進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

AKB48論争の光と影 ~エネルギー保存則~

2013-06-27 01:03:20 | AKB48_軽ネタ
部屋を掃除する。

まずはちらかってる雑誌やらリモコンやら干したままになっている服や下着を片付ける。

次に紙クズやコンビニ弁当のカラ、ペットボトルなどを部屋の片隅にあるゴミ箱に入れる。

最後は掃除機の出番だ。

最新のサイクロン式の掃除機がカーペットの上のホコリや細かいゴミを勢いよく吸い込む。


部屋はキレイになった。

しかし、この部屋のカオスの量は部屋を掃除する前と後で何も変わっていない。

カオスは、本棚やゴミ箱、掃除機の中に場所を移しただけで、量は変化していないのだ。



一般的に、これは熱力学第一法則「エネルギー保存則」と呼ばれる。

クローズドなシステム内ではエネルギーの総量は変化しない。

姿や形を変えるかもしれないが、エネルギー量は不変である。

エネルギーにはプラスとマイナスの側面があるから、エネルギーの総量が大きくなってプラスが増えればその分だけマイナスも増える。



これは人間によって構成されるコミュニティでも基本的には同じだ。

たいてい都合よくコミュニティをオープン・システム化してプラスだけを取り込もうとする(マイナスを他に追いやる)が、その場合エネルギーが発散するのでプラスもマイナスも増えないことの方が多い。

プラス・マイナスに関わらずエネルギーを集めて囲い込む(クローズドにする)ことで莫大な力を自分のモノにする代わりに、莫大なマイナスを引き受けなければならない。

コミュニティ全体一様に満遍なくマイナスをばら撒く器用なことができればよいが、パレートの法則が示すように、自然状態では2割の要素に8割のエネルギーが集中するのが常で、通常はプラスとマイナスともに偏ることになる。

これを人為的に計画的に管理することは歴史上なんども見られたことで、第2次世界大戦中のナチスによるアウシュビッツが有名だろう。

AKB48でいえば「アンチ」というUZAい存在がつきまとうが、これを秋元康や運営、前田や指原、島崎といった主要メンバーが大量に引き受けてきた。

アンチは必要悪ではないが、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーの関係は崩せない。

目的論的に捉えれば、アンチは必要ではないが必然ではある。



また人間の感情における陰と陽の関係も崩せない。

「喜び」があるということは「悲しみ」もあるということだ。

そういう意味で「悲しみのない世界」というのは理想としては理解できるが実現し得ないだろう。

だが、しかし、「悲しみのない世界」は実現し得ないが「みなが喜べる世界」は創造できる。

それは発想を転換すれば可能になる。

喜びや悲しみは分解可能なものではない。

「悲しみを公平に分け合う」というのは政治的には正しいかもしれないが、あまり賢い選択肢とはいえない。

重要なことは、喜びも悲しみも繋がっていることを理解することだ。

相互依存によるWin-Winの関係を構築するとき、我々は悲しんでもいるが喜んでいもいるだろう。

Win-Winというのは「お互いが得をする」という意味ではなく、眼前の問題を1つ上の次元で止揚するという意味である。

プラスとマイナスを別個のモノとして扱う限りにおいて、マイナスの呪縛から逃れることはできないであろう。

「シンデレラ選抜」を発表します。センターは「島崎遥香」。

2013-06-26 11:00:05 | AKB48_軽ネタ

【AKB48】 第5回選抜総選挙 結果の図解
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e3011ccf025cb71283209e90091105d1

の結果を基に、当Blogオリジナル選抜「シンデレラ選抜」を発表します。

「シンデレラ選抜」とは、第4回選抜総選挙から第5回選抜総選挙までの間に最も成長したと当Blogの独断と偏見で推定されるメンバーに贈られる選抜です。

平たくいうと、「今、最も伸びてるメンバーに贈られる選抜」です。


■シンデレラ選抜

01位:島崎遥香
02位:渡辺麻友
03位:横山由依
04位:大島優子
05位:柏木由紀
06位:篠田麻里子
07位:指原莉乃
08位:川栄李奈
09位:入山杏奈
10位:柴田阿弥
11位:須田亜香里
12位:松井珠理奈
13位:松井玲奈
14位:藤江れいな
15位:板野友美
16位:山本彩


藤江さんが選抜入りというサプライズが起きてしまいました。
今後は篠田さんと板野さんが卒業で抜けることになりますので、繰り上げとなると峯岸さん、小嶋さんの2人ということで、既存の選抜に近い形になります。
(個人的には、永尾、武藤の姉妹コンビを入れたいのですが、ゴリ推し批判されるんだろうなぁ・・)



■シンデレラ選抜(アンダーガールズ)

17位:峯岸みなみ
18位:小嶋陽菜
19位:片山陽加
20位:宮澤佐江
21位:梅田彩佳
22位:田野優花
23位:渡辺美優紀
24位:永尾まりや
25位:武藤十夢
26位:木崎ゆりあ
27位:石田晴香
28位:大場美奈
29位:松村香織
30位:佐藤すみれ
31位:山田菜々
32位:菊地あやか


なんと恋愛スキャンダルを起こした峯岸さんがアンダーのセンターとは!
小嶋さんの選抜落ちも印象的ですが、片山、石田の中堅の意地を感じるとともに、
田野、永尾、武藤あたりの9期以降のメンバーも健闘しています。






ちなみに、第4回時(第3回から第4回の時)のグラフが↓





当時のっていた上位16人は彼女らだ。

01位:指原莉乃
02位:渡辺麻友
03位:高橋みなみ
04位:梅田彩佳
05位:島崎遥香
06位:横山由依
07位:松井珠理奈
08位:宮澤佐江
09位:篠田麻里子
10位:岩佐美咲
11位:河西智美
12位:渡辺美優紀
13位:仲谷明香
14位:山本彩
15位:中田ちさと
16位:永尾まりや


第5回と第4回の結果を足し合わせると次の結果が得られる。

彼女らがここ2年にわたって持続した成長力を見せている13名ということになりそう。

TOP3:指原、渡辺麻、島崎 (この3人がダントツ)

Sクラス:横山、篠田、松井J、宮澤 (年齢とキャリアから考えて篠田と宮澤が大健闘)

Aクラス:山本、渡辺美、藤江、須田、永尾、松井R


【AKB48】 第5回選抜総選挙 結果の図解

2013-06-26 10:44:04 | AKB48_アナリシス
今更ですが、結果をば。

空いた時間を少しずつ使って作っているので、どこまでやるかはわかりません。


第4回の結果は↓こちらを参照ください。

【AKB48】 第4回選抜総選挙 結果の図解
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c153b4df0c7d5748202b695e610752ee


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■順位と票数


第4回に比べてかなり平滑化された。(上位への偏りが減っている)

それでも選抜16人だけで全体の約半分を獲得しているわけなので、選抜という壁がいかに高いかはわかる結果である。






■過去の結果との比較


総投票数が約100万票増えたため、全体のベースが上がっています。






■前回(第4回)からの獲得票数の増分と伸び率


※前回圏外だったメンバーは、第4回の64位の票数にグリッドしています。








【伸び率順位】

01位:柴田阿弥
02位:川栄李奈
03位:入山杏奈
04位:島崎遥香
05位:宮脇咲良
06位:須田亜香里
07位:山田菜々
08位:木本花音
09位:兒玉遥
10位:梅本まどか


【増分順位】

01位:指原莉乃
02位:島崎遥香
03位:柴田阿弥
04位:須田亜香里
05位:松井珠理奈
06位:松井玲奈
07位:山本彩
08位:渡辺麻友
09位:横山由依
10位:大島優子


第5回選抜総選挙のシンデレラは、指原莉乃、柴田阿弥、島崎遥香、須田亜香里の4名。


逆に伸びていないのが、高橋みなみと佐藤亜美菜、倉持明日香の3名。


【伸び率ワースト順位】

01位:高橋みなみ
02位:佐藤亜美菜
03位:小嶋陽菜
04位:倉持明日香
05位:北原里英
05位:大島優子
06位:板野友美
07位:柏木由紀
08位:篠田麻里子
09位:渡辺麻友
10位:高城亜樹


