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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

【ドウデモ】民間人だからってなに?

2012-06-06 10:52:24 | 政治
AKB48中心になってから政治ネタは語らないようにしているのだが・・あまりにもバカらしくてつい・・。

防衛相が民間人だから責任とれない?

正気ですか?

だったら政治家だったら責任とれるのか?

とれないだろう。

「責任」という言葉を知らんのだから話にならん。

責任というものは、事後に「とる」ものじゃなくて事前に考えることなのだよ。


「責任」とは何か?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6a6594e111f05bf1810b00879c926c1a


はぁ・・ため息しか出ないね。
まともな野党は育たないみたい。
残念だ。


強引にAKB48ネタに関連つけておく・・

ググタスに「自己責任」なんていらない (改訂版)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/ea163c37a131b7e9ce5290d16363a311


科学技術的センスとLNT仮説となんとか

2011-09-15 12:48:23 | 政治
※単なる個人の趣味レベルの読み物なので、時間のない方は無視してください。

私は放射線に関しても分子生物学に関しても全くの素人で、何の知見も持っていない。
素人は黙っていろと言われても仕方がないのだが、あえて言いたいことがある。

科学技術に関する「センス」についての話だ。
これは、科学技術教育を受けたことのある一人の人間として単純に思う、感覚的な話だ。
だから、何の参考にもならないし、多くの人にとっては無意味な発言となるだろう。
基本的には、自己満足のために書くエントリになるだろう。
しかし、もし、このエントリを読む中で、一人でも何かを感じる人がいれば幸いだ。

当Blogでは、3.11直後から多くの日本人は科学技術教育を受けていないので、
日常的に触れることのない想像し難い事象について理解することが難しく、
ゆえに不安に駆られて不合理的な行動をとると主張してきた。

数学や物理学をやったことのある人なら容易に想像できることだが、これらの学問は目に見えない事象を扱うことがほとんどだ。
微細なミクロな世界の話や、大きすぎて想像もできないマクロの話、3次元を超える多次元的解釈など、こういうものは理解し難い。
(単に小さい大きいといったものは認識できるスケールにグラフ化すればよいが、多次元マトリックスを2次元マトリックスに落とし込んでも一般には意味不明なように、膨大な前提知識なしに理解し難いものは多々ある。)
この種の問題を考察する能力は、原始の時代には人類には必要とされなかったため先天的には備わっておらず、後天的に教育によって磨くものだからだ。
そして、これらの科学技術をどう捉え、どう利用すべきなのかという科学技術倫理は、科学技術に関する歴史認識を通して学ぶ以外に方法はない。
そのような機会が、科学技術教育を受けずに育ってきた人たちにあっただろうか。

また、原始からの生存競争に最適化された人のバイアスは、リスクに関する合理的な評価も妨げている。
今、我々の眼に映る世界は、人にとってあまりに多様かつ複雑怪奇で、既にある思考フレームを利用しなければ立ち止まり悩み続けるばかりだ。
何らかの判断をする際に、なんらかの偏見を利用することは、多くの場面では実用性という観点では吉なのだ。

上記の観点より、当Blogでは、基本的に放射線被爆の問題は、科学の問題ではなく政治の問題であると主張してきた。
(科学的事実を明らかにする努力は必要だが、それとは別に政治的な問題として扱うべき問題でもある。)

そもそも、閾値なし直線仮説こと「LNT(Linear Non-Threshold)仮説」そのものが、十分に政治的要因によって設定された基準である。
LNT仮説に科学的根拠はないが、安全方向に倒しておいた方が無難という政治的配慮により採用されている。

トンデモと言われても、ドウデモと言われても結構なのであるが、
しかし、科学技術教育を受けるなどして、ある程度に科学技術的センスを磨かれた人なら、「LNT仮説」に首を傾げるに違いない。

「閾値なし直線仮説」という概念が、非常に非自然的なものだからだ。
(何度も言うが、政治的要因によって作り出された人工的な仮説なのだから、非自然的で当たり前なのである。)
唯でさえ直線を嫌う自然界で、そんなものが自然状態であるわけがない。
と、直感的に思うのだ。
(あくまで感覚的な話をしている。専門的な知識を基にした判断ではない。これは感覚的な話だ。)

