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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

今のSKE48の「正規生」にどれだけの価値があるのか?

2012-08-31 16:39:58 | AKB48_オピニオン
語れと言われたので語ることにします。


またSKE48ファンの人々から怒られそうだけど、大事なことだから語ろうと思います。

人それぞれ目指すものは違うと思います。

ただ、私がここで主張したいのは、SKE48の大矢さんがいう「SKE48単独」での活躍の場を広げるためにどういうことを考えるべきかという話です。


まとめんばーのコメント欄を見ていたら、私の言いたいことの半分くらい説明してくれてる素晴らしいコメントがあったので、これを補足する形で私も少し語らせてもらいたい。



【G+まとめ】昇格を逃した松村香織の今夜も1コメダが切ない(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51839641.html






制限しないとどこまでもダラダラと語るのが癖なので、わかりやすくしますね。

私は、いま追いつめられているのはBBQではなく、SKE48運営だと思います。

どういうことか、端的に言い表します。

今のSKE48の「正規生」にどれだけの価値があるのか?

この問いに対して、SKE48運営はどういう回答を用意しているのでしょうか。

この価値を高めるために、SKE48としては、どういう努力をしていくのか。

今日よりも、明日のSKE48の「正規生」の価値が向上するために、どういう道へ進むべきなのかを、常日頃から考えなければなりません。



BBQ松村の昇格見送りの件で、様々な意見があるのは知っています。

それはそれで議論すればよいと思います。

しかし、私は本件を松村の話題で終わらせてはいけないと思います。

本件が投げかけている本質的な問題は、SKE48全体の問題だからです。



もう少しだけ踏み込んでみます。

SKE48がどういう道を進むかを考えるにあたって重要なことは、SKE48が何を善しとするかということです。

それは、つまりSKE48が組織として、どういう評価基準を持つことができるかという問題になります。

公演なのか、握手会なのか、選挙なのか、ダンスなのか、歌なのか、ググタスなのか、人気なのか、新しい何かなのか・・・

もし、SKE48がAKB48からの独立性を高めて、単独での評価を高めたいと考えるなら、新しい価値基準が必要になると私は思います。

まとめんばーから引用したコメントにあるように、公演パフォーマンスにこだわるのは結局「AKB48」との差異化を意識する結果ですから、単独での評価を高めたいのであれば、AKB48に引けを取らない独自性や競争優位を獲得する必要があります。

そのために、SKE48は、これまでにない価値基準を常に生み出していく成長エンジンを組織として獲得する必要があるということです。



以上を考慮に入れると、BBQ松村がどうあるべきかの前に、SKE48運営はBBQ松村の生み出している価値観を、SKE48のために活用することを考えるべきだし、そのための手を打つべきだったと思います。

たとえば、BBQ松村を研究生のまま留めておくとしても、何らかの役割をSKE48として公式に与えるなどが考えられました。

(それが、これまでにない価値基準を認めるということだからです)

SKE48独自のクロスファンクショナルな活動を立ち上げて、そのキャプテンに任命するなどです。

(たとえばのはなしで、考えればいろいろあると思います。)

(それと、松村を高評価し過ぎという意見があるようですが、これは松村の話ではなくSKE48の話です。)

(SKE48を変える必要はなく、このまま行けばいいのだという意見の人もいると思いますが、SKE48運営がそう考えているなら、もはや多くを望むべくもない組織として危機的な状況だと思いますね。私は。)



今回、ひょっとしたらSKE48運営は、機会費用ばかりを考えて機会損失を考えることが不足していたのかもしれません。

何かをした時に失うものを考えるのは容易ですが、何もしなかった時に失うものを考えるのはなかなか大変です。

しかし、後者の方が失うものが大きいことがあることを、よくよく考えてみるべきでしょう。


言うは易く、行うは難しいのはよく理解しているつもりですが。



本エントリをより深く理解するための基本的なエッセンスは過去に述べているので、それをまるごと引用しておきます。



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なぜAKB48は予定調和を壊し続けることをモットーとするのか? ~多様性とイノベーション~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/a6c037c1f0413c59b507b4c0357c8227




よく使われる言葉「化学反応」とは何なのか?

これをいつもより真面目に(出来る限り)簡単に説明しよう。
参考文献として用いるのはこれだ。

『多様性とイノベーション 価値体系のマネジメントと組織のネットワークダイナミズム』
(デヴィット・スターク著、中野勉/中野真澄訳)





組織生態学が専門である社会学者デヴィット・スタークがイノベーションについて語ったもの。
イノベーション論や組織論にある程度の興味がないと読むのがつらい本だが、内容はさすがに世界屈指の社会学者らしい広範で深遠な洞察がそこかしこに散りばめられており、一読の価値はあると自信をもっておススメできる。
(当Blogの内容では物足りないと思っている方には是非読んで頂ければと思う。)


■検索(サーチ)とイノベーション

「検索(サーチ)」のテクノロジーは、我々の働き方だけではなく、買い物の仕方、社会の中での自分の位置づけなど、多くのものを変えてきたが、現代組織が抱える課題は検索では解決できない。
サーチのテクノロジーは、組織の知識管理上きわめて貴重だが、それが生み出す結果は今日の組織が直面する、より根本的な問題には答えてくれないのだ。
そのような根本的な問題を解決するためのサーチとは、あらかじめて特定されている物やカテゴリーを結びつけるサーチでもなければ、明確に定義された問題の解決方法を探すことでもない。
探している間は何を探しているかわからず、答えが見つかった時に初めてそれがわかるという類のサーチなのである。

そのようなプロセスと、単純なサーチを区別するために「リサーチ(Re-Search)」という用語がある。
(リサーチは「研究」と訳されることが多い。アメリカの哲学者ジョン・デューイは「探求(inquiry)」といった。)

また、リチャード・レスターとマイケル・ピオーリによる研究によれば、イノベーションの最も大切な要素は、きちんと定義された問題を解決する過程をとらないことだと結論づけた。
過去の事例を精査する限り、いずれのイノベーション事例も異種分野の結合を伴うことを明らかにしたのである。
「異分野の境界を横断した統合なしに、新製品が生まれることはない」のだ。

多くの産業においてイノベーションは、少なくとも初期においては特定の必要性や問題への対応として生まれてくるものではなく、製品が使われるようになってから問題が明らかになるものである。このような場合、製品開発者はしばしば何を創ろうとしているのかはっきりわからないまま着手していることが多い


既にカテゴリー化されているものをパターンとして認識することと、新たな関連性を見出すことは全く別次元のことである。
未知なるものを認識する、つまりカテゴリーとして認知されていないものを認識する興味深い認知機能を含むイノベーション過程は、矛盾をはらんだものになるのだ。
このような過程については、「リサーチ」「イノベーション」「探求」「探索」と様々な表現方法があるが、それは単に情報をうまく管理することではなくて、何度もいろいろな思考を巡らせ解釈を通じて機能する「熟考型の認知(reflective cognition)」を必要とするサーチなのである。