【増分ワースト順位】

01位:佐藤亜美菜
02位:高橋みなみ
03位:倉持明日香
04位:山内鈴蘭
05位:松井咲子
06位:中西優香
07位:金子栞
08位:岩佐美咲
09位:市川美織
10位:平嶋夏海


■各グループの票数変化率を考慮した各メンバーの得票数変化率


グループ毎に成長率が異なると思いますので、グループ毎の成長率(変化率)の補正をかけて、各メンバーがどれだけ伸びたかを見てみました。

各グループの平均的な変化に対して、各メンバーがどう変化したかがわかります。

低成長のAKB48で高成長したのは誰か?などがわかる。

HKT48は指原の得票数増分が大きすぎてそれ以外のメンバーが低く出がちになるが、それだけ指原の力に頼って成長しているということがいえるので、それでいいと思う。

計算式としては、

各グループ毎の平均票数増分 = (第5回票数 - 第4回票数) / 当選人数

各メンバーの票数増分 = (第5回票数 - 第4回票数)

グループ変化率を考慮したメンバー得票数変化率 = (各メンバーの票数増分) / (各グループ毎の平均票数増分)

※兼任は無視。移籍や海外・OBは第5回時に所属しているものを第4回でも所属していたとみなす。

※圏外メンバーについてはその回の公表されている最低得票数に設定しているので、圏外からの入選メンバーには厳しく出る。

※1.0よりも低いメンバーはグループの平均的な成長率よりも低いということ。





第5回選抜総選挙で、最も飛躍したシンデレラガールは「島崎遥香」。

低成長なAKB48において圧倒的な成長率を見せ、ゴリ推しの結果をみせた形である。

■シンデレラ選抜
01位:島崎遥香
02位:渡辺麻友
03位:横山由依
04位:大島優子
05位:柏木由紀
06位:篠田麻里子
07位:指原莉乃
08位:川栄李奈
09位:入山杏奈
10位:柴田阿弥
11位:須田亜香里
12位:松井珠理奈
13位:松井玲奈
14位:藤江れいな
15位:板野友美
16位:山本彩

17位:峯岸みなみ
18位:小嶋陽菜
19位:片山陽加
20位:宮澤佐江
21位:梅田彩佳
22位:田野優花
23位:渡辺美優紀
24位:永尾まりや
25位:武藤十夢
26位:木崎ゆりあ
27位:石田晴香
28位:大場美奈
29位:松村香織
30位:佐藤すみれ
31位:山田菜々
32位:菊地あやか

以上が1.0以上のメンバー


ちなみに、第4回時(第3回から第4回の時)のグラフが↓

前田敦子が選挙を辞退し、卒業直前という時期に行われたため、その影響をたぶんに反映している可能性はある。





当時のっていた上位16人は彼女らだ。

01位:指原莉乃
02位:渡辺麻友
03位:高橋みなみ
04位:梅田彩佳
05位:島崎遥香
06位:横山由依
07位:松井珠理奈
08位:宮澤佐江
09位:篠田麻里子
10位:岩佐美咲
11位:河西智美
12位:渡辺美優紀
13位:仲谷明香
14位:山本彩
15位:中田ちさと
16位:永尾まりや


第5回と第4回の結果を足し合わせると次の結果が得られる。

彼女らがここ2年にわたって持続した成長力を見せている13名ということになりそう。

TOP3:指原、渡辺麻、島崎 (この3人がダントツ)

Sクラス:横山、篠田、松井J、宮澤 (年齢とキャリアから考えて篠田と宮澤が大健闘)

Aクラス:山本、渡辺美、藤江、須田、永尾、松井R



■グループ別の比較


第4回と比べるとわかるように、AKB48の圧倒的優位性は失われたとみて構わない。

この割合については、CDの売上セールスでも同様の傾向が出ている。

CD売上枚数の実績(2013.5):CD売上みるAKB48グループのパワーシフトの様相
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/95be81e6dcc28786e21f2163e26fec16







■グループ間の比率の変化


総選挙の結果のパワーバランスは、各グループのCD販売売上におけるパワーバランスと相関がある。

CDを売り上げる力と総選挙で票を集める力には相関があるといえるのかもしれない。










■チーム別の比較


第4回の時はAKB48だけがチーム間バランスがよかったのだが、今回はSKE48にも同様の傾向が出ている。

組閣の結果と思われる。

指原効果が大きいのだが、HKT48のチームHがAKB48以外のチームでは存在感を示している。









■期別の比較


前回(第4回)に比べてもAKB48の1~3期の圧倒的優位性は失われて、期別でも平滑化しているのがわかる。








■期別の変化


人数の変化を見ると、AKB48のベテランが減って若手が増えているのは間違いない傾向としていえる。

とくに票数の伸び率を見ると、AKB48/SKE48は若手ほど伸びているのが顕著にわかる。

ただ、票数で見るとベテランから若手まで伸ばしているのがわかる。

票数が100万票増えたことが大きな影響を与えていると思うが、ベテランから若手まで万遍なく票数が増えたといえるが、期による差が顕著になってきている。

AKB48だけを見ると、当たりの期とハズレの期の差が大きく、波があるのがわかる。

他のグループでは見られない傾向で、これはAKB48がヒットするまでの立ち上がり過程に影響を受けていそうではある。










■年齢別の比較








■年齢別の変化


第3回は公表されたのが上位40名だったので、人数を64/40をかけて補正しています。

票数の方は補正していません。








■年齢別の変化を第5回にプロット


非常に面白い傾向が見て取れる。

人数の変化で見ると、2013年時点で21歳の世代が第3回当時から存在感を示しているが、その世代が徐々に減り、19歳より若い世代が躍進してきているのがわかる。

第5回は第4回に比べて20歳以降の人数が減って、若手13歳~16歳が増えている。

票数変化を見てみると、21歳以降の変化はほとんどなくて、若手が票数を伸ばしているのがわかる。

全体で100万票も増えたのに、21歳以降にはほとんど変化がなく、若手(13歳~20歳)が躍進したことがわかる。

さらに面白いのは、人数変化は特に21歳の落ち込みは顕著だが、票数は減っていない点である。

つまり、20歳に一つの壁があって、票を獲得できる強いメンバーがこれを乗り越えることができ、その後は落ちることがない、ということかもしれない。

たしかに、恋愛スキャンダルなどを見ても、一般的な進路を考える上でも「20歳」が一つの山なのかもしれない。








■Google+フォロワー数との相関


ミクロでの相関は認められないが、マクロではなんとなくの相関がありそう。(第4回と同様の傾向)

柴田阿弥がフォロワー数が少ないのに健闘しているのがわかる。

逆に、北原里英、倉持明日香、大場美奈、松井咲子あたりがフォロワー数に対して得票数が少ないのも目立つ。



なんのために名誉研究生にしたのか

2013-06-22 02:30:50 | AKB48_軽ネタ

SKE48 高須先生「松村香織さんが元通りになるまで2~3年はかかる(高須・ω・幹弥) 」(SKEまとめエンクラ)
http://ske48encra.doorblog.jp/archives/28674214.html


遊びに仕事の論理を持ち出す愚。

今後どういう形で遊びやビジネスに展開できるかマネジメントも一緒になって考えればいいのに。

利用されればいいじゃん。

相互依存でWin-Winを狙おうよ。

何を守ろうとしてるのか。

松村を泳がせればいいのに。

何のために名誉研究生にしたのかわからん。


なんでマイナスにならないように行動してるのか。

加点をねらおうよ。

先行き不安になってくる。

叩かれまくって敏感になってしまったか。

コンプラで窒息させられる姿が目に浮かぶ。

運営がこんな感じだから前から言うようにクラウドファンディング的な仕組みを導入して、運営の権限を収奪する方法を考えた方がいいと思うよ。


恋愛禁止条例 自己責任論に反対する

2013-06-21 02:05:43 | AKB48_オピニオン
いつもここで述べていることを簡略化してみました。

是非、古参の方に教えてもらいたいのは、AKB48はいつから「ガチ」と言い始めたのか、ということ。

ガチにせよマジにせよ、恋愛禁止条例にせよ、これらは後付で創発的に創られた空気だと思うのだけれど、いつ頃からそういう空気が醸成されていったのかは興味深いところです。




























多元社会になって↓こんなふうに分裂と統合を繰り返すというのもあるかもしれない。


幕末における理念闘争
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5ebcf72709c972da103e5df5379c75f0


それこそ↓の話につながるわけだけど。

AKB48第1章「反運営」 → AKB48第2章「反AKB48」 ?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f9ae49fe6387651a91954974d1fedf42


アンチではなく「水を差す」人々は必要だ

2013-06-20 13:01:18 | AKB48_心の叫び
ちょっと遅れたけど

よしりんAKBヲタやめるってよ(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51882035.html


小林さん!