一方で、閾値なし直線仮説(LNT仮説)のような「論理の単純化」は、物事を理解する上では非常に重要なツールではある。
我々は、論理の単純化によって複雑で難しい理論を、ごく簡単に把握することができるのだ。
例えば、地球上で物が地面に向かって落ちることは、非常に便利な論理の単純化だ。
実際には、重力に引かれて落ちるわけだが、その理論的背景など知る必要はない。
この論理の単純化によって「30階のビルから飛び降りれば地面に叩き付けられて死ぬだろう。」といったことが誰にでもわかる。

しかし、論理の単純化は「諸刃の剣」でもある。
理解しやすいことが過信を生み出し、かえって誤解を招くこともある。


淘汰と適応進化の観点から考えても不自然だ。

人類が生まれるずっと前から、地球上の生物は自然状態で宇宙や鉱物からの放射線を受け続けている。
放射線被爆に関してデリケートな生物は、おそらく地球上に生き残っていない。
弱い、もしくは運のない種は淘汰されるし、また生き残った種は環境に適応する。
(ダーウィンは「強弱ではなく環境に適応できない種は生き残れない」と言った。)
地球には、そういった環境に適応できない種が淘汰されるには十分な期間があったはずで、どちらにせよ、低放射線量で大きなダメージを受けるような種は生き残っていないはずだ。

他にも「健康」についての考え方として、純粋にダメージがない状態を健康と言うのは間違っている。
生きることが他社や環境と関わることを前提としている以上、生きることそれ自体はダメージを受けるのは必然なのである。
だから、病気や健康被害といったものと、うまく付き合っていくことを健康といわねば、地球上から健康な種は消えなければならない。
(存在できないものを目指しても仕方がない。)

健康被害をもたらす可能性のあるものは腐るほどある。
車、携帯電話、タバコ、酒、仕事、上司、配偶者、恋人、いつも強引に付き合わされる自慢話、etc...

単純にリスクとベネフィットによるトレードオフと言うつもりはない。
時と場合によって逃げることが必要な場合もあれば、うまく付き合っていくことがベターな場合もある。
何かの信念に基づいて我慢する時もあろう。
それが不条理かつ不合理だとしても。
問題は、社会や個人の目的や許容範囲をどこに設定するかであって、害があるかないかではない。
いや、社会構造によっては、その問いすら間違いなのかもしれない。
なりゆくままに、動的に在り方を変化させ続ける、という在り方もあるだろう。

話が少しそれてしまった。
いつもの悪いくせだ。
そして、語るのが面倒になってきたので、そろそろ結論づけたい。

そうだ。
科学技術的センスの話をしたかったのだ。

直感的に「LNT仮説」は不自然だと思う。
根拠なんかない。
直感的にそう思う感覚的な話だ。
これは物事を理解しやすくするための「論理の単純化」なのだと思う。

事故が起きるまでは、それでよかった。
放射線の健康被害を浅く理解するには、それでもよかった。
だが、実際に事故が起きてしまった今、物事は「論理の単純化」の域を脱する時期がきてしまったのだ。

で、センスをどうやって伝えるか。
カッコよさでないか。
「我々は、どこを目指して歩むのか」という、政治の問題なのだと、感覚的に思う。

自民党の断末魔が聞こえる

2011-09-14 16:48:19 | 政治
自民党総裁の谷垣氏が、衆院代表質問で「経産相辞任騒動における首相の任命責任を追及」とな。

あえて、そんな問題に触れなければならないほど話題がないのかね。
自民党には。

第百七十八回国会における野田内閣総理大臣所信表明演説
http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/201109/13syosin.html

周回遅れで自民党政治に追いついた。
日本の政治は「立法」「行政」「司法」「メディア」の4権の相互依存(擦り合わせ)型アーキテクチャとして最適化されているため、政権交代によって「立法」部分だけ取り替えても、うまく機能しない。
あえて例えるなら、システム全体の構造を全く変えずにアプリだけ入れ替えるようなもの。
それでは、狙った効果を発揮できないことは、当然といえば当然である。

だから、制度設計をやらずに、どの政党が政権についたところで、自民党の55年体制的なものに収斂する。
しかし、逆に言えば、これで自民党は存在意義がなくなったとも言える。
個別の政策における差異はあるだろうが、政権選択において有意なほどの違いにはならない。

自民党は見事に無効化されおったわい。

>あえて、そんな問題に触れなければならないほど話題がないのかね。
自分にブーメランで返ってきそうなことではある(笑)