ジョセフ・シュンペーターは、イノベーションとは組み換えなのであり、それは文化として、当然のことと思われていることや組織的な認知のルーティンを根底から破壊するものだと主張した。
(創造的破壊)

逆説的に言えば、「リサーチ」や「イノベーション」は「問題を抱えた複雑で耐え難い状況」によって必要性にかられて引き起こされるということだ。

つまり、複雑な状況が創発的な探求を生むのであれば、イノベーションを求める組織は、複雑な状況を避けるのではなく、受け入れることが必要だ

もっと基本的なレベルでいえることは、何が重要かについての評価原理に関する相違がある時に、我々を困惑させる状況が生まれるのであるから、生産性の高い複雑な状況を模索するのであれば、ある一つの評価原理を組織が認める正統なフレームワークとして強制するのではなく、何が重要か、何に価値があるか、何を重視すべきかについて、別の考えをはっきり主張することが合理的であると気づくべきである
序列化された指揮命令系統があり、モノを認知するカテゴリーに概念的な序列がある形態とは異なるガバナンスが必要だ。
イノベーションを喚起する状況を積極的に生み出す「熟考型の認知」が働くことを可能とする「認知環境」である。


■創造的摩擦

そうした組織に摩擦や軋轢が無いはずがない。
しかし、摩擦はどんな代償を払っても回避しなければならないものではない。
複数のパフォーマンス基準が、機知に富んだ不協和を創りだすことが重要である。
組織が置かれた環境が騒然としており、変化する状況の下で何が組織の資源になるかが不透明な場合、価値について論争する枠組みが、組織の貴重な財産になるのである。
不確実性を徹底的に活用する起業家精神に富む活動とは、個人の資質ではなく組織形態の機能のことであり、「複数の評価原理」が機能する状態を維持しつつ、生産性の高い摩擦から利益を享受する能力のことである
(複数の評価原理を用いながら、その結果、相互作用によって生じる摩擦を徹底的に活用する能力ともいえる)

ここでの不確実性とは、経済学者フランク・ナイトによって定式化された「リスクと不確実性」のことである。
ナイトによれば、この2つはともに将来がわからないことによって生まれるが、リスクはある環境においてチャンスは計算可能、結果の分布は確率で表現できるとするが、不確実性は計算不能である。
不確実性の問題は、人間の計算能力の限界によるものではなく、予測できない状況によるもの、我々が知ることができない何かなのである。

どの価値基準が使われているのかよくわからない状況を徹底的に活用するために、所有する資産の多義性や意味の曖昧さが必要だ
起業家は曖昧なものから資産を創り出す。
複数のパフォーマンス基準による競い合いが、多義的で意味の曖昧な資産を定義し直し、組み換え、再配置を促すのだ。
(複数の評価原理の曖昧さは、合意を形成するのではなく、結果が読めない状況をつくりだす。)
複数の価値観の作用を維持する組織では、創発力のある摩擦が育まれ、それが受け入れられるビジネスの分類を混乱させ、継続的な資源の組み換えが可能になるのだ


■ブローカーモデルと創造的摩擦モデル

「創造的摩擦」は、どういうところで起きるのだろうか。
少なくとも「媒介」ではない。

「媒介」とは、ノードとノードが繋がっていないネットワーク構造上の穴、つまり自分が橋渡しをしなければ結びつかない自分以外の二者の間にある隙間(ギャップ)を、仲介者として戦略的に利用し、利益を得ることである。
媒介は、しばしば起業家精神に富む活動と取り違えられるが、両者の役割と社会的プロセスははっきりと異なる。
媒介者は「当事者」ではなく情報の流れに料金を課す者である。
一方、起業家とは、いくつものゲームの当事者であり、組み換えによって価値あるものを生み出す者である

イノベーションの元となるアイディアは、集団の環境の中に漂いながら存在しているのではない。
アイディアは見つけてもらうのを待っているのではなく、意図的に創り出さなければならない
情報へのアクセスではなく、新しい知識を創造することが求められいているのであれば、仲介による関係の橋渡しでは不十分である。

イノベーションには、互いに影響し合うようなやりとりをしながら相互に交流することが必要なのである。
ネットワーク分析の用語を用いれば、まとまりが強く凝集性の高いネットワーク構造の重複部分、つまり凝集性の高い結びつきとして定義された幾つもの異なるコミュニティが、それぞれの個性的な集団のアイデンティティを崩壊させることなく、メンバーが重なり合った部分でイノベーションは生まれるのである。

言葉で説明しても理解し難い部分だと思うので、図を添付する。




図の右「創造的摩擦モデル」の重複部分に注目してもらいたい。
たとえ同一組織内であっても、多様なパフォーマンス基準がぶつかり合い、競い合う。
ここではパフォーマンスを評価するために、複数のコード化された規則としての体系を抱えることになり、体系化された知識が壊され、再びコード化される可能性が高くなる。
遺伝学に模して、競い合う基準同士の摩擦が高いほど、突然変異が生じる確率が高まると考えてみればよい。

多様な評価のフレームワークによる不協和は、単に目新しいものを生み出すスピードを高めるだけではない。
いくつもの原理に基づいた立場が併存することは、自然な帰結として、どの立場も当たり前のものとして受け入れられなくなることを意味する
創造的摩擦が、基準の多様性による様々な可能性について、柔軟な思考をめぐらす状況を組織として作り出すのである。

組織としてイノベーションを育むために有効なのは、情報の円滑な伝達や固定化されたアイデンティティの確認を通じてではなく、生産的な摩擦を育み、組織的に当然と思われてきたことを混乱させ、新しい知識を生み出し、経営資源の定義の見直し、再配置、組み換えを可能にすることを通じてであることがわかるだろう。

思慮の浅い組織への固定化を阻止することが可能となるかは、変化し続ける状況において、基準や原理の曖昧さや多義性、深く再帰的に思考をめぐらせる「再帰的認知」能力を備えるかどうかが非常に重要なのだ


(あまり長くなっても読みにくくなるので、ここで切り上げます。)


◆◆◆◆◆◆


■参考
本エントリは、松井珠理奈と渡辺美優紀の兼務問題について語っているわけではありませんが、適応できる話だとは思います。
過去のエントリにリンクをはっておきます。

本当のところ、松井珠理奈に限界を与えているのは誰なのか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c6f70e7179b2ba0c3ecad170f021c492

松井珠理奈がチームK、渡辺美優紀がチームBを兼任へ ~AKB48の成長戦略~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/45c9b642fd1b6d0f5b97244ed0fee051

松井珠理奈と渡辺美優紀はなぜ「移籍」ではなく「兼務」なのか 説明しよう ~分化と統合の物語~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/9366d66554175d8acae2c098f7cd4fb3

やすす先生! 鬼になれ! そして前へ進み、河を渡るのです!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e757f5634174d9975a4874bed4b2e24e

サプライズ手法に対する疑問に回答します(1) ~直接的な情報発信~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2b073e5db2ac14c7c2f3d4756030801e