私はあなたの意見いつも楽しみに読んだり聞いたりしています!

総選挙番組での指原とのやりとり、地デジでは有り得ないヲタ発言は素晴らしかったです!

みなが指原1位の意味をどう解釈するべきかと考え議論している中で、あなたのように「そんな意味は認められない」と主張する人は必要です。

みなが1位の意味を解釈しようとする行為によって、みなは自然と1位の意味という檻の中に閉じ込められてしまうから、そういう人々は望むと望まぬ途に関わらず間接的に体制を翼賛する側に立ってしまう危険性を持っている(それは集団の閉鎖性につながる)ために、小林さんのように脱構築する人がリスクヘッジになるのです。

健全な野党は必要です。

じゃないと与党が成長しないですから。

忙しいなか大変だと思いますが、今後も楽しみにしていますよ、よしりん先生!


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私は、自分のポジションを取って意見をする人は尊重されるべきだと思っている。

各人が自分のポジションを明らかにすることで、対話というものは発展性を持ち、そして建設的なものになるからだ。

人間は誰もが心の中に豊かな感受性を持っていて傷つきやすいから、自分を傷つかないでよい場所において意見だけをしたくなる。

自分の立ち位置を明らかにせずに批判だけをするのは容易だし、実際、その誘惑は強い。

しかし、自分が傷つくからこそ、人間は成長する。

人間は傷つきたくなくて感じる心を封印することもあるが、同じように傷つきたくなくて、もしくは傷心を乗り越えたくて成長する。

「傷つく」ことをどう理解するかの話であり、どちらを選択するかの問題だ。


リンカーン
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/708d2dc1b8153dd7737986144117eb88

人間なら誰しも、年齢や経験に関わらず、その内面に豊かな感受性を持っており、それゆえに傷つく。

人は傷つく。

だから、外部からの脅威に怯える。

自分が弱いものと見られ、その弱みに付け込まれ、悪用され、なにか大切なものを失うことを恐れる。

そして、自分の弱さを守ろうとして、自分の言動を正当化する。

誰かの間違いや欠点を、自分の言動の言い訳にして、自分を正当化する。

自分は正しいのだ!弱くなどない!恐れるものなどない!と、まず自分に言い聞かせる。

そして、次に外部に向かって叫ぶ。

自分は正しい!弱くなどない!私は利用などされない!

だが、いちど自分の弱さから目を背けると、ずっと自分に言い訳することになる。

もともとの弱さに、言い訳した自分の弱さを加えて受け入れなければならなくなるからだ。

いずれ、雪だるま式に大きくなってしまった自分と、本来望む自分との埋められない溝に苦しむことになる。

心に抱えた二面性の矛盾と葛藤に悩み苦しむ。

問題はそれだけではない。

周囲の人々は、いつも正しいあなたに間違いや欠点を告白することはしない。

いつも正しいあなたの周りには、常に、正しい人々しかいなくなる。

孤独があなたを襲う。

それがさらに心の中にある正しい自分を増長させる。

そうしなければ傷つくからだ。

このようにして人は、失うことを恐れた結果として、もっとも大切なものを失うのだ。

感ずる心を、そして自分を。

傷つかないためには、感ずる心を封印しなければならない。

しかし、感ずる心がなければ、何かを得ることは難しい。

感ずる心がなければ、自分のことでさえ知ることはできなくなるだろう。

ある人は言う、人生は心の中の悪魔を如何に飼いならすかで決まると。

だが、はじめに自分の弱さにしっかりと向き合っていれば、その悪魔につけ入る隙を与えずにすんだはずだ。

自分の弱さを受け入れたところで何も失うものなど何もないと、理解することもできたはずだ。

人は選択することができる。


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「空気」という同調圧力をはねのけるためにも、各人がポジションを明確できる環境を作ることも重要だ。

山本七平は「空気の研究」とともに「水の研究」も行っており、この中で「空気の支配」を防ぐために「水を差す」ことの重要性を述べている。

「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a26523bb516f6852fae0f70f09b48e68

集団的高揚を得るために適度な空気は必要であるが、組織や集団が空気に支配されて閉鎖性を高めていくのを防ぐために、水を差す人は必要だ。

「水を差す」人々をアンチと蔑視するのではなく、重要な役割を担っていると考えるべきなのだ。

奇跡のリンゴ

2013-06-19 01:46:00 | TV・書籍
  


レイトショーで観てきた。

2006年12月にNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』で放送され大反響を呼び起こした「木村さんのリンゴ」を映画化したもの。

原作は石川拓治『奇跡のリンゴ 絶対不可能を覆した農家 木村秋則の記録』で、番組を観て感化された私は出版されてすぐ購入したのを覚えている。



これは、世界で初めて農薬どころか有機肥料も一切使わずにリンゴを実らせた男とその家族の執念の物語である。

無農薬リンゴがなぜ奇跡と呼ばれるのかといえば、それは「リンゴ」というものが農薬を前提として品種改良された作物であるからだ。

種は生息環境の変化にタイムリーに適応できなければ絶滅してしまう。

個体数が少なく近親交配が続いている場合には、この危険性は高くなる。

一例を挙げると、世界の商用リンゴの木の約90%は、元をたどれば一組の親木に行きつく。

遺伝的多様性がほとんどないため、リンゴの木は環境ストレスに対処できるような適応特性をなかなか生み出すことができず、黒星病、火傷病、うどん粉病など、様々な病害に感染しやすい。

要するに、遺伝子的に同質の集団には、進化の前進の為の「原料」がわずかしかないということであり、そのため環境のマイナス変化によって種全体が危険にさらされることがあるのだ。

商用リンゴは、このリスクを冒すことで「甘くて美味しい、綺麗でよく獲れる」を獲得したのであり、そのリスクを低減させ商用リンゴを成立させるものこそが「農薬」なのである。

つまり、農薬を使わずに作ったリンゴは「リンゴ」ではない、「商用リンゴの定義」からしておかしいというのが常識なのであるからして、無農薬リンゴは消費者のみならず生産者にも心的転換を迫ったという点でまさにコペルニクス的転回イノベーションなのである。



木村を無農薬栽培に駆り立てた動機は、妻の美千子(映画では美栄子)が農薬に敏感な体質であったためと言われており、それが一層この物語を愛と感動へと誘っている。

が、これは単なる感動物語ではない。

本を読めばわかるが、彼は職業としては農家ではあるが、素養としては完全にエンジニアであり、馬鹿かと思うほどの頑迷さと不屈さを持ったイノベーターである。

とにかく頑迷であり、その頑なさゆえ家族を路頭に迷わせ、彼自身は村八分にされるのであるが、その逆境を乗り越え成功を手にするイノベーションの成功物語でもある。

リーンスタートアップやメイカームーブメントの中で「とりあえずやってみる」というのが俄かに流行だが、本質的には「実行する」こと自体に意味があるのではなく「試して学習する」ことに意味があるのであり、それがどういうことかを否応なしにわからせてくれるのが「木村さんのリンゴ」であろう。