民主党政治という夢の崩壊

2011-09-08 14:50:20 | 政治
それは夢であった。
しかし、それは所詮、夢であった。
単なる夢であったのだ。

民主党政治の崩壊(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/09/post-1082.php

ようやく民主党は周回遅れで自民党に追いついたのだと思います
つまり、民主党はやっと自民党とスタート地点に立ったということです。

国民が政治的無関心によって政治にコストをかけなかったため膨れ上がった政治的負債を、ようやく返済し始めたところなのです。
長い、ながい道のりの、そのスタート地点に立ったのです。


知らず知らず 歩いてきた細く長い この道
振り返れば 遥か遠く故郷が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道地図さえない それもまた人生

ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏に 染まるだけ

「川の流れのように」(作詞:秋元康)

代表選挙をコンクラーベ方式にしてみたらどうか。

2011-08-29 13:40:31 | 政治
民主党代表選挙。
大方の予想通り決選投票へ。
初めから決選投票を織り込んで選挙活動やっているのがどうも打算的だなと思う。

いいこと思いついた。

代表選挙をローマ教皇の選出方式であるコンクラーベと同じ方式でやったらどうだろうか。

決選投票ではなく、2/3の賛成票を得る者が出るまで投票を繰り返す。

過半数なんてぬるいことやっているからだめなんだ。

コンセンサス取れる結論出るまで政策と合意を磨く仕掛けが必要だ。

部屋に2~3日こもって膝つき合わせて納得いくまで議論したら、多少は真剣に議論する機会が増えるんじゃないか。

気持ちが真剣じゃないといいたいのではなく、異なる意見の人達と向き合って議論する真剣勝負の機会がないと言いたいのだ。

政策競争ではなく、理念

2011-08-27 15:18:48 | 政治
私は昨日↓このように書いたのだが

民主党代表選挙で感じる「挙党体制」というワードへの違和感
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/dd7c9e59214337d0542f2870bbbc2791

小幡さんが↓こう書いていた。らしいなと思う。

民主党代表選挙 政策はいらない(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1374610.html

両者は違うものと思われるかもしれないが、案外同じことを言っている。
小幡さんは以前から政策議論よりも組織として真っ当であることが重要と言っている。
実は、当Blogでもずっと同じことを言っている。
なぜなら、私はビジョナリーカンパニーの信奉者だからだ。

正しい政策、戦略を目指しても無駄である。
正しい理念がその前になければ全てが徒労に終わるのだ。
組織にとって決定的に重要なのは、まず第一に理念と人材なのである。
ドラッカーも人材に関しては唯一組織の力ではどうしようもない資質として真摯さを強調している。

そういう意味で、私は政党が競争すべきものは「政策」ではなく「理念」だと思っている。

【ドウデモ】 小沢支持は過去のことにしてしまいたい

2011-08-27 11:25:23 | 政治
小沢さんが海江田さんを支持だって?

・・・なんで?

自分を重宝してくれるから?

本当に小沢一郎本人が海江田万里を支持すると言ったのか?

やる気あるんですか。
適当言うくらいなら何も言わない方がマシですよ。小沢さん。

当Blogでは過去に小沢支持を強烈に打ち出していたのだが、もう過去のこととしてしまいたい。

民主党代表選挙で感じる「挙党体制」というワードへの違和感

2011-08-27 00:44:34 | 政治
民主党代表戦で候補者みんなが「挙党体制」と言うのに違和感を感じる。

自民党時代には挙党一致を言う意味は大いにあったと思う。
官僚内閣制だったので、政治は政権与党の体制が挙党一致で維持されることが重要だったからだ。

しかし、民主党が挙党一致を主張する意味がどこにあるのか。
内容の良し悪しは別としてマニフェストという政策を掲げて政権交代した政党が民主党でなかったのか。
マニフェストを変更するしないはあるだろうが、民主党が分裂しないように政策を練り直すという意味だろうか。
つまり、自民党時代の政治に戻るといいたいのか。
民主党にとっての自己否定ではないのか。

初めからそういう要素はあったというか、そうなることは見えていたという意見には同意するのだが、どんどん泥沼にはまっていくように見え、そしてそれが全く軌道修正されそうにないところからみて、組織の論理の力強さを感じずにはいられない。