サプライズ手法に対する疑問に回答します(2) ~「マクロ vs. ミクロ」の構図~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/fb8016295797abd4e6befdce2b362718

サプライズ手法に対する疑問に回答します(3) ~采配~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/825893f0f01429761f0656144c1061a3

サプライズ手法に対する疑問に回答します(4) ~顧客と共に成長する関係~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/be0378157c58eb812530701d02da5d32

第4回総選挙の結果を使って組閣前後のチーム構成をみてみると・・

2012-08-31 13:12:34 | AKB48_アナリシス
何かを主張したいわけではありません。

みなさんが感じていることを、表現しただけです(笑)



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第4回選抜総選挙の時のデータを基に、組閣前後でどうチーム毎に変化したかを簡単にグラフで表します。


第4回選抜総選挙 結果の図解 [一部修正] [追記4]
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c153b4df0c7d5748202b695e610752ee


(圏外のメンバー分のデータが公表されていないのですが、誤差の範囲だと思います。)


組閣前後で所属チームの変化を見やすくしたものです。

組閣前は、チームKが上位、チームAが中位、チーム4が下位に固まってましたが、組閣によってチームKを中位、チームAを分散させているのが見て取れます。






票数をみてみましょう。

組閣前後でチーム毎の票数の隔たりはほとんど変化が見られません。






平均年齢を見てみましょう。

組閣後は、平滑化されてますね。






チーム毎に選挙のランキング順で並べたものです。

組閣前は少しゴツゴツしてたものが、組閣後はならされているのがわかりますね。






つまり、そういうことです。

いや、みんなが感じていることをグラフにしただけです。


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■追記


すみません、さきほど時間がなくて急いで投稿したため、一つ忘れていました。

誰がどのチームになったかとか、誰がどのチームへ移動になったかとか気にしてる方が多いのですが、

「誰が変わらなかったか?」という点について考えてみるのも有益かもしれませんね。






・チームA:

篠田麻里子 (★キャプテン)
高橋みなみ (AKB48グループ総監督、旧キャプテン)


・チームK:

大島優子 (★キャプテン)
板野友美
秋元才加 (旧キャプテン)
松井珠理奈


・チームB:

柏木由紀 (旧キャプテン)
渡辺美優紀

石田晴香
小森美果

梅田彩佳 (★キャプテン)



ふぅ・・まともすぎるな

夏の終わりの風物詩、24時間テレビ批判に反論する

2012-08-30 16:53:55 | 社会
さて、今年も夏の終わりの風物詩がやってまいりました。

ちょっと過ぎちゃいましたけど。

日テレ『24時間テレビ 愛は地球を救う』の登場です。

(単なる過去エントリ引用の手抜きネタです)


伊集院光、24時間テレビの在り方を語る
http://kyousoku.net/archives/15662053.html


伊集院光さんは24時間テレビを擁護しておりますが、擁護の仕方が変ですね。

そもそも擁護などする必要がありません。

24時間テレビには、実に真っ当な大義名分があるからです。


◆◆◆◆◆◆


まず、初めに言っておきますが、これはポジショントークです。

私の家族にはいわゆる「障害者」がいます。

見た目にはわからないし、普段は何もないように生活しているのですが、内容としては命に関わるレベルの重症度です。

秋ごろには、何度目かの手術が待っています。


だから言っておきますが、これは家族に障害者がいる人間のポジショントークです。

ですが、そのポジションを取る人をどれだけ増やせるかが、この問題の本質であるという点を理解して頂きたく思います。


◆◆◆◆◆◆


実は2年前に、当Blogで24時間テレビ批判の批判をやりました。

当時はいろんなサイトにトラックバック貼ったりコメントしたりを結構頻繁にしていたのですが、一部でお騒がせしてしまったことが恥ずかしい思い出です。

今見返すと、言葉に品がなくて非常に辛いものがあるので、このエントリをリメイクすることにします。


[24時間テレビ] くだらない批判が多すぎるからこそ、やる意味がある
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/1e509e78202552254b7dd05dc3520538


浅い理解にしか繋がらない表面的な番組編成に対して不満はあるものの、番組内で嵐の桜井くんが言及したことがこの番組の主旨をうまく表していると思います。


この番組を見ただけでは、一つ一つの問題について深い理解を得られないとしても、

自分達にできることは何か。

まずは知るところからはじめるしかないんじゃないか。


教科書どおりの発言ですが、しかし、その通りだと思います。

一つの障害や病気について深堀しようとすれば、それだけで簡単に24時間かかってしまいます。

そして何よりも、その障害や病気に関わらない人は、そんな24時間テレビを見ようとしないでしょう。

誰にも見てもらえない困難を取上げた番組を作成しても、そんなものは製作者の自己満足にしかならないし何の意味もありません。

私は、昔(もう10年以上前に)聞いた日本テレビのある番組制作者の言葉を今も忘れられません。


テレビ局にとっての最大の資産は何か?
それは、決してコンテンツ(番組)ではない。
人にその番組を見たいと思わせる力、「編成力」だ。


砂漠のオアシスにロバを連れて行っても、オアシスの水を飲むかどうかを決めるのはロバなのです。

視聴者側のコンテキストを発火できるかどうかが重要です。

24時間テレビも、これと同じです。

どれだけ内容の素晴らしい番組を作成しても、最終的に消費者が動きを変えなければ何の意味もありません。

見てもらって、そして何かを感じ取ってもらえなければ、番組として何の価値もないのです。

私は日本にこのようなテレビ番組があることを誇りに思います。


◆◆◆◆◆◆


では、2年前のエントリのリメイクを進めます。


日テレ24時間番組に対してYahoo!のコメント欄が大荒れ「数億円のCM収入料とタレントのギャラを、全額募金しろ」([2ch]ニュー速VIPブログ)
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52363584.html


毎年この季節に恒例の番組と言えば日本テレビの
『24時間テレビ33 愛は地球を救う(以下、24時間テレビ)』だ。
2010年8月28日、29日に放送され今年のマラソンのランナーは、はるな愛。

無事完走することもでき母と抱き合う場面もあった。
チャリティー番組『24時間テレビ』のゴール時点での募金額は
2億7992万6839円という集計が発表されている。尚、この数字は番組終了間際の仮集計で、
最終的にはこの番組を通し例年9億円~10億円の募金が集まっているようだ。

