今更言うことでもないですが、呆れ返るほどの無策ぶりに痺れを切らしてしまいましたので、少しモノを言わせてください。
菅直人が辞めると言ったが辞めない状況について、多くの識者が「コンセンサス社会の日本では裏切り行為は自殺行為なのだからして、菅直人は実質的に辞職したも同然。」みたいな論調を飛ばしておりました。一方、私はこちらのエントリ『
小沢の無策ぶりに驚いた。日本の夜明けは近いかも。』で、いやいや攻める方が無策すぎてダメダメ、これでは菅直人を追い込めないと書きました。
その後の展開を見ていますと、浜岡原発議論よろしく菅直人に「再生可能エネルギー」を人質に取られてしまいまして、追い込む側は打つ手を失った感がございます。
(『
悔しいが菅直人の術中に嵌らざるを得ない 浜岡原発議論停止』)
このような玄人的展開に「さすが菅直人。稀代の反権力ポピュリスト政治家だ」と評価する向きもございまして、現状、優位に立っているのは民主党の反菅派でもなければ、自民党でもなく、完全に菅直人です。残念ながら、菅おろしに精を出せば出すほど追い込む側は自分の首を絞める展開になるでしょう。
なぜ、菅直人の優位が揺らがないのか。理由は非常に単純です。こちらのエントリ『
見てるのも辛いので、民主党を楽にさせてあげなければ』で書いたように菅直人おろしの根拠が「無能なリーダーが総理大臣であることは日本にとっての損失であるからして、菅直人を即刻辞めさせなければならない。」というものであるならば、当然ながら「だったら次の総理は日本にとって損失にならない有能な者が就任するんだろうな?」という真っ当な質問に答えねばならないわけですが、これに回答できる者が誰一人としておらぬわけです。
要は「誰がやっても菅直人よりもマシ」とほぼ等価なロジックで一国の総理を失脚させようとしている人々がいて、一方に震災や経済縮小で頭悩ましている人々がいるわけです。この構図を見て、だれが前者に賛同しますか。するわけないのです。
というか、ここで久しぶりに当Blogの日本文化論を披露いたしますと、大多数の日本国民のみなさまは無意識的に自分達が直面する矛盾を非常に巧みに止揚しおり、その観点からすると、この騒ぎは所詮は祭りでしかないという受け止め方をせざるを得ない状況なのであります。
何かといいますと、日本人は「リーダーが・・」「総理が・・」みたいな話をしながら、その一方で実は全くリーダーに期待していないのであります。そもそも日本国民が、その歴史の中でリーダーに依存してきたのは、ほんの極わずか、米粒みたいなものでありまして、多くの日本人が「やっぱりリーダーがね・・」なんて話をしながら、内心では「とはいえ、リーダーだけの問題でもないし、やっぱり個々人がどう考えてどう動くかというのが本質的な問題だよね。」と実に冷静かつクレパーに考えているのであります。そしてこの個々人の自律的な意識の高さが日本国家の他国と比した時の強みなのであります。
(日本人が自律的な意識の高さを発揮できるのは限られた範囲内でのことですが)
では、なぜ日本人が「リーダーが!」「総理が!」みたいな話を好むのかといいますと、それは日本社会における「責任」のコンセプトに依拠しているのでありまして、どういうことかといいますと、もともと日本社会には責任を分散するシステムがビルトインされているのでございますが、この狭くて資源がなく自然災害も多いこの辺境弱小国家日本において、責任の明確化なんて切ないことをするよりも、責任を分散・緩和し、問題の解決について皆で和を尊び協力し合うことに全力を上げた方が皆が実によく生きられるということなのです。
で、ここから先がこのコンセプトの実に奥深いところなのでありますが、日本の場合、単に責任が分散されているだけではありません。実態として責任が分散されているにも関わらず、表面的にその責任を受け止める役割が組織ごとに定義されるのでございます。このあたりについては当Blogの人気エントリ『
国家権力に対峙する方法について考える』をご参照ください。
長いので一部だけ引用します。
あの織田信長ですら手こずった1000年の歴史を持つ京都の面従腹背の文化は、明治以降に構築されたたかだが100年そこらの官僚機構よりも手ごわいかもしれない。
しかし、この両者には共通点がある。
そのことについて、前回の焼き直しだが言い回しを変えて説明しよう。
京都における天皇というシステムは、桓武天皇が奈良の平城京から平安京に遷都した時から、明治初期に東京へ遷都されるまでの間、いくつかの混乱期や荒廃期を経ながらも約1000年の長きにわたり維持された。
この実質骨抜き状態になりながらも1000年にわたり維持されたことは注目点である。
桓武天皇は、平城京における強大化した寺院系勢力を退けるために、既得権益者の抵抗にあいながらも京都への遷都に成功したが、その既得権益者が闊歩していた平城京が都であった期間はわずか100年にも満たない。
「権力は腐敗する」という言葉があるが、たった100年であっても天皇の地位を脅かすほど既得権益者の力は強大になる。