ドラッカーは組織は人の強みを伸ばし、弱みを無効化するためにあると言ったが、政治の世界を見る限り、逆の効果を発揮することが多いように思う。
ということは、やはり政治関連組織のあり方がそもそも誤っていると考えざるを得ないと、まぁ単純には思う。

時は今、戦国時代

2011-08-22 14:29:22 | 政治
民主党代表選挙の話がイマイチ盛り上がりに欠けるようですね。

デーブ・スペクター氏が「大連立ではなく大乱立」とつぶやいていましたが、時代は有力諸侯のない戦国時代へと突入していくように見えます。
実は当Blogでは2010年1月7日のエントリで民主党による政権交代を室町幕府の崩壊過程になぞらえて「これから始まるのは戦国時代だ」と主張していたのです。
当時は明治維新となぞられる識者の多い中、私は「いやいや違う、これは室町幕府が崩壊して戦国時代へ突入する方に似ている」と言ったのでした。

[妄想シリーズ] 群雄割拠の時代
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/87de3437a939870ca78def2a8290031b

鳩山首相が民主党による政権交代を「無血の維新」に例えたことで、現状を幕末に例える論者が多いように思います。
今はまだ公武合体の段階だとか、維新前夜だとか。

しかし、私が思うに、現状に近いのは室町幕府が力を失って下克上が置き始める戦国時代前夜であると思います。


この動乱をおさめて天下統一を果たすのは坂本龍馬ではなく、織田信長です。

中国の高速鉄道事故の問題は技術やノウハウの問題ではない

2011-07-28 22:01:10 | 政治
繰り返すけれども、中国の高速鉄道事故の問題は、技術やノウハウ、システムの問題ではない。

よく考えてみて。

じゃ日本から運用ノウハウを提供しましょうと。
総合的なパッケージで提供しましょうと、なったとしましょう。

それで事故なくなりますかね?
なくならないよ。

なぜか?

一人ひとりの意識の問題だから。
知識だけで解決できる問題ではないのだ。

一人ひとりの意識が変わらなければ、いくら技術やノウハウを教えてもらっても、その意味を理解できないし、全てを継承することなんてできないのだから、必ず漏れ、抜けというものは発生するものなのだよ。
安全に関する考え方が少し違うだけで、安全に関する意識をする時間が、社員が1万人いれば、組織全体で1年間で200日×8時間×1万人くらいの差が出るわけですよ。
かなり適当な計算だけれども。
普段からの対応もさることながら、マニュアルにない現場対応などの場面で圧倒的な差になるわけ。

だから↓これの問題。

中国の高速鉄道事故に関する報道について
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d18b5e38ee13c12e6e92a8f12380dcef

中国政府はこの問題を解決しようとすればするほど、共産党として苦い方向にふれなければならなくなる。

この勝負、菅直人の勝ちっていうか初めから勝負にすらなっていない圧倒的勝利

2011-06-24 12:33:30 | 政治
今更言うことでもないですが、呆れ返るほどの無策ぶりに痺れを切らしてしまいましたので、少しモノを言わせてください。

菅直人が辞めると言ったが辞めない状況について、多くの識者が「コンセンサス社会の日本では裏切り行為は自殺行為なのだからして、菅直人は実質的に辞職したも同然。」みたいな論調を飛ばしておりました。一方、私はこちらのエントリ『小沢の無策ぶりに驚いた。日本の夜明けは近いかも。』で、いやいや攻める方が無策すぎてダメダメ、これでは菅直人を追い込めないと書きました。


その後の展開を見ていますと、浜岡原発議論よろしく菅直人に「再生可能エネルギー」を人質に取られてしまいまして、追い込む側は打つ手を失った感がございます。
(『悔しいが菅直人の術中に嵌らざるを得ない 浜岡原発議論停止』)
このような玄人的展開に「さすが菅直人。稀代の反権力ポピュリスト政治家だ」と評価する向きもございまして、現状、優位に立っているのは民主党の反菅派でもなければ、自民党でもなく、完全に菅直人です。残念ながら、菅おろしに精を出せば出すほど追い込む側は自分の首を絞める展開になるでしょう。

なぜ、菅直人の優位が揺らがないのか。理由は非常に単純です。こちらのエントリ『見てるのも辛いので、民主党を楽にさせてあげなければ』で書いたように菅直人おろしの根拠が「無能なリーダーが総理大臣であることは日本にとっての損失であるからして、菅直人を即刻辞めさせなければならない。」というものであるならば、当然ながら「だったら次の総理は日本にとって損失にならない有能な者が就任するんだろうな?」という真っ当な質問に答えねばならないわけですが、これに回答できる者が誰一人としておらぬわけです。