そんな『24時間テレビ』に対しYahoo!ニュースのコメント欄では
約1200件もの投稿がされており批判が相次いでいる。そんな批判の一部を紹介したいと思う。


これらの批判に反論してみます。


・三億円弱の募金集めるのに、15億円かける馬鹿な番組。


批判者は、費用対効果について批判したいようですが、これは単純に24時間テレビの目的や効用が「募金」にしかないとする狭い認識に基づく誤解です。

24時間テレビの目的は募金だけではありません。

番組の目的は、その視聴者に対する影響力(気づきの機会になること)であるので、この指摘は意味を成しません。

テレビ番組の効用を無視するというのは、落ち目とはいえ広告料によって成り立っている日本におけるテレビビジネスを否定することになります。

意味がないなら、誰も広告を出稿しないでしょう。

少なくても、24時間テレビの費用対効果の効果を募金額で算出するということが誤解であることは言うまでもありません。


・日本テレビは、数億円のCM収入料とタレントのギャラを、全額募金するべき


心情的には理解できる批判であるものの、これも誤解に基づく意見になります。

24時間テレビの目的が募金の金額であるなら、この指摘にも意味がありますが、24時間テレビの目的は募金額の多寡ではありません。

24時間テレビの目的は、番組を1人でも多くの視聴者に届けることと、1人でも多くの視聴者に番組の主旨に沿った気づきを得てもらうことです。

タレントへ支払う出演料や、演出費用、もろもろの製作費などは、その目的を達成するための必要経費になります。

つまるところ、これも番組意図を誤解した間違った批判ということになります。


・なぜ午後8時45分にゴールなんだ? 完璧に計算されてる。


24時間テレビにおけるマラソンの要件は、無理のないペースで、番組のクライマックスにゴールすることです。

この要件を実現するために、製作者側は計算して番組を制作しています。

このマラソンの目的は、競技大会とは違い計測時間を競うものではありません。

必ずしも運動の得意でないランナーが苦難を乗越えてゴールする姿を見てもらって、

それによって視聴者に何かを感じてもらうことに意味があるのです。

そのために終盤にゴールした方が視聴者に感じてもらうものが多いのであれば、そうなるように計算してペース配分を組み立てる方がよいでしょう。

ペース配分を意図しているからといって楽しているわけでも、苦しくないわけでもありません。

その条件で24時間走り続けることは過酷なマラソンであることには間違いないのです。

24時間テレビのマラソンとは、そういうマラソンなのです。

これは決して騙しているわけではありませんので、茶番批判は適切ではないと思います。

計算すること自体を批判するのであれば、批判者は計算してはならない理由を述べなければなりません。


・そろそろこの企画止めない? わざとお涙頂戴誘ってるようで、わざとらしい。


こういう社会的な想像力の欠如が、まさに24時間テレビが問題として扱うものなのです。

どんな世界でも、当事者にとっては涙だけでは語れない物語があるものです。

当事者にならなければわからないことは、この世の中に山ほどあります。

それを第3者に伝えるためにはどうすればよいのか。という問題です。

自分は絶対に当事者にならないと考えるならば、批判すればよいのですが、このような想像力が欠如する者に限って、自分が追い詰められた時に自暴自棄になるものです。

準備がないからです。

社会的な準備(気づきと行動)を支える番組と理解してみてはいかがでしょうか。


・不謹慎かもしれないけどこの番組は障害者を”見世物”にしてるとしか思えないんだよね。


では、障害者をどう扱うべきなのか、考えなければなりません。

扱うべきではないということなら、それはそれで意見として成立するでしょう。

回答としては、1つ前の質問と同じものになります。


・感動の押し売りはやめてほしいですね。


感動するかどうかは視聴者の判断ではありますが、そうすることで最も伝わると製作者側で考えるからでしょう。

製作者は材料を提供するのみですが、最高の状態で材料を提供したいと思うのが人情というものです。

それと、プッシュ型の情報配信は全て押し売りなので、この件についてだけ押し売り批判するのは適切ではないと思います。


・AKBの前田って奴は感情が現れないのがよくわかりました。


どうしてそんなことがいえるのか、よくよく考えた方がよいと思います。

映画 るろうに剣心

2012-08-29 18:39:42 | TV・書籍




面白い。

素晴らしい殺陣だと思う。

ほんっとにちょうどいい。

リアルと空想の間の、ほんとに絶妙な境界でアクションシーンを展開してることに驚きを禁じ得ない。

地味すぎず派手すぎない。

シリアスになり過ぎず全体として明るい。


これは稀有な映画だと思う。

さすがワーナー。

やりおるわい。

デビィ夫人よ、AKB48ファンを叱るのはおやめなさい

2012-08-29 09:59:28 | AKB48_軽ネタ
私は今語れないので、代わりにこの人に語ってもらおう(笑)

デビィ夫人よ、AKB48ファンを叱るのはおやめなさい 「推せない」国家と政治家を憂う
http://agora-web.jp/archives/1483126.html


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で、話が変わって・・

私も『AKB48白熱論争』を読んだけど、面白かった。

これまで当Blogで語ってきた内容と似たような話がいっぱいあって、みんな考えることは似てるな~と思いました(笑)

大人の白熱議論って面白いと思いますね。

楽しく読めました。

おススメです。



「議論のための議論」と批判する人もいるけれど、私は、こういう議論が成立するということこそが、AKB48の強さなのだと思う。

文化論的な切り口だと答えは出なくて、いつも循環論法になるのだけれども、文化を語れるほど奥深さを持っているというのが、AKB48の強さそのものの答えと言われれば、納得するしかないと思う。

より正確に言えば、循環論法というより、本質的に物事の構造というのは線形ではなく循環しているから、構造を物語ろうとすると、どうしても循環せざるを得ないのである。

(私はスパイラルしているというのだが)

このことについて考える方法論としては『システム思考』というものがあるのだが、ちと敷居が高いので、いつか説明してみたい。



なんにせよ、語り部がいるということ、これを大切にするべきだね。

目撃者、生き証人、語り部。


おっと、ちょっと触れてしまった(汗)

天の時、地の利、人の和

2012-08-28 10:48:05 | スピリチュアル
単なる故事の話





孟子曰
天時不如地利
地利不如人和


孟子いわく、
天の時は地の利に如かず
地の利は人の和に如かず


孟子は言う。
天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばず、
地勢の有利さは人心の一致には及ばない。



この孟子が戦略について語ったとされる言葉を、通常はこう解釈する。


何かを達成しようとするとき、

天の時を得ていても、

地の利がなければ成就することはできず、

地の利を得ていても、

人の和がなければ、これも成就することはできない。

人の和が何よりも重要である。


と。

「人は財なり」とよく言う。

個人的には、この言葉をさらにもう少しだけ進めて解釈することも優位であろうと思う。

実は、この言葉には続きがある。

(訳は面倒なので、ネットからコピペします。)

http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/XunziMencius/LuckyIsNotAsLooksIsNotAsCooperation.html


三里之城、七里之郭、環而攻之而不勝。
夫環而攻之、必有得天時者矣。
然而不勝者、是天時不如地利也。
城非不高也。
池非不深也。
兵革非不堅利也。
米粟非不多也。
委而去之、是地利不如人和也。

故曰、
『域民不以封疆之界、
固国不以山谿之険、
威天下不以兵革之利。』
得道者多助、
失道者寡助。
寡助之至、親戚畔之、
多助之至、天下順之。
以天下之所順、攻親戚之所畔。
故君子有不戦。
戦必勝矣。



