹事長を解任して、生方氏の解任を取り消すべきだった。」と考えております。


私としては、高嶋氏の気持ちもわからなくもない。
一生懸命に民主党をまとめていこうと奮闘しているところに、しかもただでさえ民主党は多くの問題を抱え頭が痛いところなのに、自分から民主党に貢献することなく、ダダをこねるばかりの無責任の輩が多く、いろんなものが積もってプッツンきちゃったんでしょう。
しかし、小沢は、筆頭副幹事長という立場に立つ者の振る舞いとして、そういう私情を優先した判断を許すわけにはいかないと考えるべきだった。
「泣いて馬謖を斬る」だけの覚悟が小沢にはなかった。
いや、たぶん、報告をしにきた高嶋氏の様相に鬼気迫るものがあって、あの小沢ですらその場では撤回させることはできなかったのだと思う。
小沢は流れに乗ってしまった。

これが上に立つ者としての失敗。
小沢の危機管理能力のなさ、人情を優先した結果だ。
そう、これはまるで太平洋戦争で、部下の暴走を止められなかった参謀達のようだ。
論理ではなく、人情で結論を決めてしまうと、最悪の結果を招く可能性が高い。
(その代わり人情で成功すると神格化され伝説となる。)
昔も今も、日本人のあり方は変わっていないなと再確認した。

小沢からすれば、もともと生方氏を解任する合理的理由などないのだから、この問題を収拾するために生方氏の留任を決めることは無茶ではない。
唯一の問題は高嶋氏にどう対応するかだけだが、しかし、この問題もたいしたことではない。

「ありがとう。党のためを考えてやってくれたことだとわかっている。私はあなたが党のために全身全霊働いてくれていることを理解しているよ。ただ今回は我慢してくれ。最初に報告してくれた時に適切な対応をとらなかった私の責任だ。もし、私のこの決断に納得ができず、あなたが職を辞するというなら私も辞める。一緒にやってくれないか。」
と言えばよいだけだ。
情には情である。

ただ、今回の事件は、このままでは民主党にとってマイナスにしかならないだろうね。

では、どうすべきか、当Blogの意見を述べようと思う。
まず、最悪なのが今回の一件が理由で政調会のような談合利権構造ができることと、小沢を幹事長から解任することだ。
マスコミが小沢解任世論をせっせと扇動しているが、小沢が幹事長を辞めて民意が戻るかといえば、そうはならない。
なぜなら、小沢が幹事長を辞めたら民主党が崩壊するからだ。
民主党のようなアマチュア集団が政権与党という座にありながら、魑魅魍魎に食い殺されなくて済むのは小沢がいるからだ。
小沢が権力の一元化を頑なに守るから、瓦解せずに済んでいるのだ。

ここは誤解せずに冷静に考えて欲しいのだが、今、民主党内も外も小沢一極支配に対する批判が渦巻いている。
政府に入っていない政治家の政策を反映する仕組みがないと、政調会を作れという人々は言う。
しかし、そういう人達が反映した政策というのは何だろうか?
政調会のような仕組みの話ばかりが出てくるが、こと政策の話は一切出てこない。
小沢を批判する人々はいても、小沢の政策を批判する人々は少ない。
いや、ほとんどいない。
そもそも理念なき政治家ばかりの民主党において、小沢に意見を言える政治家が少ないのは当り前である。
言うことがないのだから。

彼らがいうのは「議論する場をつくれ」である。
なぜか?
やるべきことがわからないからに他ならない。
やるべきことが見えている人は、既にものをいっているはずだ。
今文句を言っているのは、とりあえず政治家にはなってみたもののやるべきことがわからない人々という他ない。
彼らが持っているのは政策構想ではなく、単なる政治的配慮、いわば単なる陳情処理だけである。
(失礼極まりない記述で申し訳ない)

