■劇場というパラダイム
「劇場(theater)」と「理論(theory)」の語源は同じ「見ること(theoria)」だという。
劇場や理論は、「現実」そのものを表しているわけではなく、我々が見たい現実の一つの側面を「事実」として表すものであるが、私はこの部分を理解することで「劇場型政治」や「劇場型アイドル」、「キャラ化」といったものが、とりわけ日本で発達した要因がわかると考えている。
アメリカのエンターテイメントが圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了するのに対し、日本のエンターテイメントは演者と観客との共創関係においてその場限りの独自性を発生させ観客を、そして演者をも魅了する。
これは、日本の方が「我々が見たいと思うもの」を現実から都合よく切り出す術に長けているとも言えるが、一方では明確な評価基準を持たず、場当たり的にモノゴトに対応する「おっちょこちょい(一貫性がない)」だからとも言える。
上記については「一神教的合理主義」と「汎神論的経験主義」との対立構造で説明されることが多いように思うが、この件について考えるにあたって山本七平「『空気』の研究」を持ち出そうと思う。
(引用部分については筆者が都合よく改変、省略、強調しています。ご注意ください。)
■「空気」という妖怪
山本七平は、太平洋戦争末期に行われた特攻的な戦艦大和出撃について、こう述べている。
(大和だけで2,740名が戦死)
注意すべきことは、そこに登場する者がみな、海も船も空も知り尽くした専門家だけであって、素人の意見は介入していないことである。
米軍という相手は、昭和16年以来戦い続けており、相手の実力についても完全に知っている、いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知や
不見識、情報不足による錯誤は考えられないことである。
戦艦大和出撃については、まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行えないこと等を理由にこれを退けた。
したがって、理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合と違って「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となり得る客観情勢の変化、
それを裏付けるデータがない限り、大和出撃は論理的には有り得ない。
だが、そういう変化があったわけではない。
このことを明確に表しているのが、三上参謀と伊藤長官の会話である。
伊藤長官は、当然この作戦には納得できないとした。
第一、説明している三上参謀自身が
「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機機動部隊が跳梁する外界に突入させるということは作戦として形を為さない。それは明白な事実である。」
と思っているのであるから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずがない。
ともにベテランで、論理の詐術などで誤魔化しうるはずはない。
だが、
「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切り込み、ノシ上げて陸兵になるところまでお考えいただきたい。」
と言われれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。
そこで彼は反論も不審の究明もやめ
「それならば何をかいわんや。よく了解した。」
と答えた。
この「了解」の意味は、もちろん相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。
それが不可能なことは、サイパンで論証済みのはずであるからだ。
したがって、彼は「空気の決定であることを了解した。」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。
これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか?
「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようとは思わない。」
であって、いかなるデータに基づいてこの判断を下したかは明らかにしていない。
それは当然であろう、彼を「ああせざるを得なかった」状況に追いやったのは
「空気」であったからだ。
「空気」というのはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。
■「空気の支配」とは何か?
それは「虚構の世界」であり「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」である。
しかし、「虚構」の存在しない社会は存在しないし、虚構は人間を動かす大きな力である。
この「虚構の支配機構」をわかりやすくいえば、「劇場」であろう。
劇場は、周囲を遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人々は演技し、それが演技であることを演出者と観客の間で隠すことによって、「1つの真実」が表現されている。
※情況論理:内面的な状況によって決まる論理
たとえば、歌舞伎における「女形」は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。
「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている「劇場」という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で「空気」を醸成し、全体空気拘束主義的に人々を別世界に移し、その世界が人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になるのだ。
※臨在感的把握:物質やモノゴトの背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。偶像崇拝がこれに当る。
問題は、人がこういう状態になり得るということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかということと、この秩序を維持しようとするなら、全ての集団は「劇場の如き閉鎖性」を持たねばならず、したがって集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序で覆うつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。
鎖国の最大の眼目は「情報統制」であり、この点では現在の日本と基本的に差はない。
(幕藩体制、当時のクニである藩を跨ぐ移動を禁じたのも「情報統制」に主眼がある。)
この閉鎖性を野放しにすると、外部の情報を自動的に排除する形になり、その集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になっていく。
それは一種の超国家主義にならざるを得ない。
超国家主義とは元来「鎖国」を志向するもので、戦争はこれと対極的なす国際的な行為である。
太平洋戦争時、アメリカが相手を知る為に軍が日本語学校をつくり、全国から秀才を集めて日本語の特訓的教育をやるという発想が当然とされるのだが、日本は逆に英語を敵性言語と規定しその教育を廃止した。
現代の世界に外交なくして一国は存立し得ないから、虚構に立って先方との関係を樹立せざるを得なくなれば、一種の断絶状態に落ち込み、戦争になるか、もしくは外交的破たんから破滅する公算の方が多い。
■臨在感的把握とは何か?