要は「誰がやっても菅直人よりもマシ」とほぼ等価なロジックで一国の総理を失脚させようとしている人々がいて、一方に震災や経済縮小で頭悩ましている人々がいるわけです。この構図を見て、だれが前者に賛同しますか。するわけないのです。

というか、ここで久しぶりに当Blogの日本文化論を披露いたしますと、大多数の日本国民のみなさまは無意識的に自分達が直面する矛盾を非常に巧みに止揚しおり、その観点からすると、この騒ぎは所詮は祭りでしかないという受け止め方をせざるを得ない状況なのであります。

何かといいますと、日本人は「リーダーが・・」「総理が・・」みたいな話をしながら、その一方で実は全くリーダーに期待していないのであります。そもそも日本国民が、その歴史の中でリーダーに依存してきたのは、ほんの極わずか、米粒みたいなものでありまして、多くの日本人が「やっぱりリーダーがね・・」なんて話をしながら、内心では「とはいえ、リーダーだけの問題でもないし、やっぱり個々人がどう考えてどう動くかというのが本質的な問題だよね。」と実に冷静かつクレパーに考えているのであります。そしてこの個々人の自律的な意識の高さが日本国家の他国と比した時の強みなのであります。
(日本人が自律的な意識の高さを発揮できるのは限られた範囲内でのことですが)

では、なぜ日本人が「リーダーが!」「総理が!」みたいな話を好むのかといいますと、それは日本社会における「責任」のコンセプトに依拠しているのでありまして、どういうことかといいますと、もともと日本社会には責任を分散するシステムがビルトインされているのでございますが、この狭くて資源がなく自然災害も多いこの辺境弱小国家日本において、責任の明確化なんて切ないことをするよりも、責任を分散・緩和し、問題の解決について皆で和を尊び協力し合うことに全力を上げた方が皆が実によく生きられるということなのです。

で、ここから先がこのコンセプトの実に奥深いところなのでありますが、日本の場合、単に責任が分散されているだけではありません。実態として責任が分散されているにも関わらず、表面的にその責任を受け止める役割が組織ごとに定義されるのでございます。このあたりについては当Blogの人気エントリ『国家権力に対峙する方法について考える』をご参照ください。
長いので一部だけ引用します。

あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。

しかし、この両者には共通点がある。
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。

京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。

桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない。
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった。
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。

このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである。
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。

天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった。
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである。

「君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。

権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。

「空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。

そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。

そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。


実に巧みなシステムです。リーダーの責任なんて実はさほど重くも見ていないのに、リーダーが責任をとることで、自分達がコンプレックスを抱かずに済むのです。だから、リーダーは神輿に限るし、軽いに越したことはないのです。

そろそろ、まとめましょうか。
この観点から導出される結論、それは対論となる何のコンセプトも示さずに菅直人についてリーダーとしてだなんだと騒いでいる人々は、菅直人に「自分達が負うべき責任を全て引き受けろ」と言っているのであって、実に日本人的行動をしていると言えるということです。

換言すると、結局自分達では何もできない人々が、辞めろと言っているということです。
だから、菅直人のように相手に開き直られたらホールドアップになります。
もともと日本的責任コンセプトの中でしか通用しない理屈なので何もできず。

それが国民に見透かされているから愛想つかされているわけです。

同じ日本国民ですから!

【追記】

一方、自民党はというと。

自民、造反10議員への「氷代」停止 国会延長議決(asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0623/TKY201106230634.html

一夜明けて  私はなぜ会期延長に賛成したか(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/06/post-1036.php

私は以前から自民党の河野太郎と小泉進次郎を陰ながら応援している。
二人とも神奈川県選出の議員ということもあるが、それよりも私は二人について次世代を担う若手政治家としてその潜在力を認めている。
二人ともタイプは違う。
河野太郎は、割り切る力、つまるところ決断力と実行力がダントツにある。
私は河野太郎が推す政策の全てに賛成するわけではないが、割り切る覚悟があるという点で非平常時の宰相の器である。
彼に大きな裁量を渡して、上司に器の大きい人徳者を組み合わせれば、きっと大きな仕事をやってのけるタイプだ。
小泉進次郎は、馬力はないが謙虚さと柔軟性を併せ持っている。
その二つがバランス良く合わさると、大きな構想を描く素質になる。
彼自身、常に父親という見えない大きな壁に悩まされるであろうが、それが彼を育てるのも確かだ。
私は彼に期待したい。
いずれにしても二人とも次世代を担う器を持っていると思う。
私は二人を応援したい。

