もう2ヶ月前の記事だが、このモギケンの考えは非常に重要だ。
政治不信の問題も、経済の行き詰まりも、社会不安の問題も、その根っこは同じで、これなのだ。
当Blogでは以前からこのことを「スパイラルな進化」という言葉で表現してきた。
進化というのは、遅々として感じることもあれば、時に行ったり来たりと感じることもある。
我々は、幾世代にもわたって似たようなことを繰り返し、同じ過ちを経験しているかのように思えることもある。
しかし、同じ時、同じ状況、同じ情動が繰り返されることは有り得ない。
同じコトは二度と起きないし、同じものを感じることもできない。
全てがオリジナルなのだ。
似たようなことも、必ずどこかが違っている。
その変化が、時に切なく、辛いものであることもあるだろう。
だが、長い目で見れば、我々が進化の道にあることを理解できるはずだ。
終わりなき旅に辟易する時もあるだろう。
しかし、進化の道しか、我々に与えられた選択肢はない。
進化とは無限のスパイラルなのである。
震災以降(茂木健一郎)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/04/post-c5b2.html
震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。
震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。
震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。
ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。
ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。
みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。
自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。
政治不信の問題も、経済の行き詰まりも、社会不安の問題も、その根っこは同じで、これなのだ。
当Blogでは以前からこのことを「スパイラルな進化」という言葉で表現してきた。
進化というのは、遅々として感じることもあれば、時に行ったり来たりと感じることもある。
我々は、幾世代にもわたって似たようなことを繰り返し、同じ過ちを経験しているかのように思えることもある。
しかし、同じ時、同じ状況、同じ情動が繰り返されることは有り得ない。
同じコトは二度と起きないし、同じものを感じることもできない。
全てがオリジナルなのだ。
似たようなことも、必ずどこかが違っている。
その変化が、時に切なく、辛いものであることもあるだろう。
だが、長い目で見れば、我々が進化の道にあることを理解できるはずだ。
終わりなき旅に辟易する時もあるだろう。
しかし、進化の道しか、我々に与えられた選択肢はない。
進化とは無限のスパイラルなのである。
震災以降(茂木健一郎)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2011/04/post-c5b2.html
震災以降、何か気分が変わって、まだその中にいる。
震災前、ぼくは、日本の大学入試のあり方や、新卒一括採用のあり方、記者クラブ、それから、ルールやコンプライアンスを出来損ないの人工知能のように押しつける日本の社会のあり方について、大いに違和感を抱き、そのことを表明してきた。
震災が起こり、みながその対応にかかり切りになった。その時、ルールやコンプライアンスなどを杓子定規に当てはめることが無意味だとみなが気付いた。そのこと自体は良かったけれども、気付いてみると、依然として古い日本の制度は残り、システムは存在し、組織は続いている。
ぼくは二つの意味で無力感にとらわれた。一つは、いくら言葉を尽くしても変わらなかったのに、震災という外部要因であっけなく変わってしまったということ。それから、震災の後も、アンシャン・レジームは化石のように残り続けているということ。
ぼくは次第に、社会の中で意味のわからないシステムや組織が存続し続けている理由は、悪意よりもむしろ単純に「できない」のだと考えるようになった。記者クラブに頼る記者は、それ以外のやり方を知らないのである。ペーパーテストだけに頼る大学入試は、それ以外の手段を尽くす方法もリソースもないのである。新卒一括採用を続ける企業は、それ以外の採用の仕方を知らないし、できないのである。
みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。
自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。