やってもフィードバックがないのなら、やらないのも同じである。

本質的に大事なことはフィードバックがあるということなのだ。

木村さんの場合、フィードバックをしてくれる相手は"自然"であった。



では、木村が何をやったかというと、一言でいえば「管理することをやめた」ということだろう。

畑は多種多様な生物が棲むようになって、畑の生態系はより弾力のある安定を獲得する。

一本の綱引きではなく、何百、何千の綱引きが畑のあらゆる場所で行われれば、全体として大きくバランスを崩す可能性はそれだけ低くなる。

多様な生物の営みが畑の生態系をより柔軟で強靭なものに変えていったのだ。

管理しないことによって、環境のマイナス変化によって危険にさらされるリスクを抑えることに成功したわけである。

「奇跡のリンゴ」はリンゴの木が本来持つ力を呼び覚ましたというような奇跡の話ではなく、既成農薬が果たしていた役割を生態系のエコシステムで代替したというテクノロジーの話なのである。



しかし、この話を観ていると「自然選択」の凄さをまざまざと見せつけられたと感じざるを得ない。

生物の進化の選択では、どの遺伝子が選ばれてゲノムに組み込まれるかを決める単一の基準がある。

生殖の成功だ。

切り捨てられることになる遺伝子には、擁護してくれる者はいないし、カニバリゼーション(共食い)の危険性を心配してくれる者もいない。

自然のフィードバックは厳しい。

これに比べて、ほとんどの企業では、どのアイディアに資金を与え、どのアイディアを却下するかを選定する作業を行う時、意思決定に政治的バイアスが入りこむ。

このバイアスの影響を抑え込むにはフィードバックが非常に重要であり、組織が生き残る可能性を高めたいのであれば、組織内に自然選択の仕掛けを取り込むことだ。

アイディアとしては理解できるのだが、実現は容易ではない。



さて、話を戻そう。

農薬や肥料を一切使わずにリンゴを実らせることなど「絶対不可能」であり、これはリンゴ農家にとって大前提である。

仮に無農薬リンゴの生産に成功しても、持続的で計画的な生産が困難であり「農業」として成立しないからだ。

木村さんは、イノベーションによってその常識を覆した。

生産とマーケティングを融合したビジネス的な成功として見ると、その価値はさらに見直されることになるだろう。

本の帯に書いてある通り「ニュートンよりも、ライト兄弟よりも、偉大な奇跡を成し遂げた男の物語」なのだ。

なぜ農薬も肥料も使わずにリンゴが実るのか、その科学的メカニズムは今なお明らかにされていない。



誤解を避け、バランスを取る為に念のために触れておくが、この物語が真にイノベイティブなのは世界初の無農薬リンゴの栽培に成功したからではない。

農薬栽培か無農薬栽培かという単純な二元論によってこの話は評価されるべきではない。

問題のないところに新たな問題を発見し、常識とされてきたパラダイムをひっくり返すことで、新しい価値観を社会に提供することに成功した、ここにこの話の価値があるのだ。

それを勘違いしてはならない。



それに、単純に家族の物語として観ても胸が熱くなる話である。

なんて立派な家族かと、実際にはいろいろとあっただろうけれど、思わずにはいられなかった。

ここ最近の家族観では実現しえない話であろう。



ちなみに、木村さんのリンゴをもらって食べたことあるのだが、生きものを食べている感じがした。

食べたらすぐわかるが「リンゴとは違うものだ」という感覚になる。

言うまでもなく美味しいものだ。

「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」

2013-06-18 19:11:11 | AKB48_軽ネタ
■劇場というパラダイム


「劇場(theater)」と「理論(theory)」の語源は同じ「見ること(theoria)」だという。

劇場や理論は、「現実」そのものを表しているわけではなく、我々が見たい現実の一つの側面を「事実」として表すものであるが、私はこの部分を理解することで「劇場型政治」や「劇場型アイドル」、「キャラ化」といったものが、とりわけ日本で発達した要因がわかると考えている。

アメリカのエンターテイメントが圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了するのに対し、日本のエンターテイメントは演者と観客との共創関係においてその場限りの独自性を発生させ観客を、そして演者をも魅了する。

これは、日本の方が「我々が見たいと思うもの」を現実から都合よく切り出す術に長けているとも言えるが、一方では明確な評価基準を持たず、場当たり的にモノゴトに対応する「おっちょこちょい(一貫性がない)」だからとも言える。

上記については「一神教的合理主義」と「汎神論的経験主義」との対立構造で説明されることが多いように思うが、この件について考えるにあたって山本七平「『空気』の研究」を持ち出そうと思う。

(引用部分については筆者が都合よく改変、省略、強調しています。ご注意ください。)


■「空気」という妖怪


山本七平は、太平洋戦争末期に行われた特攻的な戦艦大和出撃について、こう述べている。
(大和だけで2,740名が戦死)

注意すべきことは、そこに登場する者がみな、海も船も空も知り尽くした専門家だけであって、素人の意見は介入していないことである。

米軍という相手は、昭和16年以来戦い続けており、相手の実力についても完全に知っている、いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知や
不見識、情報不足による錯誤は考えられないことである。

戦艦大和出撃については、まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行えないこと等を理由にこれを退けた。

したがって、理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合と違って「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となり得る客観情勢の変化、
それを裏付けるデータがない限り、大和出撃は論理的には有り得ない。

だが、そういう変化があったわけではない。

このことを明確に表しているのが、三上参謀と伊藤長官の会話である。

伊藤長官は、当然この作戦には納得できないとした。

第一、説明している三上参謀自身が

「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機機動部隊が跳梁する外界に突入させるということは作戦として形を為さない。それは明白な事実である。」

と思っているのであるから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずがない。

ともにベテランで、論理の詐術などで誤魔化しうるはずはない。

だが、

「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切り込み、ノシ上げて陸兵になるところまでお考えいただきたい。」

と言われれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。

そこで彼は反論も不審の究明もやめ

「それならば何をかいわんや。よく了解した。」

と答えた。

この「了解」の意味は、もちろん相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。

それが不可能なことは、サイパンで論証済みのはずであるからだ。

したがって、彼は「空気の決定であることを了解した。」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。

これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか?

「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようとは思わない。」

であって、いかなるデータに基づいてこの判断を下したかは明らかにしていない。

それは当然であろう、彼を「ああせざるを得なかった」状況に追いやったのは「空気」であったからだ。

「空気」というのはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。


■「空気の支配」とは何か?

それは「虚構の世界」であり「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」である。

しかし、「虚構」の存在しない社会は存在しないし、虚構は人間を動かす大きな力である。

この「虚構の支配機構」をわかりやすくいえば、「劇場」であろう。

劇場は、周囲を遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人々は演技し、それが演技であることを演出者と観客の間で隠すことによって、「1つの真実」が表現されている。

※情況論理:内面的な状況によって決まる論理

たとえば、歌舞伎における「女形」は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。

「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている「劇場」という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で「空気」を醸成し、全体空気拘束主義的に人々を別世界に移し、その世界が人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になるのだ。

※臨在感的把握:物質やモノゴトの背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。偶像崇拝がこれに当る。

問題は、人がこういう状態になり得るということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかということと、この秩序を維持しようとするなら、全ての集団は「劇場の如き閉鎖性」を持たねばならず、したがって集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序で覆うつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。

鎖国の最大の眼目は「情報統制」であり、この点では現在の日本と基本的に差はない。

(幕藩体制、当時のクニである藩を跨ぐ移動を禁じたのも「情報統制」に主眼がある。)

この閉鎖性を野放しにすると、外部の情報を自動的に排除する形になり、その集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になっていく。

それは一種の超国家主義にならざるを得ない。

超国家主義とは元来「鎖国」を志向するもので、戦争はこれと対極的なす国際的な行為である。

太平洋戦争時、アメリカが相手を知る為に軍が日本語学校をつくり、全国から秀才を集めて日本語の特訓的教育をやるという発想が当然とされるのだが、日本は逆に英語を敵性言語と規定しその教育を廃止した。

現代の世界に外交なくして一国は存立し得ないから、虚構に立って先方との関係を樹立せざるを得なくなれば、一種の断絶状態に落ち込み、戦争になるか、もしくは外交的破たんから破滅する公算の方が多い。


■臨在感的把握とは何か?