見てるのも辛いので、民主党を楽にさせてあげなければ

2011-06-20 16:02:50 | 政治
誰もがこれでは駄目だと思いながらも、それを止められない。

今、菅直人を辞めさせようと鋭意努力をされている人々は、本気で「菅直人が総理大臣である期間が長ければ長いほど日本の損失になる!」と考えているのか。
だとしたら正真正銘の馬鹿か、この逆境を跳ね除けるアイディアを持った大天才のどちらかだろう。

「日本の損失になるから」で辞めさせる以上は、当然ながら「日本の損失にならない人」を総理大臣にする目処が立っているのだろうか。
民主党の中を見渡す限り、そんな人物が存在するとは思えない。
今の状況下では、誰がやっても同じ結果になるのが目に見えている。
次で6人目だ。ロシアンルーレットで当たるまでやるのか。
(→ 安倍晋三 → 福田康夫 → 麻生太郎 → 鳩山由紀夫 → 菅直人 → ?)
それとも「少なくても菅直人よりもマシ」とか言って逃げるつもりか。

誰がやっても同じなら「人」の問題ではなく、組織の「構造」や「仕組み」の問題なのだと思わなければならないし、そうならば構造や仕組みの改善や改革をやらずに、人だけ変えてうまくいくわけないだろう。
日本人は、なんでもかんでも「人」の問題にし過ぎる。
世の中には「人」の問題にしても解決できないことが山ほどあるのに、どうしてわからんか。
(ヒューマンエラーは防ぎようがない)

よほどの事がない限り、もう民主党に次はない。
Chikirinさんは、だから残りの時間で総理大臣の席をたらい回しているだけというが、私は違うと思う。
私には破綻寸前の企業が努力する姿と重なる。
なんとか状況を改善しようと皆が身を粉にして努力することが、逆に破綻する速度を速めるのだ。

だから、現場で一生懸命動いている政治家は、国民生活のために必死に汗を書いているつもりでいて、「どうせ保身のためだろう?」とマスコミに批判されても、大部分の人達は自分の身を粉にして国民の為にがんばっているつもりでいるから、本人達は「政局」として見られることを嫌うし、そうではないと必死に説明するだろう。
原因は、環境が変わって努力する軸、パラダイムが変わっているのにも関わらず、視野が狭くそれに気づけないことだ。

「君達の努力は理解している。だが、がんばり方が間違っている。」
誰かがそう諭してあげないといけない。

営利企業なら破綻するか、もしくは株主が経営陣の刷新などで介錯可能だ。
政治の場合は、国民が判断することになるだろう。
国民が判断しないから政治が変な判断をしたり、官僚機構が暴走したりする。

早く、彼らのために彼らを楽にしてあげないといけない。

共産主義の夢、夏の夜の夢の如し

2011-06-08 10:52:46 | 政治
余命3年か?日本共産党が危ない(JBPress)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/9556

日本共産党が体制を維持する収益源を確保できず、苦しいようです。
一昔前に騒がれた「不景気と格差社会を背景に日本共産党の党員急増」というのは結果として嘘だったのですね。
新たに党員になる数よりも、離党する党員の数の方が大きいから、結果として減っているようです。

共産党ビジネスモデルもついには瓦解か。
100年前には世界最先端の近代思想であったのだが、もう過去の時代の遺物になってしまうか。
一時代を築いたという点を見れば、時代によっては説得力もあったということだろう。