三里四方の内城と七里四方の外城を持つ程度の、たいして大きくもない町を攻囲しても勝てない。
そもそも攻囲を行っていれば、必ず天のもたらす幸運が訪れるときがある。
それなのに勝てないのは、天のもたらす幸運が地勢の有利さには及ばないからである。
城壁が高くないわけではない。
堀が深くないわけではない。
武器が鋭くなく、防具が頑丈でないわけではない。
食料が足りないわけではない。
それなのに、これらを放棄して退却せねばならなくなるのは、
地勢の有利さが、人心の一致に及ばないからである。

だから、
『民衆を領内のとどめるのに、盛り土による境界線を使わず、
国の守りを固くするのに、地形の険しさを頼らず、
天下を自らの威令の下に敷くのに、軍事力の優越を用いない。』というのである。
正しい道を心得ている者は、多くの援助が得られ、
正しい道を失っている者は、少ない援助しか得られない。
援助が少ない者の、極端な場合には、親戚さえもこれに背き、
援助が多い者の、極端な場合には、天下さえもこれに従う。
天下が従うところを以て、親戚さえも背くところを攻める。
だから、君子は戦うまでもないのだ。
戦えば必ず勝つ。



端的に言うと、正しい道を進めば、天下さえも従い、戦うまでもなく勝つことができる。

ということだが、結論だけに注目して、ついつい「人の和」に注目してしまいがちだ。

ただ、孟子が言いたかったことは、「人の和」が何より大事というようなことではなく、

「天の時」「地の利」「人の和」の3つを得ることが大事なのだが、

その3つを得るためには「人の和」を重んじることが大事だということだと私は思う。

それゆえ、「人」というより「天地人」というフレーズで覚えた方がいいのではないだろうか。



なにゆえ、このような話をしているかというと、「チャンスの順番」という言葉が多用されるにつき、誤解の可能性を感じるからだ。

人によって解釈が変わるこの言葉で、もちろん非常に立派な理解をしている人も多いのだが、そうでもない人も中にはいる。

そういう場合、「チャンスの順番」=「天地人」と解釈したら、わかりやすいのではないかという気がする。


かえってわかりにくいという人は、使わないでください(笑)

祭りのあと

2012-08-27 21:31:49 | スピリチュアル
私の通っていた小学校には、その地域の祭りの日に休校になる伝統があった。

規則があったわけではないが、暗黙の了解として休校になるその日に、子供たちは祭りに参加することが求められていた。

もちろん、当時はみな何も考えずに参加していた。

地域の祭りのため、みな親と一緒に参加していたのだから、参加しないという選択肢などなかった。

だが、私は考えてしまうダメな子供だった。

なぜ参加したくないのに、参加しなければならないのか。

親と現地集合の約束をすると、私は家を出て集合場所に行くふりをして、逃げた。

自分が楽しくないのに、みんなのための祭りに付き合うのがバカバカしかったからだ。



当然、後でこっぴどく怒られた。

親とすれば、現地で私が来ることを待っていたのだ。

後で聞いた話では、みんなに心配される中、父親は「大丈夫、必ずくるはずだからと。」と私を信じてずっと待っていたらしい。

親に恥をかかせた以上に、身近な人の信頼を裏切ったことにはさすがに胸が痛んだが、当時の私には、そんなことで感傷に浸るほどの思慮深さもなければ、まずもって人生に期待などしていなかった。

人生を悲観していたら、誰かのことを気にかける必要性があるわけがないのだ。



なんでこんなくだらない昔話をしているかというと、急に「祭り」について語りたくなったから。

「祭り」の起源は、五穀豊穣を祈る神事だったとされる。

そこから幾多の変遷を経て今に至るわけだが、基本的には「信じること」が初めにあるのだと思う。

五穀豊穣を祈るにしても、その行為が、祈りが五穀豊穣につながると信じるから、祭るのだと思う。

地域から切り離された現代人は、ワールドカップやオリンピックという祭りに熱狂するわけだが、それも世界一や金メダルに価値があるとみな信じているからだ。



祭りをするのに、どれだけ多くの人が信じるか、が極めて重要だ。

地域のみなが農業を生業としていたら、五穀豊穣を祈る祭事に意味があると、みなが信じるのは容易い。

しかし、今の日本のように、国民の生活水準が高く、ほとんどの人々が衣食住にさほどこまらない状況に置かれていたら、資本主義が進める分業の力がより一層働いて、みなが違うことに精を出すことになるから、みなで同じことを信じるのは極めて難しくなる。

みなで何かを共有するとしたら、ワールドカップやオリンピックのように国家や国民というアイデンティティを基礎としたものや、東日本大震災や福島原発事故のような国家的危機くらいしか、ないのが現実だ。



マスの力を利用したい人々(それは結局、人々が心の底では祭りを求めているから、それを提供したいと思う人々が現れる)は、みなで祭れるものを日々探している。

それで、どこかで何かの祭りを見つける度に、その祭りについて「こんな祭りがありますよ!みんなで楽しみましょう!」というようなことをやってしまう。

「誰かの祭り」を「みんなの祭り」にしようとしてしまう。

だけれども、それは「みんなの祭り」ではない。

「これは楽しいものです!みんな参加しましょう!」などと言ってみても、聴いている人の心に響くわけがない。

「みんなのための祭りに付き合うなんてバカバカしい。」と思った子供の頃の私のように。



では、祭りを盛り上げようとする人は、どうするべきなのか。


繰り返しになるが、祭りというのは、信じることが最初にあるのだ。

であるならば、その「祭り」の未来に信じるべきものがある、ということを主張すべきであろう。

祭りを盛り上げようと、楽しくしようと努力するだけでは不十分だ。

それでは、所詮は自己満足に過ぎないと見透かされるだけで、祭りの後に何も残らず終わってしまう。



みんなにとって、その未来に信じるべきものがある。

ということを丁寧に説明すべきなのだ。

どれだけ多くの人に、その未来に信じる価値がある、と思うだけのものを発信できるかどうかに、そのものの行く末は大きく左右されることであろう。

その先の未来を見たくなるからだ。

スペインのキリスト画に見るイノベーション

2012-08-27 13:32:39 | AKB48_イノベーション
あくまで一般論です。特定の何かに対する意見ではありません。





素人が修復しちゃったスペインのキリスト画、海外のお前らにも大人気でコラが作られまくってる件
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-2629.html



こういうことだ。

観光名所になり、このままにしてくれと嘆願書まで出てくる結果になった。

本人も含め、誰が、こうなることを予想できたか?

誰もいなかった。



事件の発覚前と発覚後で、問題のフレスコ画に関する価値観が変わっているのだ。

以前にはそこになかった価値が、今はあるのである。

価値がどこからか沸いて出てきたように見えるが、モノは変わらずそこにあった。

見る側の視点が変わったのだ。

価値というのは、どこかに浮遊しているようなものではなく、見出されるものなのである。



この件の凄さは、誰も狙っていなかったが事態は起きた、ということだ。

こういうことは狙ってできるものではない。

背景には、インターネットによって情報が拡散しやすくなったことと、IT技術の発展で様々な形の編集やデフォルメがし易くなったことがある。

これまでローカルでは許されなかったことが、グローバルに展開されることとなりネットワーク効果が働きやすくなった。

結果、ムーブメントが発生しやすくなり、禍を転じて福と為す的なことが起きやすくなった。

(一方で、炎上リスクも高まった。)



重要なことは、狙ってできるものではない、ということだ。

なぜなら、これまでになかった価値だから、それまでには誰も気づけない。

だとすれば、我々が得るべき教訓はなんだろうか?