イスラエルである遺跡を発掘していた時、古代の墓地が出てきた。

人骨や髑髏(しゃれこうべ)がざらざらと出てくる。

こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄しては墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶようになった。
それが一週間ほど続くと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人2名の方はおかしくなり、病人同様の状態になってしまった。

ところが、この人骨投棄が終わると2人ともケロリと治ってしまった。

この2人に必要だったことは、どうやら「お祓い」だったらしい。

骨は元来は物質である。

この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。

したがって、この影響は非物質的なもので、人骨や髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表れるほど強かったが、一方、ユダヤ人には、何ら心理的影響も与えなかった、と見るべきであり、これが「空気の基本型」である。

臨在感的把握とは、物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける、言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態である。

明治の啓蒙家たちは、

「石ころは物質に過ぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのために啓蒙的科学的教育をすべきだ。」

と考えはしたが、

「日本人が、なぜ物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。それを解明すべきだ。」

とは考えなかった。

啓蒙家たちは臨在感的把握を野蛮として見たが、その姿勢は啓蒙的とはいえるが科学的とは言い難い。


■「空気」は日本特有の現象か?


「”空気”を英語で何と訳すべきか?」という問いに対し、山本七平はこう答える。
 
空気の存在しない国はないのであって、問題は、その”空気”の支配を許すか許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか、にあるだけである。

”KUKI”は、プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものと言えば、ほぼ理解されるのではないかと思う。

これらの言葉は古代の文献には至る所に顔を出す。

もちろん旧新約聖書にも出てきており、意味はほぼ同じ、ルーア(ヘブライ語)の訳語がプネウマ(ギリシャ語)でそのまた訳語がアニマ(ラテン語)という関係にもなっており、このアニマから出た言葉が「アニミズム(物神論)」で、日本では通常これらの言葉を「霊」と訳している。

しかし原意は、wind(風)、air(空気)である。「霊」というと日本語訳聖書の訳語は明治の初めの中国語訳聖書からの流用だと思われるが、中国語の「霊」には、日本語の幽霊の「霊」のような意味合いはないそうで、その場合には「鬼」を使うそうである。

訳語というのは難しいものだと思う。聖書の様々な試訳には、この語を「風(れい)」とか「霊(かぜ)」とかのルビ付きで訳しているものもあるが、このことが、この言葉の翻訳の難しさを示しているであろう。

原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・精・人のたましい・精神・非物質的存在・精神的対象などの意味にも使った。

また言霊の”たま”に似た使い方もある。

そしてそれらの意味を全部含めて原文を読むと、ちょうどわれわれが「あの場の空気では・・・」という場合の”空気”のように人々を拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」ないしは「呪縛」、いわば「人格的な能力を持って人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」の意味にも使われている。

人が、宗教的狂乱状態いわばエクスタシーに陥る、またブームによって集団的な異常状態を現出するのは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるとされている。

古代の文脈の中に空気(プネウマ)の意味を当てはめていくと、それはもはや古代の記述とは思えぬほどの現実味を帯びてくる。

彼らも、この非常に奇妙な「空気の支配」なるものが、現に存在することを知っていた。

彼らは霊(プネウマ)といった奇妙なものが自分たちを拘束して、一切の自由を奪い、そのため判断の自由も言論の自由も行動の自由も失って、何かに呪縛されたようになり、時には自分たちを破滅させる決定をも行わせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、「霊(プネウマ)の支配」というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきかを考えているのである。

一方福沢諭吉などの明治的啓蒙主義は「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。

ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯止めがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振るい出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。

戦艦大和の出撃などは”空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて”空気”決定なのである。


撮像禁止とか偶像禁止とかいうイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一部にある考え方の基本は

「物質はあくまで物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じてこれから影響をうけたり、それに対応したり、拝礼したりすることは、被造物に支配されてこれに従属することであるから、創造主を冒涜する涜神罪だ」

という考え方が基本になっている。

したがってそういう涜神を誘発しそうなものは「悪」であるから、これを排除する。

いわば臨在感的把握の絶対化に基づく”空気の支配”は「悪」なのである。

一体これはどういうことなのか。一言で言えばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。

この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。

こういった徹底的に相当化されてしまう世界では、空気が発生することは難しい。

この相対化が残すものは、最終的には契約だけということになる。

一方われわれの世界は、アニミズムの世界である。

この言葉は物神論と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は”空気”に近い。

従ってアニミズムとは”空気”主義といえる。

この世界には原則的に言えば相対化はない。

ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、あの対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる。

それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも、映った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという形になるから、確かに「おっちょこちょい」に見える。


■余談:日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について


 戦後のフィリピンの収容所で盛んに使われた言葉に「アタマの切り替え」という面白い言葉があった。これは簡単にいえば、情況が変化したのだから、その変化に即応し、その情況に適合するように思考・行動・所作などの一切合財を改めよということ、情況に対応し、新しい対象を臨在感で把握して回心をせよということである。

 将官は収容所が別だったから不明の点が多いが、左官クラスともなると、大佐も少佐も同一収容所である。幹候少尉などは、はじめから軍人を演じさせられていた学生が多いから問題ないにしても、その生涯が軍人そのもので他の生活を知らない左官クラスともなると、簡単には「頭の切り替え」はできないと思うのが常識である。だが不思議なほどこれが簡単にできた。昨日までの連隊長は、役目が終わって舞台から降りた役者のように物分かりのよい好々爺となり、にこにこと人々に対応してくれるのである。従って尉官クラスや幹部候補生は、当然のように、すぐさま普通の市民に戻ってしまうわけである。時には例外的にそうなれない人間もいたが、そういう人が受けたのは「頭の切り替えのできてないヤツ」といった嘲笑と蔑視で、その人はその中で孤立していくのが普通であった。そして面白いことに、内地帰還が近づくと、また別の「頭の切り替え」が行われた。

 これらの変化は実に変化自在で目を見張るようであったが、ある日私は、ホートンという米軍の一中尉から、全く予期せぬ質問を受け、ある種のショックを感じたのである。彼はハーバードかどこか相当有名な大学の出で、捕虜の将校などを集めて民主主義教育をやりたがる”悪癖”があり、その点でも他の点でも、あのころのアメリカの若いインテリを画に書いたような人物であった。当時私は収容所付属の木工場の通訳をしていたが、何かの用事でその事務所に来た彼は、例の”悪癖”を出し、私をつかまえて長々と進化論の講義をし始めたわけである。

 私は少々ムッとした。彼は明らかに私が進化論を全く知らず、はじめて聞く「人間の先祖はサルである説」に驚愕するだろうと思い込んでいるのである。最初のうちは「仕方がない、PW(捕虜)としてのお付き合いだ」と思っておとなしく聞いていたが、相手の教え諭すような態度が少々アタマに来て「進化論ぐらいは日本では小学校で教えてくれる。日本は進化論裁判(モンキー・トライアル)が行われたアメリカほど未開ではない」といった意味のことを言ってしまった。ところが相手は私の言葉を信用しないのである。「全くアメリカ人ってヤツは・・・」とわつぃは内心で憤然とし、ダーウィンのこと、ビーグル号のこと、ガラパゴス島の調査がその端緒であったこと等をのべ、そんなことは「子供の科学」という少年雑誌で小学生のころに読んだと言った。