この「政策なき政党」の本筋を認識せずに、小沢批判をするのは筋違いもいいところだ。


民主党の今のあり方がベストだなんていうつもりは全くないが、「何を問題視していて、それが解決されるとどうなるの?」というところが全くもって議論から抜け落ちている。

今回の民主党のいざこざから見える本質的なことは、前回も書いたが政治家の数がそんなにいらないってことだ。
「国会が議論して決める場」なのには同意するが、もう少し生産的な議論をする場にする必要がある。
まず、衆議院の議員数を減らそう。
数に根拠はないが100人にしてみよう。
少なくても数の獲得競争にかけるコストを減らす意味はあると思う。

そういう意味で小沢はまず比例区の200を削って300くらいにすると言っていたので、やはり当Blogと同じ方向を向いていると思われる。
比例を削るより、選挙区を拡大する方が効果があると私は思うのだが。

[追記]
見方によっては「解任などされていない」という意見もありそうです。
なんにせよ、今回の騒動は小沢を批判したい人達のこじつけですな。
どの世界でもそうなのだが、批判される人ってのは理解されない人なんですよ。
マスコミは小沢について知らなすぎるのだなぁ・・

生方副幹事長解任という“誤報”で得をしたのは誰か?(上杉隆)
http://diamond.jp/series/uesugi/10119/

民主党の自民党化への流れは止められないのか

2010-03-19 21:08:00 | 政治
駄文、乱文申し訳ない。読み直してもいないがとにかくリリース

副幹事長の解任劇について私見を述べる。

まず、当Blogの「民主党の自民党化」で述べたように、これはマスコミの「小沢vs反小沢」シナリオ通りの展開だ。
民主党執行部に苦言をいいたげな民主党政治家を見つけてインタビューをやる。
インタビュー中に気持ちよくさせて反小沢論調をかもし出させる。
それに記事にしたり、放映したりして反小沢論調を創造する。
執行部は締め付けに走る。
締め付けられた方は当然反発するので、それを誇張して喧伝する。
するとまた執行部は締め付けに走る・・・の永遠循環のできあがりである。
反小沢派をたきつけて親小沢派にクビを切らせることができればなお上々だ。
そして、まさにシナリオ通りになった。

この次の展開も読める。
偏向報道や世論調査などを通じて「民意」を創造し、これを勝手に作った反小沢派に「民意」という御旗を掲げさせる。
反小沢派が民意をもとに小沢を倒す構図を作り、抗争を煽る。
見事、一級のワイドショーネタの出来上がりである。

こういうシナリオは初めからわかりきっているのに、民主党はアマチュア集団だからこれを理解できていない。
マスコミにおだてられて気持ちよくさせられちゃって、冷静な判断力を欠いている。
民主党のマスメディア対策があまりにも貧弱で、やられ放題なのだ。

それにしても、今回の場合は、高嶋良充筆頭副幹事長が馬鹿過ぎる。
完全にはめられた。
なのに自覚していないから、どうしようもない。

ここでは本来なら、小沢は勝手な行動をした高嶋氏を切るべきだ。
しかしながら、自分を支持する部下達を自ら更迭することは、たとえ独裁者であっても難しい。
小沢には「泣いて馬謖を斬る」ことができない。
自分が権力を維持できるのも、そういう部下がいるからであり、また、そんなことをしたら、自分の支持母体である親小沢派の信頼を失うからできない。
要するに、馬鹿な部下のせいで小沢の選択肢が急激に狭まった。
敵対しなくてもいいものが、部下が暴走してしまったがために敵になってしまうのだ。

最近の政治家には、大局を理解できず、組織の論理でしか動けない小人が多い。
これは人間の悲しい性でもあるが、今回の事件は官僚的組織によく見られる現象なのである。

官僚的組織で優先されるのは人でも組織の長でもなく、組織である。
そもそも組織は特定の目的のために創設されるわけだが、次第に目的が組織の生存・発展に変わる。
組織の生存・発展は目的のための手段であったはずなのに、いつのまにか逆転現象が起きる。
世に言う「手段の目的化」というやつである。