イスラエルである遺跡を発掘していた時、古代の墓地が出てきた。
人骨や髑髏(しゃれこうべ)がざらざらと出てくる。
こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄しては墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶようになった。
それが一週間ほど続くと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人2名の方はおかしくなり、病人同様の状態になってしまった。
ところが、この人骨投棄が終わると2人ともケロリと治ってしまった。
この2人に必要だったことは、どうやら「お祓い」だったらしい。
骨は元来は物質である。
この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
したがって、この影響は非物質的なもので、人骨や髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表れるほど強かったが、一方、ユダヤ人には、何ら心理的影響も与えなかった、と見るべきであり、これが「空気の基本型」である。
臨在感的把握とは、物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける、言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態である。
明治の啓蒙家たちは、
「石ころは物質に過ぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのために啓蒙的科学的教育をすべきだ。」
と考えはしたが、
「日本人が、なぜ物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。それを解明すべきだ。」
とは考えなかった。
啓蒙家たちは臨在感的把握を野蛮として見たが、その姿勢は啓蒙的とはいえるが科学的とは言い難い。
■「空気」は日本特有の現象か?
「”空気”を英語で何と訳すべきか?」という問いに対し、山本七平はこう答える。
空気の存在しない国はないのであって、問題は、その”空気”の支配を許すか許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか、にあるだけである。
”KUKI”は、プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものと言えば、ほぼ理解されるのではないかと思う。
これらの言葉は古代の文献には至る所に顔を出す。
もちろん旧新約聖書にも出てきており、意味はほぼ同じ、ルーア(ヘブライ語)の訳語がプネウマ(ギリシャ語)でそのまた訳語がアニマ(ラテン語)という関係にもなっており、このアニマから出た言葉が「アニミズム(物神論)」で、日本では通常これらの言葉を「霊」と訳している。
しかし原意は、wind(風)、air(空気)である。「霊」というと日本語訳聖書の訳語は明治の初めの中国語訳聖書からの流用だと思われるが、中国語の「霊」には、日本語の幽霊の「霊」のような意味合いはないそうで、その場合には「鬼」を使うそうである。
訳語というのは難しいものだと思う。聖書の様々な試訳には、この語を「風(れい)」とか「霊(かぜ)」とかのルビ付きで訳しているものもあるが、このことが、この言葉の翻訳の難しさを示しているであろう。
原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・精・人のたましい・精神・非物質的存在・精神的対象などの意味にも使った。
また言霊の”たま”に似た使い方もある。
そしてそれらの意味を全部含めて原文を読むと、ちょうどわれわれが「あの場の空気では・・・」という場合の”空気”のように人々を拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」ないしは「呪縛」、いわば「人格的な能力を持って人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」の意味にも使われている。
人が、宗教的狂乱状態いわばエクスタシーに陥る、またブームによって集団的な異常状態を現出するのは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるとされている。
古代の文脈の中に空気(プネウマ)の意味を当てはめていくと、それはもはや古代の記述とは思えぬほどの現実味を帯びてくる。
彼らも、この非常に奇妙な「空気の支配」なるものが、現に存在することを知っていた。
彼らは霊(プネウマ)といった奇妙なものが自分たちを拘束して、一切の自由を奪い、そのため判断の自由も言論の自由も行動の自由も失って、何かに呪縛されたようになり、時には自分たちを破滅させる決定をも行わせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、「霊(プネウマ)の支配」というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきかを考えているのである。
一方福沢諭吉などの明治的啓蒙主義は「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。
ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯止めがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振るい出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。
戦艦大和の出撃などは”空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて”空気”決定なのである。
撮像禁止とか偶像禁止とかいうイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一部にある考え方の基本は
「物質はあくまで物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じてこれから影響をうけたり、それに対応したり、拝礼したりすることは、被造物に支配されてこれに従属することであるから、創造主を冒涜する涜神罪だ」
という考え方が基本になっている。
したがってそういう涜神を誘発しそうなものは「悪」であるから、これを排除する。
いわば臨在感的把握の絶対化に基づく”空気の支配”は「悪」なのである。
一体これはどういうことなのか。一言で言えばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。
この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。
こういった徹底的に相当化されてしまう世界では、空気が発生することは難しい。
この相対化が残すものは、最終的には契約だけということになる。
一方われわれの世界は、アニミズムの世界である。
この言葉は物神論と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は”空気”に近い。
従ってアニミズムとは”空気”主義といえる。
この世界には原則的に言えば相対化はない。
ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、あの対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる。
それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも、映った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという形になるから、確かに「おっちょこちょい」に見える。
■余談:日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
戦後のフィリピンの収容所で盛んに使われた言葉に「アタマの切り替え」という面白い言葉があった。これは簡単にいえば、情況が変化したのだから、その変化に即応し、その情況に適合するように思考・行動・所作などの一切合財を改めよということ、情況に対応し、新しい対象を臨在感で把握して回心をせよということである。
将官は収容所が別だったから不明の点が多いが、左官クラスともなると、大佐も少佐も同一収容所である。幹候少尉などは、はじめから軍人を演じさせられていた学生が多いから問題ないにしても、その生涯が軍人そのもので他の生活を知らない左官クラスともなると、簡単には「頭の切り替え」はできないと思うのが常識である。だが不思議なほどこれが簡単にできた。昨日までの連隊長は、役目が終わって舞台から降りた役者のように物分かりのよい好々爺となり、にこにこと人々に対応してくれるのである。従って尉官クラスや幹部候補生は、当然のように、すぐさま普通の市民に戻ってしまうわけである。時には例外的にそうなれない人間もいたが、そういう人が受けたのは「頭の切り替えのできてないヤツ」といった嘲笑と蔑視で、その人はその中で孤立していくのが普通であった。そして面白いことに、内地帰還が近づくと、また別の「頭の切り替え」が行われた。
これらの変化は実に変化自在で目を見張るようであったが、ある日私は、ホートンという米軍の一中尉から、全く予期せぬ質問を受け、ある種のショックを感じたのである。彼はハーバードかどこか相当有名な大学の出で、捕虜の将校などを集めて民主主義教育をやりたがる”悪癖”があり、その点でも他の点でも、あのころのアメリカの若いインテリを画に書いたような人物であった。当時私は収容所付属の木工場の通訳をしていたが、何かの用事でその事務所に来た彼は、例の”悪癖”を出し、私をつかまえて長々と進化論の講義をし始めたわけである。
私は少々ムッとした。彼は明らかに私が進化論を全く知らず、はじめて聞く「人間の先祖はサルである説」に驚愕するだろうと思い込んでいるのである。最初のうちは「仕方がない、PW(捕虜)としてのお付き合いだ」と思っておとなしく聞いていたが、相手の教え諭すような態度が少々アタマに来て「進化論ぐらいは日本では小学校で教えてくれる。日本は進化論裁判(モンキー・トライアル)が行われたアメリカほど未開ではない」といった意味のことを言ってしまった。ところが相手は私の言葉を信用しないのである。「全くアメリカ人ってヤツは・・・」とわつぃは内心で憤然とし、ダーウィンのこと、ビーグル号のこと、ガラパゴス島の調査がその端緒であったこと等をのべ、そんなことは「子供の科学」という少年雑誌で小学生のころに読んだと言った。