 相手は驚いたらしい。しかしこれに対する相手の反応に、今度は私が驚く番であった。「では日本人は、サルの子孫が神だと信じ得るのか。おまえもそう信じているのか?」彼が、考えられないという顔付でそういったからである。この思いがけない質問に今度は私が絶句した。彼は、日本人はその「国定の国史教科書」によって、天皇は現人神であり、天照大神という神の直系の子孫と信じている、と思い込んでいる。確かにそう思い込ます資料が日本側にあったことは否定できない。そしてこういう教科書が存在する限り、進化論が存在するはずがない。これが彼の前提なのである。人がサルの子孫であると教えたということで裁判沙汰にまでなった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に進化論があるはずはないのである。確かにそう考えれば、進化論を教えるということは「現人神はサルの子孫」と教えることである。「人はサルの子孫」が裁判沙汰になる精神構造の国から来た者にとって、「現人神はサルの子孫」が何の抵抗もなく通用している国が有り得るはずがなくて当然であろう。結局彼は、日本では進化論は禁じられていたはずだと思い込み、天皇もサルの子孫だから神ではないと論証して私を啓蒙するつもりだったらしい。ところが相手が平然とそんなことは小学生でも知っていると言ったため、何とも理解しかねる状態に落ち込んだわけであった。

 彼の講義癖の被害者はずいぶんいたが、そういう場合、当時の収容所の日本人はほとんど抗議も反論もしなかった。もっとも進化論の講義をされたって、これに反論する日本人などいるはずがない。至極ごもっともなこと、たいていは小学校か中学校で教えられた常識であって、「あいつ、日本をよっぽど未開で野蛮だと思ってやがる。あんな若造に偉そうなツラされて講義されるとは、まったく、戦にゃ負けたくないもんだ」が内心の反応であり、従って「またはじまったか」とニヤニヤしながら聞くだけ、それ以上に反応の仕様がないのである。従って相手がいかなる理由で、われわれにわかり切っていることを一心不乱に講義しているのか、その前提がつかめない。一方彼にしてみれば、当然あるべき反応も反発もないのが不思議であり、一体全体、日本人はニヤニヤしながら何を考えているのかさっぱりわからないわけである。というのはその当然の前提が「現人神の要る世界には進化論は有り得ない」であり、彼にはこの二つが「平和共存」しうる精神状態が理解できないからである。

 そこで当然に相手の質問は「現人神と進化論がなぜ併存できるのか。進化論を解くことはなぜ不敬罪にならないのか。なぜ、もっと激しい進化論裁判(モンキー・トライアル)が起こらないのか」と言うことになって来た。そうなるとこちらには何とも返事が出来ない。「しまった、こんな反撃を食うなら進化論裁判のことなど言い出すんでなかった」と思ったがもう遅い。そして相手はさらに、私がこの裁判を知っているということにも興味をもち、日本人はそれをどう受け取っているかも聞きたがった。
 
[中略]

 進化論裁判を、われわれは今でも、一種の嘲笑的態度か理解できないという怪訝な面持ちで聞く。だが彼らにしてみれば、現人神時代にこういった裁判がなく、平然と進化論が通用していたという状態を、理解できぬ状態とする。なぜであろうか?いわゆる先進国は一応みな脱宗教体制に入ったと言える点では共通しているが、この体制以前の状態を対比すると、そこに存在するのは全く異質の世界であることに気づくのである。簡単にいえば、日本には一神教的な神政制(セオクラシー)は存在しなかった。そしてわれわれは、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学(システマティック・セオロジー)として組織的合理的思考体系にしないとおさまらない世界ではなかったわけである。こういう世界では、たとえば「進化論」を、その組織的思考体系のどこにどう組み込むべきかは大きな問題であり、その人がその人の組織的思考体系の中に合理的に進化論を組み込めればよいが、そうでないと、否応なく、聖書的世界を否定して進化論的世界を取るか、進化論的世界を否定して聖書的世界を取るかという二者択一にならざるを得ない。そしてその世界から日本を見れば「現人神をとるか進化論をとるか」が日本で問題にならねばならず、進化論をとれば天皇制は崩壊するはずなのである。崩壊しないのはこれを禁じていたはずだと言うことになり、従って日本を民主化して神がかり的超国家主義を消すには、進化論を講義すればよいという発想になるわけであろう。ところが日本には、そういった一神論的組織神学的発想がはじめからなく、日本人の回心は一に情況への対応で決まるから、そういう講義はニヤニヤして聞いている以外に方法がなくなるわけである。われわれは情況を提示され、それを臨在感的に把握すればその情況に対応して「頭を切り替えてしまう」から、進化論の講義など必要ない。そして彼らにはそれが理解できないわけである。


■「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」


「劇場型アイドル」を説明したくて「空気」の説明をしはじめたら途中で力尽きてしまった・・orz

最後はまんまコピペ

gooブログの文字数制限いっぱいです。

これは3部構成くらいで語るべき内容かもしれないが、無理だ。

要はキャラ化していく道しかないんじゃないか、という平凡な話に帰着するのだが、主眼を「劇場の空気」をより機動的にして、持ち運び可能な劇場「キャラ」化していくことになるだろう、というところに置きたい。

大人と子供の純粋性

2013-06-13 19:47:05 | AKB48_心の叫び
「大人」とは、モノゴトを相対的に把握し、大局をつかむことができる人間をいう。

「子供」は、モノゴトを絶対化することを純粋とし、相対化することを不純とみなす。


「問題」とは、その対象に自己が束縛される状況をいい、

問題を「解決」するとは、対象を相対化し、対象から自己を自由にすることをいう。

「人」としては理解できるが、「企業」としては全く理解できない

2013-06-13 11:30:36 | AKB48_軽ネタ
なぜ飲ませたのか、わからない。

壮行会、元気づける会、慰労会、打ち上げ、食事会となんでもいいが、

メンバー・スタッフ関係なく自分たちで飲む分には別に構わないと思うし、メンバーも成人しているのだから自己管理は自分でするべきとも思うし、飲んで遊ぶこと自体、悪いこととは思わない。

しかし、会社(経営者個人なのかは知らないが)として時期もタイミングも考えずに飲み歩くというのは、コンプライアンス以前の問題として、企業としての姿勢を疑う。

「人」としては理解できるが、「企業」としては全く理解できない。

全然ビジョナリーじゃない。

封建社会の領主から代わるものとして、企業という器が社会的責任を負わなかったら現代社会の社会的問題は解決できないというのはドラッカーの慧眼であったが、上場しない非公開企業に社会的プレッシャーをかけることが難しいのは資本主義の欠陥か、それとも私の頭が社会主義的なのか、いや、顧客からのプレッシャーをかけることができると考えるのが適切な資本主義観か。

やるにも違うやり方があったろうし、いい加減やり方を考えればいいのに、だ。

空気読めない「私的企業」だからAKB48はここまで空気読めない発展を遂げたのだと言われれば反論するべくもないが、どうかと思うよ。

こんなことやってると何を言っても説得力なくなるぞ。

善意というだけで通ったら命が幾つあっても足りない

2013-06-12 17:43:09 | AKB48_軽ネタ



山本七平『「空気」の研究』より

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 こうなる「空気」とは、一つの宗教的絶対性を持ち、われわれがそれに抵抗できない”何か”だということになる。もちろん宗教的絶対性は、大いに活用もできるし悪用もできる。これを利用して「免罪符」を売りつけて財政破たんを救うこともできる。

...

 免罪符の発売は抗議者(プロテスタント)を決起さすから、実質的には、それを行った法皇の権威失墜になり、従って宗教性は消え、「空気」は雲散霧散しやすい。

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 臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入は全ての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言で言えば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。

 聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若い頃下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。私はこれを読んで、だいぶ前の新聞記事を思い出した。それは、若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと思って懐炉を入れて、これを殺してしまい、過失致死罪で法廷に立ったという記事である。これはヒヨコにお湯をのますのと同じ行き方であり、両方とも、全くの善意に基づく親切なのである。

 よく「善意が通らない」「善意が通らない社会は悪い」といった発言が新聞の投書などにあるが、こういう善意が通ったら、それこそ命がいくつあっても足りない。従って、「こんな善意は通らない方がよい」といえば、おそらくその反論は「善意で懐炉を入れても赤ん坊が死なない保育器を作らない社会が悪い」ということになるであろう。だが、この場合、善意・悪意は実は関係のないこと、悪意でも同じ関係は成立つのだから。また、ヒヨコをお湯をのませたり、保育器に懐炉を入れたりするのは”科学的啓蒙”が足りないという主張も愚論、問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。

 というのは、ヒヨコにお湯をのまし、保育器に懐炉を入れるのは完全な感情移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである。そしてそういう状態になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。

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AKB48第1章「反運営」 → AKB48第2章「反AKB48」 ?