なぜこういうことが起きるかというと、(ずっと当Blogで解説しているのだが)人間が役割(意味)を求める生き物だからである。
しかも、その場その場で役割を求める。
10年後の意味よりも、今、この瞬間の意味の方が重いという、この非時間整合性の問題がどこまでも人間についてまわるのだ。

組織の構成員になれば、その場の役割というものが生まれる。
初めは目的を共有していた構成員達も、次第に役割に没頭するようになる。
いつ実現するかわからない目的よりも、今、この瞬間に達成する目的(役割)に集中してしまうのだ。


だから短期的に目的を果たせるような燃えている組織というのは、組織員みんなが最初の目的を共有していることが多い。
目的を実現するまでの道のりが見えているから、目的がずれは小さくなる。
長期的で漠然としていて、非現実的な目的を立てている組織は、あっという間に崩壊する。
これが、組織の寿命説の要因である。

権力系統を統一し、組織的な動きを強めようと思えば、当然個人の裁量を制限する必要が出てくる。
すると、与えられた役割をこなすことが各人の仕事になる。
これで官僚的組織の出来上がりである。
あとは、自分の役割をこなすだけである。
人はこうなると、鬼にでも悪魔にでもなれるのだ。
組織の論理が優先するのである。

そういう意味で、小沢が派閥政治を脱却するために権力の一元化を目指したことによって、こういう官僚的政治家が生まれるようになる。
官僚的政治家は国民から勘違いしていると思われても、それが組織のためなら粛正でもなんでもやるのだ。

しかし、これはトレードオフで、完全な解など存在しない。
政調会など作ったらそれこそ政府と党の二元政治への逆戻りのリスクもある。


私は、この問題を緩和するためには政治家の数を劇的に減らすしかないと考えている。
衆議院は100人でいいと思う。
100万人に1人でよいのだ。
そうすれば政治家の意識も「地域の代表」から「国民の代表」へと変われるだろうし、今よりも政治家一人ひとりの裁量が増え、無駄な数の闘争は減る。
政治家が減った分スタッフを増員すれば、より洗練された政策議論も行われるだろう。

地域のことは、地域行政でやればよい。
地域のことを国でやる合理的理由がそもそもない。
日本の地方行政のレベルが低いのは国会議員の数が多いからなのもあるだろう。
(イコール国でやることが多すぎる)
そのためには地方自治体への権限委譲(徴税権含む)が当然含まれる。
なので国会議員の数を減らすだけでは片手落ちであるが、そういう問題意識を持つことも重要ではないかと考える。

よくよく考えて欲しいのだが、政治家がみなさんのお役に立っているとき、政治家は頼りになるな~などと考えてはいけない。
それは政治家のために仕事つくってあげているということである。
逆から利用されていることを忘れてはいけないのだ。
これは典型的な支配の構図である。

と、いうことで、とにかく今回のことは部下の暴走。
そしてその原因は官僚的組織にある。
しかし、それは小沢が権力の一元化にこだわったせい。
そして、国会議員の数を減らせばこの問題は緩和されるだろう。

「Sony + Google」は可能か

2010-03-19 10:12:55 | ビジネス
Apple と Googleの最終戦争 - Sonygleの誕生か (渡部薫)
http://agora-web.jp/archives/960941.html

こんな記事もある.

グーグルとインテルとソニー、「Google TV」デバイスを共同開発か--米報道(CNET)
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20410610,00.htm

いい!とてもいい!
Sonygoleはナイスな視点です。
でも多分、買収するのはGoogleだろうから「Goony」かもしれませんね。
Google Japanの社長はSony出身の辻野氏だから、彼個人の野望としてのSony買収もあるかもしれませんね。
買収すれば自分がSonyの社長になれるじゃないですか。
もし実現すれば、異例の返り咲きですね。
まぁ、今更Googleに比べて鈍重なSonyに魅力を感じているかわかりませんが。