意図しない「新しい価値観の創造」が起きやすい環境を作ることくらいだ。



フレスコ画の件でいえば、80過ぎのおばあさんが自らの手で修復できる環境がなければならなかった。

しっかりと導線が張られ、フレスコ画に近づけない環境であったら、今回の事件は起きただろうか。

フレスコ画を劣化したまま放置せず、すぐに修復していたら今回の事件は起きただろうか。

もちろん、自由放任が素晴らしいなどというつもりは全くない。

そうではなく、何が本質的に守るべきものなのか、何は変えてもよいのか、ということを常日頃から考えることが重要だ。

その場合には、議論が偏らないように、ダイアログ(前提を保留した対話)が一つの方法となるだろう。



ただし、それでも結果は意図できない。

状況を不確実性の下に置くということが、新しい価値を創造する第一歩だから、本質的に意図できるものではない。

だから、その不安定な状態に耐えられる信念を持つ者だけが、イノベーションを起こすことができる。

不安に耐えきれず、状況を管理可能なものにしようとしたとき、見えない可能性が消えるのだ。

(その可能性が消えたことに我々は気づけない。見えないのだから。)

信じることが最初の小さくても大きな一歩なのである。



田野しいやつらが引き起こす創造的摩擦 ~イノベーションのジレンマを超えるバリュープロポジション~

IT革命と視覚と社会と

IT革命と視覚と社会と

2012-08-26 09:27:40 | 哲学・思想
映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている(DESIGN IT! w/LOVE)
http://gitanez.seesaa.net/article/288075882.html


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重要な視点だと思う。

人間が持つ入力器官は5つある。

触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の五感だ。
(第六感についてはここでは触れません・・)

この入力器官から入力される情報の8割を占めるのが「視覚」だと言われている。

8割もの情報を視覚に頼っていれば、我々の認知行動に「視覚」が多大なる影響を及ぼすことは想像するのに難しくない。

やや逆説的になるが、それゆえ、古今東西の宗教家や思想家は、「目に見えないもの」の重要性を訴えてきたのだ。

人間が生存競争を生き抜くのに視覚からの情報が非常に重要だったし、昨今その視覚を利用した情報入力を補完する技術やサービスは急激な普及をみせているが、だからといって、それ以外の情報の重要性が減るということではない。

(米Apple社は、この視覚を起点としたディスプレイ・サービス事業で利益を上げているというのが、私の持論だ。)



ただ、リンク先の内容について一つだけ言っておきたいのだが、我々は「視覚に頼ると傍観者になる」ということではない。

視覚に偏重することが思考のバランスを崩すことに繋がるのはその通りだが、それと傍観者になるかどうかは直接的な関係がない。

我々は、目の前で起きていることにさえ傍観者になりがちだ。

傍観者になるかどうかは、事象を自らの問題として認識するかどうかにかかっている。

(これを「責任」という。)

「傍観者」となるか「観察者」たりえるか。

この件に関しては、ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』をおススメしたい。

また、傍観者にならないためには、ネットワーク思考が鍵となるだろう。



関連したことを過去に幾つか述べているので、その中から2つ転載したい。


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IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/d1130a80a9b4ae5f165b423fee27075d


違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


分業は資本主義の基本的メカニズムと言われているが、この分業を可能にするのは交換だ。
交換できなければ、生きるための全てを賄わねばならず、特定の仕事に特化することができない。

交換を可能とする技術は時代とともに進化してきた。
池田信夫氏が言うように原始の時代に物々交換が存在したかどうかはわからないが、ドルや円の前にも、古くは絹や米などが貨幣として交換手段になっていたし、今では電子マネーやら電子決済という形態など様々な形での交換も可能となっている。

そして、今、IT技術の進化が、この交換にまつわる状況を急激に変化させ、社会的構造を大きく揺るがしている。
モバイル技術やクラウド技術の進化が不偏的な情報アクセスを可能にし、Webが、映像、音声、テキストなど電子化できるあらゆる情報へのアクセスコストを限りなく0に近づけているのだ。
さらに、BlogやSNS、とりわけTwitterなどのサービスは情報を細分化・断片化し、その断片化された情報を収集し、編集し、整理し、再構成することも技術の力で容易にした。

端的に言おう。
あらゆる情報が断片化され、交換可能になっているのだ。
これがどのような社会的変化をもたらすだろうか。
本エントリの初めの文章に戻ればわかるだろう。

違いが災いの元ではなく恵みであるためには、交換がためである。


あらゆる情報が交換可能となれば、違いが恵みとなり分業が進む。
つまり、このような社会においては、「違い」が先鋭化するということだ。
これは現在進行形で起きている変化だ。

そして、もう1つ見逃せない変化がある。

情報へのアクセスコストが限りなく0に近づくと、情報が自分のところにある必要がなくなる。
外部に整理された情報があり、その情報にいつでもアクセスできるのであれば、自分のところで解釈し整理する必要がなくなるのだ。
自分が整理したいと思う情報のみに専念し、他は外部から調達するのがよい。
交換技術の進化によって、ここでも分業が進むのだ。

この分業は非常に興味深い社会的変化をもたらす。
比較的に大きな物語や文脈といったものを練り上げるためには、ある程度の総合的な知見が必要であり、"専業化したい人々"には苦しい作業になる。
こうした専業化したい人々が、外部から大きな物語なり文脈を調達するようになるのだ。
そして、自分たちは自分たちの専念したいことに取り組む。
これがソーシャル・ネットワークにおいて、数多くの文脈のない言葉たちが生まれるメカニズムである。

発信者の意思(情報)はネットワーク上に偏在しており、発信者の意図を読み取るには、ネットワーク上に偏在している情報を統合する"Key"が必要である。
外側にいる人は、それらの情報を統合する"Key"を持っていないため、文脈のない情報に見えるのだ。
それはまるで暗号のように。

しかし、ソーシャル・ネットワークの世界では情報は都市化され城壁に囲まれているため、Keyは外側には見えない。
この問題は、これから、いや既にはじまっている新しい時代の要点となるであろう。
城壁を超え都市と都市をまたぐKey、今は、その可能性を探る長い旅の始まりだ。


★★★★★★


これまでの時代は、どちらかといえば大きな物語を皆で共有する時代であった。
人々は情報の交換手段として、マス・メディアのような大きな情報しか扱えないメディアに依存していたからだ。
また、マスメディアには双方向性や直接的なアクセス手段がなかったため、人々が手にすることのできる情報は限られていた。
これがIT技術の進化、インターネットの普及によってEnd to End、そして小さな情報を扱えるようになると、様相は大きく変わる。