2013-06-12 07:37:40 | AKB48_軽ネタ
ここ数ヶ月の間にジワジワと感じていることを述べます。

決して対立を煽りたいわけでも、陰謀史観に組したいわけでもないと、はじめに強く言っておきます。

(居酒屋談義だと思ってください。)


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大島優子は、「絶対的センター前田敦子」に対比する形で「反運営の象徴」と呼ばれてきました。

前田敦子と大島優子が表現するものは、AKB48第1章を紡ぐ縦糸と横糸であったと思います。

私は大島優子の人格やパフォーマーとしての素晴らしさを大いに認めておりますが、大島優子がAKB48を代表する圧倒的エース・メンバーになった背景には、AKB48第1章を紡ぐ力が後押ししたとも思います。


なぜ運営は島崎遥香を激推しするのか? ~あつゆう、W松井の奇跡~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/954de4b52b6d9d5530d1b34affcd2328

なぜ運営は島崎遥香を激推しするのか? パート2  ~台風の目になれること~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/92b293d05c66aeb0da4973c2be240e39


しかし、今回の総選挙の結果を見て、とりわけ指原の1位を見て、もうAKB48第1章のフレームワークでは語れなくなってきている部分があるのではないかと感じています。

率直に言うと、私は指原の1位が象徴するのは「反AKB48」だと感じているのです。

指原はほとんどAKB48みたいなものだし、推され中の推されなのに、おかしな意見だと思われる人もいると思いますが、「反運営」から「反AKB48」の潮流が起きていて、AKB48の勢いが落ちる中で総選挙が盛り上がるのも、その背景に反AKB48的な力が働いていないかと思うのです。

SKE48のファンの方々からすると「何を今更」感のある意見だと思う(失礼)のですが、それとはちょっと違うと思っています。

いつになっても始まらないAKB48第2章、旧態依然として変わり映えしないAKB48選抜、ファンとは違うところのパワーバランスで決まる運営方針、「ガチ」や「マジ」といった理念が次々と失われていく喪失感、こういった危機意識の下で「リベラル」と「コンサバ」の一部の層が「反AKB48」で結合する動きが起きて大きな力を持ち始めたのではないかと、政策ではなく政局の話になってしまうのですが思うのです。

上位には大きな変動はなく相変わらず保守的な結果だったのですが、背景に流れる潮流の話です。


ここ最近、日本の近代史のアナロジーでAKB48を捉え直そうという提言をしてきましたが、総選挙の結果を見て、やはり今がAKB48第2章への過渡期であると思わざるを得ませんでした。

時は今、激動の幕末(AKB48第1章の終演直前)、前田敦子卒業という黒船から始まる混乱期の最中ではなかろうかと思います。

そして、私にはAKB48が江戸幕府に重なって見えます。

江戸幕府は、革命を成し遂げた薩長土肥などに比して圧倒的な経済力と軍事力を保持していたが敗北しました。

力があっても、その力を目的に合わせて集中することができなければ、力は発散されて、力で劣る勢力に負けることがあるのです。

目的に向けて各要素に持つ力を総合する「総合力」、それを一般的には「戦略」と呼びますが、江戸幕府もAKB48も戦略的敗北を喫するのではないかということです。

(目的を設定することを「政策」という。)

もちろん、AKB48は得票数でもCD売上げでもグループ内ダントツNo.1の地位は確立していますので、第5回総選挙の結果を「AKB48の敗北」と言うのはバランスを欠く表現かもしれません。

48グループ内で最古参かつ本拠地が日本構内で最も周辺人口の多い東京圏というだけでAKB48がNo.1でなければならない理由はありません。

が、テレビや雑誌などマスメディア露出において圧倒的に優位な環境に立つAKB48と他グループとのパワーバランスが変化してきていることは、真摯に受け止めなければならない事実であるとも考えます。

もともと中央集権体制ではない幕藩体制は、幕府の力が弱まると、急激にその力を失いました。

これまでの総選挙において圧倒的な存在感を示してきたAKB48が、その存在感を薄め始めた時、何かが起きるかもしれません。

※AKB48という言葉を秋葉原を本拠地にするグループ「AKB48」の意味で使ったり、48グループ全体の総称の意で使ったりわかりにくくなっております。


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前に「AKB48第2章」で遊んでるだろと言われたのですが、ポストモダンと同じで遊ぶこと自体が楽しいのですよ。

総選挙はどこまで大きくなるのか

2013-06-11 17:32:36 | AKB48_軽ネタ
まだ整理していないのだけど、第5回総選挙は第4回の時と比べて票の偏りが平滑化されたのが面白い。

劇場版に投票券が添付されたことが影響した可能性は高いと思うが(会員系の裾野の拡がりがあるかどうかも興味深い)、全投票数の増加で結果としてより幅広くメンバーに投票がなされたということがいえそうである。

AKB48のCD売り上げが落ち込んでいるのに反して、総選挙曲だけガツンと伸びるのは、各グループの各メンバーのマーケティング方法として、AKB48の総選挙曲に一点集中した方が効率が良いという理解が広がっているからだと個人的には思う。

そういう意味では、前回のエントリで書いたように、今後より一層「個人戦」の様相は強まりそうでもある。

誤解されたくないのだが「個人戦」が悪いと言うつもりは全くない。

前回も少し触れたが、仮に政党政治的な要素を取り込んだ場合、「役」的なものが既得権益化して新陳代謝のダイナミズムが失われてしまう可能性がある。

「個人戦」も大切だ。

ただ、「総選挙重視」も度が過ぎると、大艦巨砲主義と呼ばれる「一発主義」が勢力を増し、日常的な活動に支障が出始める可能性がある。

選挙を「祭り」として楽しむのは大いに結構なのであるが、選挙にだけがんばる層が増えるのはAKB48にとって本意ではないはずだ。

過去にも述べたように、総選挙と日常的な活動の配分バランスが重要だ。


ビックプレーヤや組織票の存在は表層的な問題。選挙結果に追い詰められる運営。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/9c0af3a1605a83ef162cceb6e4ed245e


もちろん、多くのメンバーもファンも、総選挙と日常の活動が繋がっているものだという認識は持っているので余計なお世話かもしれないが、少々心配になる。

本質は、成長期待を創り出すことも大事だが、それ以上に実質的な成長がなされることの方が大事だ、ということである。


選抜総選挙の順位が何かをもたらすなどということは基本的に無い、という当たり前のことについて
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/152db3ba0da953193b3d5a5928fa1cfe

たかみな・・
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/8e74df841e7fcfa3c300cc79f8760723

AKB48選抜総選挙が醸し出す民主主義のジレンマ ~たった1%の組織票~

2013-06-11 17:03:50 | AKB48_軽ネタ
完全に乗り遅れましたが、ここ数日間、留守にしておりました。

非常に残念ながら、日産スタジアムで順位が発表されている時も中継すら見れていませんでした。

語りたいことは山ほどあるのですが、時間がないので先日のエントリの続きを少しだけ。


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指原の1位、速報結果からある程度に予想されていたこととはいえ、驚きました。

過去最多15万票で、2位の大島優子に1万4千票の大差ですから、完勝と言っていいと思います。

しかし、指原の1位は物議を醸してますね。

私の周りでも悲喜こもごもです。

私としても、いろいろ思うところはあるのですが、今回は次の点についてだけ考えを述べたいと思います。


AKB48の選挙システムでは、「浮動票」は生まれ、一定の力を持ち得るのか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/31873991cb03ee8c8e122726d74a3ca6