京都のように1000年という長期にわたって権力構造を健全に保つためには、工夫が必要であった。
それは権力構造を複雑にし外部の誰にも解けないパズルを構築すると同時に「表象としての絶対的な支配者」を認めないようにすることである。
このシステムは誰か1人が設計したものではなく、天皇システムの周囲にいる関係者のある種の防衛本能によって、それもいくつもの困難とともに長い年月がかけられ、少しずつ構築されたものである。
1人の人間が設計したものなら外部の人間にも賢ければ解けようものだが、数え切れないほどの者が幾世代にもわたって共同で作り出した複雑系システムなのである。
これは暗黙知的なものではなく形式知化できないほど複雑に作られた知であり、捉えどころがないのではなく全容を把握するのが難しいといった類のシステムである。
天皇システムが生き残るためには、権力構造が複雑なだけでは不十分であった。
なぜなら、その場合、相手を権力構造そのものに引きずり込まなければ効果がないからである。
システムの存在そのものを否定する集団には効果がない。
ここで出てくるのが「表象としての絶対的な支配者を認めない」ことである。
これは、目立つ、目立たないということではなくて、「実質として存在する」のではなく「名目として存在する」ということである。
「君臨すれども統治せず」の極意である。
これは良心でもなんでもなく、統治しないことで己を守るのである。
権力を狙う外部者は、実質的な権力を手にすることができれば満足するからである。
そういう形で征夷大将軍になったり関白になったりする人がいたのだ。
(織田信長はそれでも満足できなかったので消されてしまった。小沢一郎みたい。。)
だから天皇システムは名目として存在し、実質は他に譲るのが得策である。
端的にいえば「私(天皇)はお飾りで、実質的に偉いのはあなたですよ。」ということである。
「空っぽの有用性」で天皇の真空エネルギーについて触れたが、天皇が実質的に権力を持っていないということは、むしろ周囲に認知されて意味があるのである。
「みんな偉くないのを知っているのに、偉いと思っている。」ということが重要で、それがなんとも日本的なのである。
そういう体制を構築できた環境的要因については前回のエントリで述べているのでそちらを参照。
外敵の侵入に怯えなくて済む限り、名目的な支配者と実質的な支配者を分け、人々は名目的な支配者を崇めて暮らすことで無駄なコンプレックスを抱かずに済ませたというのが当Blogの主張である。
そういう意味で「象徴天皇制」という考え方は、本質的に昔と何も変わっていない。
実に巧みなシステムです。リーダーの責任なんて実はさほど重くも見ていないのに、リーダーが責任をとることで、自分達がコンプレックスを抱かずに済むのです。だから、リーダーは神輿に限るし、軽いに越したことはないのです。
そろそろ、まとめましょうか。
この観点から導出される結論、それは対論となる何のコンセプトも示さずに菅直人についてリーダーとしてだなんだと騒いでいる人々は、菅直人に「自分達が負うべき責任を全て引き受けろ」と言っているのであって、実に日本人的行動をしていると言えるということです。
換言すると、結局自分達では何もできない人々が、辞めろと言っているということです。
だから、菅直人のように相手に開き直られたらホールドアップになります。
もともと日本的責任コンセプトの中でしか通用しない理屈なので何もできず。
それが国民に見透かされているから愛想つかされているわけです。
同じ日本国民ですから!
【追記】
一方、自民党はというと。
自民、造反10議員への「氷代」停止 国会延長議決(asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0623/TKY201106230634.html
一夜明けて 私はなぜ会期延長に賛成したか(河野太郎)
http://www.taro.org/2011/06/post-1036.php
私は以前から自民党の河野太郎と小泉進次郎を陰ながら応援している。
二人とも神奈川県選出の議員ということもあるが、それよりも私は二人について次世代を担う若手政治家としてその潜在力を認めている。
二人ともタイプは違う。
河野太郎は、割り切る力、つまるところ決断力と実行力がダントツにある。
私は河野太郎が推す政策の全てに賛成するわけではないが、割り切る覚悟があるという点で非平常時の宰相の器である。
彼に大きな裁量を渡して、上司に器の大きい人徳者を組み合わせれば、きっと大きな仕事をやってのけるタイプだ。
小泉進次郎は、馬力はないが謙虚さと柔軟性を併せ持っている。
その二つがバランス良く合わさると、大きな構想を描く素質になる。
彼自身、常に父親という見えない大きな壁に悩まされるであろうが、それが彼を育てるのも確かだ。
私は彼に期待したい。
いずれにしても二人とも次世代を担う器を持っていると思う。
私は二人を応援したい。