書いてある内容は、当Blogで「SCE解散から読み解く日本製造業の未来」で書いたものと同じす。

当Blogでは、アメリカ側のアーキテクチャと日本製造業のエンジニアリングが融合すれば、これは強いと述べました。
リンク先のページでは、Appleの対立軸としてSony+Googleの必然性が生まれるという説明になっているが、ほぼ同じ内容といっていいでしょう。

ただ、Googleの立場からしてみれば、Sony全体を買収するのはあまりにも重過ぎる。
大量の資産を抱え込まなければならず、リスクが大きい。
しかも、ソニー自身が台湾メーカーの活用などによりハードウェアから離れようとしているこの時期に、GoogleがSonyを買収するメリットはない。
Googleが欲しいのはSonyのデザイン力とコンテンツだけです。
そして、それはSonyにとっても同じなのです。

(もちろん有効資産を活用することを前提ですが)
つまり、Sony自身がGoogle化しようとしていて、古いSonyを捨て去りたいと考えていると。
だから、GoogleがSonyを買収するなら、Sonyを切り貼りする必要がある。
むしろ、SonyはSony自身を切り貼りできないからこそ、苦しんでいるわけです。
それを資本の論理でGoogleがSonyを切り刻めるか。
そんな大変な労力をGoogleがかけるわけがない。
現実解として有り得るのは、Sonyが破綻してからGoogleが部分的に買うか、SonyがGoogleを買収することだね。
でも、Googleはオーナー企業で買収できないだろうし、資本力からいっても無理。

だけれども、Sonyにとって日本の他の電機メーカーとくっつくより、Googleとくっついた方が価値はあるとは思う。
このウルトラCは可能だろうか。
結局、50%:50%のジョイント・ベンチャー作るのが限界ではないだろうか。
いや、是非それでやってもらいたい。
それが、日本製造業のため。

[追記]
こんなのもある

アップルとグーグルを財務諸表で比較する(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100305/213172/

市場原理から逃げたい人へ

2010-03-19 02:19:41 | 哲学・思想
誤解を招く表現でしたので題名を変更しました。本文中で「市場原理」と「資本主義」をごちゃまぜに使っていますが、あまり気にしないでください

モノの価値がどのように決まるか。

アダム・スミスが言った労働価値説からすると、費やされた労力だという。

後にはマルクスが継承する。

これに対して限界効用価値説がある。

モノの価値は市場で、消費者の評価によって決まるという。

消費者の評価とは何か?

有用性と希少性である。

役に立たなければ価値がないし、ありふれているものにも価値がないということだ。

限界効用価値説の観点に立てば労働も商品なのである。

役に立つ労働なら価値が高いし、誰にもできない労働なら価値が高い。

労働者の立場に立てば労働価値説を支持したくなる。

社会党や共産党などといった人々はこういう思想の持ち主だ。
(マルクスの時代は労働者の置かれている立場が劣悪だったので余計にそうだ)

だが、実際のビジネスは限界効用価値説に近い。

不必要に高機能な機能に価値はないし、誰にでも作れる商品に価値はないのである。

工業化(近代化)の時代にはがむしゃらに働けば報われただろう。

しかし、それは労働価値説が正しかったわけではない。

有用性と希少性の観点から、たまたま労働時間と価値の間に強い相関があっただけだ。

脱工業化(ポスト近代)の時代には、否が応でも、限界効用価値説の事実を突きつけられる。

と、まぁ教科書の最初に書いてありそうなことを述べてみたのだが、よく考えればすぐわかる。
そもそも、この宇宙に普遍的で絶対的な「価値」などない。
この宇宙は相対的で、我々は相対性から逃れることはできない。
我々は常に相対的な「価値」に直面している。
そして、この「価値」とは必要とするところから生まれる。

全ての「価値」は必要とするところから生まれるのである。
有用性も希少性も、必要とするから発生する価値である。


余談だが、如来や仙人が解脱するというのは、この必要性を脱却することである。
如来は必要とすることがなくなった状態、つまり相対性が必要ない、つまりこの世にいる必要がない存在なのである。
だから生きて悟りを開くなどというのは無茶難題である。