いや、昔は人々の夢であった。
だが所詮は夢であった。
現実を変え得る力を持たない夢など、夏の夜の夢のように、感傷に浸るだけのものでしかない。

日本政治の最大の問題は「衆参のねじれ」ではない

2011-06-06 20:09:27 | 政治
参議院のねじれ問題について。

制度的に参議院が強すぎるというのは確かに言える。

解散がないからホールドアップ問題が起きる。

けれども、根本的な問題はそこではない。

衆議院が機能していないから「ねじれ」が顕在化するのだと私は考える。

小泉郵政解散の結果に参議院は屈服したではないか。

同じ自民党だからではない。

根本的に政治家は「民意」には抗えないからである。

「衆議院が民意を代表している」という現実感がないから、参議院は独自の判断ができる。

しかし、それは参議院議員が民意を代表しているという自負があればこそである。

確かに制度的な問題はあろう。

しかし、仮に制度的な問題を解決しても、日本の政治の問題を解決することはできない。

問題は参議院のねじれではなく、衆議院が民意を体現していない点にあるのだ。

いつも繰り返すように、憲法を改正して衆議院の形を変えよう。
下記は最近、池田信夫Blogにしたコメントです。

新しい政党政治の形にチャレンジするのはどうでしょう。
衆議院を百人にして選挙区を撤廃。得票数の多い順で上位百人が当選。比例はなし。首相は衆議院から選ぶ。事実上の首相公選制になると同時に、投票結果から民意が明確にわかるようになる。民意が政治家の頭数ではなく得票数で示されるので、多数派工作の質も変わるし、国民にダイレクトに政治に対する責任意識を芽生えさせる機会になる。何よりも国会議員の位置付けが地域の代表から国民の代表に近くなるので、国家レベルの人材が政治家を目指すようになるため、人の問題を解決する仕組みになる可能性がある。意識的な問題から国と地方の役割分担も進むと考える。
この場合、独裁をどう抑止するかという点において参議院の価値を見出だしたい。

小沢の無策ぶりに驚いた。日本の夜明けは近いかも。

2011-06-03 17:11:51 | 政治
ちょっとAKB48ネタをやり過ぎたので、他の話題もそろそろと。

茶番が終わっての戦評、あるいは菅直人さん辞任を否定し居直り宣言(切込隊長)
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2011/06/post-2758.html

オレに大臣やらせろ! オレも首相やりたい!!! (Chikirin)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110603

政権与党が民主党になってからというもの政治が面白すぎる。
趣き深いの方ではなくて、苦笑いや失笑を通り越して大笑いの部類。
本当の意味で政治がワイドショー化してしまった。

小泉内閣の時もワイドショー内閣だと揶揄されたが、実際にワイドショーだったのは基本的にマスコミだけだった。
それを良い意味でも悪い意味でも利用したのもまた小泉内閣だったのだけれども。

今回の件に関して言うと、攻める方もずいぶんとマヌケだったなということ。
当Blogではずいぶんと小沢イズムに賛意を表してきたが、もう小沢も老いたようだ。
なんだこの無策ぶりは。
不信任案が可決する情勢になれば、窮鼠猫をかむではないが当然ながら執行部も何らかの手を打つことが予想できたろう。

「負けて不思議の負け無し」ではないが、今回の敗北の原因は明らかだ。
そもそもの目的が間違っている。

「不信任案を可決させて菅政権を終焉させる」だから駄目なのだ。

「菅政権を終焉させる」であればよかった。

そうすれば「不信任案を可決させるぞ!」と圧力をかけて菅さんに辞任を約束させようが、不信任案が可決された辞任しようがどちらでもよく、どちらに転んでも非常にうまく事態を収束させることができたはずだ。
仮に菅さんが辞めると言ったのに辞めなかった場合でも、圧力をかけ続けることができる。

目的を誤っているので、菅さんが辞任を匂わせた段階で「"不信任案を可決させて"菅政権を終焉させる」という目的を失ってしまい、推進力を失ってチリヂリになってしまった。

バカである。

そもそも菅政権を終焉させることを目的とする自体どうかと思うが、間違った目的に間違った戦略を重ね合わせているのだから救いようがない。
あの小沢とは思えない失策だ。
小沢が画を描いたのではなく、担がれただけだと考える方が自然だろう。
以前から小沢の不幸は弟子に恵まれなかったことと書き続けているが、それ以前にもはや担がれるだけの印籠になってしまったのか。

こんな無策な連中が小沢シンパなのだとすると、官僚をコントロールする力もないだろうから、もう何も期待できない。
情熱だけあっても実行力がないのでは政治家として話にならない。
小沢一郎に期待するのももうやめた方がいい。

小沢の時代はもう終わった。

残念だが、日本の政治におけるこの不都合な真実を受け入れることが、新しい日本の夜明けに向けた第一歩なのかもしれない。