相手は驚いたらしい。しかしこれに対する相手の反応に、今度は私が驚く番であった。「では日本人は、サルの子孫が神だと信じ得るのか。おまえもそう信じているのか?」彼が、考えられないという顔付でそういったからである。この思いがけない質問に今度は私が絶句した。彼は、日本人はその「国定の国史教科書」によって、天皇は現人神であり、天照大神という神の直系の子孫と信じている、と思い込んでいる。確かにそう思い込ます資料が日本側にあったことは否定できない。そしてこういう教科書が存在する限り、進化論が存在するはずがない。これが彼の前提なのである。人がサルの子孫であると教えたということで裁判沙汰にまでなった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に進化論があるはずはないのである。確かにそう考えれば、進化論を教えるということは「現人神はサルの子孫」と教えることである。「人はサルの子孫」が裁判沙汰になる精神構造の国から来た者にとって、「現人神はサルの子孫」が何の抵抗もなく通用している国が有り得るはずがなくて当然であろう。結局彼は、日本では進化論は禁じられていたはずだと思い込み、天皇もサルの子孫だから神ではないと論証して私を啓蒙するつもりだったらしい。ところが相手が平然とそんなことは小学生でも知っていると言ったため、何とも理解しかねる状態に落ち込んだわけであった。
彼の講義癖の被害者はずいぶんいたが、そういう場合、当時の収容所の日本人はほとんど抗議も反論もしなかった。もっとも進化論の講義をされたって、これに反論する日本人などいるはずがない。至極ごもっともなこと、たいていは小学校か中学校で教えられた常識であって、「あいつ、日本をよっぽど未開で野蛮だと思ってやがる。あんな若造に偉そうなツラされて講義されるとは、まったく、戦にゃ負けたくないもんだ」が内心の反応であり、従って「またはじまったか」とニヤニヤしながら聞くだけ、それ以上に反応の仕様がないのである。従って相手がいかなる理由で、われわれにわかり切っていることを一心不乱に講義しているのか、その前提がつかめない。一方彼にしてみれば、当然あるべき反応も反発もないのが不思議であり、一体全体、日本人はニヤニヤしながら何を考えているのかさっぱりわからないわけである。というのはその当然の前提が「現人神の要る世界には進化論は有り得ない」であり、彼にはこの二つが「平和共存」しうる精神状態が理解できないからである。
そこで当然に相手の質問は「現人神と進化論がなぜ併存できるのか。進化論を解くことはなぜ不敬罪にならないのか。なぜ、もっと激しい進化論裁判(モンキー・トライアル)が起こらないのか」と言うことになって来た。そうなるとこちらには何とも返事が出来ない。「しまった、こんな反撃を食うなら進化論裁判のことなど言い出すんでなかった」と思ったがもう遅い。そして相手はさらに、私がこの裁判を知っているということにも興味をもち、日本人はそれをどう受け取っているかも聞きたがった。
[中略]
進化論裁判を、われわれは今でも、一種の嘲笑的態度か理解できないという怪訝な面持ちで聞く。だが彼らにしてみれば、現人神時代にこういった裁判がなく、平然と進化論が通用していたという状態を、理解できぬ状態とする。なぜであろうか?いわゆる先進国は一応みな脱宗教体制に入ったと言える点では共通しているが、この体制以前の状態を対比すると、そこに存在するのは全く異質の世界であることに気づくのである。簡単にいえば、日本には一神教的な神政制(セオクラシー)は存在しなかった。そしてわれわれは、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学(システマティック・セオロジー)として組織的合理的思考体系にしないとおさまらない世界ではなかったわけである。こういう世界では、たとえば「進化論」を、その組織的思考体系のどこにどう組み込むべきかは大きな問題であり、その人がその人の組織的思考体系の中に合理的に進化論を組み込めればよいが、そうでないと、否応なく、聖書的世界を否定して進化論的世界を取るか、進化論的世界を否定して聖書的世界を取るかという二者択一にならざるを得ない。そしてその世界から日本を見れば「現人神をとるか進化論をとるか」が日本で問題にならねばならず、進化論をとれば天皇制は崩壊するはずなのである。崩壊しないのはこれを禁じていたはずだと言うことになり、従って日本を民主化して神がかり的超国家主義を消すには、進化論を講義すればよいという発想になるわけであろう。ところが日本には、そういった一神論的組織神学的発想がはじめからなく、日本人の回心は一に情況への対応で決まるから、そういう講義はニヤニヤして聞いている以外に方法がなくなるわけである。われわれは情況を提示され、それを臨在感的に把握すればその情況に対応して「頭を切り替えてしまう」から、進化論の講義など必要ない。そして彼らにはそれが理解できないわけである。
■「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」
「劇場型アイドル」を説明したくて「空気」の説明をしはじめたら途中で力尽きてしまった・・orz
最後はまんまコピペ
gooブログの文字数制限いっぱいです。
これは3部構成くらいで語るべき内容かもしれないが、無理だ。
要はキャラ化していく道しかないんじゃないか、という平凡な話に帰着するのだが、主眼を「劇場の空気」をより機動的にして、持ち運び可能な劇場「キャラ」化していくことになるだろう、というところに置きたい。