だから、もしあなたがグローバリズムに反対し、また資本主義に反対するのであれば、「必要とすること」から脱却しなければならない。
でなければ、限界効用価値説の「価値」の枠組みに絡みとられてしまう。
市場原理を否定したとしても、その対岸に何らかの「価値」を求めるのであれば、それ自体が既に「価値」の枠組みに捉えられているのだ。
「価値」を追い求める限り、資本主義を否定することはできない。

必要としながら資本主義を否定するのは、これは矛盾している。
仙人になる気持ちで、「必要としないこと」を心がけてみることが重要だ。
悟りを開くとはそういうことをいう。

実際にそういう人達もいる。
出家などして世捨てを行うのは、強制的に必要としない状態に身を置くためだ。
だが、生きている限り悟りを開くなど、不可能であるが。

部分的劣位を強調して危機感を扇動するのはよくない(韓国)

2010-03-18 10:32:42 | 社会
ろくに検証もしていませんが、部分的強調により危機感を煽るのはやめましょう。リンク先と後半の内容は関係がありません。リンク先の問題提起を否定しているわけでもありません。題名を変えました。


[ゴーログ]日本は韓国に30年遅れている(木村剛)
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/30-81ca.html

最近多いのですが、スポーツや企業の躍進だけをみて韓国の方が優れているかのごとき論説はミスリーディングだと個人的には思います。
私には外国人だとか日本以外のアジア諸国だとかなどを差別するつもりは毛頭ありませんが、総合的に見れば、明らかに韓国より日本の方が洗練された国だと思います。
両国の違いは、先進国とポスト新興国の違いなのです。

これはあくまでも日本と韓国を相対評価した場合の話ですが、日本の方が文化にずっと多様性がありますし、表現の自由もありますし、野蛮な闘争も少ないですし、総じて社会に様々な価値観が共生できています。
平たくいいますと、様々な人達が様々な価値観を追求する自由が日本の方が担保されております。
何か明確な基準があるわけではないのでイメージとして考えて欲しいのですが、日本は先進国で、韓国は先進国の仲間入りをしていないレベルです。
「ポスト近代」の問題に直面している国を先進国と呼ぶでもいいかもしれません。
そういう意味では日本はポスト近代国家を進む国であり、韓国はまだ近代国家を歩む国です。
(決して韓国を陥れている表現ではなく、韓国の方が政治的要因で近代化が遅かったというに過ぎない)

韓国にスポーツで負けているような印象を受けますが、スポーツ人口や国民全体でのスポーツ幸福度からして、日本が韓国に負けているとは到底思えません。
以前にも当Blogで問題提起を行いましたが、「スポーツの目的を何に置くのか?」という問題意識がないままに、スポーツに関して勝敗などつきようがないのです。
あくまでも国際大会で韓国選手に日本人選手が勝てないということでしかなく、スポーツで負けているかどうかは全く次元の異なる問題です。

(差別発言をしたいのではないのですが)
仮に北朝鮮の選手に日本人選手が負けたとしてください。
「北朝鮮のように少数英才教育を施せ!」って言いますか?
考えないですよねそんなこと。
「勝つ」ことがスポーツの目的に成り得るのは「ポスト近代国家」に到達していない、近代国家と新興国においてだけです。
「ポスト近代国家」における国家の役割は、「勝つことを目的として生きる自由を担保すること」であって「勝つこと」ではないのです。

このあたりの意見を聞く度に、国家観に対する問題意識の違いが如実に表れていて面白いと思います。
多くの日本人が未だに時代の流れを掴めていないことが読み取れるのです。
日本人の多くは日本が未だに「近代国家」だと考えており、バブル以降、失われた20年の間で、日本が構造的変化に飲み込まれていて、その対応が遅れていることを理解していないのです。