人は、内面的作業の充実に飢えている。
その機会をより多く得るために、情報の交換手段の進化は福音だ。
人々は、この交換手段に飛び乗った。
自分だけの物語を紡ぐのに、現在ほど恵まれている時代は無い。

この進化した情報の交換手段を獲得した人と、そうでない人の間には、深い文化的な溝ができている。
前者は進化した新文化人であり、後者は旧文化人である。

新文化人にとってIT革命はイノベーションであり、人類はブルーオーシャンを見つけたわけだが、旧文化人にとってのIT革命は文化の破壊に見えるであろう。
ITは人類にとっての破壊的イノベーションなのである。


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IT革命がメディアの特性を強調し、社会に変化を与えている
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/22c926ac609ae97e634fbb49a9866aaa


前回のエントリを少し補足しておきます。
IT革命による社会的イノベーションの本質  ~新文化人と旧文化人~

メディアとはメッセージである。


これはマーシャル・マクルーハンの有名な言葉だ。
マクルーハンはメディアを情報密度の高い「熱いメディア」と、情報密度の低い「冷たいメディア」とに定義した。
これは抽象的な概念で、この定義に厳密にこだわることに意味は無い。
(どのメディアが熱くて、どのメディアが冷たいかという事を真剣に考えるのは時間の無駄だ。)
ただ、この定義が言わんとしていることには大きな意味がある。
彼はこう言う。


ラジオのような「熱い」(hot) メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low definition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話される言葉が「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないし補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオは例えば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。


つまり、こうだ。
情報密度の高い熱いメディアの場合は、受け手側で情報の補充なり補完なりをする必要がないので、受け手側の参与性が低い。
反対に冷たいメディアの場合は、受け手側が情報の補充なり補完をする必要があるので、受け手側の参与性が高い。
この2つのメディアに関する違いは、受け手側にに異なる効果を与える。

これは直感的だ。
新聞やラジオよりテレビの方がイメージを与えるのには適している。
百聞は一見に如かずではないが、文字や音声だけで説明されるより、映像で見たほうがイメージは持ちやすい。
逆に、何かの数値や手順といった詳細情報などは、映像よりも文字であった方が漏れが無く伝わりやすいだろう。
どちらが優れているかではなく、特性の違いである。

しかし、世の中の一般的な考え方はこうだ。

冷たいメディアより、熱いメディアの方が進んでいる。
だから時代は、冷たいメディアから熱いメディアへと移行していくのだ。

これはある側面では真実だ。
冷たいから熱いへの移行は、技術の進歩と関連している。
新聞 → ラジオ → テレビ → ハイビジョン・テレビ という流れは技術の進歩によってもたらされた変化だ。

だが、ここでも注目すべきIT革命による社会的な変化がある。
それは、Webの広がりによって、冷たいメディアである文字情報がメディアの主役に返り咲いたということだ。
勘の言い方はもうおわかりだろう。
そう、この変化は「マスの崩壊」とも関連している。
最近皆が「ごり押し」と感じることにも。

前回のエントリでも述べたことにつながっているのだ。
前エントリでは、情報の交換技術が進化し、情報が断片化されたことで、違いが先鋭化されたと説明した。
マクルーハンの言葉で言えば、受け手側の参与性が高いメディアが、IT技術によって力を得て、人々に自分だけの物語をつむぐ余地を作り出したということだ。
人々が扱う主要なメディアが変化したこと、そのメディアの性質によって、社会全体に変化が起きているというイメージを、ここで少しでも共有できれば幸いだ。


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断定的な語り方をしているが、あくまでも私的見解であることは言うまでもない。

本文の内容に関して影響を受けた参考図書を挙げておく。

タイラー・コーエン『フレーミング 「自分の経済学」で幸福を切り取る』を挙げておく。




ピーター・F・ドラッカー『傍観者の時代』




アルバート・ラズロ・バラバシ『新ネットワーク思考 世界の仕組みを読み解く』

少しの間、緩めの運転でいきます。

2012-08-25 12:09:26 | AKB48_軽ネタ

本当に馬鹿げた話なのですが、

あるところで、私の考えと逆の方向に行く場合には「黙るぞ」と言ってしまったため、

少しの間、緩めの運転で行きたいと思います。

(まだ後続情報があるかもしれませんが)



あまり本質的でも生産的でもない話なのですが、

常日頃、有言不実行はだめだと言ってしまっている手前、

一貫性を最低限保持するため、少しの間、偉そうなこと言うのを控えます。

(決してAKB48への気持ちが減ったとか、そういうネガティブなものが理由ではありません。やる気はマンマンです。)



少しの間、平和な一ファンとして、NGO推しとして、AKB48を応援していきます。

そういえば、NGOはチームKでしたね。

オールドタイプ再び

2012-08-25 11:13:49 | AKB48_軽ネタ
今日は疲れたので一言だけ愚痴をこぼして眠ります。


役職にこだわるようじゃ終わりだよ。

統制をとるために権限が必要という意見はよくわかるけれど、

権限が必要な組織になっているということが根本的な問題だと思わないといけない。

チームを拡大して小グループに分けたから、縦の連携は強くなるけど、横の価値共有の問題を解決するのに、その役職(機能)が必要なんでしょ。

全体にわたって価値や物語を共有する立場の人をたてると。

これ典型的な大企業病の一種だよ。

機能によって組織を分化することによる弊害なんだな。

機能を強化するために組織の統廃合を繰り返すと、組織は階層化され、情報の伝達経路も階層化されて、個々人が分断される。

分業を進めて効率性を向上させるのには向いているが、新しい価値観を創造するのなどには向いていない。

後者こそ求められていると思っていたが、↓のコメント欄にも書いたけど


あ~~・・やってしまったか。
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2b6916371b44aadaf6da8f75c863d11a


「AKB48の再生」とは、「新しいAKB48を創る」ということではなく、あくまでも「AKB48の再興」だったということらしい。

旧来型のマネジメントの発想だね。

マネジメント1.0の世界。

きっと優秀なマネージャが設計したに違いない。



だが、それ自体は悪くない。

他の仕組みで補完するのだろう。

きっと。




二年後の組閣も予想がつく。

今度はチームを細分化するか、横串の組織とか言い出すにちがいない。

横と縦の組織改変を繰り返すことになるよ。

それでこういうんだ。

悟ったように。

組織いじりでは本質的な問題を解決できない。

と。

高い授業料払ったって言う。


そう、経験に学ぶのは学習における真っ当な道だ。

あ~~・・やってしまったか。

2012-08-24 22:20:11 | AKB48_軽ネタ
あ~、やっぱりやっちまったか。

ブレーキ踏まなかったのね



たかみなの総監督って発想が私には受け入れ難い・・

発想が・・古い。

気がする。


「再生」の意味が違う気がするのは私だけかもしれない。

まぁ、これがAKB48だというなら、そうなのだろうけれども。


険しい道へ進んだつもりでいるのだろうけれど、楽な道へ行ったように思えるけど、こちらからは見えない運営にしか見えていないパラメータがあるのかな。


とりあえず誰かまとめて。


AKB、夢舞台初日に「再組閣」 宮澤佐江が上海移籍へ…波乱ぶくみの幕開け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120824-00000313-oric-ent