私が注目しているのは、結局、AKB48の総選挙は終始「個人戦」にしかならなかった点です。

指原の得票数は150,570票で、これは全体の約5.7%です。(大島は約5.2%)

(150,570 / 2,646,847 = 約5.7%、昨年の大島は約7.8%の得票。)

指原の1位が望ましくないのだとしたら、なぜ事前に組織戦を仕掛けることができなかったのか問題です。

指原の得票率は高々5.7%なのだから、指原と大島以外に投票した人の1%が大島に投票していたら大島が1位でした。

((2,646,847 - 150,570 - 136,503) * 0.01 ) + 136,503 = 160,100票 (約6%)

全投票数の1%を動かせればトップが変わったわけです。(結果論ですが)

いいですか、民主主義の基本である多数決で採決を取る場合は、全投票数の50%+1票が必要です。

(通常は選挙区があって死票が大量に存在するのでその限りではありませんが。)

今回であれば1,323,424票です。

もちろん、AKB48選抜総選挙はAKB48の方針を決める選挙ではありませんので、種類が違うと言われればその通りです。

しかし、皆がAKB48のセンターに価値があると信じるなら、どうしてそれぞれが信じるセンター像を担うメンバーに投票しないのか。

たった1%の組織票で物事を動かせるのにです。

自分の推しメンにしか投票しないのだとしたら、全体よりも個々を尊重するということだから、その結果誰がトップになってもそれは仕方がありません。

こういう考えもあるでしょう。

資本主義というものは、個々人が信ずる道をいくことによって、結果として全体解を見出すことを信じる方法論であると。

AKB48のファンが社会主義ではなく、資本主義を信望するならば、指原トップもどのような可能性も方法論的観点に立てば必然であると言えます。

さて、どう考えるべきでしょう。


かなり乱暴ですが、ここまで来て、ようやく民主主義プロセスとしての「政党政治」の存在意義が認められるわけです。

しかしながら、日本では捻じれ国会など、この政党政治が機能せずに閉塞感が広がっているわけですが、この政党政治を超克する理念に関するヒントをAKB48の選抜総選挙から発見することは果たしてできるのでしょうか。

AKB48の選挙システムでは、「浮動票」は生まれ、一定の力を持ち得るのか?

2013-06-03 12:51:48 | AKB48_軽ネタ

2大政党制の要件は、両党による政策の差異が大きくない事。


というようなこと言ったのは、たしか福沢諭吉だったような気がします。

というのは、両党の政策の差が大きい場合、一方の政党の失敗を取り返そうとする情緒的な反応で、もう一方の政党に極端に振れてしまって極端な政策しか実行されなくなり、その極端ゆえに効果性の低い政策の繰り返しで国家の生産性は地に堕ちるからです。

戦前(太平洋戦争前)における軍部の暴走の背景には、この両極端化して迷走した議会政治の不備があったという説を私も支持します。

自民党から民主党へ歴史的な政権交代が起きた時にも似たような話はありました。

物事がうまくいかない時には、それも追い込まれれば追い込まれるほどに、人々は抜本的で大胆な解決策を好むが、そんな解決策があるならとうに問題は解決されているはずです。

しかし、人々は夢を見がちで、問題が今も存在する原因を誰かの無知や、イデオロギーのせいにしてしまいがちです。

かといって、無駄な対立を避けようと大政翼賛会のような挙国一致が問題を解決するかというと、逆に自分の首を絞める、それも致命的な結果をもたらす結果につながる可能性が高まります。

なぜ致命的な結果をもたらすかといえば、完全知を持たない人間なら誰しも間違えるからで、大衆知や集合知がそのエラーを相殺してくれるなら誰も苦労しないが、間違えるなら間違いを認めてやり方を変えることができないとなりません。

間違いに気づかず、認めずにそのままやり続ければどうなるか、意図せぬ結果が得られることだけは間違いないでしょう。

もう少し間違う側を擁護すると、どんな政策も完全ではないから、どんな政策にも正しい部分と誤っている部分があります。

誤りのない政策などないのだから、誤りがあるからすぐやり方を変えるべき、という意見も通るわけがありません。

ということから、その誤りが望む結果に対してどう誤っているのか、というより望む結果に対して我々はどうするべきなのか、という点について、何が正しいのかという点について論争する仕組みが致命的(致命的な欠陥を避けるという意味で致命的)に重要であり、「様々な考えが衝突や摩擦を繰り返しながらも共存している」、ということは何よりも大切にすべきものだと考えます。

「共存」とは、ただ並列的に存在するのではなく、それぞれが相互依存関係にあることで、その状況を「価値観の多様性がある」といいます。



この「価値観の多様性」というのは夢であるが、実現は容易ではありません。

現実に我々が見ているのは、多次元の価値観が共存する分裂気味の社会です。

過去何度も語ってる↓これです。


第5回総選挙速報結果に思うこと
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/33cdd9ef2f2f8e235db83485bbb6b0aa
マス時代の終わりとアイドル戦国時代、そしてAKB48ネットワーク

 したがって、これから始まる新たな1000年、あるいは100年における我々に課された最大の課題が、それら諸々の組織の自立性を保ちつつ、しかもグローバル企業にあっては主権国家の管轄さえ超えた自立性を保ちつつ、今日では戦時以外は失われてしまった社会の一体性をいかにして回復するかである。とはいえ、我々はいまのところ願うことしかできない。われわれは、いかにそれをなすべきかを知らない。

 しかしこの望みをかなえるためには、これまでに経験したことのないあることが必要となることだけは明らかである。それは、あらゆる組織が、それぞれの機能への絞り込みを厳しく保ちつつも、社会全体のために協同し、各々の政治機関と協力する意思と能力を新たにしていくことである。新たな1,000年を前にした先進国に対し、これまでの1,000年が遺した気の遠くなるほど大きな課題がこれである。



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社会的分裂という観点で思うのですが、

AKB48の選抜総選挙は、もし国政選挙で選挙区が全国で1つしかなかったら(つまり選挙区がなかったら)、何が起きるのかを考えるのに非常にいい材料を提供しているように思います。

私は以前より、選挙区が分かれていないので、投票する人はお気に入りの個人を選ぶことができるため、政党ではなく個人で選ぶようになると主張しておりました。

1人ひとりが小政党のようなものになり、基本、選挙は個人戦になるということですね。

ただ、全体を考える個人による個人戦ならいいのですが、今回の選抜総選挙を見ていても、全体よりも個人の成功が優先されてしまい、どこまでいっても個人戦の様相を呈しているような気がします。
(私個人の感覚的な話)

個々人の立場からすれば、個人の成功が大前提なので当たり前といえば当たり前です。

が、個人が成功するために全体を犠牲にしたのでは、持続的な個人の成功は得られないので、個人と全体の相互関係をしっかりと考えておく必要はあると思います。

前述した「二大政党制の要件は、両党による政策の差異が大きくない事」の文脈でいうと、理想としては、個人の力を全体の革新能力に変換していきながらも、個人による極論によって全体が危機に陥らないように抑制していく力が必要、ということになるかと思います。

個人戦の中で全体を考える力をどう担保していくか、それが可能だとしたら何なのか?

一つの可能性は「浮動票」ではないか、と思います。

ただ、国政選挙では1人ひとりに投票権が与えられているので「浮動票」というものが存在し易いのに対して、AKB48の場合は投票権が有料であるため「浮動票」は存在しにくいと思います。

娯楽(というより道楽)目的は別として、「推しメン」がいないのにお金を払ってAKB48全体のことを考えて投票する層がどれだけいるのか?という話です。

いわゆる「ハコ推し」と呼ばれる層ですね。


AKB48の総選挙システムで「浮動票」はどの程度存在し得るか?

「浮動票」は力を持ち得るか?


という点について、あと何年かかかると思いますが、見て行きたいと思います。