「この宇宙にいる限り、常に変化の波にさらされる脅威(つまり相対性)から逃れることはできない」という根本的原理を忘れいてるのです。
日本人は自分達の考えが普遍的な価値観であるかのように勘違いしてしまった。
この辺りは内田樹の「日本辺境論」に詳しいのですが「日本人の強さは世界の中心が自分とは違うほかのところにあると考える辺境意識にあった」のに、日本人はうちにこもって世界の中心を自分達の中に作ったのです。
世界標準を創るということがよくわかっていないのに、自分達が世界標準であるかのように誤解してしまった。
これでは、時代の流れから取り残されて当然です。
この傲慢さこそが、日本の構造変化を阻む根本的問題です。

「世界と対峙していく必要性がどこにある?」
「自分達の幸せを築いていくことこそが大事」
「比べるところから不幸が始まる」
とおっしゃる人もいるでしょう。
私は、その考えを否定しません。
高尚な考え方だとも思います。
しかし、そうおっしゃるなら「韓国に負けて」などと思わぬことです。
私などは、辺境意識を捨て切れぬまま、世界の中心になろうとしている現在の状況は最悪だと思います。


彼を知り己を知れば百戦危うからず
彼を知らずして己を知るは一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば戦う毎に殆うし
(孫氏)


まず、日本人は傲慢にならず、己をよく知ろうとすることです。
己を知り尽くすことはできませんが、それでも知ろうとすることには非常に価値があります。
今の日本は孫氏曰く「彼を知らず己を知らざれば戦う毎に殆うし」な状態かと思います。

日本の問題については経産省が作成した「日本の産業を巡る現状と課題」がよくまとまっておりますので、是非ご一読いただけるとよいかと思います。

ただ、私には次の言葉が似合うようです(笑)


知る者は言わず、言う者は知らず (老子)


老子師匠には勝てません。


おっと、話がそれてしまった。
もともと主張したかったのは↓です。

部分的劣位を強調して、部分的にマッチョになろうとすると、全体のバランスを崩して生態系を破壊されるリスクが高まります。

核密約の責任を追及する愚

2010-03-17 12:02:14 | 政治
密約の認定と歴代内閣の責任(上脇博之)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51361022.html

いかにも日本人的発想。

密約問題で政治家や政党への責任を問う発言が多々出ているが、こういう事後的な責任を追及するのは全く本質的なことではなく、未来に対して何ら利益をもたらさない。
組織の安定的発展のためには「信賞必罰」が必須という意見もあるが、重要なのは「"みなが納得できる"評価の基準」を明確に示すことであって「信賞必罰(評価の基準だけを明確にする)」の方ではない。

あらゆることに言えるが、事前に成功するかどうかは誰にもわからない。
(未来予見能力を持つ人間はいない。いや、いる。でも普通はいない。)
厳密にいえば、あらゆる行為はギャンブルであり、賭けである。
しかし、そうはいっても、何をしても「ギャンブルだから許して」が許されてしまうと社会的安定に著しく悪影響を与える。
結果責任を追及する価値があるのは、社会的損失を招く無謀な挑戦の敷居を高くするためである。
ただ、無謀だからといって挑戦を禁止してしまうと、逆に社会には多様性が生まれず、停滞してしまう。
責任論の価値というのは、チャレンジしてもいいギャンブル的要素と、チャンレンジしてはならないギャンブル的要素は分けて考えようとする社会的試みの中で生まれる。

そういう発想に立ったとき、「核密約」問題で、歴代総理の責任を追及すると何かいいことがあるのか、疑問に思うはずだ。


歴代の(自民党)政権は、国民の「知る権利」という人権を保障しないどころか、ウソをつき続けて国民の「知る権利」を侵害してきたことになる。
また、主権者国民にウソをつき続け、主権者国民を裏切った、つまり国民主権主義を実質否定したことになる。
さらに言えば、主権者国民の知らないところで密約の内容が実行されたとなると、国家主権(国家の独立性)も侵害されたことになる。