つまるところ、マネジメントし切れなくなったから合理化するわけですね。

たぶん。


◆◆◆◆◆◆


AKB48運営は、今回の人事で、チームを無制限に拡大することに1つの答えを提示したわけだ。

チーム編成は3チームとすることで、AKB48をその3チームに凝縮させて薄まるのを回避する思惑もあるのだよね。

いわゆる「リ・ストラクチャリング(Re-Structuring)」なわけだ。

戦線を拡散しすぎてマネジメント不能になるのを防ぐということだ。


しかし、という発想だったとしたら、やることが中途半端だったなと思ってしまう。

これが最善の答えとは言い切れないと思うし、妥協の跡が見えないこともない。



この点、後でまとめようと思うが、

(まだ出ていない仕込みの情報が明日と明後日に出てくるかもしれないので、あくまでも今わかっている情報で考えると)

とりあえずこれでハッキリしたことは、AKB48運営は何も変えないことを選んだということだ。

険しい道を進んだように見えて、実は楽な道(無難な道)へ進んでいることを自覚しているのかが心配だ。

あえてリスクとらなかった。

実に合理的な判断だ。

そう、実に合理的だ。

(当Blogの読者なら言いたいことをわかってもらえるだろう。)

まぁ、こちらにはわからない都合や思惑があるのだろうから、とりあえずここまでにしときます。


◆◆◆◆◆◆


さて、とりあえず帰ろう。

家に着くころにはもうちょっと情報も落ち着いているだろうし。

チーム4も、組閣も、チームの人数も、全て(個人的に)危惧した通りになってしまった。

何のために主張し続けたのか・・

対抗するかのように真逆のことをしおって・・

無念です。


◆◆◆◆◆◆


わかったぞ。

「チーム」の定義を変えてきたな。

これまでのチームよりも大きな組織にするわけだ。

言うなれば、小グループ的な位置づけか。

まさに会社みたいなものだな。

「部」を統合して「事業部」にしたんだ。

キャプテンを「部長」→「事業部長」にする気だな。

考えれば考えるほど、それなりの理屈に基づいて行われた体制変更に思えてくる。

より一層、大企業病にかかるんじゃないの?という危惧感を増しながら。

気のせいであってほしいのだが。

『前田敦子卒業公演「最後の劇場入り」イベント中止』から透けて見える日本社会の縮図

2012-08-24 14:46:25 | AKB48_軽ネタ
8/27の前田敦子卒業公演「最後の劇場入り」イベントは中止に(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51838679.html


なんじゃこりゃ。

単に警察当局が面倒になって、メダリスト・パレードを都合のいい前言撤回の理由にして断りの連絡を入れてきたというだけでしょ。

なんで前田敦子やAKB48が叩かれなきゃあかんのだ。

「問題起きたら面倒だ。」→「中止」


は日本社会の悪癖だろう。

苦情入れる人がいるとすぐ中止になったりするから。

何のポリシーもなく「問題が起きるのが×」という理由を大上段に構えたがる人々が多い。

自分たちで何らかの価値を生み出そうということよりも、問題のない平和な社会を創ろうという意識の方が強いのだ。


パレード参加者による秋葉原ゴミ拾いキャンペーンでも張れば理解してもらえたかもしれん。

外部を巻き込んで利害関係者を増やして物事をスムーズに進めるのはAKB48運営の十八番じゃないのかな。

ゴミ袋が散乱する事態も想定されるが・・ww

AKB48第2章はリーン・スタートアップで

2012-08-24 01:37:48 | AKB48_オピニオン

篠田麻里子「AKBの研究生に勢いが無い。SKEの方が強い」(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51838605.html




でも、思うんです。AKBの研究生に勢いがないって。
SKEのほうがやってやろうって気持ちが強い。
それはライブからも感じます。
ファンの方も同じことを感じていると思うんです。


意味としては、「AKB48の若手より、SKE48の方が勢いがあるとみんな感じてると思う。」ということだと思うんです。
(篠田から見たらSKE48も中堅~若手だと思うのです。)

私は基本的に篠田の意見に同感です。

いろいろ意見があると思いますし、私もこれまで様々な意見をしてきましたが、今日も軽めにこの話題について意見したいと思います。


この手の話でかならず槍玉に上がるのがチーム4ですね。

「やる気がない」と、よく言われてますね。


でも、前から主張するものなのですが、私はチーム4のメンバーは皆やる気満々だと思います。

意識もあります。

意識が高いか低いかは、相対的な問題だから微妙なラインではありますが、意識を高く持とうという意思はあるでしょう。

(やる気のない島崎がエースだからダメだと聞きますが、島崎はやる気あります。)

ないのは「やる気」ではなく「勢い」なのです。


ただ直面している問題が難しいのです。

私は、この問題にはAKB48システム全体の構造的問題が関わっているため、個々人のやる気だけではどうしようもないことが多いと思います。

それを端的に表しているのが、チーム4の山内の投稿です。

これは実によくチーム4の置かれている状況が出ています。





みなさんのために
山内鈴蘭がんばるぞー!!


ここでいう「みなさん」は主にファンのことですが、AKB48全体(とそのファン)への貢献も意味していると思います。

で、何をがんばるかといえば「ゴルフ」ですよね。

彼女はこう考えているわけです。

自分がゴルフをがんばることは、自分のためにも、AKB48のためにもなる。

私は、この考え自体について正しいと思います。

ただし、彼女(山内)の立場で考えれば、です。

ゴルフが彼女にできる最善のコトであろうことは想像に難しくありません。


さて、この問題についてどのように考えますか。



平たくいうと、個々人の「やる気」を「勢い」に変える仕掛けが求められているわけです。

それゆえ、今、出さなければならないのは「やる気」ではなく「知恵」であり、得るべきものは「成果」ではなく「学習」です。


そして、私は「チーム」を捉えなおすことが、この問題に対する一つの回答(仮説)になると考えているのです。

繰り返しになりますが、問題意識の向かう先は「やる気」を「勢い」に変える仕掛けです。



当分まとめるつもりがないので、かなり後日になってしまうと思いますが、私はリーン・スタートアップにヒントを求めたいと思います。


エリック・リース『リーン・スタートアップ ムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす』




(この訳本はMITメディアラボ所長のJOI伊藤さんが解説されているのですが、彼は非常にエネルギッシュですね。活動家みたいですね笑)

(本の内容は、クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』の後継である『イノベーションへの解』をピーター・M・センゲの『学習する組織』的な観点で、スタートアップ用に捉え直したような感じです。)


私は、東京ドーム後のAKB48第2章は、チームを構成単位として、この「リーン・スタートアップ」を基本コンセプトに据えるべきだと考えています。

(個人的に考えているだけです。)