この主張から歴代首相の責任を問うのは、情緒的には意味があっても合理性には欠ける。
国民の「知る権利」を守りたいと思うなら、本来議論すべきは「どうやったら守れるか」ということであって、「守らなかった人の責任を問う」ことではない。

こういう発想は日本の中で脈々と受け継がれている。
「腹を切って問題をなかったことにする」
日本人でも納得できないけど、そういう文化が未だに根付いている。

「誰かを罰することで問題をなかったことにする」
有り得ない。
だいたい誰かを罰したところで誰も救えない。

本当に目指すべきことは、罰すべき人をつくらないことだ。

過去に何度かブログにも書いたけれど、米国の「国家運輸安全委員会」の在り方を参照しよう。
事故原因の追究によって次の事故を未然に防ぐことが最大の目的であって、人を罰することは後回しにされる。
これこそが本来あるべき姿だ。


だいたい責任追及してどうしたいのよ。
何度もいうように、核密約があるのは前から国民はわかってたよ。
「どうせ密約あるんでしょ?」という態度だった。
なぜか?
密約があることを明らかにしたら、問題に対処する必要があるからだ。
「核の傘」に守られながら非核三原則でノーベル平和賞をとり、自衛隊という世界有数の軍隊を持ちながら憲法9条を世界に誇り、日米同盟によって軍事費を抑制していながら米国を批難するのである。
そういう矛盾と立ち向かいたくないから、国民はあえて先送りを選んでいたのだ。
誰も問題を本格的に解決しようだなんて考えていない。
問題の先送りは、日本人の特技の一つだ。

もちろん、メリット・デメリットあるけれど。

政治家の醜態は18禁

2010-03-16 16:06:36 | TV・書籍
「東京都青少年健全育成条例改正」を巡るコメントが面白い。

昨今の政治家の醜態は18禁にしてもいいくらいだ。
(漫画家 さそうあきら氏)

たしかに、教育効果としては最低レベルのものかもしれない。

でも政治家のみなさんはおっしゃるのでしょう。
それはコンテンツ(政治家)のせいではないと。

歌の力

2010-03-16 00:52:28 | スピリチュアル

言葉を尽くして想いを語ることの大切さは身に染みている

だけど、世界にはいくら言葉を尽くしても語り尽くせないことばかりが溢れている

自分の想いを十分に語る言葉も知らないで、どうやって人は物語を紡いできたのだろう

たぶん、それは歌があるからだと思う

人類は言葉よりも前に音を手にしたらしい

音楽は言葉ができるずっと前から寄り添ってきた

言葉のように細かくて表面的なものではなくて

音楽はもっと粗くて深いものなんだ

伝えられる情報は少ないけれど、分かり合えることはずっと多い

言葉が通じなくても伝えられるものがあるし

心に直接語りかけることだってできる

人の心に訴えかける力だけを考えれば

考えに考えた長編感動大作も、たった数分の歌にも勝てない

そういえば、偉人と呼ばれる名演説家が大衆に語りかけるその語り口は、

リズムよく、どこか歌に聞こえなくもない

自分がそうなんだが、人間については親や先生や友達より、

歌から学んだって人も多いんじゃないか

合理では語りえない、言葉と言葉の間から零れ落ちる想い

それを語れるのは歌だけだと思うんだ

教科書にはできないし、教えることもできやしない

人が理屈と理屈で伝えきれない、その想い

役に立たないけど、生きていくのになくてはならないそういうもの

人は、人間達は、そういう表現できないものと住み分けれると思ってきた

でも結局、やっぱり人間は不合理でしかなかった

そういう弱さを、そんなことさえうまく表現できない、

そんな弱さを受け入れる時期にきてるんだ



もし、社会を変えたいと願う人達がいたら、

その時は、人の心に直接訴えかけることさ

やっぱり人は感動でしか動かないし変わらないと思う

人が、自分の生に対して答えを出せるその日が来るまで

この答えは変わらないと思うよ。

少なくても私は。